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『血の通わぬ糸』  作者: 久遠 睦


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第二十二章 帰らない夜

午後七時を過ぎても、空は帰ってこなかった。

 ダイニングテーブルには、三人分の夕食が並んでいる。

 鶏肉と野菜のトマト煮、温める前のパン、豆のサラダ。由美は鍋の蓋を開け、弱火で温め直した。湯気が立ち始めると火を止める。それを、すでに二度繰り返していた。

「七時半になるって連絡が来てるだろ」

 賢司はそう言いながら、スマートフォンの画面を確認した。

 空から届いた最後のメッセージは、午後六時十二分だった。

『雨で電車が止まっています。美術部のみんなと駅で待っています。七時半ごろになると思います』

 由美は食卓の椅子へ座った。

「分かってる。でも、もう七時二十分よ」

「まだ予定の時間を過ぎてない」

「賢司のほうが気にしてるでしょう。さっきから何回、画面を見てるの?」

「仕事の連絡も来てるんだ」

「空さんの連絡用グループを開いてたわよ」

 賢司はスマートフォンを伏せた。

「七時半までは待とう」

「そうね」

 二人は食事へ手をつけず、時計の秒針が進む音を聞いていた。

 七時半になった。

 玄関の向こうで、エレベーターが止まる音がする。

 由美が顔を上げた。

 足音は朝倉家の前を通り過ぎ、隣の部屋の扉が開いた。

「一度、電話してみる」

 賢司は空の番号へ電話をかけた。

 何度か呼び出し音が続いたあと、留守番電話へ切り替わる。

『賢司です。今どこにいますか。メッセージを見たら連絡してください』

 電話を切り、連絡用グループへも同じ内容を送った。

「電車の運行状況は?」

 由美が尋ねる。

「まだ一部が止まってる。空さんが使う路線は、運転を再開したらしい」

「何時に?」

「七時十分」

「では、もう電車に乗ってるのかしら」

「混雑している可能性もある」

 賢司は鉄道会社の案内を更新した。

 運転再開後も、電車には遅れが出ている。駅の入場規制をしているという情報もあった。

「夕食、先に食べる?」

 由美が聞いた。

「もう少し待とう」

「冷めるわよ」

「また温めればいい」

 賢司は立ち上がり、窓の外を見た。

 雨粒がガラスを細い線となって流れている。眼下の道路には赤いテールランプが連なっていた。

 空が初めて一人で朝倉家の鍵を使った日、賢司は自分でも驚くほど安心した。

 家の扉を開けられること。それだけで、空が戻る場所を持ったように思えた。

 だが、鍵を渡すことと、必ず帰ってくることは違う。

 空は、自分の意思で外へ出ていける。

 帰る時間を変えることも、この家へ戻らないこともできる。

 そんな当たり前のことを、賢司は今になって突きつけられていた。

「八時になったら、もう一度電話する」

「うん」

 由美は鍋の火を止めた。

     *

 午後八時になっても、空からの連絡はなかった。

 賢司はもう一度電話をかけた。

 今度は呼び出し音も鳴らず、すぐに留守番電話へ切り替わった。

「電源が切れてる」

「充電がなくなったのかしら」

「朝は充電したと言ってた」

「一日使えば減るでしょう」

「空さんは、学校でそんなに使わない」

「今日は電車の運行情報を見たり、みんなと連絡を取ったりしたんじゃない?」

「だからこそ、なくなる前に知らせるべきだ」

 賢司の声が硬くなった。

 由美は答えず、自分のスマートフォンを手に取った。

「学校へ電話する?」

「もう職員室は閉まってるかもしれない」

「緊急連絡先は?」

 賢司は冷蔵庫に貼ってある生活確認表を見た。

 空が予定より一時間以上遅れ、連絡が取れない場合には、学校や必要な場所へ確認する。

 三人で決めた手順だった。

「美術部の顧問の連絡先は、学校を通さないと分からない」

「学校へかけてみましょう」

 賢司は学校の代表番号へ電話した。

 しばらく呼び出し音が続き、警備員が応答した。事情を説明すると、残っていた教員へつないでくれた。

 数分後、美術部の顧問である大崎から折り返しの電話があった。

『今日は雨で交通機関が乱れたため、部活動は五時半に切り上げました。駅まで部員たちと一緒だったことは確認しています』

「駅で解散したんですか」

『電車が止まっていたので、駅近くの商業施設で待つよう伝えました。私は六時半ごろまで一緒にいましたが、鉄道が動き始めたため、七時前に解散しました』

「そのあと、空さんが誰と一緒だったか分かりますか」

『高橋さんと森川さんが同じ方向だったと思います』

「二人の家へ連絡できますか」

『学校から確認します。少しお待ちください』

 電話が切れた。

 由美が唇を結んでいる。

「七時前に駅を出たなら、もう帰っていてもおかしくないわ」

「途中で電車が止まったのかもしれない」

「それなら、別の人の電話を借りられるでしょう」

「僕もそう思う」

 賢司は部屋の中を歩き始めた。

 玄関からダイニングへ。ダイニングから窓際へ。何度も同じ場所を往復する。

「座ったら?」

「座っても何も変わらない」

「歩いても変わらないわ」

「分かってる」

 賢司は足を止めた。

 空の部屋の扉が、廊下の奥に見える。

 朝、空は制服を着て、その部屋から出てきた。

『今日は部活のあと、駅前で画材を見ます。帰りは七時です』

 そう言っていた。

 由美が「傘は?」と尋ねると、空は鞄から折り畳み傘を見せた。賢司が充電を確認すると、空は「昨日しました」と少し面倒そうに答えた。

 いつもと変わらない朝だった。

 それが、ひどく遠い時間に感じられた。

 午後八時二十分、大崎から連絡が来た。

『高橋さんのお宅と連絡が取れました。水瀬さんは高橋さん、森川さんと一緒に電車へ乗ったそうです。ただ、途中の駅で再び運転を見合わせたため、三人で降りたと聞いています』

