第二十章 三人分の朝
空が朝倉家で暮らし始めて、二週間が過ぎた。
最初の一週間、空は毎朝五時半に起きた。
目覚まし時計が鳴る前に目を覚まし、ベッドを整える。着替えを済ませ、自分の部屋の床を小さな掃除機で掃く。それから洗面所へ行き、前日の夜に干しておいた洗濯物を畳んだ。
自分の制服と下着だけではない。
由美のブラウスも、賢司のシャツも、手に取ったものはすべて畳んだ。タオルは大きさを揃え、洗面所の棚へ戻す。ゴミ箱がいっぱいになっていれば袋を取り替え、台所に洗っていない食器が残っていれば片づけた。
六時を過ぎるころ、由美が寝室から出てくる。
「おはよう、空さん」
「おはようございます」
「また洗濯物を畳んだの?」
「乾いていたので」
「昨日は私がやると言ったでしょう」
「起きたら目に入ったので」
「朝からしなくてもいいのよ」
「十分もかかりません」
由美は困ったように笑い、エプロンを身につけた。
空は由美が冷蔵庫から野菜を取り出すのを見ながら、食器棚から三枚の皿を出した。
灰青色、黄色、青い縁取り。
「朝食は何ですか」
「鮭を焼こうと思ってるの。あとは味噌汁と、昨日の煮物」
「何か手伝います」
「大丈夫よ。学校の準備をしてきたら?」
「終わっています」
「では、座っていて」
由美の声は優しかった。
それでも、空には「台所にいなくていい」と言われたように聞こえた。
「分かりました」
皿を置き、ダイニングの椅子に座る。
由美は味噌汁の鍋を火にかけ、フライパンへ鮭を並べた。調理をしながら、空が何もすることなく座っているのを気にしているように、何度か振り返った。
空も由美の背中を見ていた。
自分が手を出すと、由美は休んでいてと言う。何もしなければ、働かせているようで落ち着かない。
若葉ホームでは、朝の仕事が決まっていた。
当番の日は食卓を拭き、食器を並べる。年下の子どもが寝坊したら声をかける。洗濯物は、それぞれが自分のものを片づける。
何をすればよいかが分かっていた。
朝倉家では、由美が先に動き、賢司は決まった時間まで寝室から出てこない。空に割り当てられた仕事は、まだ曖昧だった。
六時半になると、賢司が寝癖のついた髪のまま現れた。
「おはよう」
「おはようございます」
「早いね」
「毎日同じ時間です」
「そうだったね」
賢司はコーヒーメーカーの前へ立ち、空になった水の容器を見た。
「あれ、水が入ってない」
「昨日使ったあとに補充しなかったからでしょう」
「そうかもしれない」
「自分で入れてください」
「そのつもりだよ」
賢司が容器へ水を注ぐ。
由美が振り返った。
「賢司、空さんに何かさせようとしてないでしょうね」
「してないよ。独り言を言っただけ」
「聞こえるように言う独り言は、頼んでいるのと同じよ」
「そんなつもりじゃない」
「私が入れます」
空が立ち上がろうとすると、由美と賢司が同時に言った。
「座っていて」
空は腰を浮かせた姿勢で止まった。
二人が顔を見合わせる。
「僕がやるから」
賢司は自分で水を入れ、容器を戻した。
空は椅子へ座り直した。
朝食が始まっても、胸の中に小さな引っかかりが残っていた。
「今日も美術部?」
由美が尋ねる。
「今日はありません」
「帰りは何時ごろ?」
「図書室に寄るかもしれません」
「では、六時くらい?」
「まだ決めていません」
「夕食は?」
「食べます」
「何時になるか分かったら連絡してね」
「分かりました」
空は鮭の皮を箸で外した。
由美が焼いた鮭は、表面が少し焦げている。味噌汁には大根と油揚げが入っていた。若葉ホームの朝食より品数が多く、どれも温かい。
そのことが、かえって空を落ち着かなくさせた。
由美は空のために早く起きている。空の弁当を作り、朝食も以前より多く用意している。
賢司は電車の時刻を確認し、雨が降りそうな日には空へ知らせる。
