第十八章 帰る場所の鍵
三月最後の日曜日、空は若葉ホームの面談室で、一枚の紙を前にしていた。
紙の上には、四月からの暮らしについて確認すべきことが、黒い文字で並んでいる。
朝倉家で暮らすこと。里親委託という形を取ること。戸籍上の親子関係は生じず、名前も水瀬空のままであること。転校後も若葉ホームを訪ねられること。困ったときには長谷川や相沢へ連絡できること。朝倉家での生活を続けられないと感じた場合には、別の選択肢を改めて検討できること。
最後の一文だけが、ほかよりも濃く見えた。
空は同じ行を、もう一度読み返した。
「急いで署名しなくていいのよ」
向かいに座っている長谷川恵が言った。
机の端には、空が高校へ入学したときから使っている青い筆箱が置かれていた。ほつれた角を青い糸で縫った跡は、近くで見れば少し曲がっている。きれいとは言えない。それでも、買い替える気にはなれなかった。
「もう読みました」
「読むことと、納得することは別でしょう」
「納得しています」
そう答えてから、空は口を閉じた。
以前なら、それで会話を終わらせていた。聞かれたことにだけ答え、相手が安心する言葉を選ぶ。それ以上は話さない。そうしていれば、大人は空を扱いやすい子だと思った。
けれど、長谷川は書類を空のほうへ押し戻さなかった。
「空が朝倉さんたちと暮らすと言ったから、ここまで進んだ。でも、明日になって怖くなったなら、それも言っていいの」
「怖くないとは言ってません」
自分の声が思ったより強く響き、空は指先に力を入れた。
長谷川は眉を上げ、それから小さくうなずいた。
「そうね」
「怖いです。でも、怖いからやめるとは決めてません」
面談室の外から、子どもたちの足音が聞こえた。廊下を走らない、と職員が注意する声が続き、すぐに笑い声が遠ざかっていく。
空はこの音を知っている。
朝の洗面所の混雑も、誰かが風邪をひけば別の誰かへうつることも、冷蔵庫に名前を書かずにプリンを入れればなくなることも知っている。莉子が眠れない夜には、何も言わずにベッドの柵を二度叩くことも、芽衣が人前で泣きたくないときほど大きな声で笑うことも知っている。
朝倉家へ行くということは、広い部屋や新しい学校を手に入れることではない。
知っている生活から離れることだった。
「学生寮のある高校へ進む方法もあります。支援付きの住宅を利用する方法もある。若葉ホームから通える学校を選び直すこともできる。相沢さんから、もう一度説明を受けました」
空は書類から目を上げた。
「どれも、朝倉さんたちと暮らさなくても選べるって聞きました」
「うん」
「だから決めました」
「行く場所がないからじゃなくて?」
「違います」
答えたあと、胸の奥が少し痛んだ。
行く場所がないと思っていた時期は、確かにあった。高校を卒業したら就職し、寮か安い部屋へ移る。それ以外を望めるとは考えなかった。大学の案内を見ても、授業料や生活費を計算すれば、紙を閉じるしかなかった。
朝倉家なら大学へ行けるから選ぶのかと聞かれれば、完全に違うとは言えない。二人と出会ってから、自分にも別の道があると知った。
けれど、それだけでもなかった。
「朝倉さんたちと暮らしたら、たぶん面倒なことも増えます」
「面倒なこと?」
「帰る時間を連絡するとか、食事がいるか聞かれるとか。部屋を片づけろって言われるかもしれないし」
「由美さんは言いそうね」
「長谷川さんも言ってます」
「私は仕事だから」
「由美さんも、家での仕事だって言うと思います」
長谷川が吹き出した。
空もわずかに口元を緩めたが、すぐに書類へ視線を戻した。
「一人なら、誰にも説明しなくていいです。でも、それが自由なのか、誰も待っていないだけなのか、今はまだ分かりません」
そこまで言ってから、空は自分がひどく長く話していることに気づいた。
長谷川は笑わなかった。急かしもせず、ただ次の言葉を待っている。
「由美さんは、私が嫌だと言うと落ち込みます。賢司さんは、分かったような顔をして、あとから表にまとめます」
「よく見ているのね」
「見れば分かります」
「それでも二人を選ぶの?」
「それでもというか……だからかもしれません」
空は青い筆箱へ手を置いた。
「二人とも間違えます。でも、私が嫌だと言ったあと、いなくならなかったから」
由美が空のために仕事場の見学を予約してしまったとき、空は、自分の希望が由美の予定へ変えられていくようで怖いと伝えた。由美は傷ついた顔をした。翌日の滞在は予定より早く終わった。
もう呼ばれないと思った。
それでも二人は待った。空が面会を求めたとき、責めることなく来た。由美は言い訳をせず、賢司も間を取り持つふりをして話を曖昧にしなかった。
怒れば関係が終わるのではなく、終わらせないために話し直せる。
空には、その感覚がまだよく分からない。
だから、確かめてみたいと思った。
「署名してもいいですか」
長谷川はすぐには答えなかった。
「空が決めたのなら」
空はペンを取った。
水瀬空。
書き慣れた三文字だった。
四月から暮らす家が変わっても、名前は変わらない。誰かの娘になると決めたわけでもない。朝倉という名字を与えられるわけでもない。
それでよかった。
今は、同じ家で暮らすことだけを選べばいい。
署名を終えると、長谷川が書類を受け取った。
「明日ね」
「はい」
「眠れそう?」
「たぶん」
「空の『たぶん』は、半分くらい信用しておく」
「半分もあれば十分です」
椅子から立った空は、青い筆箱を持った。
扉を開ける前に振り返ると、長谷川はまだ書類を見ていた。
「長谷川さん」
「何?」
「明日、見送りに来ますか」
尋ねた瞬間、胸の奥が縮んだ。
