第三部 三人の食卓 第十九章 新しい制服、同じ名前
四月六日の朝、空は姿見の前で紺色のリボンを結び直していた。
結び目がわずかに右へ傾いている。
一度ほどき、もう一度結ぶ。それでも左右が揃わない。若葉ホームにいたころの制服は細いネクタイだったため、リボンにはまだ慣れていなかった。
机の上には、透明な袋から出したばかりの生徒手帳と、校章の入った紺色の鞄が置かれている。どれも自分のものなのに、借りているように見えた。
制服の胸元には、小さな布の名札が付いていた。
水瀬。
昨夜、空が自分で縫いつけた。由美が手伝おうかと尋ねたが、空は断った。角が少し曲がっているものの、外れそうにはない。
名字は変わらない。
暮らす場所が若葉ホームから朝倉家へ変わっても、自分は水瀬空のままだ。
それを寂しいと思うべきなのか、安心してよいのか、空にはまだ分からなかった。
扉の向こうから足音が近づいてきた。
二回、軽く叩く音がする。
「空さん。朝ご飯、できたわよ」
「はい」
由美は返事を聞くまで扉を開けなかった。
「もう入っていい?」
「少し待ってください」
「分かった」
以前、由美はノックをしても、返事を待たずに扉を開けかけたことがあった。空が決めた約束と違うと言うと、由美はすぐに謝った。
その日の夜、冷蔵庫に貼られた生活確認表の「空の部屋へ入るときはノックする」という行の横に、由美の字で小さく書き加えられていた。
返事を待つ。
大げさだと思った。
けれど、書き加えられた文字を見るたび、空の言葉がなかったことにされていないと分かった。
「もう大丈夫です」
空が答えると、扉がゆっくり開いた。
「入るわね」
由美は部屋へ一歩だけ入り、制服姿の空を見た。
目を細め、それから慌てたように口元を引き締める。
「何ですか」
「何でもない」
「泣かないでください」
「まだ泣いてないわよ」
「まだ、ということは泣くんですか」
「分からない。少しだけ時間をちょうだい」
由美は目元へ指を当てた。
「似合ってる」
「昨日も見たでしょう」
「昨日は試着。今日は初登校だから違うの」
「同じ制服です」
「そういう違いじゃないのよ」
由美は空の胸元を見た。
「リボン、直してもいい?」
空は鏡へ目を向けた。
「曲がっていますか」
「ほんの少しだけ」
「お願いします」
由美が両手を伸ばし、結び目を整えた。
指が首元へ触れないよう、慎重に動かしている。許可を得たあとでも、空が身を固くしていないか確かめているようだった。
「これでどう?」
鏡の中で、リボンの左右が揃っていた。
「ありがとうございます」
「写真を撮ってもいい?」
「顔もですか」
「できれば」
「誰かに送りますか」
「送らない。家で見るだけ」
「一枚なら」
空が答えると、由美はスマートフォンを取り出した。
「ここでいい?」
「玄関のほうが明るいと思います」
「では、朝ご飯のあとにしましょう」
由美は何枚も撮ろうとせず、スマートフォンをしまった。
「賢司が、もう三回時計を見てるの。遅刻するんじゃないかって」
「まだ七時です」
「本人は緊張していないと言ってるけど」
「由美さんも緊張しています」
「私は認めてるからいいの」
由美が部屋を出ていく。
空は名札へ指を当てた。
水瀬。
縫い目の曲がった名前の上に、由美が整えたリボンがあった。
*
ダイニングテーブルには、三人分の朝食が並んでいた。
焼いた鮭、だし巻き卵、ほうれん草の胡麻和え、味噌汁。普段より明らかに品数が多い。
「旅館みたいです」
空が言った。
「初日だから」
由美が答える。
「毎朝これなら、由美さんが先に疲れます」
「明日からはトーストかもしれない」
「そのほうが安心します」
賢司は新聞を脇へ置き、空の制服を見た。
「よく似合ってる」
「ありがとうございます」
「胸の名札、自分で付けたの?」
「はい」
「少し右上がりだね」
空は名札を手で隠した。
「外れなければいいです」
「そうだね。ごめん」
「朝から余計なことを言わないの」
由美が賢司の前へ味噌汁を置いた。
「気づいたことを言っただけだよ」
「今日でなくてもいいでしょう」
「曲がっているのは私も分かっています」
空が言った。
「でも、付け直しません」
「どうして?」
「自分で付けたからです」
賢司は一度名札を見て、それからうなずいた。
「分かった」
三人で食事を始める。
空はだし巻き卵を口へ運んだ。以前より甘さが控えられている。
「味はどう?」
由美が尋ねた。
「前より好きです」
「よかった」
「私に合わせたんですか」