「どの駅ですか」

 賢司は駅名を聞き、すぐに地図を開いた。

 朝倉家から電車で四駅離れた場所だった。

『高橋さんはご家族が車で迎えに行き、森川さんも一緒に乗せて帰ったそうです。水瀬さんにも送ると声をかけたそうですが、電車が動きそうだから大丈夫だと断ったと』

「何時ごろですか」

『七時半ごろです』

「そのとき、空さんのスマートフォンは?」

『充電がほとんどなかったようです。高橋さんが電話を貸そうとしたそうですが、ご自宅の番号を覚えていないと言っていたそうです』

 賢司は目を閉じた。

 空は一人で、知らない駅に残った。

『大崎です。申し訳ありません。私が解散後まで確認すべきでした』

「先生の責任ではありません。ありがとうございます」

 電話を切る。

「迎えに行く」

 賢司は車の鍵を取った。

「私も行く」

「由美は家にいて。空さんが帰ってくるかもしれない」

「でも」

「入れ違いになったら困る」

 由美は一瞬迷い、うなずいた。

「見つけたら、すぐ連絡して」

「分かった」

 賢司は傘を手に取り、玄関を出た。

     *

 雨は先ほどより強くなっていた。

 賢司は車を運転しながら、何度も同じ考えを繰り返した。

 電車が止まっただけだ。

 駅にいる。

 空は道が分からなければ人に尋ねられる。旅先で初めて会ったときも、由美たちへ道を説明できた。判断力のない子ではない。

 それでも、胸の奥に浮かぶ最悪の場面を止められなかった。

 事故。転倒。知らない人に連れていかれる。雨の中で動けなくなっている。

 空の両親について、空自身は何も知らない。

 いつ、どのような理由で離れたのか。なぜ迎えに来なかったのか。空には確かな記憶がない。

 賢司は、その空に「必ず帰る」と約束させたことはなかった。家族と呼ばなくてよいとも、いつか出ていってよいとも伝えた。

 それなのに、帰ってこない可能性を前にすると、理性が失われていく。

 赤信号で止まるたび、空へ電話をかけた。

 つながらない。

 駅へ着くと、ロータリーには迎えの車が列を作っていた。傘を差した人々が次々と改札から出てくる。

 賢司は駅員へ空の服装や年齢を伝えた。

「そのような方について、保護の連絡は入っていません」

「駅の中を捜してもいいですか」

「改札内に入るには入場券が必要です。遺失物や体調不良についても確認します」

 賢司は入場券を買い、ホームへ向かった。

 ベンチ、待合室、階段の下。人の少ない場所まで捜す。

 空はいない。

 由美から電話が来た。

『賢司、空さんから連絡は?』

「ない。駅にもいない」

『今、電車が動き始めたみたい。もしかすると乗ったのかも』

「家へ帰ったら連絡して」

『分かってる。気をつけて戻って』

 賢司はもう一度ホームを見回し、車へ戻った。

 時計は午後九時四十分を示していた。

     *

 午後十時九分。

 玄関の鍵が回った。

 由美はダイニングの椅子から立ち上がった。

 扉が開き、濡れた制服姿の空が入ってくる。前髪が額へ張りつき、靴下の先まで濡れていた。

「空さん」

 由美は駆け寄った。

「ごめんなさい。遅くなりました」

「けがは?」

「ありません」

「どこにいたの?」

「電車がまた止まって、途中からバスに乗りました。道が混んでいて――」

 空が話している途中で、由美はその肩へ手を伸ばした。

 抱き締めようとしたが、空がわずかに身を引いたため、手を止める。

「賢司が捜しに行ってるの。どうして連絡しなかったの?」

「スマートフォンの充電がなくなりました」

「誰かに借りられなかった?」

「家の番号を覚えていませんでした」

「連絡用のグループを開けば、番号が分かったでしょう」

「電源が切れていたから、開けません」

「でも、公衆電話から学校へ連絡するとか、方法はあったでしょう」

 由美の声が震えていた。

「本当に、どれだけ心配したと思ってるの」

 空の顔から表情が消えた。

「先に遅れると送りました」

「七時半って書いてあったでしょう。もう十時よ」

「電車とバスが遅れました」

「それでも連絡は必要でしょう」

「分かっています」

「だったら、最初にきちんと謝って」

「由美さん」

 空の声が低くなった。

「今、謝りました」

「そういう言い方ではなくて――」

 由美は言葉を止めた。

 玄関の扉が開き、賢司が入ってきた。

「空さん?」

 濡れた靴を脱ぐことも忘れ、賢司は空を見た。

