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『血の通わぬ糸』  作者: 久遠 睦


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19/32

第三部 三人の食卓     第十九章 新しい制服、同じ名前

四月六日の朝、空は姿見の前で紺色のリボンを結び直していた。

 結び目がわずかに右へ傾いている。

 一度ほどき、もう一度結ぶ。それでも左右が揃わない。若葉ホームにいたころの制服は細いネクタイだったため、リボンにはまだ慣れていなかった。

 机の上には、透明な袋から出したばかりの生徒手帳と、校章の入った紺色の鞄が置かれている。どれも自分のものなのに、借りているように見えた。

 制服の胸元には、小さな布の名札が付いていた。

 水瀬。

 昨夜、空が自分で縫いつけた。由美が手伝おうかと尋ねたが、空は断った。角が少し曲がっているものの、外れそうにはない。

 名字は変わらない。

 暮らす場所が若葉ホームから朝倉家へ変わっても、自分は水瀬空のままだ。

 それを寂しいと思うべきなのか、安心してよいのか、空にはまだ分からなかった。

 扉の向こうから足音が近づいてきた。

 二回、軽く叩く音がする。

「空さん。朝ご飯、できたわよ」

「はい」

 由美は返事を聞くまで扉を開けなかった。

「もう入っていい?」

「少し待ってください」

「分かった」

 以前、由美はノックをしても、返事を待たずに扉を開けかけたことがあった。空が決めた約束と違うと言うと、由美はすぐに謝った。

 その日の夜、冷蔵庫に貼られた生活確認表の「空の部屋へ入るときはノックする」という行の横に、由美の字で小さく書き加えられていた。

 返事を待つ。

 大げさだと思った。

 けれど、書き加えられた文字を見るたび、空の言葉がなかったことにされていないと分かった。

「もう大丈夫です」

 空が答えると、扉がゆっくり開いた。

「入るわね」

 由美は部屋へ一歩だけ入り、制服姿の空を見た。

 目を細め、それから慌てたように口元を引き締める。

「何ですか」

「何でもない」

「泣かないでください」

「まだ泣いてないわよ」

「まだ、ということは泣くんですか」

「分からない。少しだけ時間をちょうだい」

 由美は目元へ指を当てた。

「似合ってる」

「昨日も見たでしょう」

「昨日は試着。今日は初登校だから違うの」

「同じ制服です」

「そういう違いじゃないのよ」

 由美は空の胸元を見た。

「リボン、直してもいい?」

 空は鏡へ目を向けた。

「曲がっていますか」

「ほんの少しだけ」

「お願いします」

 由美が両手を伸ばし、結び目を整えた。

 指が首元へ触れないよう、慎重に動かしている。許可を得たあとでも、空が身を固くしていないか確かめているようだった。

「これでどう?」

 鏡の中で、リボンの左右が揃っていた。

「ありがとうございます」

「写真を撮ってもいい?」

「顔もですか」

「できれば」

「誰かに送りますか」

「送らない。家で見るだけ」

「一枚なら」

 空が答えると、由美はスマートフォンを取り出した。

「ここでいい?」

「玄関のほうが明るいと思います」

「では、朝ご飯のあとにしましょう」

 由美は何枚も撮ろうとせず、スマートフォンをしまった。

「賢司が、もう三回時計を見てるの。遅刻するんじゃないかって」

「まだ七時です」

「本人は緊張していないと言ってるけど」

「由美さんも緊張しています」

「私は認めてるからいいの」

 由美が部屋を出ていく。

 空は名札へ指を当てた。

 水瀬。

 縫い目の曲がった名前の上に、由美が整えたリボンがあった。

     *

 ダイニングテーブルには、三人分の朝食が並んでいた。

 焼いた鮭、だし巻き卵、ほうれん草の胡麻和え、味噌汁。普段より明らかに品数が多い。

「旅館みたいです」

 空が言った。

「初日だから」

 由美が答える。

「毎朝これなら、由美さんが先に疲れます」

「明日からはトーストかもしれない」

「そのほうが安心します」

 賢司は新聞を脇へ置き、空の制服を見た。

「よく似合ってる」

「ありがとうございます」

「胸の名札、自分で付けたの?」

「はい」

「少し右上がりだね」

 空は名札を手で隠した。

「外れなければいいです」

「そうだね。ごめん」

「朝から余計なことを言わないの」

 由美が賢司の前へ味噌汁を置いた。

「気づいたことを言っただけだよ」

「今日でなくてもいいでしょう」

「曲がっているのは私も分かっています」

 空が言った。

「でも、付け直しません」

「どうして?」

「自分で付けたからです」

 賢司は一度名札を見て、それからうなずいた。

「分かった」

 三人で食事を始める。

 空はだし巻き卵を口へ運んだ。以前より甘さが控えられている。

「味はどう?」

 由美が尋ねた。

「前より好きです」

「よかった」

「私に合わせたんですか」

「砂糖を少し減らしただけ」

「賢司さんは甘いほうが好きですよね」

「僕はどちらでも大丈夫」

「前は甘いほうがいいと言っていました」

「覚えてたの?」

「食卓で聞きました」

 賢司がだし巻き卵を食べた。

「これもおいしいよ」

 空は自分のために味が変えられたことへ、申し訳なさを感じた。

 それを察したのか、由美が言った。

「毎回、空さんに合わせるわけじゃないわよ。今日は空さんの初登校だから」