来てほしいと言うことは、別れを意識していると認めることだった。これまでの空なら、「どちらでもいいです」と付け加えていただろう。
だが、今は言わなかった。
「もちろん行く」
長谷川が答えた。
それを聞いてから、空は面談室を出た。
*
同じ日の夕方、朝倉家では由美が食器棚の前に立っていた。
白い皿、青い縁取りの皿、薄い緑色の皿。その隣に、黄色い皿が一枚ある。
結婚して間もないころ、由美が買ったものだった。
いつか子どもが生まれたら使うつもりだった。けれど、その日は来なかった。処分することもできず、長いあいだ食器棚の奥に置かれていた。
空が最初に朝倉家を訪れた日、由美はその皿を出さなかった。
空を、長年待ち続けた誰かの代わりにしてはいけないと思ったからだ。
「また皿を見てるの?」
背後から賢司の声がした。
「見ているだけ」
「昨日も見てた」
「明日から三人になるのよ」
「そうだね」
「食器くらい、揃えたほうがいいかしら」
「空さんが自分で選ぶんじゃなかった?」
「分かってる」
由美は少し強い口調で答え、食器棚を閉めた。
賢司はダイニングテーブルの上に広げていた書類へ戻った。そこには、四月からの生活について三人で確認した内容がまとめられている。
食事が不要な日は、午後六時までに連絡する。帰宅が予定より三十分以上遅れる場合も連絡する。空の部屋へ入るときは、必ずノックして返事を待つ。空宛ての郵便物を勝手に開けない。小遣いや必要経費については月に一度話し合う。家事は三人で分担するが、住まわせてもらう対価にはしない。
最後には、空の希望で一文が追加されていた。
嫌なことは、嫌だと言ってよい。
「これ、冷蔵庫に貼るの?」
由美が尋ねた。
「三人で決めたからね」
「家の中に規則が貼ってあるなんて、施設みたいだと思わないかしら」
「施設にも規則はあるし、会社にもある。二人で暮らしていたときだって、言葉にしていない約束はあったよ」
「でも……」
「僕たちが忘れないために貼るんだ」
賢司が指先で、空の部屋について書かれた行を示した。
「空さんを縛るためじゃない」
由美は黙った。
明日になれば、空の荷物がこの家へ運ばれてくる。
望んでいたはずなのに、日が近づくにつれて怖くなった。
空の人生に、自分たちはどこまで関わってよいのか。食事を作り、学校へ送り出し、帰りを待つ。それは家族のように見えるかもしれない。しかし、家族になろうと急ぐほど、空を追い詰めるのではないか。
「賢司」
「うん」
「本当に、これでよかったと思う?」
賢司は書類から顔を上げた。
「今さらやめたいという意味じゃないの。ただ……私たちが空さんと暮らしたいと思うこと自体が、あの子の負担にならないかしら」
「なるかもしれない」
「そこは否定してよ」
「否定できないよ。僕たちは失敗すると思う」
「そんなにはっきり言わなくてもいいでしょう」
「由美が聞いたんだろ」
賢司は苦笑したが、すぐに表情を改めた。
「だから、失敗しないことを約束するんじゃなくて、失敗したら話し直すことを約束したんだ」
由美はダイニングの椅子を引いた。
「どうして空さんなのかって、何度も考えた」
「僕もだよ」
「最初は、放っておけなかったのかもしれない。あんなに若い子が、全部一人で決めたような顔をして働いていたから」
旅先で道を尋ねたときの空を思い出した。
小さく頭を下げ、必要なことだけを話し、すぐに立ち去ろうとした。海辺食堂では、客に呼ばれれば走り、料理を運び、間違えても弁解しなかった。
由美は、あの少女をかわいそうだと思った。
その気持ちがなかったと言えば嘘になる。
「でも、それだけなら、ここまで来なかった」
「うん」
「空さんは、私が選んだ服を喜ぶような子じゃない。甘い卵焼きは嫌だって言うし、カーテンの色も自分で決めたいって言う。私が先回りしたら、ちゃんと怒る」
「由美は、そこが好きなんだね」
「好きという言い方をしていいのか、まだ分からないけど」
由美は食器棚へ目を向けた。
「あの子が何を選ぶのか見ていたいの。私が選ばせたいんじゃない。あの子自身が選んだものを、そばで見ていたい」
「似ているようで、ずいぶん違うな」
「間違えないようにしないと」
「間違えるよ」
「だから、少しは否定して」
「僕も間違えるから、否定できない」
賢司は書類を重ね、端を揃えた。
「僕は、空さんがいると計画どおりにいかないところがいい」
「褒めているの?」
「褒めてる。僕が予定を作ると、空さんは必ず『気が変わったらどうしますか』と聞くだろう。あれを聞かれると、自分が人の気持ちまで予定表へ入れようとしていたことに気づく」
「あなた、少し楽しそうよ」
「そうかもしれない」
賢司はテーブルの向こうにある空席を見た。
「同じ食卓にいても、話さない日があると思う。帰ってこない日も、僕たちを嫌いだと言う日もあるかもしれない。それでも、夕食が必要かどうかを聞いて、帰りが遅ければ心配して、うるさいと言われたい」
「うるさいと言われたいの?」
「言われても、いなくならない大人でいたい」
由美は息を止めた。
それは、空のためだけに言った言葉ではないように思えた。
二人は長いあいだ、互いを傷つけないように暮らしてきた。子どもを持てなかった痛みも、治療を終えた日のことも、触れれば崩れてしまいそうで、言葉にしなくなった。
穏やかではあった。
しかし、穏やかであることと、何も起こらないことを混同していたのかもしれない。
空と出会ってから、二人は何度も意見をぶつけた。由美は賢司の慎重さを冷たさだと責め、賢司は由美の熱心さを危ういと言った。喧嘩をしても、翌朝には同じ食卓へ戻った。
空が二人を変えるためにいるのではない。
