第二十一章 部室の窓
五月に入ると、美術室の窓から見える木々の色が一段濃くなった。
校庭の端に並ぶ欅は、新しい葉を幾重にも広げている。風が吹くたびに枝先が揺れ、その隙間から白い校舎と住宅街の屋根が見えた。
空は窓際の席に画板を立て、鉛筆を動かしていた。
今日の課題は、「窓の向こうに見えるもの」だった。
顧問の大崎は、それ以上の指示を出さなかった。見えたとおりに描いてもよいし、窓枠だけを描いてもよい。窓ガラスに映った部室の中を描いても構わないと言った。
空は画用紙の中央に窓枠を描き、その向こうへ校庭を入れた。
けれど、鉛筆を動かすうちに、海辺の町の景色が頭に浮かんだ。
若葉ホームの二階からは、屋根と電線の向こうに、細い海が見えた。朝は灰色で、昼は青く、風の強い日には白い波が立った。
朝倉家の窓から見えるのは、海ではない。
高層マンションの十九階から、建物の屋上や道路を走る車が見える。夜には無数の窓に明かりがつき、それぞれの部屋に知らない暮らしがあることを知らせる。
美術室の窓から見えるのは、そのどちらとも違った。
「水瀬、手が止まってる」
隣から真帆が覗き込んだ。
「考えてる」
「何を?」
「海を描くか、ここを描くか」
「課題は部室の窓から見えるものだよ」
「分かってる」
「大崎先生、たぶん海を描いても怒らないけど」
真帆は自分の画用紙を空へ向けた。
窓の外には何も描かれておらず、ガラスに映る部員たちの姿だけが薄い線で描かれている。
「外を描いてない」
「窓に映ってる中を描いてる」
「難しくない?」
「難しい。水瀬の鍵よりは簡単かと思ったけど、全然簡単じゃなかった」
真帆は以前、空が描いた鍵の絵を覚えていた。
あの絵は完成後、美術室の壁に貼られている。銀色の鍵と紺色のキーホルダー。その下には濃い影が描かれていた。
「鍵の絵、家の人に見せた?」
「見せた」
「何て言われた?」
「由美さんは、光の描き方が好きだって。賢司さんは、鍵の先が少し曲がって見えるって」
「賢司さん、細かいね」
「私も同じことを思って、描き直した」
「水瀬も同じじゃん」
「私は描いた本人だからいいの」
真帆が笑った。
「そうやって話してると、賢司さんと似てるよね」
「似てない」
「即答するところも似てる」
「どこが?」
「ほら、そこ」
空は何か言い返そうとしたが、真帆が楽しそうに笑っているため、やめた。
以前なら、似ていると言われること自体を嫌だと思ったかもしれない。
今も、うれしいとは思わない。
ただ、強く否定するほどでもなくなっていた。
「空、真帆」
部長の篠原千紘が、二人の机へ近づいてきた。
「今度の日曜日の美術館、参加する?」
美術部では月に一度、希望者で美術館や展示会へ行く。今月は、都内の美術館で開かれている近代絵画の企画展を見に行く予定だった。
「私は行く」
真帆が答える。
「水瀬も行こうよ」
空は机の上の案内用紙を見た。
入館料は高校生料金で千円。交通費と昼食代を合わせれば、三千円近くかかる。
「まだ決めてない」
「何か予定ある?」
「ないけど」
「興味ない?」
「行ったことがないから、分からない」
篠原が少し驚いた顔をした。
「美術館そのものに?」
「はい」
「では、一度行ってみるといいよ。静かに見てもいいし、分からなかったら分からないでいいから」
「絵の説明をしないといけませんか」
「誰に?」
「見たあとの感想とか」
「部活で話すことはあるけど、正解を答えるわけじゃない。私は眠くなった絵の話もするよ」
「部長なのに?」
真帆が笑う。
「部長でも眠くなるものは眠くなる」
篠原は案内用紙を空の前へ置いた。
「参加したくなったら、明日までに言って。お金は当日でいいから」
「分かりました」
篠原が離れると、真帆が空の顔を見た。
「行きたいんでしょ」
「どうして?」
「案内、三回読んでる」
「確認してるだけ」
「賢司さんみたい」
「もう、その話は終わり」
「じゃあ、行こうよ。昼は安いところを探すし、交通費も学割でそんなにかからないよ」
「お金のことだけじゃない」
「ほかに何かある?」
空は答えなかった。
休日に友達と出かける。
そのために朝倉夫妻へ予定を伝え、交通費や入館料を使う。
施設にいたころも、学校行事や職員が付き添う外出はあった。だが、同じ部活の友達と待ち合わせをして、自分の意思で美術館へ行ったことはない。
行ってよいのかと尋ねること自体が、空には難しかった。