「明日は?」

「賢司の好きな甘い卵焼きにするかもしれない」

「空さんの前で僕の名前を使わなくてもいいだろ」

「では、私が甘いものを食べたい日にする」

「それならいいです」

 空は答えた。

 誰かの好みに合わせることと、誰かの好みだけを優先することは違う。三人で暮らすなら、毎日同じ人が譲る必要はない。

 そのことを、食卓の上で少しずつ知っていけばよいのかもしれなかった。

 朝食を終えると、由美が弁当箱を差し出した。

「今日は作ったけど、明日からどうする?」

 落ち着いた紺色の弁当箱だった。蓋の端に、小さな白い花が描かれている。

「毎日作ってもらうのは悪いです」

「悪いかどうかではなく、空さんがどうしたいかを聞いてるの」

「学校の食堂も使ってみたいです」

「では、明日は食堂?」

「まだ分かりません」

「今日帰ってから決めましょう」

 由美は弁当箱を布で包み、空へ渡した。

「中身は普通だから安心して」

「普通とは?」

「卵焼きと唐揚げとブロッコリー」

「十分です」

「たこさんウインナーは入れてないわよ」

「入れようとしたんですか」

 由美は答えず、賢司のほうを見た。

「止めたのは僕だ」

「高校生でも食べるでしょう」

「食べますけど、初日に注目されるものは困ります」

「やっぱり入れなくてよかった」

 由美が真剣にうなずいた。

 空は弁当箱を鞄へ入れた。

 玄関へ向かうと、賢司が腕時計を確認した。

「予定より三分早い」

「三分まで気にするんですか」

「今日は電車が遅れる可能性も考えて、一本早いものに乗る」

「遅れていないのに?」

「初日だから」

 由美と賢司が、ほとんど同時に答えた。

 空は靴を履きながら、ため息をついた。

「二人とも、思っていたより似ています」

「悪い意味?」

 由美が尋ねる。

「今は決めません」

 立ち上がると、由美がスマートフォンを構えた。

「約束の一枚」

 空は玄関の壁を背にして立った。

 笑ったほうがよいのか迷ったが、無理に笑うのはやめた。両手で鞄を持ち、まっすぐ由美を見る。

 撮影音が一度だけ鳴った。

「ありがとう」

 由美は画面を確認し、空へ見せた。

 写真の中の自分は、緊張した顔をしていた。

「笑っていません」

「これでいいと思う」

「初登校なのに?」

「初登校だからよ。楽しかったかどうかは、帰ってきてから分かるでしょう」

 由美は写真を撮り直さなかった。

「行きましょうか」

 空が玄関の扉を開ける。

 賢司と由美が続いた。

 今日は二人とも学校まで行く。

 それを少し恥ずかしいと思う一方で、どちらか一人だけにしてほしいとは言わなかった。

     *

 学校の正門には、新しく二年生になった生徒たちが次々と入っていった。

 同じ制服を着ていても、空には、誰もが自分よりこの場所になじんでいるように見えた。春休みを挟んだだけの生徒たちは、去年からの友達を見つけて声を掛け合っている。

「クラスが別れた」

「担任、また井上先生だって」

「最悪。数学の宿題多いじゃん」

 聞こえてくる会話の中には、空の知らない一年間がある。

 空は鞄の持ち手を握り直した。

「大丈夫?」

 由美が小声で尋ねた。

「何がですか」

「緊張しているように見えたから」

「緊張はしています」

「そうよね」

「でも、大丈夫かどうかはまだ分かりません」

 以前なら、大丈夫だと答えていた。

 そのほうが相手を安心させられるからだ。

 由美は少し考え、うなずいた。

「帰ってきてから聞くわ」

「全部は話さないかもしれません」

「話したいことだけでいい」

 事務室で名前を告げると、四十代くらいの女性職員が書類を確認した。

「水瀬空さんですね。保護者の朝倉様も、こちらへお願いします」

「はい」

 由美と賢司が同時に返事をした。

 職員は二人を見比べた。

「お父様とお母様でよろしいでしょうか」

 空の背中が強張った。

 由美が何かを答えるより先に、空が口を開いた。

「里親です」

 職員の表情が止まった。

「あ、失礼しました」

「空さんの里親の朝倉由美です。こちらが夫の賢司です」

 由美は落ち着いた声で説明した。

「空さんの名字は水瀬のままです。学校で必要な書類については、相沢さんからお伝えしていると思います」

「確認しております。配慮が足りず、申し訳ありませんでした」

 職員は頭を下げた。

「間違えられることはあると思います」

 空が答えた。

 怒ってはいなかった。

 けれど、由美に母親のような顔で応じてほしくなかった。自分で違うと言えたことに、胸の奥で少しだけ安堵した。

 会議室へ案内されると、担任の井上が待っていた。眼鏡をかけた三十代の女性で、数学を担当しているという。

「水瀬さん、今日からよろしくお願いします」

「よろしくお願いします」

「手続き上のことは学校でも共有しています。ただ、ご家庭の事情をどこまでほかの生徒へ話すかは、水瀬さんの希望を優先します」

「話さなくてもいいですか」

「もちろんです。転校理由について聞かれた場合も、家庭の事情とだけ答えて構いません」

「分かりました」

「もし誰かにしつこく聞かれたり、困ることを言われたりしたら、私か相談室へ来てください」

 井上は書類を一枚取り出した。

「保護者欄はこちらです。緊急連絡先は朝倉さんご夫妻で登録しています。若葉ホームの長谷川さんと、担当の相沢さんについては、必要がある場合に学校から連絡できるよう別途登録しています」