「帰ってたのか」

「今、帰りました」

「どこにいたんだ」

「途中の駅からバスに乗りました」

「なぜ連絡しなかった!」

 賢司の声が玄関に響いた。

 空の肩が大きく揺れた。

 由美も息を止める。

「スマートフォンの充電がなくなったからです」

「友達の電話を借りればよかっただろ」

「番号を知りませんでした」

「学校へ連絡することはできた。駅員に事情を話すこともできた。何か方法はあったはずだ」

「すぐに帰れると思いました」

「三時間も遅れているんだぞ!」

「電車が止まったのは、私のせいではありません」

「そんなことを言ってるんじゃない!」

 賢司は傘を玄関の床へ置いた。

 雨水が細い流れとなって広がる。

「僕たちは学校へ連絡して、先生や友達の家にも確認した。あの駅まで捜しに行ったんだ。どうして自分だけで大丈夫だと決めるんだ」

「一人で帰ってこられました」

「結果の話じゃない!」

「では、何ですか」

「連絡の約束を守るという話だ!」

「約束は守りました。遅れると送りました」

「七時半を過ぎたら、もう一度知らせるべきだった」

「できなかったと言っています」

「できないなら、部活で遅くなること自体を考え直す必要がある」

 賢司が言った瞬間、空の目つきが変わった。

「部活をやめろということですか」

「今のままなら、そういうことも考えなければならない」

「賢司、それは違う」

 由美が止めた。

 しかし、もう遅かった。

「私がここに来たのは、監視されるためじゃありません」

「監視なんてしていない」

「帰る時間を決めて、連絡できなければ部活をやめさせる。それを監視じゃないと言うんですか」

「空さんの安全を守るためだ」

「私が何も考えずに帰ってきたと思ってるんでしょう」

「そうは言っていない」

「言っています!」

 空の声も大きくなった。

「私は駅員に聞いて、動いているバスを調べて、乗り換えて帰ってきました。知らない場所で遊んでいたわけじゃありません」

「それを僕たちに知らせなければ分からないだろう!」

「分からなかったら、怒鳴っていいんですか」

 賢司が言葉を失った。

 空の手が震えている。

 怒りだけではない。賢司の声に怯えているのだと、由美は気づいた。

「空さん、まず濡れた服を着替えましょう」

 由美が間へ入った。

「食事もまだでしょう。落ち着いてから――」

「私に謝れと言ったのは由美さんです」

「それは……」

「二人とも、私の話を聞く前に、悪いと決めました」

「悪いと決めたわけじゃないの。ただ、心配して――」

「心配したら、何を言ってもいいんですか」

 空の声がかすれた。

「私は、二人が心配するために生きてるんじゃない」

「空さん」

「若葉ホームに戻りたいです」

 玄関から音が消えた。

 外では雨が降り続いている。

 賢司は空を見たまま動けなかった。

 由美の唇が震える。

「それは……今日だけ?」

「分かりません」

「今からは行けない。もう遅いし、雨も――」

「今日は行きません」

 空は濡れた鞄を持ち上げた。

「部屋へ行きます」

「夕食は?」

「いりません」

 空は二人の横を通り過ぎ、廊下を進んだ。

 部屋の扉が閉まる。

 鍵はかけられなかった。

 それでも、賢司にも由美にも、その扉を開けることはできなかった。

     *

 賢司は濡れた靴下のまま、ダイニングの椅子へ座った。

 由美が玄関の床を布で拭いている。

「由美」

「今は話しかけないで」

 硬い声だった。

 由美は雨水を拭き取り、濡れた傘を浴室へ運んだ。戻ってくると、食卓の料理を一つずつ冷蔵庫へ入れ始めた。

「僕は――」

「怒鳴った」

 由美が言った。

「空さんは無事に帰ってきた。何があったのか話そうとしていた。それなのに、あなたは怒鳴った」

「心配したんだ」

「私も心配した」

「事故に遭ったかもしれない。知らない場所で一人だったんだぞ」

「だからといって、怒鳴っていい理由にはならない」

「連絡しなかったことは、空さんにも――」

「それと怒鳴ったことは別」

 由美は賢司を見た。

「空さんが連絡する方法を探さなかったことは、あとで話せばいい。私たちがどれだけ心配したかも伝えればいい。でも、あなたは話を聞く前に部活を取り上げようとした」

「やめさせるとは決めてない」

「同じに聞こえたわ」

 賢司は両手で顔を覆った。

 空が玄関へ入ってきた瞬間、無事だったという安堵より先に怒りが出た。