「家で聞いてから決める」
「許可が必要なの?」
「予定は伝えないと」
「そういうことか」
真帆はそれ以上勧めなかった。
空は窓の外へ目を戻した。
窓枠の向こうへ、見えている校庭を描く。その隅に、記憶にある海の色を少しだけ重ねてみた。
*
その日の夕方、空が朝倉家へ戻ると、由美は台所で筍を切っていた。
「帰りました」
「おかえりなさい。今日は早かったのね」
「美術部は五時で終わりました」
空は玄関で靴を脱ぎ、緑色のスリッパへ履き替えた。
「賢司さんは?」
「まだ仕事。八時前になるって」
「夕食は筍ですか」
「職場の人からもらったの。鶏肉と煮ようと思って」
空は台所へ入り、鍋の中を覗いた。
「大きいですね」
「少し多すぎるかしら」
「明日も食べればいいです」
「明後日も残るかもしれない」
「では、明日は筍ご飯にしたら?」
由美が包丁を止めた。
「それ、いいわね」
「若葉ホームでは、煮物の次の日に筍ご飯にしていました」
「味つけは?」
「長谷川さんが作っていたから、詳しくは分かりません」
「では、明日、長谷川さんに聞いてみる?」
「そこまでしなくても、調べれば出てきます」
「空さんの知っている味にしたいと思って」
空は由美の横顔を見た。
以前なら、その言葉を重いと感じたかもしれない。自分のために由美が何かを変えようとすると、同じだけ何かを返さなければならない気がした。
しかし、由美はただ明日の献立を考えているだけだった。
「長谷川さんの味は、少し甘いです」
「空さん、甘い卵焼きは嫌なのに、筍ご飯は甘くてもいいの?」
「同じ甘さではありません」
「難しいわね」
「食べれば分かります」
「では、電話で聞いてみようかな」
「由美さんが?」
「空さんが聞いてくれる?」
「どちらでもいいけど……私が聞きます」
空はスマートフォンを取り出しかけ、思い出したように鞄を開けた。
「日曜日、美術部で美術館へ行くそうです」
「そうなの?」
由美の声が明るくなった。
「まだ行くとは言ってません」
「行きたくないの?」
「行ったことがないから、分かりません」
「行ってみたい?」
空は少し考えた。
「少し」
由美はすぐに「行っておいで」とは言わなかった。
「誰と行くの?」
「美術部の人たち。大崎先生も来ます。九時半に学校の最寄り駅へ集合して、夕方には解散します」
「費用は?」
「入館料と交通費と昼食で、三千円くらいです」
「持っている?」
「あります」
「自分のお小遣いから出すつもり?」
「遊びに行くんだから、それが普通でしょう」
「部活動の一環なら、学校関係の費用として考えてもいいんじゃない?」
「でも、希望者だけです」
由美は筍を鍋へ入れ、火を弱めた。
「賢司が帰ったら、三人で話す?」
「三千円のことで?」
「金額ではなくて、これからも部活で出かけることがあるでしょう。画材も必要になるかもしれないし、どこまで学校関係の費用にするのか決めておいたほうが、空さんも毎回悩まなくて済むと思う」
「賢司さんに言うと、また表を作りませんか」
「作るかも」
「美術館一回で?」
「表を作るのが趣味みたいな人だから」
空は思わず笑った。
「本人には言わないでください」
「もう知ってるわよ」
「自覚があるんですか」
「たぶんね」
由美は味見用の小皿に煮汁を取り、空へ差し出した。
「どう?」
空は少し冷ましてから口にした。
「薄いです」
「まだ煮てないもの」
「では、どうして聞いたんですか」
「今の段階の味を見てほしかったの」
「今は薄いです」
「正直すぎる」
「濃くなってから、また呼んでください」
空は鞄を持って自分の部屋へ向かった。
廊下を歩きながら、由美が台所で笑っている声が聞こえた。
*
賢司が帰宅したのは、午後七時四十分だった。
「ただいま」
「おかえり」
由美が答える。
ダイニングで宿題をしていた空も、顔を上げた。
「おかえりなさい」
以前は、賢司が帰ってきても、自分の部屋から出なかった。わざわざ玄関まで迎える必要はないと思っていた。
今も毎回迎えるわけではない。
それでも、同じ部屋にいるときは自然に返事が出るようになった。
「いい匂いがする」
賢司が台所を覗いた。
「筍と鶏肉の煮物」
「筍、苦手だった?」
空が尋ねた。
「好きだよ。どうして?」
「前に、食べるのが遅かったから」
「硬いところがあったんだ」
「今日は柔らかいです」
「空さんが確認したの?」
「二回呼ばれました」