「砂糖を少し減らしただけ」
「賢司さんは甘いほうが好きですよね」
「僕はどちらでも大丈夫」
「前は甘いほうがいいと言っていました」
「覚えてたの?」
「食卓で聞きました」
賢司がだし巻き卵を食べた。
「これもおいしいよ」
空は自分のために味が変えられたことへ、申し訳なさを感じた。
それを察したのか、由美が言った。
「毎回、空さんに合わせるわけじゃないわよ。今日は空さんの初登校だから」
「明日は?」
「賢司の好きな甘い卵焼きにするかもしれない」
「空さんの前で僕の名前を使わなくてもいいだろ」
「では、私が甘いものを食べたい日にする」
「それならいいです」
空は答えた。
誰かの好みに合わせることと、誰かの好みだけを優先することは違う。三人で暮らすなら、毎日同じ人が譲る必要はない。
そのことを、食卓の上で少しずつ知っていけばよいのかもしれなかった。
朝食を終えると、由美が弁当箱を差し出した。
「今日は作ったけど、明日からどうする?」
落ち着いた紺色の弁当箱だった。蓋の端に、小さな白い花が描かれている。
「毎日作ってもらうのは悪いです」
「悪いかどうかではなく、空さんがどうしたいかを聞いてるの」
「学校の食堂も使ってみたいです」
「では、明日は食堂?」
「まだ分かりません」
「今日帰ってから決めましょう」
由美は弁当箱を布で包み、空へ渡した。
「中身は普通だから安心して」
「普通とは?」
「卵焼きと唐揚げとブロッコリー」
「十分です」
「たこさんウインナーは入れてないわよ」
「入れようとしたんですか」
由美は答えず、賢司のほうを見た。
「止めたのは僕だ」
「高校生でも食べるでしょう」
「食べますけど、初日に注目されるものは困ります」
「やっぱり入れなくてよかった」
由美が真剣にうなずいた。
空は弁当箱を鞄へ入れた。
玄関へ向かうと、賢司が腕時計を確認した。
「予定より三分早い」
「三分まで気にするんですか」
「今日は電車が遅れる可能性も考えて、一本早いものに乗る」
「遅れていないのに?」
「初日だから」
由美と賢司が、ほとんど同時に答えた。
空は靴を履きながら、ため息をついた。
「二人とも、思っていたより似ています」
「悪い意味?」
由美が尋ねる。
「今は決めません」
立ち上がると、由美がスマートフォンを構えた。
「約束の一枚」
空は玄関の壁を背にして立った。
笑ったほうがよいのか迷ったが、無理に笑うのはやめた。両手で鞄を持ち、まっすぐ由美を見る。
撮影音が一度だけ鳴った。
「ありがとう」
由美は画面を確認し、空へ見せた。
写真の中の自分は、緊張した顔をしていた。
「笑っていません」
「これでいいと思う」
「初登校なのに?」
「初登校だからよ。楽しかったかどうかは、帰ってきてから分かるでしょう」
由美は写真を撮り直さなかった。
「行きましょうか」
空が玄関の扉を開ける。
賢司と由美が続いた。
今日は二人とも学校まで行く。
それを少し恥ずかしいと思う一方で、どちらか一人だけにしてほしいとは言わなかった。
*
学校の正門には、新しく二年生になった生徒たちが次々と入っていった。
同じ制服を着ていても、空には、誰もが自分よりこの場所になじんでいるように見えた。春休みを挟んだだけの生徒たちは、去年からの友達を見つけて声を掛け合っている。
「クラスが別れた」
「担任、また井上先生だって」
「最悪。数学の宿題多いじゃん」
聞こえてくる会話の中には、空の知らない一年間がある。
空は鞄の持ち手を握り直した。
「大丈夫?」
由美が小声で尋ねた。
「何がですか」
「緊張しているように見えたから」
「緊張はしています」
「そうよね」
「でも、大丈夫かどうかはまだ分かりません」
以前なら、大丈夫だと答えていた。
そのほうが相手を安心させられるからだ。
由美は少し考え、うなずいた。
「帰ってきてから聞くわ」
「全部は話さないかもしれません」
「話したいことだけでいい」
事務室で名前を告げると、四十代くらいの女性職員が書類を確認した。
「水瀬空さんですね。保護者の朝倉様も、こちらへお願いします」
「はい」
由美と賢司が同時に返事をした。
職員は二人を見比べた。
「お父様とお母様でよろしいでしょうか」
空の背中が強張った。
由美が何かを答えるより先に、空が口を開いた。
「里親です」
職員の表情が止まった。
「あ、失礼しました」
「空さんの里親の朝倉由美です。こちらが夫の賢司です」
由美は落ち着いた声で説明した。
「空さんの名字は水瀬のままです。学校で必要な書類については、相沢さんからお伝えしていると思います」