それでも、空の存在によって、自分たちが目を背けていたものが見えるようになった。
「空さんが、いつかこの家を出たいと言ったら?」
由美が尋ねた。
「そのときは聞くよ。どこへ行きたいのか、何が必要なのか」
「寂しくても?」
「寂しいとは言う。でも、引き止める理由にはしない」
由美はしばらく黙り、それから立ち上がった。
食器棚を開け、黄色い皿を一番下の棚へ移した。
「出さないの?」
「明日、空さんに選んでもらう」
「黄色を選ばなかったら?」
「私たちで使えばいいでしょう」
賢司が笑った。
「それがいい」
*
四月一日の朝、若葉ホームの玄関には、四つの段ボール箱と一つのリュックが並んでいた。
箱には空の字で、「本」「衣類」「学校」「その他」と書かれている。
「その他って、何が入ってんの?」
莉子が箱を指で押した。
「いろいろ」
「答えになってない」
「目覚まし時計とか、裁縫箱とか」
「それなら生活用品じゃん」
「書いたあとに気づいた」
「空でも、そういうことあるんだ」
「あります」
莉子は笑ったが、その目は少し赤かった。
朝から何度も、花粉症だからと説明している。空は指摘しなかった。自分も、喉の奥に固いものが詰まっている。
芽衣と花音は、前の晩に書いた手紙を一通ずつ持ってきた。芽衣の封筒には猫の絵が描かれ、花音の封筒には色の違う星形のシールが隙間なく貼られている。
「今、読んで」
芽衣が言った。
「向こうで読む」
「泣くから?」
「荷物が増えるから」
「手紙は重くないよ」
「分かってる」
空が封筒をリュックへ入れると、芽衣は不満そうに唇を尖らせた。それでも、取り返そうとはしなかった。
玄関の扉が開き、長谷川が入ってきた。
「朝倉さんたち、着いたわよ」
空の背筋が伸びた。
賢司と由美は、玄関の外に立っていた。由美は淡い色のブラウスに紺のカーディガンを羽織り、賢司は車の鍵を手にしている。
「おはようございます」
空が頭を下げると、由美も頭を下げた。
「おはよう」
「荷物、これで全部?」
賢司が段ボール箱を見た。
「はい」
「思っていたより少ないな」
「必要なものは入っています」
「足りないものがあったら戻ってくればいい」
長谷川が言った。
「空のものは、しばらくそのまま置いておくから」
「戻る前提みたいに言わないでください」
空は思わず言った。
長谷川の表情がわずかに揺れた。
自分の言葉が強すぎたと気づいたが、取り消せなかった。
「ごめんなさい」
先に謝ったのは長谷川だった。
「戻る前提という意味じゃない。ここに置いておきたいものがあってもいい、という意味」
「……分かっています」
「うん」
短い沈黙のあと、莉子が空の肩を軽く押した。
「いつまで玄関にいるの。渋滞するよ」
「まだ誰も通ってない」
「これから通るの」
莉子は「本」と書かれた箱を持ち上げようとして、顔をしかめた。
「重っ。何入れたの?」
「本」
「見れば分かる」
賢司が箱を受け取った。
「これは僕が持つよ」
由美は衣類の箱を持ち、長谷川も学校用品の箱へ手を伸ばした。
空は「その他」の箱を自分で抱えた。
玄関を出る前に、振り返る。
この場所へ初めて来た日のことは、ほとんど覚えていない。両親の顔も、声も知らない。誰に連れられてきたのかも、空の記憶には残っていなかった。
覚えているのは、ここで過ごした日々だけだった。
食堂の長い机。夏の扇風機。冬の乾かない洗濯物。誰かが退所するたびに空くベッド。新しく来た子が泣かないふりをする夜。
ここは、不幸な子どもが閉じ込められている場所ではない。
空が育った場所だった。
「行ってきます」
口から出た言葉に、自分で驚いた。
さようならではなかった。
長谷川は泣きそうな顔をしたが、笑った。
「行ってらっしゃい」
莉子が片手を上げ、芽衣と花音が声を揃えた。
「行ってらっしゃい!」
空は段ボール箱を抱え直し、朝倉夫妻の車へ向かった。
*
車の中では、誰も話し続けようとしなかった。
由美が助手席から何度か後ろを振り返ったが、そのたびに何かを言いかけてやめた。賢司も、信号が赤になるたびにバックミラーを見た。
「二人とも、気を遣いすぎです」
空が言うと、由美が振り向いた。
「そんなことないわよ」
「さっきから、何か話そうとしてやめてます」
「何を話せばいいのか分からなくて」
「無理に話さなくてもいいです」
「そうね」
由美は前を向いた。
三分ほど沈黙が続いた。
「でも、あまり静かだと緊張するわね」
「由美が?」
賢司が尋ねる。
「私が」
「空さんじゃなくて?」
「空さんも緊張してるでしょうけど、私もしてるの」
空は窓の外へ視線を向けた。
見慣れた海沿いの道が後ろへ流れていく。これまで朝倉家へ向かったときは、外泊用の荷物しか持っていなかった。帰る日が決まっていた。
今日は違う。
「私も緊張しています」
空は窓を見たまま言った。
由美がすぐに振り返った。
「そうよね」
「でも、ずっとこっちを見られると、もっと緊張します」
「あ、ごめんなさい」
由美が慌てて前を向く。
賢司が小さく笑った。
「笑わないで」
「ごめん」
「二人とも、謝ってばかりですね」
「初日だから」
「明日から減るんですか」
「努力します」
由美の返事に、空は少しだけ笑った。
笑ったことを隠す必要はなかったが、まだ二人に顔を見られるのは気恥ずかしかった。
*
朝倉家へ着くと、玄関には以前と同じ三足のスリッパが並べられていた。
白、紺、薄い緑。
緑色が空のものだった。
以前は訪問するたびに出され、帰ると下駄箱へ戻されていた。今日は最初から玄関にある。
靴を脱いだ空は、緑色のスリッパへ足を入れた。
「荷物は先に部屋へ運ぶ?」
賢司が尋ねた。
「その前に、渡したいものがあるの」