 空は書類の上に並ぶ名前を見た。

 生徒氏名、水瀬空。

 保護者氏名、朝倉賢司、朝倉由美。

 違う名字が同じ紙に並んでいる。

 それは不自然にも見えたが、間違いではなかった。

「水瀬さんは、進学を希望していると聞いています」

「まだ決めていません」

 空が答えると、由美が横から言った。

「大学についても考え始めているんです。絵やデザインにも興味があって」

 空は由美を見た。

「由美さん」

 名前を呼ばれ、由美が言葉を止める。

「まだ、先生には自分で話していません」

「あ……ごめんなさい」

 会議室に短い沈黙が落ちた。

 井上は由美を責めるような顔をせず、空へ視線を戻した。

「では、水瀬さんから聞かせてもらえる?」

 空は膝の上で手を組んだ。

「大学は、選択肢には入れています。でも、何を勉強するかは決めていません。絵を描くことは好きです。でも、仕事にしたいかも分かりません」

「今はそれで十分です。二年生のうちに、いろいろ見てみましょう」

「はい」

「部活動はどうする?」

「美術部を見学したいと思っています」

 由美がわずかに身を動かした。

 空は、由美が何かを言う前に続けた。

「見学してから決めます」

「分かりました。放課後、顧問へ案内します」

 面談が終わり、空は教室へ向かうことになった。

 廊下の途中で、由美が呼び止めた。

「空さん」

「何ですか」

「さっきはごめんなさい。先生に、先に話してしまって」

「はい」

「空さんのことを説明しなければと思って、また私が先に答えた」

「私が答えられないと思いましたか」

「そうじゃない。緊張しているだろうと思って」

「緊張していても、自分で話せます」

「そうね」

 由美は言い訳をしなかった。

「次から待つ」

「お願いします」

「怒ってる?」

「少し」

「分かった」

 由美は傷ついたように見えた。

 空の胸が痛んだ。

 以前なら、その顔を見た瞬間に「もう大丈夫です」と言っていた。しかし、それでは空の不満がなかったことになる。

「でも、学校まで来てくれたことは、嫌ではありません」

 空は付け加えた。

 由美が顔を上げる。

「本当?」

「二人で来たので、少し目立ちましたけど」

「それはごめんなさい」

「謝るところではありません」

「難しいわね」

「私も、まだ分かりません」

 空は素直に答えた。

「何が嫌で、何ならうれしいのか、全部は分かっていません」

「では、分かったときに教えて」

「はい」

 賢司は二人の会話が終わるまで、少し離れたところで待っていた。

 空が教室へ向かうとき、賢司が声をかける。

「行ってらっしゃい」

 由美も続けた。

「行ってらっしゃい」

 空は振り返った。

「行ってきます」

 朝にも同じ言葉を言った。

 けれど、校舎の中で二人へ返すと、少し違う響きに聞こえた。

     *

 二年三組の教室には、三十二人分の机が並んでいた。

 空の席は窓側の後ろから二番目だった。

 井上が教壇に立ち、教室を見回す。

「今日から新しいクラスになります。その前に、二年三組へ転入する生徒を紹介します」

 ざわめきが収まった。

 空は教室の前へ出た。

 三十人以上の視線が集まる。

 海辺食堂で大勢の客を相手にすることには慣れていた。それでも、自分について話すために注目されるのは別だった。

「水瀬空です」

 黒板へ自分の名前を書く。

 名字と名前の間を、少しだけ空けた。

「海の近くの町から来ました。絵を描くことと、本を読むことが好きです。よろしくお願いします」

 頭を下げる。

 教室のあちこちから拍手が起きた。

 席へ戻ると、前に座っている女子生徒が振り返った。肩に届くくらいの髪を、低い位置で一つに結んでいる。

「私、高橋真帆。よろしく」

「よろしくお願いします」

「同い年なんだから、敬語じゃなくていいよ」

「まだ慣れていないので」

「じゃあ、慣れたらやめて」

 真帆はそれ以上話しかけず、前を向いた。

 空は少しだけ息を吐いた。

 質問を続けられると思っていた。

 どこから来たのか。どうして転校したのか。両親の仕事は何か。きょうだいはいるのか。

 どれも、空には簡単に答えられない。

 一時間目と二時間目の間の休み時間になると、数人の生徒が空の机へ集まった。

「水瀬さん、本当に海の近くに住んでたの?」

「はい」

「毎日海に行ける感じ?」

「歩いて十五分くらいでした」

「すごい。夏は毎日泳ぐの?」

「そんなに泳ぎません」

「どうしてこっちへ引っ越したの?」

 予想していた質問が来た。