二人が空のためにしていることは、目に見える。
空が二人のためにしていることは、ほとんどない。
「今日は、私が食器を洗います」
空が言った。
「時間は大丈夫?」
「まだ七時前です」
「では、お願いしようかな」
由美が答える。
空は食事を早く済ませ、三人分の食器を流しへ運んだ。
洗剤をつけたスポンジで皿を洗い、すすぎ、食器乾燥用の籠へ置く。由美が弁当箱を包んでいる間に、味噌汁の鍋も洗った。
「空さん、もう家を出る時間じゃない?」
賢司が腕時計を見る。
「まだ大丈夫です」
「いつもの電車まで、あと十五分だよ」
「駅まで十分です」
「エレベーターを待つ時間もある」
「走れば間に合います」
「走らなくていいから、もう出なさい」
由美が空の鞄を玄関へ運んだ。
「鍋がまだ終わっていません」
「帰ってから私が洗う」
「あと少しです」
「遅刻するでしょう」
「遅刻しません」
空は鍋をすすぎ、水を切った。布巾で流しの周りを拭いてから、急いで手を洗う。
玄関で靴を履いていると、賢司が言った。
「一本遅らせたほうがいい」
「間に合います」
「急ぐと危ないよ」
「行ってきます」
空は二人の返事を待たずに扉を開けた。
エレベーターが十九階へ着くまでに一分近くかかった。
建物を出たところで、駅へ向かって走った。
*
電車には間に合った。
ただし、教室へ着いたころには額に汗がにじみ、息も切れていた。
「朝から走ったの?」
真帆が振り返った。
「駅まで」
「寝坊?」
「食器を洗っていた」
「それで電車に遅れそうになったの?」
「間に合った」
「間に合ったならいいけど」
真帆は空の顔を見た。
「毎朝、家事してるの?」
「できることは」
「お弁当も自分で作ってる?」
「今日は由美さんが作った」
「それなら、朝ご飯の片づけくらい、あとで由美さんがするんじゃないの?」
「仕事があります」
「水瀬さんにも学校があるじゃん」
「学校と仕事は違う」
「何が違うの?」
空は答えられなかった。
真帆はそれ以上追及せず、前を向いた。
「うちなんて、朝は全員ばらばらだよ」
「ばらばら?」
「母は七時前に出るし、私は自分でパンを焼く。弟は寝坊して食べない。父はもう一緒に住んでないし」
真帆は教科書を机へ出しながら続けた。
「家族だからって、全員が毎朝きれいに食卓を囲んでるわけじゃないよ」
「朝倉家は、毎朝三人で食べます」
「すごいね」
「すごいことなの?」
「少なくともうちは無理」
真帆は笑った。
「でも、水瀬さんが朝から走らないと続かないなら、何か変えたほうがいいんじゃない?」
始業のチャイムが鳴った。
空は教科書を開いたが、一時間目の授業中も、真帆の言葉が頭に残った。
家族だから、毎朝そろって食卓を囲むわけではない。
朝倉家の朝が、一般的な家庭の朝なのか、由美と賢司が空のために作っている特別な時間なのか、空には分からない。
*
その日の昼休み、空が弁当箱を開けると、唐揚げの横に小さな紙が入っていた。
『朝は急がせてごめんなさい。帰りは走らないでね。由美』
真帆が紙を覗き込んだ。
「優しいね」
「見ないで」
「ごめん。見えたから」
空は紙を小さく畳み、弁当箱の蓋の裏へ挟んだ。
「怒られたと思ってるんじゃない?」
真帆が言った。
「怒ってません」
「でも、返事しないで出たんでしょ」
「時間がなかったから」
「そういうの、怒ってるって思われるよ」
「私が怒ったかどうかは、私が決めます」
「そのとおりだけど、相手には分からないじゃん」
真帆は焼きそばパンの袋を開けた。
「私は怒ってなくても、母に『その顔は怒ってる』って言われる。逆に、私が怒ってるのに『疲れてるだけでしょ』って決めつけられることもある」
「それは嫌じゃない?」
「嫌だよ。だから、怒ってるときは怒ってるって言うし、違うなら違うって言う」
空は箸を止めた。
「面倒ではないの?」
