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『血の通わぬ糸』  作者: 久遠 睦


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第二十三章 家族の普通

月曜日の朝、食卓には三人分のトーストと目玉焼きが並んでいた。

 由美は何度も時計を見ていた。

 賢司は新聞を開いていたが、同じ面から一度も動いていない。空は目玉焼きの黄身を箸で崩さないように食べていた。

 三人とも、普段どおりにしようとしていた。

 その努力が、かえって食卓をぎこちなくしている。

「今日、美術部だよね」

 由美が尋ねた。

「はい」

「帰りは七時くらい?」

「その予定です」

「充電は?」

 賢司が新聞の向こうから言った。

 空の箸が止まる。

「昨日しました」

「そう」

「学校に着いたら残量を確認して、帰る前にも――」

「賢司」

 由美が名前を呼んだ。

「確認しただけだよ」

「もう確認できたでしょう」

 賢司は新聞を畳んだ。

「ごめん。続けて言いすぎた」

「いえ」

 空は再び目玉焼きを食べ始めた。

 食卓の横にある冷蔵庫には、三人で決め直した連絡方法が貼られている。

 空の財布には、朝倉家、若葉ホーム、学校の電話番号を書いた小さなカードが入っていた。

 小型充電器は、まだ買っていない。週末に由美と見に行くことになっていた。

「今日の夕食は、どうする?」

 由美が聞いた。

「食べます」

「何か食べたいものはある?」

「何でも――」

 言いかけて、空はやめた。

「魚以外」

「また?」

「先週、三回食べました」

「では、豚肉にしようかな」

「生姜焼き?」

「昨日も聞いた気がする」

「前にも作ろうとして、別のものになったでしょう」

「そうだった?」

「筍があったから、煮物になりました」

「よく覚えてるわね」

「食べたものは覚えています」

 空が答えると、賢司が顔を上げた。

「僕が作った麻婆豆腐も?」

「元麻婆豆腐」

「あれはもう忘れてくれていい」

 由美が吹き出した。

 空も少しだけ笑った。

 笑ったあと、賢司と目が合う。

 前夜の怒声が、短く耳の奥へ戻ってきた。

 賢司も何かを感じたのか、視線を落とした。

 空は笑うのをやめた。

「空さん」

 賢司が呼んだ。

「何ですか」

「土曜日のことだけど」

 由美が黙って賢司を見る。

「今日、美術部へ行くのが嫌になってない?」

「どうしてですか」

「僕が、部活を続けることまで考え直すと言ったから」

「行きます」

「そうか」

「賢司さんに言われたから、やめるとは決めません」

「うん」

「でも、まだ少し怒っています」

 賢司は新聞を閉じた。

「分かってる」

「怖かったことも、なくなってません」

「それも分かってる」

「なら、何度も聞かないでください」

「ごめん」

 賢司は短く答えた。

 以前の空なら、「もう大丈夫です」と言って会話を終わらせていただろう。

 大丈夫ではないと伝えれば、同じ食卓へいられなくなると思っていた。

 しかし、賢司は席を立たなかった。由美も話題を変えようとしなかった。

 少し気まずいまま、三人は朝食を続けた。

「目玉焼き、半熟すぎない?」

 由美が空の皿を見た。

「これくらいが好きです」

「賢司は固いほうが好きなのよ」

「今日は私のだけ半熟です」

 空が答えると、由美が賢司の皿を覗いた。

 賢司の目玉焼きは、黄身まで完全に火が通っている。

「本当だ。いつの間に好みを聞いたの?」

「先週です」

「私、知らなかった」

「全部知っていなくてもいいでしょう」

「そうね」

 由美がうなずく。

「では、私の好みも今度聞いて」

「由美さんは、その日の気分で変わります」

「よく分かってるじゃない」

 由美が笑った。

 空は残りのトーストを口へ運んだ。

 気まずさは残っている。

 それでも、朝食は終わった。

 三人は同じ食卓から、それぞれの一日へ向かった。

     *