 空は一瞬、言葉を探した。

「家庭の事情です」

「お父さんの転勤?」

「違います」

「じゃあ――」

「もういいじゃん」

 真帆が会話へ入った。

「家庭の事情って言ってるんだから、それ以上は聞かなくていいでしょ」

「聞いただけじゃん」

「答えたくないことまで答えさせるのは、聞いただけじゃないよ」

 質問した生徒は気まずそうな顔をし、別の話題へ移った。

 空は真帆の背中を見た。

「ありがとうございます」

「敬語」

「……ありがとう」

「どういたしまして」

 真帆は笑った。

「でも、助けたつもりじゃないからね。私も家のことを聞かれるの嫌いなだけ」

「そうなの?」

「うち、両親が去年離婚してるから。説明すると、みんな変な顔するんだよね」

 真帆はあっさり言った。

「ごめんなさい」

「なんで水瀬さんが謝るの?」

「聞いてはいけなかったかと思って」

「私が言ったんだからいいの」

 真帆は机へ肘をついた。

「話したいことは話す。話したくないことは話さない。それでよくない?」

「うん」

「よし。敬語が一個減った」

 真帆が指を一本立てた。

 空は少し笑った。

     *

 昼休み、空は弁当箱を机の上へ出した。

 真帆と、その隣の席の森川菜月が机を寄せてくる。

「一緒に食べてもいい?」

 菜月が尋ねた。

「はい」

「敬語じゃなくていいって」

 真帆が言う。

「……いいよ」

 弁当箱の蓋を開ける。

 卵焼き、唐揚げ、ブロッコリー、ミニトマト。由美が言ったとおり、たこさんウインナーは入っていない。

「おいしそう」

 菜月が覗き込んだ。

「お母さんが作ったの?」

 空の箸が止まった。

「違う」

 思ったより強い声が出た。

 菜月の表情が曇る。

「ごめん」

「怒ってるわけじゃない。ただ、母親ではないから」

「誰が作ったの?」

「今、一緒に暮らしている人」

 そこまで答え、空は迷った。

 家庭のことを説明する必要はない。井上もそう言った。由美と賢司も、友達へどこまで話すかは自分で決めてよいと言った。

「里親です」

 気づけば、そう口にしていた。

 真帆も菜月も、すぐには何も言わなかった。

 教室のざわめきが、急に大きく聞こえた。

「私は施設で暮らしていました。今月から、里親の家から通っています」

 言わなくてもよかった。

 けれど、母親だと誤解されたままにすることも、由美の作った弁当を曖昧な誰かのものにすることも嫌だった。

 菜月がゆっくりうなずいた。

「そうなんだ」

「うん」

「じゃあ、この唐揚げは、その人が作ったの?」

「由美さんが作った」

「由美さんっていうんだ」

「うん」

「料理、上手だね」

 菜月はそれ以上、施設について尋ねなかった。

 真帆が自分の購買のパンを見下ろした。

「私、朝寝坊して買いに行く時間もなくて、これ一個」

「半分食べる?」

 空は唐揚げを指した。

「いいの?」

「三つあるから」

「では、私の焼きそばパンも一口あげる」

「交換になってる」

「そのほうが気を遣わないでしょ」

 真帆は唐揚げを受け取り、焼きそばパンを半分にちぎった。

 空はその半分を受け取った。

 由美が作った唐揚げと、真帆が買った焼きそばパンが、机の上で行き来する。

「甘くない卵焼きだ」

 菜月が言った。

「私が甘くないほうが好きだから」

「由美さんが合わせてくれたんだ」

「今日は」

 空は答えた。

「明日は食堂を使うかもしれない」

「じゃあ、一緒に行こうよ。最初は仕組みが分かりにくいから」

 菜月が言った。

「席を取る人と買いに行く人に分かれるの」

「場所取り、すごいからね」

 真帆が付け加える。

「明日、食堂へ行ってみたい」

 空は自分から言った。

「決まり」

 菜月が笑った。

 空も小さく笑い、卵焼きを口へ運んだ。

     *

 放課後、井上が空を美術室まで案内した。

「見学だけでも構わないから。合わなければ、ほかの部活も見てみるといい」

「はい」

「朝倉さんから、帰宅時間のことで連絡を受けているわ」

 空は足を止めた。

「由美さんが連絡したんですか」

「いいえ。相沢さんを通して、部活動を始める場合には帰宅時間を確認したいと聞いているだけ。入るかどうかは水瀬さんが決めることになっているわ」

 空は胸をなで下ろした。

 由美が先回りして、美術部へ話をしていたのかと思った。

「今日は六時ごろまで見学できます。帰宅が遅くなるなら、連絡しておいてね」

「分かりました」

 空はスマートフォンを取り出した。