由美がダイニングテーブルを指した。
小さな封筒が置かれている。飾りのない白い封筒で、表には「空さんへ」と書かれていた。
空は段ボール箱を床へ置き、封筒を手に取った。
中から出てきたのは、銀色の鍵だった。紺色の革のキーホルダーが付いている。
「この家の鍵」
由美が言った。
「空さんの分よ」
空は鍵を手のひらへ載せた。
外泊のときには渡されなかったものだった。二人のどちらかが家にいて、玄関を開けてくれた。自分で鍵を開けて入る必要はなかった。
「なくしたらどうしますか」
「管理会社へ連絡して、必要なら交換する」
賢司が答えた。
「費用は?」
「なくした事情を確認して、三人で相談する」
「私が全部払うわけではないんですか」
「わざと捨てたなら考えるけど」
「捨てません」
「だったら、そのとき考えればいい」
賢司らしくない答えだった。
以前なら、紛失時の連絡先や鍵の交換費用まで紙にまとめていたはずだ。
「もし、ここに住めなくなったら」
空は鍵を握った。
「そのときは、返します」
由美の顔が曇った。
賢司は空の手元を見てから、静かに答えた。
「そのときは受け取る」
「賢司」
「でも、今日渡す鍵は、今日から空さんのものだ」
空は顔を上げた。
「返す日が来るかもしれないから、借り物だと思って使う必要はない。なくさないようにする。必要なときに自分で開ける。それでいい」
「返したいと言っても、怒りませんか」
「寂しいとは思う」
賢司は答えた。
「理由は聞く。でも、鍵を渡したことを後悔させるためには使わない」
由美も、ゆっくりとうなずいた。
「私も約束する。ここにいてほしいという気持ちと、空さんが自分で決めることは、別にする」
空は紺色のキーホルダーを親指でなぞった。
「ありがとうございます」
それ以外の言葉が見つからなかった。
由美が一歩近づき、すぐに足を止めた。
「抱き締めてもいい?」
「今は、ちょっと」
「分かった」
由美は寂しそうにしたが、笑顔を作ってごまかさなかった。
空は鍵をリュックの内側にある小さなポケットへ入れ、ファスナーを閉じた。
「でも、ずっと嫌という意味じゃないです」
声が小さくなった。
由美は目を見開いた。
「分かった。待つわ」
「その顔をされると、言わなければよかったと思います」
「どんな顔?」
「すごくうれしそうな顔です」
「うれしいもの」
空は視線をそらし、「本」と書かれた箱を持ち上げようとした。
賢司が先に手をかける。
「これは僕が運ぶ」
「持てます」
「知ってる。でも、持たせて」
空は一度だけ手に力を入れ、それから箱を離した。
「お願いします」
*
空の部屋には、ベッドと机、本棚、小さな箪笥が置かれていた。
以前の滞在で使っていたものと同じだ。新しく増えたのは、窓際のカーテンだけだった。
薄い灰色の生地に、細い青い線が入っている。
由美が最初に見せた花柄ではない。空が見本帳から選んだものだった。
「変じゃない?」
由美が尋ねた。
「選んだのは私です」
「部屋に付けてみると、印象が違うかもしれないでしょう」
「好きです」
空が答えると、由美の肩から力が抜けた。
四つの箱を開け、荷物を一つずつ出していく。
本棚には参考書と文庫本を並べた。机の引き出しには、青い筆箱とノートを入れる。目覚まし時計をベッド脇へ置き、若葉ホームのみんなと撮った写真を本棚の一番上に飾った。
由美は何も言わず、畳んだ衣類を空へ渡した。
空も、どこへ置くかを自分で決めた。
最後に「その他」の箱の底から、小さな裁縫箱が出てきた。
「それで筆箱を直したの?」
由美が尋ねた。
「はい」
「きれいな青ね」
「一番近い色がこれしかなかったんです」
「でも、空さんが選んだ色でしょう」
「そうです」
空は裁縫箱を机の下の棚へ置いた。
「由美さんの鞄の赤い糸も、目立っています」
「近い色がなかったの」
「直してくれた人も、そう言っていました」
旅先で出会ったとき、由美の鞄の持ち手には赤い糸が巻かれていた。切れかけた箇所を急いで補修したため、革の色とは合っていなかった。
けれど由美は、その鞄を今も使っている。
空も、青い糸の跡が残る筆箱を使い続けていた。
合わない色でも、切れた場所を結び直すことはできる。
「昼ご飯にしましょうか」
由美が言った。
「何が食べたい?」
空は反射的に「何でもいいです」と答えそうになった。
言葉が喉まで上がり、そこで止まった。
「うどんがいいです」
「温かいの? 冷たいの?」
「冷たいの」
「天ぷらは?」
「ちくわがあれば」
「分かった」
由美が部屋を出ていく。
賢司も箱を畳みながら立ち上がった。
「僕は温かいそばにしようかな」
「うどんじゃないんですか」
「同じものを食べなければいけない規則はないからね」
「作る人が面倒です」
「由美に聞いてみる」
「由美さんは、面倒でも大丈夫と言います」
「じゃあ、僕が作る」
空は賢司を見た。
「作れるんですか」
「乾麺を茹でるくらいなら」
「前に、卵焼きを黒くしていました」
「あれとは違う」
「同じ火を使います」
「空さんは、僕をあまり信用してないね」
「全部を信用しなくていいと言ったのは賢司さんです」
「確かに言った」
賢司は畳んだ箱を抱えたまま笑った。
「その調子で頼むよ」
「何がですか」
「僕が変なことを言ったら、今みたいに指摘してほしい」
空は答えなかった。
賢司が部屋を出てから、机の引き出しを開けた。
中には、ほとんど何も入っていない。
空はリュックから鍵を取り出し、青い筆箱の横へ置いてみた。
銀色の鍵と、縫い跡の残る筆箱。
どちらもまだ、自分のものだという実感がなかった。
それでも引き出しを閉めると、少しだけ胸が軽くなった。