 教室へ入ると、真帆がすぐに空の顔を見た。

「眠そう」

「少し」

「宿題?」

「違う」

「じゃあ、何?」

 空が鞄を机の横へ掛けると、真帆は椅子を後ろへ向けた。

「土曜日、電車が止まったでしょう」

「うん」

「帰るのが遅くなって、朝倉さんたちと喧嘩した」

「どれくらい遅くなったの?」

「十時すぎ」

「それは遅いね」

 真帆は笑わなかった。

「連絡は?」

「途中で充電が切れた」

「あのときか」

 真帆は土曜日のことを思い出したようだった。

「うちの母の車に乗ればよかったのに」

「遠いから悪いと思った」

「母は大丈夫って言ってたよ」

「でも」

「送るのが嫌なら、最初から誘わないって」

 真帆は机へ肘をついた。

「朝倉さんたち、怒った?」

「うん」

「怒鳴られた?」

「賢司さんに」

「怖かった?」

「怖かった」

 空は正直に答えた。

「部活をやめることも考えると言われた」

「それは嫌だね」

「私も怒鳴った。監視されるために一緒に住んでるんじゃないって」

「監視されてると思ったの?」

「そのときは」

「今は?」

 空は教室の窓へ目を向けた。

 校庭では、運動部の生徒が朝練を終えて校舎へ戻っている。

「長谷川さんと話して、少し違うかもしれないと思った」

「何が?」

「私が帰ることを信用していないから捜したんじゃなくて、事故かもしれないと思ったからだって」

「そりゃ捜すでしょ」

 真帆が言った。

「水瀬が三時間も帰ってこなくて、スマートフォンもつながらなかったら」

「真帆の家は?」

「うち?」

「遅くなったら、お母さんは捜しに来る?」

「たぶん来ない」

 真帆はあっさり答えた。

「電話は?」

「メッセージが一件来るくらい。『夕飯いる?』って」

「心配しないの?」

「してるかもしれないけど、あまり言わない」

「お父さんは?」

「別に住んでるし、私の帰宅時間を知らないと思う」

 真帆は鞄から教科書を取り出した。

「家族って、そんなもの?」

 空が尋ねると、真帆は動きを止めた。

「どんなもの?」

「毎日一緒にご飯を食べたり、帰る時間を聞いたりしないの?」

「うちはしないよ。母は仕事で遅いし、弟は塾。三人で食べるのは週に一回くらい」

「会話は?」

「する日もある。全然しない日もある」

 空は黙った。

 真帆が空の顔を覗き込む。

「もしかして、朝倉家って毎日三人で食べてるの?」

「ほとんど」

「すごいね」

「すごいの?」

「少なくともうちでは無理」

「でも、普通の家族でしょう」

「普通かどうかは知らないよ」

 真帆は苦笑した。

「両親が離婚してるし、弟とは毎日喧嘩するし、母は怒ると二日くらい口を利かない。あまり普通じゃないかも」

「お母さんは、あとで謝る?」

「ほとんど謝らない」

「真帆は?」

「私も謝らない」

「それで、どうするの?」

「いつの間にか話すようになる」

「話し合わないの?」

「毎回そんなことしないよ。面倒だし」

 真帆は空の机を指で軽く叩いた。

「朝倉さんたちは、謝ったの?」

「うん」

「二人とも?」

「賢司さんは怒鳴ったことと、部活をやめさせるようなことを言ったこと。由美さんは、私の話を聞く前に謝るよう言ったこと」

「その日のうちに?」

「賢司さんとは夜に少し話した。次の日、三人でもう一度話した」

「すごいね」

 真帆がもう一度言った。

「だから、何が?」

「うちなんて、帰るのが遅くても既読だけだよ。駅まで捜しに来て、怒鳴ったあとに自分から謝る親って、案外少ないと思う」

 空はすぐに言った。

「捜しに来たから、怒鳴ってもいいわけじゃない」

「それは別」

 真帆の返事も早かった。

「怒鳴ったのは賢司さんが悪い。でも、悪かったって認めたんでしょう」

「うん」

「水瀬も、連絡しなかったことは認めた?」

「ほかの人の電話を借りればよかったと言った」

「じゃあ、お互いに悪かったところを話したんじゃん」

「それで終わり?」

「終わりかどうかは、水瀬たちが決めればいいよ」

 真帆は肩をすくめた。