『美術部を見学します。学校を出るのは六時ごろになります』

 家の三人で作った連絡用のグループへ送る。

 すぐに賢司から返事が来た。

『了解。帰りの電車が分かったら知らせてください』

 続いて由美からも届く。

『分かりました。楽しんできてね』

 空は画面を見つめた。

 何を見学するのか、誰と一緒なのか、帰る道は分かるのか。そうした質問が続くと思っていた。

 だが、二人から届いたのは一通ずつだけだった。

 空はスマートフォンを鞄へ戻した。

 美術室の扉を開けると、絵の具と木材の匂いがした。

 壁には大きな油絵が立てかけられ、窓際には石膏像が並んでいる。十人ほどの生徒が、それぞれの机で絵を描いていた。

「見学の子?」

 三年生らしい女子生徒が近づいてきた。短く切った髪の毛に、青い絵の具が付いている。

「二年三組へ転入した、水瀬空です」

「私は部長の篠原千紘。よろしく」

「よろしくお願いします」

「絵、描いたことある?」

「少しだけ」

「何を描くの?」

「海とか、建物とか」

「今日は自由制作の日だから、よかったら何か描いてみる?」

 空は美術室の中を見回した。

 鉛筆も紙も、棚に揃っている。窓の近くには使い込まれた画板が何枚も重ねてあった。

「道具を借りてもいいですか」

「もちろん。そこに名前を書いて」

 空は名簿へ自分の名前を書いた。

 水瀬空。

 朝から何度も書いた三文字だった。

 美術室の隅に座り、画用紙を前に置く。

 何を描くか考えた。

 海を描こうとして、やめた。

 若葉ホームを描こうとして、それもやめた。

 鞄の内側に入れてある銀色の鍵を取り出し、机の上へ置いた。

 紺色のキーホルダーが、白い紙の上で影を作る。

 空は鉛筆を持った。

 鍵の輪郭を描き、その下へ落ちる影を重ねる。金属の光を鉛筆だけで表すのは難しかった。何度も線を消し、描き直す。

 篠原が後ろから覗き込んだ。

「細かいね」

「まだ形が違います」

「何の鍵?」

 空は手を止めた。

「家の鍵です」

「新しく引っ越したんだっけ」

「はい」

「自分の鍵を描くの、いいね」

「どうしてですか」

「大事そうに見えるから」

「まだ、そう見えるだけです」

「大事じゃないの?」

「分かりません」

 篠原はそれ以上聞かず、自分の席へ戻った。

 空は鍵の先端を描き直した。

 大事なのかもしれない。

 けれど、それを認めれば、失くすことが怖くなる。

 鍵そのものだけではない。朝倉家での暮らしも、由美や賢司との関係も、大切だと思うほど、なくなったときの痛みは大きくなる。

 それでも、何も大切にしなければ傷つかないという考え方には、もう戻れない気がした。

「水瀬さん」

 聞き覚えのある声がして、空は顔を上げた。

 真帆が美術室の入口に立っていた。

「高橋さん」

「真帆でいいって。見学に来たの?」

「うん」

「私も美術部。去年は幽霊部員だったけど」

 真帆は空の隣へ座った。

「鍵?」

「家の鍵」

「上手だね」

「まだ途中」

「私は途中でも上手って言うよ。完成したら別の感想を言う」

「どんな感想?」

「完成してから考える」

 真帆は笑い、自分のスケッチブックを広げた。描かれていたのは、駅のホームに並ぶ自動販売機だった。

「美術部は、毎日来ないといけないの?」

 空が尋ねた。

「週三日くらいでいいよ。展覧会前は増えるけど。アルバイトしてる子もいるし」

「私は今、アルバイトを続けるか分からない」

「前の町でしてたの?」

「食堂で」

「接客できるんだ。すごい」

「すごくない。仕事だから」

「私は知らない人に話しかけられると固まるから、すごいよ」

 真帆は鉛筆を動かしながら言った。

「美術部に入る?」

「まだ決めてない」

「入ればいいのに」

「簡単に言うね」

「簡単に決めてもいいことじゃない?」

 空は手を止めた。

「続けられなかったら、迷惑をかける」

「退部届を出せばいいだけ」

「そういうもの?」

「合わなくて辞める人もいるし、途中から入る人もいる。続けるかどうか、始める前に全部決められないよ」

 空は机の上の鍵を見た。

 朝倉家での生活についても、同じことを言われた。

 始める前に、最後まで暮らせると約束する必要はない。途中で嫌になったら、改めて考えてよい。

 空は、何かを始めるには、最後まで続ける覚悟が必要だと思っていた。

 施設で暮らしていれば、途中で投げ出すことは誰かの負担になる。アルバイトを辞めれば、空いた時間をほかの人が埋めなければならない。進学を選べば、その費用を用意してもらう必要がある。