「面倒。でも、話さないと勝手に決められるほうがもっと面倒」
空は弁当箱に入っていた卵焼きを食べた。
今日は甘い卵焼きだった。
賢司の好きな味にしたのだろう。
昨日、由美は空の好みに合わせる日もあれば、賢司の好みに合わせる日もあると言った。
口に入れた瞬間は少し甘すぎると思った。
それでも、食べられないほどではない。
空は紙の裏側へ、小さく書いた。
『怒っていません。食器洗いを途中でやめたくなかっただけです。卵焼きは少し甘いです』
帰宅したら、由美へ渡そうと思った。
*
放課後、空は図書室へ寄った。
大学案内の棚から、美術系の学部について書かれた本を取り出す。デザイン、建築、映像、工芸。同じように絵を使う分野でも、学ぶ内容は大きく違っていた。
空はページをめくりながら、授業料の欄へ目が止まった。
入学金、年間授業料、実習費、画材費。
数字を追ううちに、息が詰まった。
朝倉夫妻は、大学へ行きたいなら考えればよいと言った。費用についても一緒に検討すると言った。
それでも、金額を見ると、自分のためにこれだけの負担を求めてよいとは思えなかった。
案内を閉じようとしたとき、井上が図書室へ入ってきた。
「進路の資料を見ているの?」
「少しだけです」
「美術部はどう?」
「入部届を出しました」
「そう。篠原さんから聞いたわ」
井上は空の向かいへ座った。
「何か気になることがある?」
「学費です」
「美術系は、実習費や材料費も必要になるわね」
「高いです」
「そうね」
井上は簡単に否定しなかった。
「奨学金や授業料の減免制度もあるし、公立の大学もある。今すぐ決めなくていいけれど、費用を理由に最初から諦める必要もないわ」
「誰かに払ってもらうことには変わりません」
「朝倉さんたちに?」
空は黙った。
「相談することと、すべて負担してもらうことは別よ。水瀬さんがどこまで自分で負担したいのか、どんな支援を使えるのか、進学後にアルバイトができるのか。いくつか方法を並べてから考えればいい」
「朝倉さんたちは、払うと言うと思います」
「それが嫌なの?」
「分かりません」
空は正直に答えた。
「払ってほしくないわけではありません。でも、そこまでしてもらったら、何を返せばいいのか分からないです」
「返さなければならないと言われたの?」
「言われていません」
「では、それは水瀬さん自身が考えていることね」
「はい」
井上は大学案内を空のほうへ戻した。
「朝倉さんたちがどう考えているか、聞いてみてもいいかもしれない。でも、今はこの資料を持って帰るだけでもいいと思う」
「借りてもいいんですか」
「貸し出しの手続きをすれば」
空は迷ったあと、本を借りることにした。
鞄が少し重くなった。
重くなった分だけ、自分が新しい選択肢を持ち帰るように感じた。
*
空が朝倉家へ戻ったのは、午後六時を少し過ぎたころだった。
「帰りました」
「おかえりなさい」
由美はまだ帰宅していなかった。
返事をしたのは賢司だった。仕事用のシャツから部屋着へ着替え、台所で米を研いでいる。
「今日は早いですね」
「家でできる仕事に切り替えたんだ」
「由美さんは?」
「打ち合わせが延びて、七時半くらいになるらしい」
「夕食は?」
「僕が作る」
空は台所を覗いた。
まな板の上には長葱と豆腐があり、流しにはまだ封を切っていない鶏肉のパックが置かれていた。
「何を作るんですか」
「麻婆豆腐」
「鶏肉で?」
「間違えた。これは明日の分」
「本当に作れますか」
「箱に作り方が書いてある」
「箱?」
「市販の素を使う」
「それなら作れると思います」
「信用が少し戻ったね」
空は鞄を部屋へ置き、制服から部屋着へ着替えた。
台所へ戻ると、賢司が長葱を切っている。幅が揃っておらず、太いものと細いものが混じっていた。
「代わります」
「大丈夫」
「時間がかかります」
「今日は僕が作る当番だから」