「でも、喧嘩したら家族じゃなくなるわけじゃないでしょう」

「分からない」

「私は弟と昨日も喧嘩したけど、朝になったら同じ家にいたよ」

「それは、きょうだいだからでしょう」

「家族だからって、自動的に仲直りできるわけじゃないよ」

 真帆は少し考えた。

「家族だから、逃げるのが面倒なだけのときもある」

「それは、いいことなの?」

「知らない。でも、一緒にいる時間が長いと、嫌なところも見るってことでしょ」

「朝倉さんたちとは、まだ二か月くらいしか暮らしてない」

「二か月で怒鳴り合ったなら、かなり近くなったんじゃない?」

「近くなれば怒鳴っていいの?」

「だから、それは別だって」

 真帆が笑った。

 空も少しだけ笑った。

「水瀬、同じところを何回も確認するね」

「分けて考えたいから」

「賢司さんみたい」

「違う」

「そうやってすぐ返すところも」

「前にも聞いた」

 始業のチャイムが鳴り、真帆は椅子を前へ戻した。

「水瀬」

「何?」

「今日、部活に来るよね」

「行く」

「じゃあ、それでいいじゃん」

 真帆は教科書を開いた。

 空も席に座った。

 それでいいのかは、まだ分からない。

 けれど、部活へ行くと答えたとき、賢司の顔を思い出しても胸は苦しくならなかった。

     *

 昼休み、空は真帆と菜月とともに食堂へ向かった。

 列へ並んでいると、前にいた菜月が振り返る。

「今日の日替わり、親子丼だって」

「私はうどんにする」

 空が答える。

「また?」

 真帆が言う。

「先週も食べてたよね」

「好きだから」

「美術館ではサンドイッチだったのに」

「毎日同じものを食べているわけじゃない」

「朝は何を食べたの?」

「トーストと目玉焼き」

「普通だね」

 菜月が言った。

 空はその言葉に反応した。

「普通?」

「朝ご飯として」

「菜月の家は?」

「私はシリアル。お父さんは食べない。お母さんは台所で立ったままコーヒー」

「一緒に食べないの?」

「時間が違うから。休日は一緒に食べるよ」

 空は真帆のほうを見る。

「真帆は?」

「今日は何も食べてない」

「駄目でしょう」

「母みたいなこと言わないで」

「お腹が空くから」

「購買でパンを食べた」

「それは朝食ではありません」

 真帆が笑った。

「空、朝倉家に行ってから細かくなったよね」

 名前で呼ばれ、空は反論する言葉を忘れた。

「前からです」

「前は自分のことしか細かくなかった。今は人が朝ご飯を食べたかまで気にする」

「倒れたら迷惑だから」

「それも母みたい」

「違う」

「はいはい」

 真帆は楽しそうに親子丼の食券を買った。

 三人で席へ座ると、隣のテーブルから家族の話が聞こえてきた。

 父親が単身赴任している。姉が就職して家を出た。母親が旅行へ行き、数日間夕食が冷凍食品になる。

 誰も深刻そうには話していない。

「家族って、毎日話さないもの?」

 空が二人へ尋ねた。

「急にどうしたの?」

 菜月が箸を止める。

「少し気になっただけ」

「うちは話すよ。お母さんが何でも聞いてくるから」

「嫌ではない?」

「嫌なときもある。テストの点とか、友達のこととか、聞かれたくないことまで聞くし」

「では、言わない?」

「言わないと、しつこいから適当に答える」

「それで喧嘩になる?」

「なる。部屋の扉を閉めたら、開けろって言われる」

「それは嫌だね」

「でも、お母さんが仕事で遅いと、少し寂しい」

 菜月は親子丼を食べながら笑った。

「勝手だよね」

「私も同じかもしれない」

 空が言うと、真帆が顔を上げた。

「何が?」

「由美さんが聞きすぎると嫌だけど、何も聞かれないと、少し気になる」

「家族なんて、だいたいそんなものでしょ」

 真帆が言った。

「うるさいと嫌で、いないと寂しい」

「普通なの?」

「知らない。空は普通が気になりすぎ」

「だって、分からないから」

「私たちだって、自分の家しか知らないよ」

 真帆は空のうどんから天かすを一つ取った。

「家族の普通なんて、誰も分からないんじゃない?」