 だが、部活動は、やってみたいという理由だけで始めてもよいのかもしれない。

「入部届、もらえますか」

 空は篠原へ声をかけた。

「もちろん」

 篠原が棚から一枚の紙を取り出した。

「家で相談して、保護者欄に署名をもらってきてね」

 空は入部届を受け取った。

 保護者氏名。

 その欄を見ても、朝の書類ほど胸はざわつかなかった。

     *

 六時を少し過ぎて、美術部の見学が終わった。

 空は校門を出る前に、賢司と由美へ連絡した。

『今から学校を出ます。七時前には帰ります』

 賢司からは『了解』、由美からは『夕食は七時半にします』と返ってきた。

 帰宅時間を知らせることは、自分の行動を監視されることのように感じていた。

 けれど、二人は理由を尋ねず、早く帰れとも言わなかった。空の連絡を受けて、夕食の時間を変えただけだった。

 電車の中で、空は入部届の写真を撮り、莉子へ送った。

『美術部を見学した。入るかもしれない』

 しばらくして、莉子から返信が来た。

『かもしれないじゃなくて、入れば』

『続けられるか分からない』

『続かなかったら辞めればいい』

 真帆と同じことを言われた。

『簡単に言うね』

 空が送ると、すぐに返ってきた。

『空は簡単なことまで難しく考えすぎ。やりたいならやりなよ。こっちに遠慮してやめたら、そのほうが腹立つ』

 空は画面を見つめた。

『遠慮してない』

『じゃあ入れば』

『考える』

『それが長い』

 最後に、怒った猫の絵が送られてきた。

 空は笑った。

 若葉ホームを離れても、莉子は莉子のままだった。

 空が新しい制服を着ても、美術部へ入っても、それによって若葉ホームで過ごした時間が消えるわけではない。

 駅を出ると、朝から降りそうだった雨が細かく落ち始めていた。

 空は鞄から折り畳み傘を取り出した。

 朝、由美が入れたものだった。

『午後は雨が降るらしいから』

 そう言われたときは、天気予報を見れば自分でも分かると思った。だが、初登校の準備で、空は傘のことを忘れていた。

 ありがたいと思った。

 同時に、次からは自分で確認しようとも思った。

 その両方でよいのだろう。

     *

 玄関の鍵を開ける。

 家の中から、包丁の音と換気扇の音が聞こえた。

「帰りました」

 空が言うと、台所から由美が顔を出した。

「おかえりなさい」

 書斎の扉も開き、賢司が出てくる。

「おかえり」

 二人とも、制服姿の空を見る。

「朝も見たでしょう」

「帰ってきたところは初めてだから」

 由美が答えた。

「どうだった?」

「何がですか」

「学校」

「全部を一度に聞くと、空さんが困る」

 賢司が言った。

「では、一つだけ。お昼は食べられた?」

「食べました」

「よかった」

「明日は食堂へ行きます」

「お弁当はいらない?」

「はい」

 空は鞄を持ったまま、ダイニングテーブルへ入部届を置いた。

「美術部に入ろうと思います」

 由美の顔が明るくなった。

「本当?」

「見学してから決めると言ったでしょう」

「楽しかったの?」

「まだ、楽しいかは分かりません」

「では、どうして?」

「もう一度行きたいと思ったから」

 空は入部届を賢司の前へ差し出した。

「保護者欄に署名が必要です」

 賢司は用紙を手に取った。

「活動日は?」

「基本は週三日です。展覧会前は増えます」

「帰宅時間は?」

「六時まで活動した場合は、七時前になります」

「学業との両立は?」

「賢司」

 由美が止める。

「確認しているだけだよ」

「まだ入部届へ署名もしていないのに、面接みたいになってる」

 賢司は口を閉じた。

 空は二人の顔を見た。

「確認してもいいです」

「嫌ではない?」

「少し細かいと思います。でも、入るなと言われているわけではないので」

「入るかどうかは、空さんが決めることだ」

 賢司が答えた。

「生活の時間が変わるから、それを三人で確認したい」

「分かりました」

 空は椅子に座った。

「活動日は火曜、木曜、金曜です。アルバイトは、今月は休ませてもらっています。続ける場合は土日のどちらかにします。試験前は部活が休みになります」

「そこまで確認してきたの?」

「入るなら必要だと思ったので」

 賢司は書類へ視線を落とした。

「では、僕から反対する理由はない」

「由美さんは?」

「私もないわ。空さんがやりたいなら、やってみてほしい」

「途中で辞めるかもしれません」

「それも空さんが決めればいい」