「確認しております。配慮が足りず、申し訳ありませんでした」
職員は頭を下げた。
「間違えられることはあると思います」
空が答えた。
怒ってはいなかった。
けれど、由美に母親のような顔で応じてほしくなかった。自分で違うと言えたことに、胸の奥で少しだけ安堵した。
会議室へ案内されると、担任の井上が待っていた。眼鏡をかけた三十代の女性で、数学を担当しているという。
「水瀬さん、今日からよろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
「手続き上のことは学校でも共有しています。ただ、ご家庭の事情をどこまでほかの生徒へ話すかは、水瀬さんの希望を優先します」
「話さなくてもいいですか」
「もちろんです。転校理由について聞かれた場合も、家庭の事情とだけ答えて構いません」
「分かりました」
「もし誰かにしつこく聞かれたり、困ることを言われたりしたら、私か相談室へ来てください」
井上は書類を一枚取り出した。
「保護者欄はこちらです。緊急連絡先は朝倉さんご夫妻で登録しています。若葉ホームの長谷川さんと、担当の相沢さんについては、必要がある場合に学校から連絡できるよう別途登録しています」
空は書類の上に並ぶ名前を見た。
生徒氏名、水瀬空。
保護者氏名、朝倉賢司、朝倉由美。
違う名字が同じ紙に並んでいる。
それは不自然にも見えたが、間違いではなかった。
「水瀬さんは、進学を希望していると聞いています」
「まだ決めていません」
空が答えると、由美が横から言った。
「大学についても考え始めているんです。絵やデザインにも興味があって」
空は由美を見た。
「由美さん」
名前を呼ばれ、由美が言葉を止める。
「まだ、先生には自分で話していません」
「あ……ごめんなさい」
会議室に短い沈黙が落ちた。
井上は由美を責めるような顔をせず、空へ視線を戻した。
「では、水瀬さんから聞かせてもらえる?」
空は膝の上で手を組んだ。
「大学は、選択肢には入れています。でも、何を勉強するかは決めていません。絵を描くことは好きです。でも、仕事にしたいかも分かりません」
「今はそれで十分です。二年生のうちに、いろいろ見てみましょう」
「はい」
「部活動はどうする?」
「美術部を見学したいと思っています」
由美がわずかに身を動かした。
空は、由美が何かを言う前に続けた。
「見学してから決めます」
「分かりました。放課後、顧問へ案内します」
面談が終わり、空は教室へ向かうことになった。
廊下の途中で、由美が呼び止めた。
「空さん」
「何ですか」
「さっきはごめんなさい。先生に、先に話してしまって」
「はい」
「空さんのことを説明しなければと思って、また私が先に答えた」
「私が答えられないと思いましたか」
「そうじゃない。緊張しているだろうと思って」
「緊張していても、自分で話せます」
「そうね」
由美は言い訳をしなかった。
「次から待つ」
「お願いします」
「怒ってる?」
「少し」
「分かった」
由美は傷ついたように見えた。
空の胸が痛んだ。
以前なら、その顔を見た瞬間に「もう大丈夫です」と言っていた。しかし、それでは空の不満がなかったことになる。
「でも、学校まで来てくれたことは、嫌ではありません」
空は付け加えた。
由美が顔を上げる。
「本当?」
「二人で来たので、少し目立ちましたけど」
「それはごめんなさい」
「謝るところではありません」
「難しいわね」
「私も、まだ分かりません」
空は素直に答えた。
「何が嫌で、何ならうれしいのか、全部は分かっていません」
「では、分かったときに教えて」
「はい」
賢司は二人の会話が終わるまで、少し離れたところで待っていた。
空が教室へ向かうとき、賢司が声をかける。
「行ってらっしゃい」
由美も続けた。
「行ってらっしゃい」
空は振り返った。
「行ってきます」
朝にも同じ言葉を言った。
けれど、校舎の中で二人へ返すと、少し違う響きに聞こえた。
*
二年三組の教室には、三十二人分の机が並んでいた。
空の席は窓側の後ろから二番目だった。
井上が教壇に立ち、教室を見回す。
「今日から新しいクラスになります。その前に、二年三組へ転入する生徒を紹介します」
ざわめきが収まった。
空は教室の前へ出た。
三十人以上の視線が集まる。
海辺食堂で大勢の客を相手にすることには慣れていた。それでも、自分について話すために注目されるのは別だった。
「水瀬空です」