「それ、私のです」

「天かす一個で怒らないで」

「自分の親子丼があるでしょう」

「少し食べる?」

「いらない」

「では、交換にならないね」

「最初から交換ではありません」

 菜月が笑い始めた。

「二人、きょうだいみたい」

 空と真帆が同時に顔を向ける。

「違う」

「違うよ」

 声が重なり、菜月はますます笑った。

     *

 美術部では、窓から見える景色の絵が完成に近づいていた。

 空は住宅街の屋根の向こうに、実際には見えない海を描いた。若葉ホームの近くにあった低い建物と、朝倉家から見える高層ビルの輪郭も、一枚の画用紙の中へ入っている。

 真帆が隣から覗き込んだ。

「海、少し暗くした?」

「土曜日に描いたところ」

「雨の日みたい」

「そのつもり」

「こっちの窓は明るいね」

 画用紙の手前には、美術室の窓枠が描かれている。

 窓ガラスには、部員たちの姿が薄く映っていた。真帆、菜月、篠原、大崎。空自身の姿も、輪郭だけを入れている。

「窓の中と外、どっちを描きたかったの?」

 真帆が尋ねた。

「両方」

「欲張り」

「どちらかを消したくなかったから」

「若葉ホームと朝倉家?」

 空は真帆を見た。

「どうして分かったの?」

「前に海の話をしてたし、高い建物は朝倉家のあたりでしょう」

「よく見てるね」

「美術部だから」

 真帆は自分の胸を指した。

「それに、友達だから」

「それは関係ある?」

「少しは」

 空はもう一度絵を見た。

「朝倉さんたちに見せる?」

 真帆が尋ねる。

「完成したら」

「土曜日の喧嘩のあとでも?」

「喧嘩したことと、見せたいことは別だから」

 口にしてから、空は自分の言葉に気づいた。

 真帆がにやりと笑う。

「分けて考えられてるじゃん」

「賢司さんみたいには言わないで」

「言ってないよ」

「顔に書いてある」

 空は海の上へ、細い光を入れた。

     *

 土曜日、空と由美は小型充電器を買うため、駅前の家電量販店へ出かけた。

 店内には、大きさも色も違う製品が何十種類も並んでいる。

「これなら三回くらい充電できるみたい」

 由美が、黒くて重い製品を手に取った。

「大きすぎます」

「でも、災害のときにも使えるでしょう」

「毎日、鞄に入れるんですよ」

「では、これは?」

「それも重いです」

「空さんの鞄、教科書が多いものね」

 空は白くて薄い製品を手に取った。

「これは軽いです」

「一回分だけね」

「一回できれば十分です」

「途中でまた切れたら?」

「毎日使い切るつもりではありません」

「そうだけど」

 由美はまだ大きな製品を見ている。

「由美さん」

「何?」

「心配だから一番大きいものを持たせたいんでしょう」

「少し」

「毎日持つのは私です」

「分かってる」

「では、こっちにします」

 空が白い製品を持ち上げると、由美は黒いものを棚へ戻した。

「一回分で足りなかったら、そのとき考えましょう」

「うん」

 店員が近づいてきた。

「通学用でしたら、こちらは軽くて人気があります。お嬢さんのスマートフォンにも対応していますよ」

 空と由美が同時に店員を見る。

 由美は何も言わなかった。

 空の反応を待っている。

「これにします」

 空は製品を店員へ渡した。

「ありがとうございます。色は白でよろしいですか」

「はい」

 店員は関係を言い直さなかった。

 由美も、自分が母親ではないと説明しなかった。

 会計を終え、店を出る。

「さっき」

 由美が言いかけた。

「お嬢さんと言われたことですか」

「うん」

「訂正したほうがよかった?」

 空は少し考えた。

「今日は、必要ないと思いました」

「そう」

「由美さんは、嫌でしたか」

「嫌ではない。でも、空さんがどう思ったか気になった」

「私は、店員さんに説明するほうが面倒でした」

「では、それでいいのね」

「毎回同じとは限りません」

「分かった。そのときに聞く」

 二人は駅前の通りを歩いた。

 パン屋の前を通ると、焼きたてのパンの匂いがした。