 由美の返事は迷いがなかった。

 賢司がペンを取る。

 保護者氏名の欄へ、朝倉賢司と書いた。

 その下に、続柄を書く小さな欄がある。

 賢司の手が止まった。

「ここは、里親でいいね」

 空へ確認する。

「はい」

 賢司は「里親」と記入した。

 父とは書かなかった。

 空がそう呼ぶことを期待するような素振りも見せなかった。

 完成した入部届には、二つの名字が並んでいた。

 入部希望者、水瀬空。

 保護者、朝倉賢司。

 それで手続きは成立する。

「ありがとうございます」

 空は用紙を受け取った。

「ところで、制服の写真は?」

 賢司が尋ねた。

「学校から送ったでしょう」

「顔が写ってなかった」

「考えた結果です」

「そうか」

 賢司は残念そうにしたが、撮り直してほしいとは言わなかった。

 空は鞄からスマートフォンを取り出した。

「今なら、一枚だけ撮ってもいいです」

「本当?」

 台所にいた由美が、すぐに戻ってくる。

「二人も一緒なら」

「私たちも?」

「嫌なら撮りません」

「撮る。すぐ撮るわ」

 由美はエプロンを外そうとした。

「そのままでいいです」

「でも、初登校の写真でしょう」

「帰ってきたあとなので」

 賢司は仕事用のシャツの袖をまくったままだった。由美のエプロンには、水が跳ねた跡がある。

 三人はダイニングの壁の前へ並んだ。

 空が中央へ立つ。

 由美は肩を抱こうとして、手を途中で止めた。

「触ってもいい?」

「少しなら」

 由美の手が、空の肩へ軽く置かれた。

 反対側では、賢司が触れてよいのか分からず、腕を下ろしたまま立っている。

「賢司さんも、少しくらいなら」

「どこに?」

「肩しかないでしょう」

 賢司は恐る恐る、空の肩へ手を置いた。

 三人とも緊張していた。

 由美が設定したタイマーの数字が減っていく。

「笑ったほうがいい?」

 賢司が尋ねる。

「好きにしてください」

「空さんは?」

「今、考えています」

 撮影音が鳴った。

 三人は同時にスマートフォンを覗き込んだ。

 由美はうれしそうに笑い、賢司は緊張して口元が引きつっている。中央の空は笑っていなかった。

 けれど、朝に撮った写真より、目元が少しだけ柔らかかった。

「もう一枚撮る?」

 由美が尋ねた。

「一枚でいいです」

「分かった」

「若葉ホームの長谷川さんへ送ってもいいですか」

 空が聞くと、由美がうなずいた。

「もちろん」

「莉子にも送ります」

「空さんが送りたい人へ送って」

 写真は空のスマートフォンにも転送された。

 画面の中には、名字の違う三人が立っている。

 空は長谷川と莉子へ送った。

 莉子からは、すぐに返信が来た。

『賢司さん、顔かたい』

 空は画面を賢司へ見せた。

「言われると思った」

「もう一枚撮りますか」

「一枚でいいんだろ」

「賢司さんが撮りたいなら」

「では、今度にする」

 今度。

 その言葉を聞いても、空は身構えなかった。

 この家では、今日できなかったことを、別の日にしてもよいらしい。

     *

 夕食のあと、空は自分の部屋で、美術部の入部届を机へ置いた。

 隣には、見学中に描いた鍵の絵がある。

 完成していない。

 金属の光も、影の濃さも、うまく表せなかった。それでも、捨てずに持ち帰った。

 空は青い筆箱から鉛筆を取り出し、続きを描き始めた。

 扉を軽く叩く音がする。

「はい」

「入っていい?」

 賢司だった。

「どうぞ」

 賢司は扉を開けたが、中へは入らなかった。

「明日の朝食だけど、由美がパンでいいか聞いてる」

「パンでいいです」

「種類は?」

「何がありますか」

「食パンと、昨日買った塩パン」

「塩パン」

「分かった」

 賢司が立ち去ろうとする。

「賢司さん」

「何?」

「朝、由美さんが先生に私の代わりに答えました」

「聞いたよ」

「少し怒りました」

「それも聞いた」

「由美さん、落ち込んでいましたか」

 賢司は少し考えた。

「落ち込んではいた。でも、空さんが悪いとは言ってない」

「そうですか」

「由美の機嫌を直すために、空さんが謝る必要はないよ」

「謝ろうと思ったわけではありません」

「うん」

「ただ、嫌なことを言っても、本当に大丈夫なのか確認しただけです」

 賢司は扉の横に立ったまま、空を見た。

「大丈夫というのは、誰も傷つかないという意味ではないと思う」

「傷つくんですか」