*
昼食のあと、三人はダイニングテーブルを囲んだ。
机の中央には、賢司が作成した生活確認表が置かれている。
「読み合わせ、本当にするんですか」
空が尋ねた。
「一度だけ」
「学校の説明会みたいです」
「大事なことだから」
賢司は真剣な表情を崩さなかった。
由美が冷蔵庫から麦茶を出し、三人分のグラスへ注いだ。
「まず、空さんの名前と戸籍は、これまでどおり水瀬空のまま。私たちは里親として空さんと暮らすけれど、戸籍上の親子になるわけではない」
「聞いています」
「養子縁組については、今は考えない。将来、空さん自身が考えたいと言った場合だけ話し合う」
「はい」
「学校では、私たちとの関係をどこまで説明するか、空さんが決める。必要な手続きについては相沢さんと学校で確認するけれど、友達へ話す義務はない」
「それも聞きました」
「賢司、全部読み上げるの?」
由美が口を挟んだ。
「確認だから」
「空さん、疲れてるわよ」
「大丈夫です」
「大丈夫という顔じゃない」
「由美さんが止めると、賢司さんは最初からやり直すと思います」
「やり直さないよ」
「本当ですか」
「そこまで融通が利かないと思われてるのか」
「思われる理由があるのよ」
由美が言い、空は笑いそうになった。
賢司は不満そうに紙を一枚めくった。
「じゃあ、大事なところだけ。外出や帰宅について」
「学校や部活で遅くなるときは連絡します」
「予定より三十分以上遅れる場合だね」
「スマートフォンを見られない場合は?」
「気づいた時点で連絡する。連絡がないからといって、こちらから何十回も電話はしない」
賢司が答えた。
「何回ならかけますか」
「一回電話して、メッセージを送る。それでも連絡がなく、帰宅予定から一時間を過ぎたら、学校や必要な場所へ確認する」
「一時間」
「短い?」
「分かりません」
「暮らしながら変えよう」
賢司は紙の余白に「一か月後に再確認」と書き込んだ。
「部屋については、ノックをする。返事がなければ入らない。ただし、火事や体調不良など危険がある場合は別」
「はい」
「掃除は?」
由美が尋ねた。
「自分でします」
「洗濯は、平日はまとめて一緒に洗ってもいいし、自分でしてもいい」
「自分でします」
「毎日?」
「たまったら」
「制服が間に合わなくなるんじゃない?」
「自分で分かります」
由美は何か言いかけたが、口を閉じた。
空はその変化に気づいた。
「忘れたら、そのとき言ってください」
「分かった」
「最初から言われると、できないと思われている感じがします」
「そうね。気をつける」
由美は謝ったあと、すぐに別の話題へ逃げなかった。
「私、また先に心配してしまうと思う」
「はい」
「そこは『そんなことないです』と言ってくれてもいいのよ」
「たぶん、あります」
「正直ね」
由美は苦笑した。
「でも、言ってもらったほうがいい。嫌だと思っているのに何も言われないほうが、私は怖いから」
空はグラスの表面についた水滴を指でなぞった。
「嫌なことを言ったら、二人も嫌になるかもしれません」
「なることはあると思う」
賢司が答えた。
「でも、空さんを嫌いになることとは違う」
「同じじゃないんですか」
「由美に腹を立てることはあるけど、由美と暮らしたくないと思うわけじゃない」
「私も、賢司の細かさに腹が立つことはあるけど、一緒に暮らしたくないわけじゃない」
「細かさは必要だろ」
「そういうところ」
二人のやり取りを見ながら、空は考えた。
施設では、職員へ腹を立てることがあっても、言葉を選んだ。職員が悪い人だからではない。そこが仕事の場であり、自分が世話を受ける側だと知っていたからだ。
朝倉家でも、自分は世話を受ける側であることに変わりはない。
「家事は、何をすればいいですか」
空が尋ねた。
「三人で分担しましょう」
由美が答える。
「食事を作る日を決めたほうがいいですか」
「空さんの学校と部活が分かってからでいいわ」
「でも、何もしないで住むのは嫌です」
「何もしなくていいとは言ってない」
賢司が紙を裏返し、何も書かれていない面を上にした。
「僕はゴミ出しと風呂掃除。由美は食事と買い物が中心だった。でも、これまでの分担も一度見直したほうがいい」
「どうして?」
「三人になるから。それに、由美が食事を作るのが当然だと思っていた部分がある」
由美が賢司を見た。
「珍しく自分から言ったわね」
「珍しくは余計だよ」
「では、私は洗濯と食器洗いをします」
空が言った。
「毎日やらなくてもいいのよ」
「できます」
「できるかどうかじゃなくて、空さんは学校へ行くでしょう」
「ただで住むのに、何もしないのはおかしいです」
口にした瞬間、二人の表情が変わった。
空は失敗したと思った。
由美は何かを言おうとしたが、賢司が先に口を開いた。
「空さんは、家事をしないと、ここにいる資格がなくなると思ってる?」
「そういう意味ではありません」
「本当に?」
「私だけ何もしないのは嫌だと言っているだけです」
「それなら、僕たちと同じ理由で分担すればいい。家に住む人が、暮らしを一緒に回すために家事をする。それ以上の意味にはしない」
「でも、生活費も学費も二人が払います」
「それは里親として僕たちが引き受けることだ」
「恩返しをしなくていいんですか」
由美がゆっくり首を振った。
「恩返しをしてもらうために、一緒に暮らしたいんじゃない」
「では、どうしてですか」
空は二人を見た。
これまでにも尋ねた質問だった。
どうして自分なのか。
子どもがいないからか。かわいそうだからか。助けたという実感がほしいからか。
二人は以前、それを否定した。
けれど、空にはまだ分からなかった。