「塩パンがある」

 由美が店内を覗く。

「買いますか」

「空さん、食べたい?」

「由美さんが見つけたんでしょう」

「私は餡パンがいい」

「では、私は塩パン」

「賢司は?」

「カレーパンだと思います」

「本人に聞かなくていい?」

「いつもカレーパンです」

「ほかのものが食べたい日かもしれない」

 由美はスマートフォンを取り出した。

「聞いてみる」

 賢司からの返事はすぐに来た。

『カレーパン。辛すぎないもの』

 空は画面を見て笑った。

「やっぱり」

「空さん、賢司のことをよく分かってきたわね」

「食べ物だけです」

「私は?」

「由美さんは、その日によって違います」

「それも正解」

 二人はパン屋へ入った。

 由美が餡パン、空が塩パン、賢司がカレーパンを選ぶ。

 空は棚の端にあった小さなクリームパンを一つ取った。

「誰の分?」

 由美が尋ねる。

「明日の朝、三人で分けます」

「小さくない?」

「一口ずつなら」

「空さんが食べたいなら、もう一つ買えば?」

「三人で味を見たいだけです」

 由美は「そう」と答え、余計に買わなかった。

 会計を済ませ、店を出る。

 空はパンの入った袋を持ちながら言った。

「このあと、少し寄りたいところがあります」

「どこ?」

「画材店」

「行こう」

「まだ何も買いません」

「見るだけね」

「由美さんも、勝手に買わないでください」

「分かってる」

「本当に?」

「空さん、最近、賢司みたいに確認が多いわよ」

「それ、真帆にも言われました」

 由美が声を上げて笑った。

「みんな同じことを思ってるのね」

「笑うところではありません」

「ごめん。でも、少し似てきたかも」

 空は反論しようとした。

 しかし、自分でも少し心当たりがあった。

「悪いところだけ似た気がします」

「いいところもあるわよ。細かいけど、約束は忘れない」

「では、半分だけ似ています」

「賢司には、そう伝える?」

「落ち込むので言いません」

 二人は笑いながら、画材店へ向かった。

     *

 翌週の水曜日、相沢奈緒が朝倉家を訪れた。

 里親委託が始まってから一か月が過ぎたため、生活状況を確認する面談だった。

 最初に三人で話し、そのあと空だけが相沢と面談する。

「学校はどう?」

 相沢が尋ねた。

「美術部に入りました」

「友達は?」

「少しできました」

「朝倉家での生活は?」

 空はすぐに「大丈夫です」と答えそうになった。

 だが、その言葉を飲み込んだ。

「喧嘩しました」

「長谷川さんから聞いているわ」

「全部ですか」

「空が連絡できないまま帰宅が遅れ、賢司さんが怒鳴ったこと。由美さんも、事情を聞く前に謝るよう求めたこと。そのあと、三人で話し合ったこと」

「はい」

「今も怖い?」

「賢司さんが急に大きな声を出したら、怖いと思います」

「本人には伝えた?」

「伝えました」

「どんな反応だった?」

「謝りました。もう絶対に怒鳴らないとは言えないけど、声が大きくなりそうなら話を止めると」

「その答えを、空はどう思った?」

「簡単に約束されるよりはいいと思います」

 相沢がうなずいた。

「若葉ホームへ戻りたいと言ったのね」

「はい」

「今も戻りたい?」

「泊まりに行きたいとは思います。でも、朝倉家で暮らすのをやめたいとは、今は思っていません」

「二人が悲しむから?」

「違います」

 空は少し考えた。

「ここに、自分のものが増えました」

「物があるから?」

「それだけではありません。由美さんが作った筍ご飯の味とか、賢司さんが失敗した麻婆豆腐とか。美術部であったことを話したいと思うこともあります」

「話したい相手になった?」

「少し」

「家族だと思う?」

 空は黙った。

「まだ分かりません」

「分からないままでも、一緒に暮らしたい?」

「はい」

 今度は迷わなかった。

「二人を好き?」

「その質問は必要ですか」

 相沢が笑った。

「無理に答えなくていい」

「嫌いではありません」

「では、今はそれでいいわね」