「一回目は薄いと言われた」
由美が皿を運びながら言った。
「煮る前だったから」
「空さんに聞くのが早すぎたんだよ」
「賢司まで言わないで」
三人が食卓につく。
空は由美の作った煮物を食べた。先ほどより味が染みている。
「今度は?」
由美が聞く。
「おいしいです」
「本当?」
「本当。少しだけ、長谷川さんの味に似ています」
「よかった」
「明日の筍ご飯の作り方も聞きました」
「長谷川さん、元気だった?」
「はい。芽衣が電話の横で大きな声を出していました」
「空さんに代わってほしかったの?」
「そうみたいです。今度の日曜日に来るのか聞かれました」
「日曜日は美術館でしょう」
由美の言葉に、賢司が箸を止めた。
「美術館?」
「美術部の希望者で行くんだって」
「私はまだ行くと決めてません」
「行きたいんでしょう?」
「少し」
空が答えると、賢司はうなずいた。
「予定が分かっているなら、行ってくればいい」
「費用のことを決めたいの」
由美が言った。
「費用?」
「入館料と交通費と昼食代。今回は三千円くらいだけど、これから画材や展覧会の費用も必要になるでしょう。どこまで私たちが出して、どこから空さんのお小遣いにするか」
賢司は少し考えた。
「学校や部活動で必要なものは、生活や教育に必要な費用として僕たちが負担する。友達との個人的な買い物や、予定にない飲食は空さんのお小遣い。基本はそれでいいんじゃないかな」
「美術館は?」
「部活動で行くなら、入館料と交通費は僕たち。昼食代は、普段の昼食と同じ金額まで僕たちが出す。それを超えた分は空さん」
「細かいですね」
空が言う。
「決めてほしいと言ったのは由美だよ」
「空さんが毎回悩まないように、大まかな決め方がほしかったの。十円単位まで決めなくてもいいでしょう」
「では、昼食代として千円」
「それで足ります」
空は煮物の筍を箸で割った。
「入館料は、自分で出してもいいです」
「どうして?」
「自分が行きたいから」
「空さん」
賢司が箸を置いた。
「僕たちは、学校へ行く交通費や教科書代を空さんに返してもらおうとは思っていない。部活の活動費も同じように考えてる」
「でも、美術館は行かなくても困りません」
「行かなくても困らないことを、全部自分で負担しなければいけないなら、部活動そのものが難しくなるだろう」
「私はアルバイトもできます」
「アルバイトをすることには反対しない。でも、部活を続けるために働きすぎるのは違うと思う」
「働きすぎるとは決まってません」
「決まってない。だから、空さんがどうしたいか聞きたい」
賢司の言葉は以前と同じように慎重だったが、尋ね方は少し変わっていた。
正しさを説明するのではなく、空の答えを待っている。
「自分の好きなものを、全部二人に買ってもらうのは嫌です」
空は言った。
「うん」
「でも、必要な画材まで全部自分で買うのも難しいです」
「では、必要なものと、空さんが特別にほしいものを分ける?」
由美が提案した。
「学校や部活から指定されたものは私たち。色やメーカーにこだわって選びたいものは、その差額を空さんが出すとか」
「差額が分からないときは?」
「一緒に調べよう」
「私が一人で買いに行ってもいいですか」
「もちろん」
由美はすぐに答えた。
「買ったものを全部見せなくても?」
「レシートは、家計の記録に必要だから見せてほしい。でも、買った理由まで一つずつ説明しなくてもいい」
賢司が言う。
「それならいいです」
「美術館は?」
「行きます」
空は答えた。
由美がうれしそうに笑う。
「楽しんできてね」
「まだ楽しいとは決まってません」
「少し楽しみなんでしょう?」
空は箸で筍をつまんだ。
「少しだけ」
今度は、由美の笑顔を見ても言わなければよかったとは思わなかった。
*
日曜日の朝、空は七時に目を覚ました。
待ち合わせは九時半だったが、何を着ていけばよいか決まらず、前の晩に二度服を出し直していた。
制服ではない。
部活動の友達と休日に出かけるための服だった。
白いシャツと紺色のパンツをベッドの上へ並べる。いつもと変わらない組み合わせに見えた。
もう一組は、淡い青色のブラウスと黒いスカートだった。ブラウスは、以前由美と買い物へ行ったとき、空自身が選んだものだ。
どちらもおかしくはない。
けれど、どちらが美術館へ行く服なのか分からなかった。
扉を二回叩く音がする。
「空さん、起きてる?」