黒板へ自分の名前を書く。
名字と名前の間を、少しだけ空けた。
「海の近くの町から来ました。絵を描くことと、本を読むことが好きです。よろしくお願いします」
頭を下げる。
教室のあちこちから拍手が起きた。
席へ戻ると、前に座っている女子生徒が振り返った。肩に届くくらいの髪を、低い位置で一つに結んでいる。
「私、高橋真帆。よろしく」
「よろしくお願いします」
「同い年なんだから、敬語じゃなくていいよ」
「まだ慣れていないので」
「じゃあ、慣れたらやめて」
真帆はそれ以上話しかけず、前を向いた。
空は少しだけ息を吐いた。
質問を続けられると思っていた。
どこから来たのか。どうして転校したのか。両親の仕事は何か。きょうだいはいるのか。
どれも、空には簡単に答えられない。
一時間目と二時間目の間の休み時間になると、数人の生徒が空の机へ集まった。
「水瀬さん、本当に海の近くに住んでたの?」
「はい」
「毎日海に行ける感じ?」
「歩いて十五分くらいでした」
「すごい。夏は毎日泳ぐの?」
「そんなに泳ぎません」
「どうしてこっちへ引っ越したの?」
予想していた質問が来た。
空は一瞬、言葉を探した。
「家庭の事情です」
「お父さんの転勤?」
「違います」
「じゃあ――」
「もういいじゃん」
真帆が会話へ入った。
「家庭の事情って言ってるんだから、それ以上は聞かなくていいでしょ」
「聞いただけじゃん」
「答えたくないことまで答えさせるのは、聞いただけじゃないよ」
質問した生徒は気まずそうな顔をし、別の話題へ移った。
空は真帆の背中を見た。
「ありがとうございます」
「敬語」
「……ありがとう」
「どういたしまして」
真帆は笑った。
「でも、助けたつもりじゃないからね。私も家のことを聞かれるの嫌いなだけ」
「そうなの?」
「うち、両親が去年離婚してるから。説明すると、みんな変な顔するんだよね」
真帆はあっさり言った。
「ごめんなさい」
「なんで水瀬さんが謝るの?」
「聞いてはいけなかったかと思って」
「私が言ったんだからいいの」
真帆は机へ肘をついた。
「話したいことは話す。話したくないことは話さない。それでよくない?」
「うん」
「よし。敬語が一個減った」
真帆が指を一本立てた。
空は少し笑った。
*
昼休み、空は弁当箱を机の上へ出した。
真帆と、その隣の席の森川菜月が机を寄せてくる。
「一緒に食べてもいい?」
菜月が尋ねた。
「はい」
「敬語じゃなくていいって」
真帆が言う。
「……いいよ」
弁当箱の蓋を開ける。
卵焼き、唐揚げ、ブロッコリー、ミニトマト。由美が言ったとおり、たこさんウインナーは入っていない。
「おいしそう」
菜月が覗き込んだ。
「お母さんが作ったの?」
空の箸が止まった。
「違う」
思ったより強い声が出た。
菜月の表情が曇る。
「ごめん」
「怒ってるわけじゃない。ただ、母親ではないから」
「誰が作ったの?」
「今、一緒に暮らしている人」
そこまで答え、空は迷った。
家庭のことを説明する必要はない。井上もそう言った。由美と賢司も、友達へどこまで話すかは自分で決めてよいと言った。
「里親です」
気づけば、そう口にしていた。
真帆も菜月も、すぐには何も言わなかった。
教室のざわめきが、急に大きく聞こえた。
「私は施設で暮らしていました。今月から、里親の家から通っています」
言わなくてもよかった。
けれど、母親だと誤解されたままにすることも、由美の作った弁当を曖昧な誰かのものにすることも嫌だった。
菜月がゆっくりうなずいた。
「そうなんだ」
「うん」
「じゃあ、この唐揚げは、その人が作ったの?」
「由美さんが作った」
「由美さんっていうんだ」
「うん」
「料理、上手だね」
菜月はそれ以上、施設について尋ねなかった。
真帆が自分の購買のパンを見下ろした。
「私、朝寝坊して買いに行く時間もなくて、これ一個」
「半分食べる?」
空は唐揚げを指した。
「いいの?」
「三つあるから」
「では、私の焼きそばパンも一口あげる」
「交換になってる」
「そのほうが気を遣わないでしょ」
真帆は唐揚げを受け取り、焼きそばパンを半分にちぎった。
空はその半分を受け取った。
由美が作った唐揚げと、真帆が買った焼きそばパンが、机の上で行き来する。
「甘くない卵焼きだ」
菜月が言った。
「私が甘くないほうが好きだから」
「由美さんが合わせてくれたんだ」
「今日は」
空は答えた。
「明日は食堂を使うかもしれない」
「じゃあ、一緒に行こうよ。最初は仕組みが分かりにくいから」
菜月が言った。