「たぶん、少しは好きです」

 言ってから、空は目を伏せた。

「二人には言わないでください」

「空が自分で言いたくなるまで、私からは言わない」

「言うかは分かりません」

「それも空が決めていい」

 面談が終わり、相沢が帰ると、由美と賢司がダイニングで待っていた。

 二人とも、聞きたいことを我慢している顔をしている。

「何を話したか、聞かないんですか」

 空が尋ねた。

「聞いていいの?」

 由美が答える。

「全部は話しません」

「では、空さんが話したいことだけ」

「学校と部活のこと。喧嘩のこと。若葉ホームへ戻りたいと思ったことも話しました」

 賢司の表情がわずかに硬くなる。

「今も?」

「泊まりには行きたいです。でも、ここで暮らすのをやめるつもりは、今のところありません」

「今のところ、ね」

 由美が言う。

「ずっととは約束できません」

「しなくていい」

 賢司が答えた。

 空は二人を見た。

「二人は、家族と毎日話していましたか」

 突然の質問に、由美と賢司が顔を見合わせた。

「私たちが子どものころの話?」

「はい」

「どうして?」

「学校で、家族の普通について話したから」

 由美が椅子を引いた。

「座って話す?」

「長くなりますか」

「たぶん」

「では、お茶を入れます」

 空は台所へ行き、三人分の麦茶を用意した。

「由美さんの家は?」

 食卓へ戻りながら尋ねる。

「母がよく話す人だった。学校から帰ると、今日あったことを全部聞かれたわ」

「嫌ではなかった?」

「小学生のころは平気だったけど、中学生になってからは嫌なときもあった。話したくない日まで、何かあったでしょうって」

「今の由美さんと同じです」

「そうなのよ」

 由美は苦笑した。

「自分が嫌だったのに、空さんへ同じことをしてる」

「お母さんに、嫌だと言いましたか」

「言えなかった。母は私のことを心配していると思っていたから。嫌がると、母を傷つける気がしたの」

「では、どうしたんですか」

「適当に話を合わせた。母が喜びそうな答えを選んで」

 空は由美を見た。

「私と同じですね」

「そうかもしれない」

「だから、私が何でもいいと言うと、気になるんですか」

「自分を見ているようで、心配になるのかも」

「それで、余計に聞く?」

「逆効果ね」

「はい」

 由美が笑った。

「そこは少し優しく言って」

「少し考えます」

「空さん、その返し方、柔らかくなったわね」

「そうですか」

「前なら、『できません』と言ってた」

 空は麦茶を飲んだ。

「賢司さんは?」

「僕の父は、あまり話さない人だった」

「静かな人?」

「普段はね。ただ、怒ると声が大きくなった」

 賢司の表情が変わった。

「土曜日の賢司さんみたいに?」

「そうだね」

「よく怒鳴られたんですか」

「何度か。帰宅時間や成績のことで」

「謝りましたか」

「父は謝らなかった。次の日になると、何もなかったように新聞を読んでた」

「嫌でしたか」

「嫌だった。でも、父親とはそういうものだと思ってた」

 賢司は麦茶のグラスへ視線を落とした。

「自分は、同じことをしないと思ってたんだけどね」

「怒鳴ったとき、お父さんのことを思い出しましたか」

「あとから思い出した。声の出し方が似ていた」

 空は少し身を固くした。

 賢司はそれに気づいた。

「父と同じ家庭にしたいわけじゃない。だから、自分が怖かったことを、空さんにも我慢させたくない」

「でも、怒ることはあります」

「あると思う。空さんも由美も、僕に怒ることはあるだろう」

「もうあります」

 由美が言う。

「今の話は、僕が空さんに怒る場合のことだよ」

「私も怒るわよ」

「二人とも、少し待ってください」

 空が口を挟んだ。

「何?」

「三人とも怒るなら、普通ではないんですか」

 由美と賢司は同時に首を傾げた。

「普通かどうかは分からない」

 由美が答える。

「私たち三人にとっては、怒ることもあるでしょうね」

「怒らない家族もある」

 賢司が言う。