由美だった。
「起きています」
「朝ご飯、どうする? 今食べる?」
「少し待ってください」
「分かった」
由美の足音が遠ざかる。
空はもう一度、二組の服を見た。
自分で決めるつもりだった。だが、選択肢を前にして時間だけが過ぎていく。
空は廊下へ出た。
「由美さん」
台所から由美が顔を出した。
「何?」
「服を見てもらってもいいですか」
「いいの?」
「決めてもらうのではなく、どちらが変ではないか聞くだけです」
「分かった。意見だけ言う」
由美は手を拭き、空の部屋へ入った。
ベッドに並べられた服を見比べる。
「どちらも変じゃないわ。白いシャツのほうは普段の空さんらしい。青いブラウスは、少しだけ大人っぽい」
「美術館は大人っぽいほうですか」
「美術館だから、きれいな服を着なければいけないわけじゃないわよ。歩く時間が長いなら、楽なほうがいいと思う」
「では、白いシャツ?」
「空さんは青いほうを着たいんじゃない?」
「どうして分かるんですか」
「青いブラウスだけ、皺がないから。昨日、アイロンをかけたでしょう」
空はブラウスを見た。
「気づきませんでした」
「では、青いほうにしたら?」
「靴はスニーカーでも変ではないですか」
「全然変じゃない」
「本当に?」
「本当。心配なら、私の服も毎朝見てもらおうかしら」
「由美さんの服は分かりません」
「私も空さんの服に、正解を出してるわけじゃないのよ」
由美は白いシャツを畳み始めた。
「これは畳んでもいい?」
「お願いします」
空は青いブラウスを手に取った。
「由美さん」
「何?」
「聞いてよかったです」
由美の手が少し止まった。
「そう言ってもらえると、うれしい」
「でも、毎回は聞きません」
「分かってる」
「由美さんが勝手に選ぶのも嫌です」
「それも分かってる」
「なら、いいです」
空は少し笑った。
由美も笑い、白いシャツを箪笥へ戻した。
*
美術館の最寄り駅には、篠原、真帆、菜月を含む八人の部員が集まった。顧問の大崎もいる。
「水瀬、その服いいね」
真帆が言った。
「変ではない?」
「全然。いつも制服だから、新鮮」
「真帆はいつもと同じ」
「私の私服を一度しか見てないのに、いつもって言わないで」
真帆は大きなトートバッグを肩へ掛けていた。中にはスケッチブックと飲み物が入っているという。
「スケッチブック、持ってきた?」
「持ってきた」
「館内で使えるところと使えないところがあるから、大崎先生に聞いたほうがいいよ」
「分かった」
空は集団の少し後ろを歩いた。
同じ学校の生徒たちなのに、制服を着ていないと別の人のように見える。篠原は黒い帽子をかぶり、菜月は小さな花のついた髪留めをしていた。
真帆が空の隣へ下がってくる。
「緊張してる?」
「少し」
「美術館で?」
「休日に、こうやって出かけることに」
「友達と?」
「友達かどうかは、まだ分からない」
真帆が足を止めた。
「私たち、友達じゃなかったの?」
「違うとは言ってない」
「じゃあ、何?」
「同じクラスで、同じ部活の人」
「それを友達って言うんじゃない?」
「全部の人を?」
「全部ではないけど」
「なら、何が違うの?」
真帆はしばらく考えた。
「休日に一緒に美術館へ来て、服を褒めて、昼ご飯も一緒に食べるなら、私は友達だと思ってる」
「そうなの?」
「水瀬は違う?」
空は前を歩く部員たちを見た。
菜月が篠原の帽子を借り、鏡代わりにスマートフォンの画面を見ている。二人の笑い声が聞こえた。
「まだ、よく分からない」
「では、今日考えて」
「友達になるかどうかを?」
「そう。帰るまでに答えて」
「決め方が簡単すぎない?」
「水瀬が難しくしすぎなの」
真帆は笑い、ほかの部員たちのところへ走っていった。
空も少し速く歩き、列へ追いついた。
美術館の入口には、開館を待つ人の列ができていた。
空は高校生料金の入館券を自分で受け取った。支払った金は、朝に由美から渡された封筒に入っていた。
封筒の表には、「美術部・美術館」とだけ書かれていた。
頑張って、楽しんで、勉強してきて。
そうした言葉は書かれていなかった。
空はそのことに、少し安心していた。
*
展示室に入ると、外の音が急に遠くなった。
白い壁に、大きな絵が一枚ずつ掛けられている。
海を描いた絵、女性の横顔、果物の置かれた食卓、雨の街。教科書で見たことのある画家の作品もあった。
空は最初、説明文を一つずつ読んだ。