「席を取る人と買いに行く人に分かれるの」
「場所取り、すごいからね」
真帆が付け加える。
「明日、食堂へ行ってみたい」
空は自分から言った。
「決まり」
菜月が笑った。
空も小さく笑い、卵焼きを口へ運んだ。
*
放課後、井上が空を美術室まで案内した。
「見学だけでも構わないから。合わなければ、ほかの部活も見てみるといい」
「はい」
「朝倉さんから、帰宅時間のことで連絡を受けているわ」
空は足を止めた。
「由美さんが連絡したんですか」
「いいえ。相沢さんを通して、部活動を始める場合には帰宅時間を確認したいと聞いているだけ。入るかどうかは水瀬さんが決めることになっているわ」
空は胸をなで下ろした。
由美が先回りして、美術部へ話をしていたのかと思った。
「今日は六時ごろまで見学できます。帰宅が遅くなるなら、連絡しておいてね」
「分かりました」
空はスマートフォンを取り出した。
『美術部を見学します。学校を出るのは六時ごろになります』
家の三人で作った連絡用のグループへ送る。
すぐに賢司から返事が来た。
『了解。帰りの電車が分かったら知らせてください』
続いて由美からも届く。
『分かりました。楽しんできてね』
空は画面を見つめた。
何を見学するのか、誰と一緒なのか、帰る道は分かるのか。そうした質問が続くと思っていた。
だが、二人から届いたのは一通ずつだけだった。
空はスマートフォンを鞄へ戻した。
美術室の扉を開けると、絵の具と木材の匂いがした。
壁には大きな油絵が立てかけられ、窓際には石膏像が並んでいる。十人ほどの生徒が、それぞれの机で絵を描いていた。
「見学の子?」
三年生らしい女子生徒が近づいてきた。短く切った髪の毛に、青い絵の具が付いている。
「二年三組へ転入した、水瀬空です」
「私は部長の篠原千紘。よろしく」
「よろしくお願いします」
「絵、描いたことある?」
「少しだけ」
「何を描くの?」
「海とか、建物とか」
「今日は自由制作の日だから、よかったら何か描いてみる?」
空は美術室の中を見回した。
鉛筆も紙も、棚に揃っている。窓の近くには使い込まれた画板が何枚も重ねてあった。
「道具を借りてもいいですか」
「もちろん。そこに名前を書いて」
空は名簿へ自分の名前を書いた。
水瀬空。
朝から何度も書いた三文字だった。
美術室の隅に座り、画用紙を前に置く。
何を描くか考えた。
海を描こうとして、やめた。
若葉ホームを描こうとして、それもやめた。
鞄の内側に入れてある銀色の鍵を取り出し、机の上へ置いた。
紺色のキーホルダーが、白い紙の上で影を作る。
空は鉛筆を持った。
鍵の輪郭を描き、その下へ落ちる影を重ねる。金属の光を鉛筆だけで表すのは難しかった。何度も線を消し、描き直す。
篠原が後ろから覗き込んだ。
「細かいね」
「まだ形が違います」
「何の鍵?」
空は手を止めた。
「家の鍵です」
「新しく引っ越したんだっけ」
「はい」
「自分の鍵を描くの、いいね」
「どうしてですか」
「大事そうに見えるから」
「まだ、そう見えるだけです」
「大事じゃないの?」
「分かりません」
篠原はそれ以上聞かず、自分の席へ戻った。
空は鍵の先端を描き直した。
大事なのかもしれない。
けれど、それを認めれば、失くすことが怖くなる。
鍵そのものだけではない。朝倉家での暮らしも、由美や賢司との関係も、大切だと思うほど、なくなったときの痛みは大きくなる。
それでも、何も大切にしなければ傷つかないという考え方には、もう戻れない気がした。
「水瀬さん」
聞き覚えのある声がして、空は顔を上げた。
真帆が美術室の入口に立っていた。
「高橋さん」
「真帆でいいって。見学に来たの?」
「うん」
「私も美術部。去年は幽霊部員だったけど」
真帆は空の隣へ座った。
「鍵?」
「家の鍵」
「上手だね」
「まだ途中」
「私は途中でも上手って言うよ。完成したら別の感想を言う」
「どんな感想?」
「完成してから考える」
真帆は笑い、自分のスケッチブックを広げた。描かれていたのは、駅のホームに並ぶ自動販売機だった。
「美術部は、毎日来ないといけないの?」
空が尋ねた。
「週三日くらいでいいよ。展覧会前は増えるけど。アルバイトしてる子もいるし」
「私は今、アルバイトを続けるか分からない」
「前の町でしてたの?」
「食堂で」
「接客できるんだ。すごい」
「すごくない。仕事だから」
「私は知らない人に話しかけられると固まるから、すごいよ」
真帆は鉛筆を動かしながら言った。
「美術部に入る?」