「毎日話す家族も、あまり話さない家族もある。食卓を囲まない家もある。家によって違うんじゃないかな」

「では、何が家族なんですか」

 空が尋ねた。

 二人はすぐには答えなかった。

「一緒に住むこと?」

 由美が言う。

「住んでいなくても家族はいるよ」

 賢司が答える。

「名字が同じこと?」

「私たちは違います」

 空が言う。

「戸籍?」

「今の空さんと僕たちは違う」

「では、何ですか」

「難しいな」

 賢司が腕を組んだ。

 由美は考えながら言った。

「少なくとも、完璧に分かり合うことではないと思う」

「どうして?」

「十九年一緒にいても、賢司の分からないところはあるから」

「僕も、由美の考えを全部分かってるわけじゃない」

「それでも一緒にいるんですか」

「分からないから話すのかもしれない」

 由美は空を見た。

「空さんについても、分からないことがたくさんある。分かったつもりになって、間違えることもある」

「私は、二人のことをほとんど知りません」

「では、これから少しずつ知って」

 賢司が言った。

「嫌なところも?」

「できれば、いいところも」

「賢司さんのいいところは、約束を忘れないところだと由美さんが言っていました」

「由美が?」

「悪いところは、細かいところ」

「それは聞かなくていい」

「同じところでしょう」

 由美が笑う。

「空さん、よく分かってきたわね」

「由美さんのいいところは、食べたいものを覚えているところ」

「悪いところは?」

「本人の前では言いにくいです」

「今まで散々言ってきたでしょう」

「先に答えるところです」

「それは、本当に気をつける」

 由美は笑いながらも、真剣にうなずいた。

「私のいいところは?」

 空が尋ねた。

 聞いた瞬間、自分でも驚いた。

 由美と賢司も、すぐには答えなかった。

「ないんですか」

「ありすぎて迷ってるの」

 由美が慌てて言った。

「それは言いすぎです」

「では、一つだけ」

 由美は空の顔を見る。

「本当は自分の好きなものを持っていて、それを少しずつ言葉にしてくれるところ」

「前にも聞きました」

「今も変わってないから」

 賢司も続けた。

「僕は、空さんが自分の間違いと相手の間違いを、分けて考えようとするところかな」

「賢司さんと似ているところですか」

「僕より空さんのほうが、きちんとできていると思う」

「褒めすぎです」

「空さんが聞いたんだろ」

 空は返す言葉を失い、麦茶を飲んだ。

「顔が赤いわよ」

 由美が言う。

「部屋が暑いからです」

「エアコンをつける?」

「そういうことではありません」

 賢司が笑い、由美もつられて笑った。

 空は二人を睨んだが、口元までは隠せなかった。

     *

 金曜日の夕方、空は美術部を終えて朝倉家へ向かった。

 玄関の鍵を開ける。

「ただいま」

 台所から由美の声が返ってきた。

「おかえり。今日は早かったのね」

「片づけが早く終わりました」

 空は靴を脱ぎ、鞄を自分の部屋へ置いた。

 以前なら、そのまま制服を着替え、夕食まで部屋で過ごしていた。

 今日はダイニングへ戻った。

 由美は豚肉へ小麦粉をまぶしている。

「生姜焼き?」

「やっと作るわよ」

「先週から二回変わりました」

「今日は変えない」

「賢司さんは?」

「会議が延びて、八時ごろになるって」

「夕食は食べる?」

「食べるそうよ」

「では、待ちますか」

「空さん、お腹は?」

「少し空いてる」

 敬語を使わずに答えたことへ、言ったあとで気づいた。

 由美も気づいたようだったが、何も言わなかった。

「先に少し食べる?」

「三人で食べたいです」

「では、塩パンが一つ残ってるから、半分にしようか」

「由美さんも食べるの?」

「私も少し空いてる」

 二人で塩パンを半分に分けた。

 空は台所の椅子へ座り、半分のパンを食べながら、今日の美術部のことを話した。

「窓の絵、完成しました」

「本当? 写真は?」

「撮ってきた」

 空はスマートフォンを取り出した。