 帰ってきた。

 けがもしていない。

 それなのに、空の顔を見た途端、捜し回った時間と、つながらない電話と、頭に浮かんだ最悪の場面が一度に押し寄せた。

 安心したことを伝える代わりに、声を荒らげた。

「由美だって、謝れと言っただろ」

 賢司が言うと、由美の動きが止まった。

「そうね」

「責めるつもりはない」

「私も同じだった。空さんが帰ってきて、怖かった気持ちをぶつけた。話を聞く前に、私たちに謝ることを求めた」

 由美は冷蔵庫の扉を閉めた。

「空さんが戻りたいと言ったのは、本気だと思う?」

「分からない」

「分からないのに、引き止めたいと思ってる」

「僕もだ」

「それを、今あの子に背負わせたら駄目よ」

 由美は生活確認表を見た。

 嫌なことは、嫌だと言ってよい。

 空が書き加えた一文が、その下にある。

 三人とも、嫌なことを言っただけで家を追い出されない。

「私たち、試されてるわけじゃないのよね」

 由美がつぶやいた。

「何の話?」

「空さんが約束を守るか。私たちが里親として正しく振る舞えるか。そんな試験をしてるわけじゃない」

「分かってる」

「本当に?」

 由美の問いに、賢司は答えられなかった。

 賢司は立ち上がり、空の部屋へ向かった。

「今は行かないほうがいい」

「謝る」

「自分が楽になるために?」

 賢司の足が止まる。

「空さんは、今あなたの声を聞きたいと思ってる?」

「分からない」

「では、聞きましょう」

 由美はスマートフォンを手に取り、空へ短いメッセージを送った。

『無事に帰ってきてくれたことは分かりました。すぐに話さなくて大丈夫です。濡れた服だけ着替えてください。水と食事は廊下に置きます。話せるときに教えてください』

 少し考え、もう一行加えた。

『若葉ホームへ戻りたいという気持ちも、なかったことにしません』

 送信したあと、由美は水の入ったペットボトルと、乾いたタオルを空の部屋の前へ置いた。食事は置かなかった。

「食事は?」

 賢司が尋ねる。

「今はいらないと言ったでしょう」

「何も食べてない」

「空さんが必要になったら言う」

 由美は食卓へ戻った。

「私たちも食べましょう」

「食べる気になれない」

「心配しているから食べない姿を見せたら、空さんが責任を感じる」

 由美は鍋を冷蔵庫から戻し、二人分だけ温め直した。

 賢司は味の分からない夕食を、黙って食べた。

     *

 夜中の零時を過ぎても、賢司は眠れなかった。

 由美は先に寝室へ入ったが、眠ってはいないだろう。

 賢司は居間の照明を落とし、ソファに座っていた。空の部屋の前に置いた水は、いつの間にかなくなっている。代わりに、濡れた制服が洗面所の籠へ入れられていた。

 廊下から足音が聞こえた。

 空が部屋から出てきた。

 部屋着に着替え、髪も乾いている。賢司を見ると、一瞬足を止めた。

「待っていたんですか」

「眠れなかっただけ」

「私のせいですか」

「そういう言い方をさせたいわけじゃない」

 空は台所へ行き、冷蔵庫を開けた。

「何か食べる?」

「自分でします」

「分かった」

 空はトマト煮を少しだけ皿へ取り、電子レンジへ入れた。

 温まるまでの時間、二人は話さなかった。

 電子レンジが音を立てる。

 空は皿を取り出し、食卓の端へ座った。賢司から最も遠い席だった。

「空さん」

 賢司が呼ぶと、空は箸を持ったまま顔を上げた。

「怒鳴って悪かった」

 空は黙っている。

「部活をやめさせるようなことを言ったのも、僕が決めていいことじゃなかった」

「心配したからですか」

「心配した。でも、それを言い訳にはしない」

「怖かったです」

 空ははっきり言った。

 賢司の胸が痛んだ。

「ごめん」

「賢司さんは、私を殴らないと思っています」

「殴らない」

「でも、怒鳴られたとき、次に何をされるか分かりませんでした」

 賢司は息を止めた。

 空が両親の顔も声も知らないことを、賢司は分かっている。

 怒鳴る大人を前にしたとき、空が何を思い出したのかは分からない。思い出せる過去すらないのかもしれない。

 それでも、空は怖かった。

 その事実だけで十分だった。

「もう絶対に怒鳴らないとは、簡単に言えない」

 賢司は言った。

 空が目を上げる。

「また怒鳴るんですか」

「怒りや不安を完全になくせるとは約束できない。でも、声が大きくなりそうなら、話を止める。空さんが『今は話さない』と言ったら、追いかけない」