制作年、技法、所蔵先。書かれている内容を理解してからでなければ、絵を見たことにならない気がした。
「水瀬、まだ三枚目?」
真帆が戻ってきた。
「読んでる」
「全部読んでたら閉館するよ」
「でも、知らないまま見るのは」
「先に見て、気になったら読めば?」
「真帆は読まないの?」
「読んだり読まなかったり」
「それでいいの?」
「誰にも怒られないよ」
真帆は隣の絵へ移った。
空は説明文から顔を上げた。
海辺に二人の人物が立っている絵だった。
一人は遠くを見ている。もう一人は、少し後ろからその人物を見ていた。二人の間には距離があるが、同じ方向へ影が伸びている。
空は説明を読まず、絵だけを見た。
なぜ二人は並ばないのか。
何を見ているのか。
一緒に来たのか、偶然そこにいるだけなのか。
答えはどこにも書かれていない。
それでも、しばらく見ていたいと思った。
空はスケッチブックを開き、作品名と、二人の立つ位置だけを簡単に描き留めた。
「気に入った?」
大崎が声をかけた。
「分かりません」
「長く見ていたね」
「何をしている二人なのか、気になりました」
「説明には何て?」
「まだ読んでいません」
大崎は笑った。
「それなら、先に自分で考えてみるといい」
「正解はあるんですか」
「作者の意図はあるかもしれない。でも、空がどう見たかまで間違いになるわけじゃないよ」
大崎は別の生徒のところへ歩いていった。
空はスケッチブックへ、もう一つ影を描き足した。
説明を読まなくてもよい。正解を答えなくてもよい。
美術館は、知識のある人だけが来る場所ではなかった。
好きかどうか分からないまま、一枚の絵の前に立ってもよい場所だった。
*
昼食は、美術館近くの小さなカフェで取った。
空はメニューの中から、一番安いサンドイッチと紅茶の組み合わせを選んだ。
「足りる?」
真帆が尋ねる。
「大丈夫」
「私のポテト食べる?」
「真帆が食べたいでしょう」
「多いから、一緒に食べようよ」
真帆は返事を待たず、皿を二人の間へ置いた。
空は一本だけ取った。
「一本だけ?」
「まず一本」
「遠慮しすぎ」
「食べすぎると、夕食が入らなくなる」
「まだ十二時だよ」
菜月が向かいから笑った。
「水瀬さん、帰ってからの夕食まで考えてるの?」
「由美さんが作るから」
「連絡すればいいじゃん」
「食べると伝えてる」
「なら、少し残して帰れば?」
「作ってもらったものを?」
「食べられるだけ食べればいいでしょ」
空は紅茶のカップを持った。
「菜月の家は、夕食を残しても何も言われないの?」
「お腹がいっぱいなら、先に言う。母は『もっと早く言って』って怒るけど、無理に食べろとは言わない」
「うちは父が全部食べるよ」
真帆が言った。
「残ったおかずを次の日に取っておいても、夜中に食べる」
「今は一緒に住んでないんでしょう」
「前の話。今は弟が食べる」
「誰かが食べるなら、無駄にはならないね」
「水瀬のところも賢司さんが食べるんじゃない?」
「食べるかもしれない」
空はもう一本、ポテトを取った。
「それより、展示で何がよかった?」
篠原が全員へ尋ねた。
部員たちはそれぞれ、気になった作品について話し始めた。
色がきれいだった。人物の顔が怖かった。よく分からなかった。大きすぎて首が疲れた。
感想はばらばらだった。
眠くなったと正直に言う者もいた。
空の番になる。
「海辺に二人が立っている絵です」
「あの暗い色の?」
篠原が聞く。
「はい」
「どこがよかった?」
空は少し考えた。
「二人が離れているのに、同じ方向へ影が伸びていたところ」
「寂しい絵だったよね」
菜月が言う。
「私は、寂しいとは思わなかった」
「そうなの?」
「離れていても、一緒にいるように見えたから」
口にしたあと、空は自分の言葉が恥ずかしくなった。
だが、誰も笑わなかった。
「もう一回見てみようかな」
真帆が言う。
「私は寂しい絵だと思ったけど、水瀬の話を聞いたら違って見えるかも」
空は紅茶を飲んだ。
自分の感じたことを話しても、正解を求められない。
誰かの見方と違っていても、訂正されない。
それは、空がこれまで知らなかった会話だった。
*
午後の展示を見終えたあと、部員たちは館内の売店へ寄った。
絵葉書、図録、しおり、色鉛筆、額に入った複製画。棚には多くの商品が並んでいた。
空は午前中に見た海辺の絵の前で足を止めた。