海辺で偶然出会っただけの自分と、なぜ同じ家で暮らそうと思えるのか。
由美はすぐに答えなかった。
麦茶を一口飲み、言葉を選んだ。
「最初は、放っておけないと思った」
空の指が止まった。
「それは、かわいそうだったということですか」
「そう思った部分もあった。否定したら嘘になる」
由美は空から目をそらさなかった。
「若い子が一人で何でも決めて、誰にも迷惑をかけないようにしているのを見て、何かできないかと思った。でも、それは空さんのことを知らなかったときの気持ちよ」
「今は違うんですか」
「違う」
由美は、テーブルの端に置かれた空の青い筆箱を見た。
「空さんは、何でもいいと言いながら、本当は自分の好きなものをちゃんと持っている。餡パンより塩パンが好きで、卵焼きは甘くないほうがよくて、花柄より細い青い線のカーテンを選ぶ。人からもらったものを大切にするけれど、いらないものまで喜んだふりはしない」
「由美さんが買おうとした服には、喜んだふりをしませんでした」
「そう。あのときは落ち込んだけど、今は言ってくれてよかったと思ってる」
由美は一度息をついた。
「空さんが、これから何を好きになるのか知りたい。何を嫌だと言うのかも知りたい。学校で楽しいことがあった日も、誰とも話したくない日も、同じ家で過ごしたいと思ったの」
「どうして知りたいんですか」
「空さんだから」
簡単な答えだった。
空には、それがかえって難しかった。
由美は続けた。
「誰でもよかったわけじゃない。子どもと暮らせればよかったわけでもない。空さんと会う約束の日を、私が楽しみにするようになったから。会わない期間が続いたとき、元気にしているか気になったから。空さんが家に来たあと、緑色の歯ブラシが残っているのを見て、また来てほしいと思ったから」
空は返事をしなかった。
視線を賢司へ移す。
「賢司さんもですか」
「僕は、由美ほど上手に言えないけど」
「表にしますか」
「今日はしない」
賢司は小さく笑った。
「空さんは、僕が考えた予定に、いつも足りないものを見つける。暮らしている途中で気が変わったらどうするのか。嫌になったらどうするのか。そう聞かれると、計画は人を閉じ込めるためのものじゃないと気づかされる」
「面倒ではないんですか」
「面倒だと思うときはある」
「やっぱり」
「でも、面倒なことを避けて一緒に暮らすことはできないだろう」
賢司は確認表を指先で押さえた。
「僕は、空さんに感謝されたいわけじゃない。毎日笑っていてほしいわけでもない。夕食がいらない日は連絡してほしいし、遅くなるなら心配させてほしい。空さんが部屋にいるのに何も話さない夜も含めて、同じ家で暮らしたい」
「心配させてほしいというのは、変です」
「そうだね。でも、心配する相手でいたいということかもしれない」
空は二人の顔を交互に見た。
「私が、二人を家族だと思えなくても?」
「今すぐ思ってもらう必要はない」
賢司が答えた。
「ずっと思えなかったら?」
由美の目がわずかに揺れた。
それでも、笑ってごまかさなかった。
「そのときは寂しいと思う。でも、空さんに家族だと言わせるために迎えたんじゃない」
「私が学生寮へ行くと言ったら?」
「準備を手伝う」
「支援住宅を選んだら?」
「一緒に見学へ行く」
「一人暮らしがしたいと言ったら?」
「家賃と防犯について、賢司が表を作る」
「作ると思う」
賢司が真顔で答えた。
空は笑った。
今度は、顔をそらさなかった。
「家事は、恩返しではなく分担ですね」
「そう」
「嫌なことは、言ってもいい」
「言ってほしい」
「二人も言うんですか」
「言うわ」
「由美は、かなり言うと思う」
「賢司も言うでしょう」
二人が互いを見る。
空は確認表を自分のほうへ引き寄せ、余白に一行書き加えた。
三人とも、嫌なことを言っただけで家を追い出されない。
賢司がその一文を読み、うなずいた。
「冷蔵庫に貼ろう」
「本当に貼るんですね」
「僕たちが忘れないために」
空は、もう反対しなかった。
*
その日の夕食は、三人でカレーを作った。
由美が玉葱を切り、賢司がじゃがいもの皮を剥き、空が人参を切った。
賢司の剥いたじゃがいもは、最初の大きさの半分近くになっていた。
「皮を厚く剥きすぎです」
空が言った。
「芽を残すよりいいだろ」
「残さないように薄く剥けばいいんです」
「難しいことを言うね」
「貸してください」
空が包丁を受け取ろうとすると、賢司はじゃがいもを背中へ隠した。
「自分でやる」
「また小さくなります」
「次はうまくやる」
「無理だと思います」
「空さん、さっきから僕に厳しくない?」
「今に始まったことじゃないわよ」
由美が笑う。
賢司が次に手に取ったじゃがいもは、少しだけ大きく残った。
三人で作ったカレーは、以前より辛かった。
空が選んだ中辛のルーへ、賢司が間違えて辛口を半分混ぜたからだ。
「ごめん。箱の色が似ていた」
賢司が水を飲みながら言った。
「私はこれくらいでも好きです」
空は答えた。
「本当に?」
由美が尋ねる。
「はい。前のは少し甘かったです」
「初めて聞いた」
「聞かれなかったので」
「次からは中辛と辛口を半分ずつにしましょうか」
「今日はたまたまおいしいだけかもしれません」
「では、次回もう一度確認しよう」
賢司が言い、空と由美が同時に笑った。
食後、由美が食器棚を開けた。
「空さん、自分の皿を決める?」
棚には、色も形も違う皿が並んでいる。
空は一枚ずつ見た。
黄色い皿へ目を止める。
「これは?」
「ずっと前に買ったの」
「誰かが使っていたんですか」
「誰も使っていない」
由美はそれ以上説明しなかった。
空も理由を尋ねなかった。