「私も怒鳴ったら?」

「同じように止めよう」

「私だけ部屋へ行けと言いませんか」

「言わない。僕か由美が別の部屋へ行ってもいい」

 空はトマト煮を一口食べた。

「さっきは、どうすればよかったと思いますか」

 賢司は尋ねた。

「今、話したくありません」

「分かった」

 賢司は立ち上がろうとした。

「でも、少しだけなら話します」

 空の声に、賢司は座り直した。

「電車が止まったあと、真帆のお母さんが迎えに来ました。菜月も乗せてもらいました。私も送ると言われました」

「どうして断ったの?」

「朝倉家まで遠かったからです。それに、電車がすぐ動くと案内がありました」

「そうか」

「スマートフォンは、そのとき四パーセントでした。連絡用グループを開いて番号を確認しようと思ったけど、電源が切れました」

「真帆さんの電話を借りて、学校へ連絡することは考えなかった?」

「考えませんでした」

 空は箸を置いた。

「七時半までには動くと思っていました。少しくらい遅れても、先に連絡したから大丈夫だと思いました」

「僕たちが待っているとは?」

「夕食を待つとは思いました。でも、捜しに来るとは思いませんでした」

 空は賢司を見た。

「若葉ホームでは、遅れると職員に連絡していました。でも、職員は仕事で確認しています」

「僕たちは?」

「分かりませんでした」

「家族だから心配する、と言われるのは嫌?」

「家族だから何をしてもいいと言われるのは嫌です」

「それはしない」

「今日、少ししました」

「うん」

 賢司は否定しなかった。

「空さんが連絡できなかった事情は分かった。ただ、僕たちが心配したことも分かってほしい」

「分かろうとは思います」

「今すぐでなくていい」

「でも、連絡しなくてもよかったとは思っていません」

 空が言った。

「真帆にもう一度電話を借りるか、駅員さんに事情を話せばよかった。学校へ連絡してもらうこともできたと思います」

「うん」

「次からは、そうします」

「ありがとう」

「ありがとうと言われることですか」

「自分にもできたことがあったと、今話してくれたから」

 空は残りのトマト煮を食べた。

「若葉ホームへ戻りたいというのは、本当です」

 賢司の指先に力が入った。

「そうか」

「でも、ずっと戻るのかは決めていません」

「明日、長谷川さんや相沢さんへ相談しよう」

「二人も来ますか」

「空さんが一人で話したいなら、僕たちは行かない」

「今は、一人で話したいです」

「分かった」

 賢司は立ち上がった。

「皿は、そのままでいい」

「私が洗います」

「洗いたいなら任せる」

「家事の対価ではなく?」

「うん。今使った皿だから」

 空は流しへ皿を運んだ。

 賢司は「おやすみ」と声をかけた。

 空から返事はなかった。

 それでも、賢司は立ち止まらず寝室へ戻った。

     *

 翌朝、食卓に三人分の朝食は並ばなかった。

 由美は食パンを焼き、空は牛乳だけを飲んだ。賢司はコーヒーへ手をつけず、冷めていくカップを見ていた。

 誰も前夜のことをなかったようには扱えなかった。

「十時に、長谷川さんと話せることになりました」

 空が言った。

「送っていこうか?」

 由美が尋ねる。

「一人で行きます」

「分かった」

 由美はすぐに引き下がった。

「帰るかどうかは、あとで連絡します」

「若葉ホームへ泊まるということ?」

「まだ決めてません」

「決めたら教えて」

 賢司が言った。

 空はうなずき、立ち上がった。

 玄関で靴を履き、紺色のキーホルダーがついた鍵を鞄へ入れる。

「行ってきます」

 いつものような言葉ではなかった。

 次に戻るかどうかを、空自身も決めていない声だった。

「行ってらっしゃい」

 由美が答えた。

 賢司も続ける。

「行ってらっしゃい」

 扉が閉まった。

 由美はしばらく玄関に立っていた。

「追いかけないの?」

 賢司が尋ねる。

「追いかけてほしい?」

「僕は、駅まで送ったほうがいいと思ってる」

「空さんが一人で行くと決めたのよ」

「でも」

「待つって、何もしないより苦しいわね」

 由美が振り返った。

「それでも待つの?」

「待つ」

 賢司は答えた。

     *

 若葉ホームへ着くと、芽衣が玄関まで走ってきた。

「空ちゃん!」

 空の腰へ抱きつく。

 勢いを受け止めきれず、空は一歩後ろへ下がった。