「決まっていたんですか」
「さっき決めた」
賢司は包丁を動かしながら言った。
「由美から連絡が来て、僕が作ると言った」
「私が作ってもよかったです」
「学校へ行って、図書室にも寄ってきたんだろ」
「料理くらいできます」
「できるかどうかの話じゃない」
朝、由美にも同じことを言われた。
空は食器棚から皿を出した。
「では、配膳はします」
「助かる」
空は三人分の皿と箸を並べた。
冷蔵庫から麦茶を出し、グラスへ注ぐ。賢司が麻婆豆腐を作る様子を見ていると、豆腐を混ぜすぎて形が崩れ始めた。
「混ぜすぎです」
「箱には、よく混ぜると書いてある」
「豆腐を入れる前だと思います」
賢司が箱の裏を確認した。
「本当だ」
「代わりますか」
「最後までやる」
「豆腐がなくなります」
「味は変わらない」
「見た目が変わります」
「家で食べるんだから、いいだろ」
空は笑いそうになった。
「由美さんが見たら驚きます」
「空さんが説明して」
「賢司さんが作ったと、そのまま言います」
「それでいい」
完成した麻婆豆腐は、豆腐の形がほとんど残っていなかった。
賢司が味見をし、首を傾げる。
「少し薄いな」
「素を入れたのに?」
「豆腐が多かったのかもしれない」
空も小皿へ少し取り、味を確認した。
「薄いです」
「何を足せばいい?」
「味噌か醤油だと思います」
「どちら?」
「分かりません」
二人で考えていると、玄関の扉が開いた。
「ただいま」
由美の声がした。
「おかえり」
賢司が答える。
空は台所から玄関の方向を見た。
言葉が出かかったが、一瞬遅れた。
「帰りました?」
由美がダイニングへ入ってくる。
「私が帰ってきたのよ」
「分かっています」
「では、おかえりって言ってくれてもいいでしょう」
「今、言おうとしました」
「ごめん。待てばよかった」
由美は鞄を椅子へ置き、台所を見た。
「二人で作ってくれたの?」
「主に僕が作った」
賢司が言う。
「私は皿を出しただけです」
「麻婆豆腐?」
「元は」
「元?」
由美は鍋を覗き込んだ。
「豆腐はどこ?」
「混ぜたら崩れた」
「どうやったら全部崩れるの?」
「味は悪くない」
「薄いです」
空が言うと、賢司が不満そうに見る。
「さっきは少し薄いと言っただろ」
「由美さんには正しく伝えたほうがいいです」
由美が笑った。
「では、味噌を少し足してみましょうか」
三人で味を調整し、崩れた麻婆豆腐を食卓へ運んだ。
「おいしい」
由美が一口食べて言った。
「本当に?」
賢司が尋ねる。
「味はおいしい。見た目は、麻婆豆腐ではないけど」
「空さんと同じことを言うな」
「本当のことでしょう」
賢司は自分でも食べ、うなずいた。
「次はうまく作る」
「次も作るんですか」
空が尋ねる。
「今日のままでは終われない」
「では、来週もお願いします」
「空さんも手伝って」
「今日、断ったでしょう」
「次は混ぜすぎる前に止めてほしい」
「それは手伝うというより、見張りです」
三人の笑い声が食卓に重なった。
食後、空はすぐに立ち上がり、皿を集めた。
「今日は僕が洗う」
賢司が言った。
「作った人は休んでください」
「空さんは朝も洗っただろ」
「朝は朝です」
「では、私が洗うわ」
由美が袖をまくる。
「由美さんは仕事から帰ったばかりです」
「空さんも学校から帰ってきたばかりでしょう」
「私は図書室に寄っただけです」
「図書室で何をしていたの?」
「大学のことを少し調べました」
由美の表情が変わった。
「大学?」
「まだ決めていません」
「どんなところを見たの?」
「美術やデザインを学べる学部です」
「資料は?」
「借りてきました」
「あとで一緒に見てもいい?」
空は食器を持ったまま、由美を見た。
「私が先に読みます」
「もちろん。見せたくなったらでいい」
「はい」
「それで、食器は僕が洗う」
賢司が空の手から皿を受け取った。