その作品の絵葉書が、一枚百五十円で売られている。
財布を開く。
由美から渡された昼食代の残りと、自分の小遣いが入っていた。
入館料と交通費は朝倉夫妻が出した。昼食は千円以内で収まった。
絵葉書は、学校や部活動に必要なものではない。
自分がほしいだけだ。
空は小遣いから百五十円を出した。
「それ買うの?」
真帆が横から尋ねた。
「うん」
「気に入ったんじゃん」
「まだ、よく分からない」
「分からない絵の葉書を買うの?」
「部屋で見たら、分かるかもしれない」
「分からないままかもしれないよ」
「それでもいい」
空は絵葉書を受け取った。
店の袋は断り、スケッチブックの間へ挟む。
自分のためだけに買ったものだった。
実用品ではない。誰かへの土産でもない。
ただ、もう一度見たいと思ったから買った。
百五十円の絵葉書が、鞄の中で不思議な重みを持った。
*
夕方、駅で部員たちと別れた。
「水瀬」
真帆が改札へ入る前に呼び止めた。
「朝の答えは?」
「朝?」
「私たちが友達かどうか」
空は忘れていた。
「今日中に決めるの?」
「帰るまでにって言った」
「勝手に決めた期限でしょう」
「でも、考えた?」
「少し」
「それで?」
真帆が待っている。
空は目をそらした。
「友達でいいと思う」
「いいと思うって何?」
「友達です」
「最初からそう言えばいいのに」
真帆が笑う。
「じゃあ、また明日ね、空」
初めて名前で呼ばれた。
空は一瞬、返事が遅れた。
「また明日、真帆」
呼び返すと、真帆がうれしそうに手を振った。
電車へ乗る前に、空は朝倉家の連絡用グループを開いた。
『今、美術館を出ました。予定どおり帰ります』
少し考え、もう一行書き加える。
『面白かったです』
送信してから、言いすぎたような気がした。
すぐに由美から返事が来る。
『よかった。気をつけて帰ってきてね』
賢司からは、しばらくして届いた。
『了解。どの絵がよかったか、聞いてもいいですか』
空は画面を見ながら笑った。
『帰ってから話します』
返事を送る。
話したいことがあると、自分から伝えたのは初めてだった。
*
朝倉家の扉を開けると、台所から筍ご飯の匂いがした。
「ただい――」
口から出かかった言葉が止まる。
「帰りました」
空は言い直した。
台所にいた由美が顔を出す。
「おかえりなさい」
書斎から賢司も出てきた。
「おかえり。美術館、どうだった?」
「玄関で全部聞くんですか」
「帰ってから話すと書いてあったから」
「着替えてからにしてください」
「分かった」
賢司は素直に書斎へ戻った。
空が自分の部屋で着替え、ダイニングへ行くと、二人は食卓で待っていた。
「夕食はまだですか」
「空さんが帰ってからにしようと思って」
由美が答える。
「先に食べてもよかったのに」
「私たちも、まだお腹が空いてなかったから」
「賢司さんは、さっき冷蔵庫を二回開けてたけど」
「由美、それは言わなくてもいいだろ」
「空さん、待っていたと思うでしょう。食べるものを探していただけよ」
「同じじゃないですか」
空は笑い、鞄からスケッチブックを取り出した。
「美術館で見た絵です」
簡単に描き留めた海辺の二人を、テーブルへ広げる。
由美と賢司が身を乗り出した。
「二人が海を見ているの?」
由美が尋ねる。
「たぶん」
「たぶん?」
「本当は何を見ていたのか分かりません」
「少し離れて立ってるね」
賢司が言う。
「真帆は寂しい絵だと言いました。でも、私は違うと思いました」
「どう違ったの?」
「二人の影が、同じ方向へ伸びていました」
由美はしばらくスケッチを見た。
「空さんには、一緒にいるように見えたのね」
「はい」
「実物を見てみたいな」
「絵葉書があります」
空は鞄から買った絵葉書を取り出した。
「買ったの?」
「百五十円でした。これは自分のお小遣いからです」
「そこまで説明しなくても大丈夫よ」
「でも、聞くかと思って」
「何を買ったかは聞きたいけど、百五十円の使い道を責めたりしない」
由美は絵葉書を受け取り、照明の下で見た。
「きれいね」
「暗い絵ですよ」
「暗い色だけど、きれいだと思う」
「賢司さんは?」
空が自分から尋ねると、賢司は絵葉書を受け取った。
「僕は、後ろに立っている人が気になる」
「どうして?」
「前の人を見ているようにも、海を見ているようにも見えるから」
「そうですね」
「作者は、何と説明していたの?」
「読みませんでした」