黄色い皿を手に取り、光へかざしてから、棚へ戻した。
「これにします」
選んだのは、薄い灰青色の皿だった。
「黄色じゃなくていいの?」
「これが好きです」
「分かった」
由美は笑った。
空の選ばなかった黄色い皿を、自分の前へ置く。
「では、私はこれを使おうかな」
「急に?」
「使わないままにしておくよりいいと思って」
賢司は青い縁取りの皿を選んだ。
三枚の色は揃っていなかった。
それでも食器棚へ並べると、不思議と収まりがよかった。
*
風呂から上がった空は、自分の部屋へ戻った。
机の上に、芽衣と花音から受け取った封筒を置く。
最初に芽衣の手紙を開いた。
便箋には、鉛筆で大きな字が書かれていた。
『そらちゃんへ
いなくなるのはいやだけど、いなくなるんじゃないとめぐみさんがいいました。こんどきたら、いっしょにオムライスをつくってください。そらちゃんのたまごはやぶれないからです。わたしもじょうずになります。
めい』
空は二度読んだ。
花音の手紙には、朝倉家の住所を書いてほしいことと、夏になったら海へ行きたいことが書かれていた。最後の一行だけ、赤いペンだった。
『かのんのことを、わすれないでください』
空は便箋を机へ置いた。
忘れるはずがないと思った。
けれど、自分が新しい学校へ通い、部活へ入り、知らない友達と過ごすうちに、若葉ホームでの生活が遠くなることも怖かった。
朝倉家に慣れることは、若葉ホームを捨てることなのか。
ここで笑うことは、莉子や芽衣たちに申し訳ないことなのか。
胸が詰まり、空は椅子から立ち上がった。
廊下へ出ると、由美が洗面所から洗濯物を抱えて出てきた。
「どうしたの?」
「何でもありません」
反射的に答えた。
由美は空の顔を見たが、それ以上尋ねなかった。
「おやすみなさい」
「おやすみ」
空は部屋へ戻り、扉を閉めた。
聞いてほしかったわけではない。
けれど、本当に何も聞かれないと、少し取り残されたような気持ちになった。
勝手だと思う。
廊下から足音が遠ざかる。しばらくして、軽く扉が叩かれた。
「空さん」
由美の声だった。
「はい」
「入ってもいい?」
空は返事をするまでに少し時間を置いた。
「どうぞ」
由美は扉を半分だけ開けた。
「話したくないなら、それでもいいんだけど」
「何ですか」
「さっき、何か言いたそうだったから」
空は机の上の手紙を見た。
「若葉ホームのことを忘れそうで、嫌なんです」
言葉にすると、思っていたより幼く聞こえた。
由美は部屋へ入らず、扉のところに立っていた。
「忘れないと思う、と私が言っても仕方ないわね」
「はい」
「私には決められないから」
由美は少し考えた。
「明日、写真立てをもう一つ買いに行く?」
「写真立て?」
「若葉ホームの写真が増えても、ここに置けるように」
「物を増やせば忘れないわけではありません」
「そうね。ごめんなさい。すぐ物で解決しようとする癖があるの」
空は由美を見た。
「でも、写真立てはほしいです」
「どっち?」
「物では解決しません。でも、飾りたい写真はあります」
「では、空さんが選びましょう」
「由美さんが選ばないんですか」
「選んだら、また怒られるから」
由美は冗談のように言ったが、空には少し寂しそうに聞こえた。
「一緒に選ぶのは、嫌ではありません」
「本当?」
「最後に決めるのは私です」
「もちろん」
由美の顔が明るくなる。
空は机の上の手紙を封筒へ戻した。
「若葉ホームへ行きたいと言ったら、いつでも行けますか」
「事前に連絡は必要だけど、行けるわ」
「泊まりたいと言ったら?」
「長谷川さんや相沢さんと相談することになると思う。でも、私たちが嫌だからという理由で止めることはしない」
「寂しくても?」
「寂しいとは言うかもしれない」
由美は正直に答えた。
「でも、寂しいから行かないでとは言わない」
「分かりました」
「今夜、長谷川さんへ電話する?」
空は首を振った。
「今日はしません」
「そう」
「明日、します」
「分かった」
由美は扉を閉めようとした。
「由美さん」
「何?」
「聞きに戻ってきてくれて、ありがとうございました」
由美は何も言わずに笑った。
「おやすみ、空さん」
「おやすみなさい」
扉が静かに閉まった。
*
翌朝、空は目覚まし時計が鳴る前に目を覚ました。
窓の外はまだ薄暗い。
廊下へ出ると、台所から包丁の音が聞こえた。由美が弁当を作っている。賢司はダイニングテーブルで新聞を読みながら、片手でコーヒーを飲んでいた。
「おはようございます」
「おはよう」
「早いわね。まだ六時よ」
「目が覚めました」
「眠れた?」
「少し」
由美はそれ以上聞かなかった。
空は冷蔵庫を開け、麦茶を取り出した。グラスへ注ぎ、元の場所へ戻す。
その動作を二人に見られている気がした。
「見ないでください」
「見てないよ」
賢司が新聞から顔を上げる。
「見ていました」
「空さんが自分で冷蔵庫を開けたから」
「開けます。住んでいるんですから」
「そうだね」
賢司が笑う。
「そのうち、何も思わなくなる」
「今は思うんですか」
「少しうれしい」
「由美さんと同じ顔をしています」
「夫婦だから」
「そういうものですか」
「長く一緒にいると、少し似るのかもしれない」
由美が弁当箱の蓋を閉めた。
「今日は転校先の学校へ行く日でしょう。制服の採寸と、担任の先生との面談」
「はい」
「一緒に行くのは、私だけでいい?」
「二人で来るつもりだったんですか」
「賢司は休みを取ろうとしていたの」
「取ろうとしてない。必要なら取れると言っただけだ」
「二人で来られると、目立ちます」
「では、由美だけにする」
賢司はあっさり答えた。
「寂しくないんですか」