「二人とも、私に何もさせないつもりですか」
「そんなことは言ってない」
「朝は由美さんが食事を作って、賢司さんが天気や電車を確認する。夜も二人で食事と片づけをする。私は食べて学校へ行くだけです」
「美術部にも行くでしょう」
「それは自分のためです」
「学校も自分のためでいいのよ」
由美が言った。
「この家のために大学へ行くわけではないでしょう」
「だから、家では何かしないと」
空の声が大きくなった。
由美も賢司も黙った。
「何もしないで、全部してもらうのは嫌です」
「何もしなくていいとは言っていないよ」
賢司が静かに答えた。
「でも、空さんは朝、家事をして電車へ乗るために走った。今も、僕たちが仕事から帰ったからといって、自分が片づけようとしている」
「できるからしています」
「空さんができることを、全部空さんがしなければならないわけじゃない」
「では、何をすればいいんですか」
空は食器をテーブルへ戻した。
「決めてください」
賢司と由美が顔を見合わせた。
「家事の分担を決めたいということ?」
由美が尋ねる。
「そうです。やることが分からないから、毎回聞くことになります。聞けば休んでいてと言われます」
「休んでいてと言われるのが嫌だった?」
「ここにいても何もするなと言われているみたいです」
「そんな意味で言ったんじゃないわ」
「分かっています。でも、そう聞こえるときがあります」
由美の顔が曇った。
空は視線を落とした。
また傷つけたと思った。
それでも、今度は言葉を取り消さなかった。
「ごめんなさい」
由美が言った。
「空さんを休ませたかった。でも、何も任せないことで、この家の外に置いていたのかもしれない」
「由美が謝ることではないよ。僕も同じだった」
賢司は食器を流しへ置き、仕事用の鞄からノートを取り出した。
「一度、三人の家事を全部書き出そう」
「今から?」
由美が尋ねる。
「忘れないうちに」
「表を作るんですか」
空が言う。
「嫌?」
「賢司さんらしいと思っただけです」
三人はダイニングテーブルへ座り直した。
賢司がノートの中央に縦線を引き、「毎日」「週一回」「必要なとき」と書いた。
「食事の準備、食器洗い、洗濯、風呂掃除、ゴミ出し、買い物」
「トイレットペーパーや洗剤の補充もあるわ」
由美が言う。
「冷蔵庫の中の確認も」
「家計の管理は?」
「それは僕がする」
「空さんの学校関係の書類は、本人が中心。必要なものだけ私たちに見せる」
由美が付け加えた。
「郵便物を取りに行くのもあります」
空が言う。
「植木の水やりも」
「掃除機、床拭き、シーツの交換」
書き出していくと、家の中には、空が思っていた以上に多くの仕事があった。
賢司が腕を組む。
「今まで、由美がかなり多くしていたな」
「今、気づいたの?」
「気づいてはいた」
「書き出すまで何も変えなかったでしょう」
「ごめん」
賢司は素直に謝った。
「僕の担当を増やす」
「私もします」
空が言った。
三人は分担について話し合った。
食器洗いは、食事を作らなかった二人のどちらかがする。洗濯は各自でできるものは各自で行い、タオルやシーツなど共用のものは週ごとに担当を替える。ゴミ出しは賢司。風呂掃除は空と賢司が交代する。買い物は、必要なものを共有の一覧へ書き込み、行ける人が行く。
空は毎朝の食卓の準備を担当したいと言った。
「毎朝で大丈夫?」
由美が尋ねる。
「皿と箸を出すだけならできます」
「遅く起きた日は?」
「その日は、起きている人がします」
「必ずやらなければいけない仕事にはしない、ということね」
「はい」
「部活で遅くなった日は、夕食後の食器洗いをしなくていい」
賢司が言った。
「どうしてですか」
「帰宅して食事をすると、宿題をする時間が遅くなる」
「部活は私がしたくてしています」
「それでも、睡眠時間を削って家事をする必要はない」