「まだ決めてない」
「入ればいいのに」
「簡単に言うね」
「簡単に決めてもいいことじゃない?」
空は手を止めた。
「続けられなかったら、迷惑をかける」
「退部届を出せばいいだけ」
「そういうもの?」
「合わなくて辞める人もいるし、途中から入る人もいる。続けるかどうか、始める前に全部決められないよ」
空は机の上の鍵を見た。
朝倉家での生活についても、同じことを言われた。
始める前に、最後まで暮らせると約束する必要はない。途中で嫌になったら、改めて考えてよい。
空は、何かを始めるには、最後まで続ける覚悟が必要だと思っていた。
施設で暮らしていれば、途中で投げ出すことは誰かの負担になる。アルバイトを辞めれば、空いた時間をほかの人が埋めなければならない。進学を選べば、その費用を用意してもらう必要がある。
だが、部活動は、やってみたいという理由だけで始めてもよいのかもしれない。
「入部届、もらえますか」
空は篠原へ声をかけた。
「もちろん」
篠原が棚から一枚の紙を取り出した。
「家で相談して、保護者欄に署名をもらってきてね」
空は入部届を受け取った。
保護者氏名。
その欄を見ても、朝の書類ほど胸はざわつかなかった。
*
六時を少し過ぎて、美術部の見学が終わった。
空は校門を出る前に、賢司と由美へ連絡した。
『今から学校を出ます。七時前には帰ります』
賢司からは『了解』、由美からは『夕食は七時半にします』と返ってきた。
帰宅時間を知らせることは、自分の行動を監視されることのように感じていた。
けれど、二人は理由を尋ねず、早く帰れとも言わなかった。空の連絡を受けて、夕食の時間を変えただけだった。
電車の中で、空は入部届の写真を撮り、莉子へ送った。
『美術部を見学した。入るかもしれない』
しばらくして、莉子から返信が来た。
『かもしれないじゃなくて、入れば』
『続けられるか分からない』
『続かなかったら辞めればいい』
真帆と同じことを言われた。
『簡単に言うね』
空が送ると、すぐに返ってきた。
『空は簡単なことまで難しく考えすぎ。やりたいならやりなよ。こっちに遠慮してやめたら、そのほうが腹立つ』
空は画面を見つめた。
『遠慮してない』
『じゃあ入れば』
『考える』
『それが長い』
最後に、怒った猫の絵が送られてきた。
空は笑った。
若葉ホームを離れても、莉子は莉子のままだった。
空が新しい制服を着ても、美術部へ入っても、それによって若葉ホームで過ごした時間が消えるわけではない。
駅を出ると、朝から降りそうだった雨が細かく落ち始めていた。
空は鞄から折り畳み傘を取り出した。
朝、由美が入れたものだった。
『午後は雨が降るらしいから』
そう言われたときは、天気予報を見れば自分でも分かると思った。だが、初登校の準備で、空は傘のことを忘れていた。
ありがたいと思った。
同時に、次からは自分で確認しようとも思った。
その両方でよいのだろう。
*
玄関の鍵を開ける。
家の中から、包丁の音と換気扇の音が聞こえた。
「帰りました」
空が言うと、台所から由美が顔を出した。
「おかえりなさい」
書斎の扉も開き、賢司が出てくる。
「おかえり」
二人とも、制服姿の空を見る。
「朝も見たでしょう」
「帰ってきたところは初めてだから」
由美が答えた。
「どうだった?」
「何がですか」
「学校」
「全部を一度に聞くと、空さんが困る」
賢司が言った。
「では、一つだけ。お昼は食べられた?」
「食べました」
「よかった」
「明日は食堂へ行きます」
「お弁当はいらない?」
「はい」
空は鞄を持ったまま、ダイニングテーブルへ入部届を置いた。
「美術部に入ろうと思います」
由美の顔が明るくなった。
「本当?」
「見学してから決めると言ったでしょう」
「楽しかったの?」
「まだ、楽しいかは分かりません」
「では、どうして?」
「もう一度行きたいと思ったから」
空は入部届を賢司の前へ差し出した。
「保護者欄に署名が必要です」
賢司は用紙を手に取った。
「活動日は?」
「基本は週三日です。展覧会前は増えます」
「帰宅時間は?」
「六時まで活動した場合は、七時前になります」
「学業との両立は?」
「賢司」
由美が止める。
「確認しているだけだよ」
「まだ入部届へ署名もしていないのに、面接みたいになってる」
賢司は口を閉じた。
空は二人の顔を見た。
「確認してもいいです」
「嫌ではない?」
「少し細かいと思います。でも、入るなと言われているわけではないので」
「入るかどうかは、空さんが決めることだ」