空が答えると、賢司が目を丸くした。
「読まなかったの?」
「先に自分で見てもいいと言われました」
「空さんが、説明を読まないで帰ってきたのは意外だな」
「全部読んでいたら、閉館するって真帆に言われました」
「真帆さん?」
「同じクラスで、美術部の友達です」
友達という言葉が、以前より自然に出た。
由美はそのことに気づいたようだったが、大げさには反応しなかった。
「その子とお昼を食べたの?」
「部員のみんなで食べました。真帆のポテトも少しもらいました」
「楽しかった?」
由美が聞く。
「はい」
今度は、「少し」と付け加えなかった。
「楽しかったです」
「そう」
由美が笑う。
賢司も、絵葉書を見たまま口元を緩めていた。
「二人とも、その顔をやめてください」
空が言った。
「どんな顔?」
「私が楽しかったと言っただけで、安心した顔」
「安心はしたよ」
賢司が答える。
「新しい学校で、無理をしていないか気になっていたから」
「無理はしています」
二人の表情がすぐに引き締まった。
空は続けた。
「敬語をやめるのが難しいし、人の名前を覚えるのも大変です。美術部でも、何を話せばいいか分からないときがあります」
「うん」
「でも、行きたくないわけではありません」
由美は急いで励まさず、空の言葉を待った。
「明日も行きます。部室の窓から見えるものを描いている途中だから」
「何が見えるの?」
「校庭と、住宅街です。でも、海も少し描こうと思っています」
「ここからは見えないのに?」
賢司が尋ねる。
「見えなくても、知っているから」
空は絵葉書を自分の前へ戻した。
「若葉ホームの窓から見えた海と、この街の屋根を、同じ窓の中に入れます」
「完成したら、見せてもらえる?」
由美が聞く。
「うまく描けたら」
「うまく描けなくても見たい」
「それは嫌です」
「では、空さんが見せてもいいと思ったら」
「はい」
会話がそこで終わっても、空は落ち着かなかった。
まだ話したいことが残っている。
「それから、売店に画材がありました」
空は続けた。
「色鉛筆が一本ずつ売られていて、同じ青でも十種類くらいありました。海の色だけでも、緑に近いものと、灰色に近いものがあって」
「買ったの?」
「今日は買ってません。学校で使ってみてから決めます」
「今度、画材店にも行ってみる?」
由美が言った。
空は少し考えた。
「一緒に来ますか」
「空さんがいいなら」
「由美さんが何でも買おうとしないなら」
「気をつける」
「本当に?」
「必要なものと、見て楽しむだけのものを分ける」
「では、今度一緒に行きましょう」
由美はうれしそうにしたが、すぐに立ち上がった。
「筍ご飯が冷める前に食べましょうか」
食卓には、筍ご飯、豆腐の味噌汁、焼き魚、ほうれん草のお浸しが並んだ。
「若葉ホームの味に近い?」
由美が筍ご飯をよそいながら尋ねる。
空は一口食べた。
長谷川が作るものより、少し醤油の味が濃い。
「少し違います」
「どこが?」
「こっちのほうが、味が濃いです」
「失敗?」
「失敗ではありません」
空はもう一口食べた。
「これは、由美さんの味です」
「それでいい?」
「はい。おいしいです」
由美は笑い、自分の茶碗へ筍ご飯をよそった。
「僕の味はないの?」
賢司が言う。
「崩れた麻婆豆腐があります」
空が答える。
「あれを僕の味にするのはやめてほしい」
「次に成功したら変えます」
「次は成功するよ」
「私が見張ります」
「約束したね」
「手伝うとは言ってません。見張るだけです」
由美が声を上げて笑った。
空も笑った。
以前なら、二人が笑っている間、どのような顔をすればよいか考えていた。
今は、考える前に声が出た。
*
夕食後、空は若葉ホームへ電話をかけた。
長谷川と少し話したあと、莉子に代わってもらう。
『美術館、どうだった?』
「楽しかった」
空が答えると、電話の向こうが静かになった。
『今、空が楽しかったって言った?』
「言ったけど」
『珍しい』
「何が?」
『前なら、別に普通とか、よく分からないとか言ってたじゃん』
「分からない絵もあったよ」
『でも楽しかったんでしょ』
「うん」
『そっか』
莉子の声が少しだけ遠くなった。
空は自分ばかり新しい場所へ進んでいるような後ろめたさを覚えた。
「莉子も、今度一緒に行く?」
『美術館?』
「うん。高校生は千円だった。分からなくても、全部説明を読まなくていいって」