「でも――」
「空さん」
由美が遮った。
「分担は、空さんがここに住むための条件ではないの」
「分かっています」
「本当に?」
空は返事ができなかった。
由美は空の目を見た。
「空さんが家事をしなかった日があっても、ここから出ていってほしいとは思わない。テストの前に洗濯物がたまっても、美術部で疲れて食器を洗えなくても、それで一緒に暮らす理由がなくなるわけじゃない」
「でも、何もしない日が続いたら?」
「そのときは、三人で話す」
賢司が答えた。
「由美や僕が何もしない日が続いても、同じように話す」
「出ていけとは言わないんですか」
「言わない」
「絶対に?」
空は聞いた。
賢司はすぐには答えなかった。
「危険なことがあったり、誰かがひどく傷つけられたりしたら、相沢さんたちを交えて暮らし方を考え直すことはある。でも、食器を洗わなかったとか、洗濯物を畳まなかったという理由で追い出すことはない」
空が求めていたのは、何があっても大丈夫という根拠のない約束ではなかった。
賢司の答えには条件があった。
それでも、その条件は空の働き方や役立ち方とは関係がなかった。
「分かりました」
空はうなずいた。
「一か月、これでやってみます」
「また見直す?」
「不便なところが出ると思います」
「空さんまで表が好きになってきた」
由美が笑う。
「表が好きなのではなく、分からないままなのが嫌なんです」
「賢司と同じね」
「違います」
「即答しなくてもいいだろ」
賢司が不満そうに言った。
冷蔵庫に貼られた生活確認表の隣に、家事分担表が加わった。
空の名前は、由美と賢司の間に同じ大きさで書かれていた。
*
その夜、空は大学案内を机に広げた。
美術系大学のページには、絵の具で汚れた作業着を着た学生たちが写っている。大きな机、パソコンが並ぶ教室、立体作品を作るための工房。
施設にいたころ、空が知らなかった場所だった。
大学という言葉は知っていた。けれど、そこにある教室や授業、学生たちの生活を、自分の進路として考えたことはなかった。
扉を叩く音がする。
「はい」
「由美です。入っていい?」
「どうぞ」
由美は湯気の立つマグカップを二つ持っていた。
「牛乳を温めたの。蜂蜜は少しだけ」
「ありがとうございます」
由美は机の大学案内を見たが、すぐには近づかなかった。
「見てもいい?」
「はい」
空は本を由美のほうへ向けた。
由美が隣の椅子へ座る。
「いろいろあるのね。絵画、彫刻、工芸、映像、建築、広告デザイン」
「私は、何がしたいのか分かりません」
「分からないから見るんでしょう」
「学費が高いです」
「そうね」
由美は金額を見ても、簡単に大丈夫とは言わなかった。
「大学によって違うし、使える支援も調べないといけないわね」
「二人が払うんですか」
「まだ決める段階ではないと思う」
「私が行きたいと言ったら?」
「まず、空さんが何を学びたいのか聞く。学校や相沢さんとも相談して、奨学金や支援制度を調べる。そのうえで、私たちにできることを考える」
「全部払うとは言わないんですか」
「今、簡単に言うほうが無責任でしょう」
由美は温めた牛乳を一口飲んだ。
「ただ、お金を理由に、空さんが調べることまで諦める必要はないと思ってる」
「払ってもらったら、返さないといけないと思います」
「お金を?」
「それだけではありません」
空はマグカップを両手で包んだ。
「大学へ行かせてもらって、部活もさせてもらって、ここに住ませてもらう。全部してもらったら、二人の期待どおりにならないといけない気がします」
「私たちの期待どおりって?」
「大学を卒業して、きちんと就職して、問題を起こさないことです」
「それは空さんの考え?」
「普通は、そうしてほしいと思うでしょう」
「就職できたら安心するとは思う。でも、私の望む会社に入ってほしいとは思わない」