「廊下を走ったら駄目」

「廊下じゃない。玄関」

「同じです」

「今日、泊まる?」

 芽衣の目が期待に輝いた。

「まだ決めてない」

「泊まればいいのに」

「先に長谷川さんと話すから」

 面談室では、長谷川が一人で待っていた。

「相沢さんは?」

「必要なら、あとで連絡する。まずは私と話したいと言ったでしょう」

 空は椅子へ座った。

 昨夜の出来事を、最初から説明した。

 電車が止まったこと。スマートフォンの充電が切れたこと。帰宅が三時間遅れたこと。賢司が怒鳴ったこと。由美も話を聞く前に謝るよう求めたこと。

 そして、若葉ホームへ戻りたいと言ったこと。

 長谷川は途中で口を挟まなかった。

「今も戻りたい?」

 すべてを聞いたあとで尋ねた。

「分かりません」

「ここへ来て、どう感じた?」

「安心しました」

「それだけ?」

「部屋に戻りたいと思いました。でも、前のベッドは今、別の子が使っています」

「空が泊まれる場所は用意できる」

「分かっています」

「寂しかった?」

 空は膝の上で手を握った。

「私がいた場所が、なくなったみたいでした」

「場所は同じでも、時間は動いてるからね」

「ここへ戻るのは、逃げることですか」

「誰から?」

「二人からです」

「逃げてもいいほど怖かった?」

「賢司さんの声は怖かったです」

「では、その場を離れるのは逃げではなく、自分を守ることだったと思う」

 長谷川は少し間を置いた。

「でも、空が連絡しなかったこととは別に考えよう」

「賢司さんにも言われました」

「連絡できない事情があった。でも、ほかの人へ助けを求めることはできた。空は、自分一人で何とかできると思ったのね」

「できました」

「帰ってこられたという意味ではね」

「違うんですか」

「空が無事だったのはよかった。でも、空の居場所を知らない人が、何時間も待っていたことも事実でしょう」

「仕事ではなく?」

「朝倉さんたちは、仕事だから空を待っていたと思う?」

 空は答えなかった。

「心配したから怒鳴ってよいとは、私は思わない。空が怖かったと伝えたのも正しい。ただ、二人が空を捜したことまで、監視だと決めなくてもいいんじゃないかな」

「私が帰ると信用していなかったから捜したんだと思いました」

「信用していても、事故は起きる」

「では、ずっと心配されるんですか」

「空も、朝倉さんたちが予定の時間に帰らなかったら気にならない?」

 空は賢司が遅くなった日のことを思い出した。

 夕食の時間になっても連絡がなく、由美が「また会議が延びたのかしら」と言った。空も、電車が止まっていないかスマートフォンで調べた。

「少しは気になります」

「それを、相手を信じていないからだと思う?」

「分かりません」

「分からなくてもいい。でも、空が一人で考えた答えだけで、二人の気持ちを決めなくてもいいと思う」

 長谷川は机の上へ、温かい麦茶を置いた。

「今日は泊まる?」

 空は湯気を見つめた。

「莉子と話してから決めます」

     *

 莉子は空の話を聞くと、最初に言った。

「賢司さん、怒鳴るんだ」

「うん」

「ずっと静かに表を作ってる人かと思ってた」

「私も」

「怖かった?」

「怖かった」

「それは嫌だね」

 莉子はベッドへ座り、膝を抱えた。

「でも、空も連絡すればよかったじゃん」

「分かってる」

「充電器、持ってなかったの?」

「持ってなかった」

「私なら真帆ちゃんのお母さんの車に乗せてもらう」

「遠いから悪いと思った」

「頼んで、嫌なら断られるだけじゃん」

「簡単に言うね」

「空は、何でも一人で何とかしようとしすぎ」

「長谷川さんにも似たことを言われた」

「みんな思ってるんだよ」

 空は莉子の机の上を見た。

 以前、空が使っていた辞書が置かれている。莉子へ貸したまま、朝倉家へ持っていかなかったものだった。

「今日、ここに泊まるか迷ってる」

「泊まれば?」

「いいの?」

「私に聞かれても困るけど、泊まりたいなら泊まればいいじゃん」

「莉子は、うれしい?」

「うれしいよ」

「では、泊まろうかな」

「でも、朝倉さんたちに腹を立てさせるためならやめたほうがいい」

 莉子が言った。

 空は顔を上げた。

「どういう意味?」

「空が帰らなかったら、二人はもっと心配するでしょ。それを分からせるために泊まるなら、昨日と同じじゃん」

「そんなつもりじゃない」

「本当に?」