賢司が答えた。
「生活の時間が変わるから、それを三人で確認したい」
「分かりました」
空は椅子に座った。
「活動日は火曜、木曜、金曜です。アルバイトは、今月は休ませてもらっています。続ける場合は土日のどちらかにします。試験前は部活が休みになります」
「そこまで確認してきたの?」
「入るなら必要だと思ったので」
賢司は書類へ視線を落とした。
「では、僕から反対する理由はない」
「由美さんは?」
「私もないわ。空さんがやりたいなら、やってみてほしい」
「途中で辞めるかもしれません」
「それも空さんが決めればいい」
由美の返事は迷いがなかった。
賢司がペンを取る。
保護者氏名の欄へ、朝倉賢司と書いた。
その下に、続柄を書く小さな欄がある。
賢司の手が止まった。
「ここは、里親でいいね」
空へ確認する。
「はい」
賢司は「里親」と記入した。
父とは書かなかった。
空がそう呼ぶことを期待するような素振りも見せなかった。
完成した入部届には、二つの名字が並んでいた。
入部希望者、水瀬空。
保護者、朝倉賢司。
それで手続きは成立する。
「ありがとうございます」
空は用紙を受け取った。
「ところで、制服の写真は?」
賢司が尋ねた。
「学校から送ったでしょう」
「顔が写ってなかった」
「考えた結果です」
「そうか」
賢司は残念そうにしたが、撮り直してほしいとは言わなかった。
空は鞄からスマートフォンを取り出した。
「今なら、一枚だけ撮ってもいいです」
「本当?」
台所にいた由美が、すぐに戻ってくる。
「二人も一緒なら」
「私たちも?」
「嫌なら撮りません」
「撮る。すぐ撮るわ」
由美はエプロンを外そうとした。
「そのままでいいです」
「でも、初登校の写真でしょう」
「帰ってきたあとなので」
賢司は仕事用のシャツの袖をまくったままだった。由美のエプロンには、水が跳ねた跡がある。
三人はダイニングの壁の前へ並んだ。
空が中央へ立つ。
由美は肩を抱こうとして、手を途中で止めた。
「触ってもいい?」
「少しなら」
由美の手が、空の肩へ軽く置かれた。
反対側では、賢司が触れてよいのか分からず、腕を下ろしたまま立っている。
「賢司さんも、少しくらいなら」
「どこに?」
「肩しかないでしょう」
賢司は恐る恐る、空の肩へ手を置いた。
三人とも緊張していた。
由美が設定したタイマーの数字が減っていく。
「笑ったほうがいい?」
賢司が尋ねる。
「好きにしてください」
「空さんは?」
「今、考えています」
撮影音が鳴った。
三人は同時にスマートフォンを覗き込んだ。
由美はうれしそうに笑い、賢司は緊張して口元が引きつっている。中央の空は笑っていなかった。
けれど、朝に撮った写真より、目元が少しだけ柔らかかった。
「もう一枚撮る?」
由美が尋ねた。
「一枚でいいです」
「分かった」
「若葉ホームの長谷川さんへ送ってもいいですか」
空が聞くと、由美がうなずいた。
「もちろん」
「莉子にも送ります」
「空さんが送りたい人へ送って」
写真は空のスマートフォンにも転送された。
画面の中には、名字の違う三人が立っている。
空は長谷川と莉子へ送った。
莉子からは、すぐに返信が来た。
『賢司さん、顔かたい』
空は画面を賢司へ見せた。
「言われると思った」
「もう一枚撮りますか」
「一枚でいいんだろ」
「賢司さんが撮りたいなら」
「では、今度にする」
今度。
その言葉を聞いても、空は身構えなかった。
この家では、今日できなかったことを、別の日にしてもよいらしい。
*
夕食のあと、空は自分の部屋で、美術部の入部届を机へ置いた。
隣には、見学中に描いた鍵の絵がある。
完成していない。
金属の光も、影の濃さも、うまく表せなかった。それでも、捨てずに持ち帰った。
空は青い筆箱から鉛筆を取り出し、続きを描き始めた。
扉を軽く叩く音がする。
「はい」
「入っていい?」
賢司だった。
「どうぞ」
賢司は扉を開けたが、中へは入らなかった。
「明日の朝食だけど、由美がパンでいいか聞いてる」
「パンでいいです」
「種類は?」
「何がありますか」
「食パンと、昨日買った塩パン」
「塩パン」
「分かった」
賢司が立ち去ろうとする。
「賢司さん」
「何?」
「朝、由美さんが先生に私の代わりに答えました」
「聞いたよ」
「少し怒りました」
「それも聞いた」
「由美さん、落ち込んでいましたか」
賢司は少し考えた。
「落ち込んではいた。でも、空さんが悪いとは言ってない」
「そうですか」
「由美の機嫌を直すために、空さんが謝る必要はないよ」