「途中で大学を辞めたら?」
「理由を聞く」
「成績が悪かったら?」
「一緒に困る」
「二人が嫌うような仕事を選んだら?」
「何を選ぶかによるわね」
由美は少し笑った。
「危険な仕事や、誰かを傷つける仕事なら反対するかもしれない。でも、私たちの好みと違うだけなら、空さんが決めること」
「そんなに分けられますか」
「分けられないときもあると思う」
由美は正直に答えた。
「私は口を出しすぎることがあるし、空さんの選択を見守ると言いながら、自分の安心できる方向へ動かそうとするかもしれない」
「もうしています」
「少しは遠慮して」
「嫌なことは言っていいと決めました」
「そうだったわね」
由美は苦笑した。
「では、私が口を出しすぎたら言って。すぐにやめられなくても、話し直すから」
「大学へ行くかどうかも、まだ分かりません」
「今は、それでいい」
空は案内のページをめくった。
話しているうちに、胸を塞いでいた数字が少しだけ遠くなった。
「由美さん」
「何?」
「朝、食事を作るのは大変ですか」
「どうして急に?」
「家事の話をしたから」
由美は少し考えた。
「三人分になって、以前より時間はかかってる。空さんのお弁当もあるし」
「では、朝食を減らしてください」
「減らす?」
「鮭と味噌汁と煮物と卵焼きを、毎朝全部作らなくてもいいです」
「でも、朝はきちんと食べたほうが」
「パンだけの日があってもいいと言いました」
「そうね」
「私が来てから、由美さんは毎朝早く起きています」
「気づいてたの?」
「分かります」
「空さんにちゃんとした朝食を食べさせなければと思ってた」
「どうして?」
「どうしてかしら」
由美は窓の外へ目を向けた。
「空さんと暮らし始めたら、きちんと世話をしなければと思ったのかもしれない。朝食を作って、お弁当を持たせて、帰ってきたら夕食を用意して」
「しないと、誰かに怒られるんですか」
「怒られないわ」
「では、誰のためですか」
「空さんのためだと思ってた」
「私は毎朝、旅館みたいな朝食でなくても大丈夫です」
「そうね」
由美は笑った。
「もしかすると、自分がちゃんとした里親だと思いたかったのかもしれない」
空は由美を見た。
「ちゃんとした里親とは、毎朝鮭を焼く人ですか」
「違うでしょうね」
「たぶん、違います」
「では、明日はパンにする?」
「塩パンがありますか」
「一つだけ残ってる」
「三人で分けられません」
「食パンもあるわ」
「では、私は塩パン。二人は食パン」
「公平じゃないわね」
「明日は私が食べたいです」
由美が声を上げて笑った。
「分かった。空さんが塩パン」
「明後日は、ほかの人が好きなものにしてください」
「そうしましょう」
由美が部屋を出たあと、空は大学案内を閉じなかった。
返さなければならないものを数えるのではなく、今は、何があるのかを知る。
そのくらいなら、自分にもできる気がした。
*
翌朝、空が台所へ行くと、由美はまだ起きていなかった。
時計は六時十分を示している。
いつもなら、味噌汁の匂いがしている時間だった。
空は食器棚から三枚の皿を出した。自分の灰青色の皿へ塩パンを置き、黄色と青い縁取りの皿へ食パンを一枚ずつ置く。
冷蔵庫から牛乳を出し、三つのグラスへ注いだ。
コーヒーメーカーの水も確認する。
六時二十分になって、由美が台所へ入ってきた。
「寝坊した」
髪が少し乱れている。
「まだ間に合います」
「パン、出してくれたの?」
「私の担当です」
「ありがとう」
由美は椅子へ座り、眠そうに目をこすった。
「昨日、遅くまで起きていましたか」
「少し仕事をしてた」
「では、今日はお弁当を作らなくていいです」
「でも」
「食堂へ行きます」
「昨日も食堂だったでしょう」
「今日も行きたいです」
「本当に?」
「本当です」
由美はしばらく空を見たあと、うなずいた。