「由美は傷ついたかもしれない。でも、自分が先に話したことはよくなかったと分かっている。空さんに嫌だったと言われなければ、次も同じことをしたかもしれない」

「では、言ってよかったんですか」

「よかったと思う」

「賢司さんにも言います」

「覚悟しておく」

「嫌ですか」

「できれば、優しく言ってほしい」

 空は少し笑った。

「考えておきます」

「それで十分」

 賢司が扉を閉める。

 空は鍵の絵へ視線を戻した。

 もう一度、影の線を重ねる。

 大切なものは、なくすのが怖い。

 だが、怖いから持たないという選び方だけが、自分を守る方法ではないのかもしれない。

 窓の外には、海の見えない街の明かりが広がっている。

 若葉ホームの部屋から見えた夜とは、音も色も違った。

 空は鉛筆を置き、美術部の入部届を鞄へ入れた。

 明日、自分で提出する。

 朝倉家で暮らすと決めたときと同じように、誰かに入れと言われたからではない。続けなければ申し訳ないからでもない。

 自分が、もう一度あの美術室へ行きたいと思った。

 それだけで始めてよいことが、この先にはある。

     *

 翌朝、空は由美より先に台所へ入った。

 冷蔵庫から塩パンを取り出し、オーブントースターへ入れる。

「おはよう」

 由美が眠そうな顔で入ってきた。

「おはようございます」

「早いわね」

「塩パンを温めています」

「私の分も?」

「三つ入れました」

 由美はトースターの中を覗いた。

「ありがとう」

「昨日のことですが」

 空が言うと、由美の表情が少し硬くなった。

「先生に、私より先に答えたことです」

「うん。ごめんなさい」

「もう謝ってもらいました」

「そうね」

「私も、言い方が強かったかもしれません」

「でも、嫌だったんでしょう」

「嫌でした」

 空は答えた。

 由美は一度だけ目を伏せ、それから空を見た。

「では、そのままでいい。空さんが私を傷つけないように、嫌じゃなかったことにする必要はないから」

「傷つきましたか」

「少し。でも、空さんに怒ったわけじゃない。自分がまた先回りしたことに気づいて、恥ずかしかった」

「私も、自分の嫌なことを全部分かっているわけではありません」

「私も、空さんに何をしたら喜んでもらえて、何をしたら嫌がられるのか、まだ全部は分からない」

「ずっと分からないかもしれません」

「そうね。賢司のことも、いまだに分からないときがあるもの」

 由美が笑った。

「十九年一緒にいるのに?」

「十九年一緒にいるから、分かったつもりになるの。それで、ときどき間違える」

 トースターが音を立てた。

 空は扉を開け、塩パンを皿へ移した。

 灰青色の皿が空。黄色い皿が由美。青い縁取りの皿が賢司。

「熱いから気をつけてください」

「はい」

 由美が答えた。

「空さん」

「何ですか」

「美術部、楽しんでね」

「まだ楽しいとは決まっていません」

「では、行ってらっしゃい」

「まだ家を出ません」

「練習」

「何のですか」

「空さんを送り出す練習」

 空は黄色い皿へ塩パンを置いた。

「毎朝するんですか」

「嫌?」

「毎朝聞かないでください」

「分かった」

 由美は笑い、皿を受け取った。

 賢司が寝癖のついたまま台所へ入ってくる。

「おはよう」

「寝癖がついています」

 空が言うと、賢司が頭へ手をやった。

「どこ?」

「後ろです」

「由美、直して」

「自分で直しなさい」

「見えないんだよ」

「鏡があります」

 二人のやり取りを聞きながら、空は自分の塩パンを皿へ置いた。

 三人分の朝が、同じ台所に並んでいく。

 空はまだ、「ただいま」を自然には言えなかった。

 二人を父や母とも呼べなかった。

 それでも昨日は、自分で選んだ制服を着て、自分の名字で新しい教室へ入り、自分の意思で美術部への入部を決めた。

 そして夕方になれば、自分の鍵でこの家の扉を開ける。

 名前は変わらない。

 変えなくても、新しい場所へ進むことはできる。

「行ってきます」

 玄関を出るとき、空は二人へ言った。

「行ってらっしゃい」

 二人の声が重なる。

 空は一度だけ振り返り、扉を閉めた。

 紺色の鞄の中には、朝倉賢司が里親として署名した入部届が入っている。

 胸元には、自分で縫いつけた少し曲がった名札がある。

 空はそれを直さず、新しい学校へ向かって歩き出した。


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