「謝ろうと思ったわけではありません」
「うん」
「ただ、嫌なことを言っても、本当に大丈夫なのか確認しただけです」
賢司は扉の横に立ったまま、空を見た。
「大丈夫というのは、誰も傷つかないという意味ではないと思う」
「傷つくんですか」
「由美は傷ついたかもしれない。でも、自分が先に話したことはよくなかったと分かっている。空さんに嫌だったと言われなければ、次も同じことをしたかもしれない」
「では、言ってよかったんですか」
「よかったと思う」
「賢司さんにも言います」
「覚悟しておく」
「嫌ですか」
「できれば、優しく言ってほしい」
空は少し笑った。
「考えておきます」
「それで十分」
賢司が扉を閉める。
空は鍵の絵へ視線を戻した。
もう一度、影の線を重ねる。
大切なものは、なくすのが怖い。
だが、怖いから持たないという選び方だけが、自分を守る方法ではないのかもしれない。
窓の外には、海の見えない街の明かりが広がっている。
若葉ホームの部屋から見えた夜とは、音も色も違った。
空は鉛筆を置き、美術部の入部届を鞄へ入れた。
明日、自分で提出する。
朝倉家で暮らすと決めたときと同じように、誰かに入れと言われたからではない。続けなければ申し訳ないからでもない。
自分が、もう一度あの美術室へ行きたいと思った。
それだけで始めてよいことが、この先にはある。
*
翌朝、空は由美より先に台所へ入った。
冷蔵庫から塩パンを取り出し、オーブントースターへ入れる。
「おはよう」
由美が眠そうな顔で入ってきた。
「おはようございます」
「早いわね」
「塩パンを温めています」
「私の分も?」
「三つ入れました」
由美はトースターの中を覗いた。
「ありがとう」
「昨日のことですが」
空が言うと、由美の表情が少し硬くなった。
「先生に、私より先に答えたことです」
「うん。ごめんなさい」
「もう謝ってもらいました」
「そうね」
「私も、言い方が強かったかもしれません」
「でも、嫌だったんでしょう」
「嫌でした」
空は答えた。
由美は一度だけ目を伏せ、それから空を見た。
「では、そのままでいい。空さんが私を傷つけないように、嫌じゃなかったことにする必要はないから」
「傷つきましたか」
「少し。でも、空さんに怒ったわけじゃない。自分がまた先回りしたことに気づいて、恥ずかしかった」
「私も、自分の嫌なことを全部分かっているわけではありません」
「私も、空さんに何をしたら喜んでもらえて、何をしたら嫌がられるのか、まだ全部は分からない」
「ずっと分からないかもしれません」
「そうね。賢司のことも、いまだに分からないときがあるもの」
由美が笑った。
「十九年一緒にいるのに?」
「十九年一緒にいるから、分かったつもりになるの。それで、ときどき間違える」
トースターが音を立てた。
空は扉を開け、塩パンを皿へ移した。
灰青色の皿が空。黄色い皿が由美。青い縁取りの皿が賢司。
「熱いから気をつけてください」
「はい」
由美が答えた。
「空さん」
「何ですか」
「美術部、楽しんでね」
「まだ楽しいとは決まっていません」
「では、行ってらっしゃい」
「まだ家を出ません」
「練習」
「何のですか」
「空さんを送り出す練習」
空は黄色い皿へ塩パンを置いた。
「毎朝するんですか」
「嫌?」
「毎朝聞かないでください」
「分かった」
由美は笑い、皿を受け取った。
賢司が寝癖のついたまま台所へ入ってくる。
「おはよう」
「寝癖がついています」
空が言うと、賢司が頭へ手をやった。
「どこ?」
「後ろです」
「由美、直して」
「自分で直しなさい」
「見えないんだよ」
「鏡があります」
二人のやり取りを聞きながら、空は自分の塩パンを皿へ置いた。
三人分の朝が、同じ台所に並んでいく。
空はまだ、「ただいま」を自然には言えなかった。
二人を父や母とも呼べなかった。
それでも昨日は、自分で選んだ制服を着て、自分の名字で新しい教室へ入り、自分の意思で美術部への入部を決めた。
そして夕方になれば、自分の鍵でこの家の扉を開ける。
名前は変わらない。
変えなくても、新しい場所へ進むことはできる。
「行ってきます」
玄関を出るとき、空は二人へ言った。
「行ってらっしゃい」
二人の声が重なる。
空は一度だけ振り返り、扉を閉めた。
紺色の鞄の中には、朝倉賢司が里親として署名した入部届が入っている。
胸元には、自分で縫いつけた少し曲がった名札がある。
空はそれを直さず、新しい学校へ向かって歩き出した。