空が尋ねると、賢司は新聞を畳んだ。
「少し寂しい」
「すぐ言いますね」
「隠さないほうがいいと思って」
「でも、来ないんですね」
「空さんが嫌だと言ったから」
空は麦茶を一口飲んだ。
寂しいと言いながら、従わせようとはしない。
それが、まだ不思議だった。
「学校が終わったら、会社に写真を送ってくれる?」
賢司が言った。
「制服の?」
「嫌ならいい」
「考えておきます」
「分かった」
賢司は新聞を開き直した。
空は由美が用意した朝食の前に座った。
三人分の味噌汁から、同じ湯気が上がっている。
「今日の夕食は?」
由美が尋ねた。
「食べます」
「何がいい?」
空は少し考えた。
「昨日のカレー」
「まだ残ってるわね」
「辛いカレーだよ」
賢司が言う。
「分かっています」
「僕はもう少し甘いほうがいいな」
「子どもみたいです」
「空さん、朝から厳しくない?」
「これが普通です」
答えたあと、空は自分の言葉に驚いた。
これが普通。
何が普通なのか、自分でも分からない。三人で朝食を食べることなのか、賢司の失敗を笑うことなのか、夕食に何を食べたいか尋ねられることなのか。
由美も賢司も、その言葉を大げさに喜ばなかった。
「空さんの普通は、かなり手厳しいね」
賢司が言っただけだった。
それでよかった。
*
午後、転校先の高校での手続きを終えると、由美は会社へ向かい、空は一人で朝倉家へ帰ることになった。
「一緒に帰らなくて大丈夫?」
校門の前で由美が尋ねた。
「道は分かります」
「迷ったら連絡して」
「地図もあります」
「電車が止まったら?」
「別の路線を使います」
「スマートフォンの充電は?」
「八十七パーセントです」
空は画面を見せた。
由美はまだ何か言いたそうだったが、時計を確認した。
「では、先に帰っていて。冷蔵庫におやつがあるから」
「子どもではありません」
「高校二年生は、まだ子どもでしょう」
「急がないと遅れます」
「そうね。行ってきます」
「行ってらっしゃい」
由美が駅の方向へ歩き出す。
数歩進んでから振り返り、手を振った。
空は小さく手を上げた。
一人で電車に乗り、見慣れ始めた街へ戻る。
朝倉家のある建物の前へ着くと、空はリュックから鍵を取り出した。紺色のキーホルダーが、午後の光を受けている。
玄関ホールを通り、エレベーターへ乗る。
十九階のボタンを押す。
これまでは、十九という数字を見るたびに、朝倉夫妻の家へ向かうと思っていた。
今日は、自分が暮らす場所へ向かっている。
玄関の前で足を止めた。
鍵穴へ銀色の鍵を差し込み、ゆっくり回す。小さな音がして、扉が開いた。
家の中は静かだった。
「帰りました」
空は誰もいない玄関で言った。
返事はない。
けれど、言葉が空中へ消えたとは感じなかった。
緑色のスリッパへ履き替え、冷蔵庫を開ける。小さな容器に入ったプリンが三つ並び、それぞれの蓋に名前が書かれていた。
由美。
賢司。
空。
空は自分の名前が書かれたプリンを取り出しかけ、手を止めた。
賢司のプリンの蓋には、由美の字で「食べたら怒ります」と付け加えられている。
空は笑い、自分の分だけを取り出した。
ダイニングテーブルへ座り、由美へメッセージを送る。
『帰りました。鍵はなくしていません』
すぐに既読がついた。
『おかえりなさい。鍵より、空さんが帰ったことを先に知らせてください』
続いて賢司からも届いた。
『おかえり。制服の写真は、考えた結果どうなりましたか』
空は学校でもらった制服の見本を鏡の前で体に合わせ、顔を写さないように写真を撮った。
二人へ送信する。
由美からは、うれしそうな顔の絵がいくつも返ってきた。
賢司からは、短い言葉が届いた。
『似合うと思う。帰ったら直接見せてください』
空はスマートフォンを伏せた。
まだ、二人を父や母とは呼べない。
家族という言葉にも、少し身構える。
明日になれば、三人の生活に不満が生まれるかもしれない。由美は先回りし、賢司は細かい確認をし、空は何も言わずに部屋へ閉じこもるかもしれない。
それでも、嫌だと言っただけでは終わらないと、今は少しだけ信じられる。
空はプリンを食べ終え、容器を洗った。
洗面所では、白と青の歯ブラシの間に、緑色の歯ブラシが立っている。
机の引き出しには、自分の鍵がある。
冷蔵庫には、自分の名前が書かれたプリンがあった。
どれも小さなものだった。
けれど、自分がこの家にいることを、誰かの気持ちではなく、日々の中へ置いてくれるものだった。
玄関の向こうで、鍵が回る音がした。
由美には早すぎる。賢司が予定より早く帰ってきたのだろう。
空は廊下へ出た。
扉が開き、賢司が顔を見せる。
「ただいま」
賢司が言った。
空は一瞬、答えに迷った。
その言葉を受け取ってよいのか、まだ分からなかった。
それでも、賢司は急かさずに靴を脱いでいる。
「おかえりなさい」
空が答えると、賢司が顔を上げた。
「うん」
それだけ言い、いつものように鞄を置いた。
空は自分の部屋へ戻りかけ、足を止めた。
「賢司さん」
「何?」
「鍵、ちゃんと使えました」
「そうか」
「それから……プリン、食べました」
「僕の分は?」
「残っています」
「よかった」
賢司の口元が、わずかにほころんだ。
「由美さんが、食べたら怒ると書いていました」
「それなら食べられないな」
「本当に食べたかったら、聞けばいいと思います」
「由美に?」
「はい。嫌だと言われるかもしれませんけど」
「聞くだけ聞いてみるか」
賢司が冷蔵庫へ向かう。
空も、そのあとを歩いた。
三人の暮らしは、まだ始まったばかりだった。
うまくできる保証はない。
それでも空のポケットには、自分で扉を開けるための鍵が入っていた。