 莉子の目は真剣だった。

 空は答えを探した。

 朝倉家へ戻れば、賢司と由美の顔を見なければならない。気まずい朝食も、話し合いも避けられない。

 若葉ホームに泊まれば、今日は考えずに済む。

 同時に、二人へ「私はここへ戻れる」と見せたい気持ちが、まったくないとは言えなかった。

「少しは、困ればいいと思ってるかもしれない」

「なら、今日は帰ったら?」

「莉子は私に泊まってほしくないの?」

「泊まってほしい。でも、喧嘩の道具に若葉ホームを使われるのは嫌」

 その言葉は痛かった。

「ごめん」

「謝らなくていいけど」

「泊まりたいときは、普通に泊まりに来ます」

「うん。そのときは一週間くらいいて」

「長い」

「芽衣が喜ぶから」

 空はスマートフォンを取り出した。

 充電器につながれた画面には、由美からの連絡が一件だけ届いていた。

『長谷川さんと話せましたか。返事は急がなくて大丈夫です』

 賢司からの連絡はなかった。

 空は文字を打った。

『今日は泊まりません』

 そこで手が止まる。

 帰ります、と続けることができなかった。

 帰るという言葉が、朝倉家を自分の戻る場所だと認めるように感じられた。

 空は文章を消した。

 しばらく考え、別の言葉を送った。

『今から、そちらへ帰ってもいいですか』

 既読は、すぐについた。

 由美から返事が来る。

『待っています。気をつけて帰ってきてください』

 続いて賢司からも届いた。

『帰ってきてください。駅へ迎えに行ったほうがよければ言ってください』

 空は『一人で帰れます』と送った。

 賢司からは、『分かりました』とだけ返ってきた。

     *

 朝倉家へ着いたのは、午後六時前だった。

 空は紺色のキーホルダーがついた鍵を取り出した。

 鍵穴へ差し込み、回す。

 扉を開けると、玄関に由美と賢司が立っていた。

 待ち構えていたように見えたが、二人とも空へ近づかなかった。

 空は靴を脱ぎ、緑色のスリッパへ履き替えた。

「ただいま」

 考える前に、言葉が出た。

 由美が息をのみ、賢司が顔を上げる。

 二人が大げさに喜ぶのではないかと思った。

 だが、由美は目元をわずかに緩めただけだった。

「おかえりなさい」

「おかえり」

 賢司の声も穏やかだった。

 空は鞄を自分の部屋へ置き、ダイニングへ戻った。

 食卓には、紙と三本のペンが置かれていた。生活確認表ではなく、何も書かれていない白い紙だった。

「すぐに話す?」

 由美が尋ねる。

「話します」

「疲れていたら、あとでもいいのよ」

「今がいいです」

 三人は食卓へ座った。

 最初に頭を下げたのは、賢司だった。

「昨日は怒鳴って、ごめんなさい。部活を続けることまで僕が決めるような言い方をした。それも間違っていた」

 空は賢司を見た。

「昨夜も聞きました」

「由美の前でも、もう一度言いたかった」

「分かりました」

「心配していたことは本当だ。でも、心配したことと、怒鳴ったことは別だと思ってる」

 由美も続けた。

「私は、空さんの話を聞く前に謝るよう求めた。帰ってきてくれたことに安心して、自分が怖かった気持ちをぶつけた。ごめんなさい」

「はい」

 空は二人の謝罪を受け取った。

 すぐに「もう大丈夫」とは言わなかった。

「私は、遅れると最初に連絡したから、それで十分だと思いました」

 空が話し始める。

「スマートフォンの充電が切れたあとも、すぐ電車が動くと思っていました。真帆のお母さんの車を断ったことも、学校や駅員さんへ連絡しなかったことも、自分一人で帰ればいいと思ったからです」

 二人は口を挟まなかった。

「でも、二人が待っていることを考えていませんでした。捜しに来るとも思いませんでした」

「捜さないほうがよかった?」

 賢司が尋ねた。

「分かりません。でも、昨日は監視されていると思いました」

「今日は?」

「長谷川さんと莉子に、信用していても事故は起きると言われました」

 空は紙の中央へ線を一本引いた。

「心配することと、怒鳴ることは別。私が連絡しなかったことと、電車が止まったことも別です」

「うん」

 由美がうなずいた。

「だから、別々に決めたいです」

 三人は、連絡が取れなくなった場合の方法を話し合った。

 空は由美と賢司、若葉ホーム、学校の電話番号を書いた小さなカードを財布へ入れる。スマートフォン用の小型充電器も持つ。ただし、持ち忘れたからといって、それだけで責めない。