 由美の横へ立ち、画面を見せる。

「これが若葉ホームの近くの海。こっちは、ここから見える建物です」

「同じ窓の中にあるのね」

「実際には見えないけど」

「でも、空さんには見えてるんでしょう」

「うん」

 また自然に返事が出た。

 由美は画面を拡大しようとして、指を止めた。

「触ってもいい?」

「写真くらいは、毎回聞かなくても大丈夫」

「本当?」

「消さなければ」

「消さないわよ」

 由美は画像を拡大した。

「この窓に映っているのが、空さん?」

「そう。隣は真帆」

「友達ね」

「うん」

 空はパンの残りを食べた。

「文化祭で展示するかもしれないって、篠原先輩に言われました」

「文化祭は、いつ?」

「九月」

「見に行ってもいい?」

 由美はすぐに言ったあと、口を押さえた。

「また先に聞きすぎた?」

「まだ四か月先です」

「そうよね」

「でも、来てもいいです」

 由美が目を見開いた。

「本当に?」

「絵が展示されるなら」

「賢司も?」

「二人で来ると、少し目立ちます」

「では、一人?」

 空は少し考えた。

「二人でいいです」

「分かった。今から予定を空けておく」

「日程をまだ言ってません」

「あ」

 由美が笑った。

 空も声を上げて笑った。

 玄関の鍵が回る。

「ただいま」

 賢司が帰ってきた。

「おかえりなさい」

 由美が答える。

 空もダイニングから顔を出した。

「おかえり。今日は早かったんですね」

 言ったあと、賢司と由美が同時に空を見る。

「何ですか」

「今、空さんが」

 賢司が言いかける。

「何も言わないでください」

 空は先に止めた。

「分かった」

 賢司は笑いをこらえながら靴を脱いだ。

「いい匂いがする」

「生姜焼きです」

「やっと?」

「賢司さんまで言わないで」

 由美が笑う。

 賢司がダイニングへ入ってくると、空はスマートフォンを渡した。

「これ、完成しました」

「窓の絵?」

「見れば分かります」

 賢司が画面を見る。

「海と街が同じ場所にあるね」

「そうしました」

「いいと思う」

「窓枠が少し曲がっているとは言わないんですか」

「言おうと思ったけど、今日はやめる」

「思ったんですね」

「少しだけ」

「直しません」

「それでいい」

 賢司はスマートフォンを空へ返した。

「文化祭に展示するかもしれません」

「見に行ってもいい?」

「由美さんと同じことを聞きますね」

「駄目?」

「二人で来てください」

 賢司の顔がわずかに緩む。

「分かった」

「その顔をしないで」

「どんな顔?」

「由美さんと同じ顔」

「夫婦だからね」

「それ、前にも聞きました」

 三人は笑いながら食卓を整えた。

 空が灰青色の皿を並べ、由美が生姜焼きを盛りつける。賢司は冷蔵庫から麦茶を出した。

 誰が何をするか、確認表を見なくても自然に動いた。

 三人が同じことを考えているわけではない。

 同じ名字でもない。

 怒り方も、謝り方も、育った家も違う。

 それでも、その違いを隠さず同じ食卓へ戻れるなら、今はそれでよいのかもしれない。

「いただきます」

 三人の声が重なった。

 賢司が生姜焼きを一口食べる。

「少し濃い?」

 由美が眉を上げた。

「私はこれくらいが好き」

 空が言う。

「では、賢司はご飯を多く食べて」

「そうする」

「空さん、ご飯は足りる?」

「まだある?」

「炊飯器に少し」

「じゃあ、あとで半分ください」

 由美が立ち上がろうとする。

「今すぐじゃなくていい」

 空が止めた。

「食べ終わってから、自分で取ります」

「分かった」

 由美は座り直した。

 誰かが先に答えなくても、先回りして動かなくても、食卓は止まらない。

 空は生姜焼きと一緒にご飯を食べた。

 家族の普通が何なのか、まだ分からない。

 けれど、分からないまま三人で暮らすことには、以前ほど不安を感じなくなっていた。



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