『私、絵とか分かんない』
「私も分からなかった」
『それで楽しいの?』
「分からないまま見ていてもいいから」
莉子は少し考えた。
『じゃあ、夏休みに行こうかな』
「長谷川さんたちと相談してみて」
『空も来る?』
「行く」
『朝倉さんたちも?』
「まだ聞いてない」
『三人で来たら目立ちそう』
「賢司さんは、たぶん説明文を全部読む」
『空と同じじゃん』
「私は途中でやめたから」
『少し変わったね』
莉子が言った。
空はすぐに否定できなかった。
「そうかもしれない」
『朝倉さんたちとうまくいってる?』
「うまくいかないこともある」
『喧嘩した?』
「まだ大きな喧嘩はしてない。由美さんが先生に私の代わりに話して、少し怒った」
『それで?』
「謝ってくれた。今は、私が答えるまで待ってる」
『空も怒れるようになったんだ』
「前から怒ることはあったよ」
『心の中だけでしょ』
「そうだったかも」
『次は賢司さんにも怒ってみて』
「どうして?」
『どんな顔するか見たい』
「怒ることを探さないで」
空は笑った。
電話を終え、廊下へ出る。
由美と賢司が食卓で、日曜日の写真を見ていた。美術館の入口で、部員全員が並んだ写真だった。
「それ、どこから?」
空が尋ねる。
「空さんが連絡用グループに送ったでしょう」
由美が答える。
「集合時間の確認用に送っただけです」
「見てもいいと思って」
「保存しましたか」
「まだしてない。保存してもいい?」
空は画面を覗いた。
写真の中の自分は、真帆と菜月の間に立っている。肩は少し硬いが、朝倉家の玄関で撮った初登校の写真より、自然な顔をしていた。
「いいです」
「ありがとう」
「由美さん」
「何?」
「私の写真ばかり集めて、どうするんですか」
「見たいときに見るの」
「毎日見ていますか」
「毎日ではないわよ」
賢司が横から言った。
「今週は三回くらい見てた」
「賢司、余計なことを言わないで」
「三回なら、ほとんど毎日です」
空が言うと、由美はスマートフォンを伏せた。
「嫌だった?」
「嫌ではないけど、少し恥ずかしいです」
「では、空さんの前では見ないようにする」
「そういう問題ではありません」
空は二人の向かいへ座った。
「若葉ホームのみんなの写真も、今度一緒に見ますか」
由美が顔を上げた。
「見せてくれるの?」
「見せていないものがたくさんあります」
「見たい」
賢司もうなずいた。
「僕も」
「では、今度」
空はそう言い、テーブルの上に置かれた絵葉書を見た。
海辺に立つ二人の影は、離れた場所から同じ方向へ伸びている。
そこにもう一人加わったら、影はどこへ伸びるのだろう。
空は考えたが、答えを急がなかった。
*
翌日の放課後、空は美術室の窓際へ座った。
描きかけの画用紙を画板へ留める。
窓の向こうには、昨日までと同じ校庭がある。欅の葉が揺れ、その向こうに住宅街の屋根が続いている。
空は薄い青色の絵の具を作り、遠くの空へ塗った。
真帆が隣へ座る。
「海、描くことにしたんだ」
「少しだけ」
「どこに?」
「屋根の向こう」
「本当は見えないよ」
「知ってる」
「では、これは水瀬にしか見えない海?」
空は筆を止め、画用紙を見た。
「今は、そうかもしれない」
「完成したら、私にも見える?」
「たぶん」
「楽しみにしてる」
真帆は自分の画板を立てた。
窓ガラスへ映る部員たちの姿が、前回より濃い線で描かれている。
「真帆の絵にも、私がいる」
「同じ場所にいるからね」
「勝手に描いていいの?」
「嫌?」
「顔が分からないなら、いい」
「では、少し横を向いて」
「今?」
「今」
空は窓の外へ顔を向けた。
真帆が鉛筆を動かす音がする。
校庭の向こうに、実際には見えない海を重ねる。海の手前には、若葉ホームの屋根に似た低い建物を描いた。その隣へ、朝倉家から見える高い建物の輪郭を加える。
どちらかを消す必要はなかった。
以前暮らしていた場所と、今暮らしている場所。
莉子や芽衣たちと過ごした時間と、由美や賢司と囲む食卓。
離れた景色でも、一枚の窓の中に描くことはできる。
「空」
真帆が呼んだ。
「何?」
「笑ってる」
「笑ってない」
「少し笑ってた」
「絵を描いてるだけ」
「そういうことにしておく」
空は言い返さず、筆へ青い絵の具を取った。
部室の窓は開いていた。
五月の風が入り、画用紙の端を揺らす。
空は左手で紙を押さえ、見えない海の続きを描いた。