「分かった。今日はお願いする」
賢司も寝室から出てきた。
「おはよう」
「おはようございます」
「今日はパン?」
「はい」
「僕の食パン、少し焦げてない?」
青い縁取りの皿には、端の黒くなった食パンが載っていた。
「一番焦げたものを賢司さんにしました」
「どうして?」
「三人分を同時に焼いたら、奥の一枚だけ焦げました」
「それで僕?」
「由美さんは寝不足です。私は塩パンを選びました」
「消去法か」
「嫌なら、私の塩パンと交換しますか」
空が尋ねると、賢司は焦げた食パンを持ち上げた。
「これでいい」
「無理しなくてもいいです」
「焦げたところを少し削れば食べられる」
賢司がスプーンでパンの表面を削ると、黒い粉が皿へ落ちた。
「散らかさないで」
由美が言う。
「あとで拭くよ」
「賢司さんの担当です」
空が家事分担表を指した。
「食卓の準備は空さんだけど、片づけは僕か」
「今日は由美さんが食事を作っていないので、二人でします」
「パンを焼いただけでも食事を作ったことになる?」
「決めていませんでした」
「では、今決める?」
賢司が聞く。
「朝から表を増やさないで」
由美が笑った。
三人は、それぞれ違うパンを食べた。
豪華な朝食ではない。味噌汁も焼き魚もなく、賢司の食パンは少し焦げている。由美はまだ眠そうで、空のリボンも昨日ほどきれいに結べていなかった。
「空さん、リボンが曲がってる」
由美が気づいた。
「分かっています」
「直す?」
空は胸元へ手を当てた。
「今日は、このままで行きます」
「そう」
由美はそれ以上手を伸ばさなかった。
空は塩パンを食べ終え、牛乳を飲んだ。
三人の朝は、まだ形が決まっていない。
誰が先に起きるのか。何を食べるのか。誰が皿を出し、誰が洗うのか。話したい日と、話したくない日をどう見分けるのか。
そのすべてを、最初からうまく決めることはできない。
「今日、美術部です」
空が言った。
「帰りは七時ごろ?」
賢司が尋ねる。
「はい。遅れる場合は連絡します」
「夕食は食べる?」
由美が聞く。
「食べます」
「何がいい?」
空は少し考えた。
「魚以外がいいです」
「魚、嫌だった?」
「嫌ではありません。でも、今週は三回食べました」
「そうだったわね。では、豚肉の生姜焼きにする?」
「はい」
「付け合わせはキャベツでいい?」
「それは由美さんが決めてください」
「何でもいい、ではなく?」
「キャベツでも、ほかのものでもいいです」
「分かった」
由美がうなずいた。
空は立ち上がり、自分の皿とグラスを流しへ運んだ。
「今日は洗わなくていいよ」
賢司が言う。
「分かっています」
「本当に?」
「自分の皿を運んだだけです」
「そうか」
「賢司さんは、毎回確認しすぎです」
「気をつける」
玄関で靴を履き、鞄を肩へ掛ける。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
由美と賢司の声が重なった。
空は扉を開けた。
廊下へ出る直前に振り返る。
「由美さん」
「何?」
「明日も、パンでいいです」
「明日は味噌汁を作りたい」
「では、味噌汁とパンですか」
「合わない?」
「私は構いません」
「僕はご飯がいい」
賢司が口を挟む。
「では、ご飯を炊く?」
「朝から三人とも別のものを食べるんですか」
空が尋ねると、由美が笑った。
「それでもいいんじゃない?」
空も少し笑った。
「では、帰ってから決めましょう」
「うん。行ってらっしゃい」
「行ってきます」
扉を閉め、エレベーターへ向かう。
背後に残した家では、由美が食器を重ね、賢司が焦げたパンの粉を拭いているはずだった。
三人分の朝は、三人が同じものを食べ、同じ時間に笑うことではない。
それぞれの一日へ向かう前に、違う希望を持った三人が同じ食卓へ座ることだった。
その朝、空は駅まで走らなかった。