 友達の電話を借りられる場合は借りる。番号が分からなければ、学校か若葉ホームへ連絡し、朝倉家へ伝えてもらう。駅員や警察へ相談してもよい。

 由美と賢司は、一度電話をかけ、メッセージを送る。それでも一時間以上連絡がなく、学校からも状況が分からない場合には、必要な場所へ確認する。

「何十回も電話しない?」

 空が尋ねる。

「しない」

 賢司が答えた。

「昨日は何回かけましたか」

「七回」

「多いです」

「分かってる」

「三回までにしてください」

「二回では?」

 由美が提案する。

「一回目は気づかないかもしれません」

「では、時間を空けて二回。緊急の場合は別」

 賢司が紙へ書く。

「次に、話している途中で誰かが怒鳴った場合」

 空が言った。

「その時点で話を止める。『今は話さない』と言ったら、ほかの人は追いかけない」

「場所は?」

 由美が尋ねる。

「怒鳴った人が、別の部屋へ行くのはどう?」

 賢司が答えた。

「怒鳴られた人を移動させるのではなく?」

「そのほうがいいと思う」

「私が怒鳴った場合も?」

「同じ」

 空はうなずいた。

「では、それで」

「若葉ホームへ戻りたいということは?」

 由美が慎重に尋ねた。

 空はペンを置いた。

「昨日、戻りたいと思ったのは本当です」

「うん」

「今日、若葉ホームに行って、安心しました。でも、そこに泊まることは、今日は違うと思いました」

「どうして?」

「二人を困らせるために泊まることになる気がしたから」

「空さんが休むためなら、泊まってもいいのよ」

「分かっています。今度は、喧嘩したからではなく、莉子たちに会うために泊まります」

 由美の表情が少し和らいだ。

「そのときは、送り出す」

「寂しくても?」

「寂しいとは言うかもしれない。でも、行かないでとは言わない」

 空は賢司へ目を向けた。

「賢司さんは?」

「僕も同じ。若葉ホームへ行くことを、僕たちから離れることだとは考えないようにする」

「すぐにできますか」

「努力する」

「そこは正直ですね」

「できない約束はしないほうがいいだろ」

 空は少しだけ笑った。

 食卓の空気が、ようやく動いた。

「夕食は?」

 空が尋ねる。

「食べられる?」

 由美が聞く。

「食べます」

「昨日のトマト煮が残ってる。今日の分は、まだ作ってないの」

「それでいいです」

「パンは?」

「ありますか」

「賢司が昼に二つ食べた」

「二つしか残っていませんでした」

 賢司が言い訳をする。

「では、ご飯にしましょう」

「今から炊くと時間がかかるわね」

「冷凍があります」

 空は冷凍庫を開けた。

「三つあります」

「それ、空さんが先週分けて冷凍したものね」

「役に立ちました」

「家事の対価じゃなく?」

 由美が聞く。

「ただの保存です」

 空が答えると、由美が笑った。

 賢司も立ち上がる。

「僕が温める」

「電子レンジは使えますか」

「さすがに使えるよ」

「麻婆豆腐を思い出しました」

「あれは混ぜる回数の問題だ」

「まだ言ってる」

 由美が笑う。

 空も、声を上げて笑った。

 前日の夜、同じ場所で怒鳴り合った。

 怖かったことも、戻りたいと思ったことも消えてはいない。謝ったから、すべてが元どおりになったわけでもない。

 それでも三人は、同じ食卓へ戻っていた。

 空が冷凍ご飯を賢司へ渡し、由美がトマト煮の鍋を火にかける。

 誰も完璧な夕食を作ろうとしなかった。

 午後六時半、三人は温め直した料理を前に座った。

「いただきます」

 三人の声が重なる。

 食事の途中で、空が言った。

「賢司さん」

「何?」

「昨日、あの駅まで捜しに来てくれたことは、ありがとうございました」

 賢司の箸が止まった。

「でも、怒鳴ったことは許したわけではありません」

「分かってる」

「次は、本当に話を止めます」

「うん」

「由美さんもです」

「分かりました」

 由美が答える。

「それから、充電器は自分で選びます」

「明日、見に行く?」

 由美が尋ねる。

「一人で行けます」

「そうね」

「でも、由美さんも必要なら、一緒に見ますか」

「私も古いから、買い替えようかな」

「では、一緒に行きましょう」

「うん」

 賢司が二人を見る。

「僕も必要かもしれない」

「賢司さんは自分で選んでください」

「どうして僕だけ?」

「二人で買い物へ行きたいんです」

 言ったあと、空は自分の言葉に驚いた。

 由美も驚いた顔をした。

「行きたいんですか」

「言い直さなくていいのよ」

 由美が急いで言う。

「分かりました。二人で行きましょう」

 空はうなずいた。

 喧嘩をしたから、三人がすぐに家族になったわけではない。

 怒鳴り合えば心が通じるわけでもない。

 それでも、怖かったと言えること。間違えた側が言い訳をせずに謝ること。相手の失敗と自分の失敗を、一つにまとめて責めないこと。

 三人は、その方法を初めて知った。

 食事を終え、空が皿を流しへ運ぶ。

 由美が隣に立ち、鍋を水につけた。

「空さん」

「何?」

「帰ってきてくれて、ありがとう」

 空は皿を洗う手を止めなかった。

「私が帰りたかったから帰ったんです」

「うん」

「二人のためだけではありません」

「分かってる」

「でも」

 空は洗った皿を籠へ置いた。

「待っていてくれたから、帰りやすかったです」

 由美は何も言わず、空へ乾いた布巾を渡した。

 二人で皿を拭いていると、賢司が食卓を片づけ始めた。

「これはどこへ?」

 賢司が三人で決めた連絡方法の紙を持ち上げる。

「冷蔵庫」

 空と由美が同時に答えた。

「また紙が増えるね」

 賢司が言う。

「作ったのは賢司さんでしょう」

「今日は三人で作った」

 賢司は家事分担表と生活確認表の間へ、新しい紙を貼った。

 前日の雨は上がっていた。

 窓の外には、雲の切れ間から街の明かりが見えている。

 三人の声がぶつかった夜を越えても、朝倉家の扉は閉じられなかった。

 空のポケットには、今もこの家の鍵が入っていた。


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