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『血の通わぬ糸』  作者: 久遠 睦


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第二十四章 応援席の二人

月最初の金曜日、空は二枚の入場券をダイニングテーブルへ置いた。

 赤い線の入った券と、青い線の入った券。どちらにも、文化祭の日付と学校名が印刷されている。

 由美は夕食の皿を運びながら、すぐに気づいた。

「これ、文化祭の?」

「来週の土曜日です」

「二枚ある」

「二人分だから」

 空は椅子へ座り、箸の位置を直した。

 由美は入場券を手に取ったが、表情を抑えようとしているのが分かった。

「賢司、空さんから文化祭の券」

 書斎から出てきた賢司が、由美の手元を見た。

「本当に二人で行っていいの?」

「前にも、二人で来ていいと言いました」

「確認しただけ」

「何度も確認すると、来てほしくないみたいに聞こえます」

「ごめん。行きます」

 賢司はすぐに言い直した。

「ただ、二人で校内を歩くと目立つかなと思って」

「二人とも、普通にしていれば大丈夫です」

「普通とは?」

 賢司の質問に、空は少し考えた。

「大きな声で名前を呼ばない。写真を何十枚も撮らない。美術部の展示で、ほかの人がいる前で泣かない」

 最後の条件を聞き、由美が顔を上げた。

「私だけに言ってる?」

「賢司さんは泣かないと思うので」

「僕も泣くことはあるよ」

「文化祭で?」

「分からない」

「では、二人とも泣かないでください」

 空は真剣に言った。

「努力します」

 由美が答える。

「努力ではなく、我慢してください」

「そんなに心配?」

「初登校の日の写真で泣きそうになっていたから」

「家の玄関と学校では違うわよ」

「家のほうが泣きやすいの?」

 賢司が尋ねる。

「賢司は黙っていて」

 由美が言い、空が笑った。

「ほかに条件は?」

 賢司が入場券を確認しながら聞く。

「美術部の展示は、十時からです。午後二時から、部員が作品を説明する時間があります」

「空さんも説明するの?」

「一人ずつ、自分の作品について話します」

「見に行ってもいい?」

「そのために券を渡しました」

「では、二時には美術室へ行く」

 賢司が予定をスマートフォンへ入力しようとする。

「一日中いるつもりですか」

「朝から夕方まで?」

「僕は、そのつもりだったけど」

 空は由美を見る。

「由美さんも?」

「せっかくだから、クラスの展示や模擬店も見たいと思って」

「朝から来なくてもいいです。私は準備があるし、二人の案内はできません」

「案内がなくても歩けるよ」

「学校は広いです」

「地図は?」

「当日、入口でもらえます」

「では、大丈夫」

 賢司はすでに一日の予定を組み立て始めているようだった。

「来るのは、お昼前でいいです」

 空が言うと、二人の動きが止まった。

「二時の展示だけでも大丈夫です。クラスは喫茶店だけだから」

「空さんは喫茶店の担当をするの?」

 由美が尋ねる。

「十一時から一時までです」

「では、そこへ行きたい」

「混みます」

「待つわよ」

「友達に会うかもしれません」

「挨拶してもいい?」

「挨拶くらいなら」

 空は箸を取った。

「でも、里親ですと、二人から説明しなくていいです」

「空さんが必要だと思ったときだけ?」

「はい」

「分かった」

 由美は入場券を賢司へ一枚渡した。

「何を着ていけばいいかしら」

「普通の服で」

「だから、その普通が難しいの」

「仕事へ行くときより、少し楽な服です」

「空さん、由美に服の相談をされるようになったね」

 賢司が言う。

「相談ではありません。派手にしないでと言っています」

「派手な服なんて持ってないわよ」

「先月買った赤い服は?」

「あれは赤というより、落ち着いた朱色」

「赤です」

「では、紺色にする」

 由美は少し不満そうに答えた。

「賢司さんも、仕事の服で来ないでください」

「休日にスーツは着ないよ」

「前に会社へ寄るからと、休日に着ていました」

「よく覚えてるね」

「二人が目立つと、私も目立つから」

「分かった。普通の服を二人で考える」

「二人で考えると、もっと変になりそうです」

「そこまで信用がないの?」

 由美が尋ねる。

「服については、少し」

 三人は笑った。

 空が文化祭へ招待したとき、二人が喜ぶことは予想していた。

 それでも、二人分の入場券を受け取ってから食卓へ置くまで、三日かかった。

 学校に二人が来る。

 美術部の友達やクラスメートに会う。

 朝倉家の外で、空と二人の関係を尋ねられるかもしれない。

 怖くないとは言えなかった。

 それでも、完成した絵を二人に見てほしいと思った。

     *

 文化祭の一週間前、美術室は普段の落ち着きを失っていた。

 床には段ボール箱や木材が積まれ、壁際には大小の作品が並んでいる。部員たちは展示用の説明文を書き、額縁を拭き、作品の順番を決めていた。

 空の絵は、窓際の壁に展示されることになった。

 題名は『窓の向こう』。

 画面の手前には美術室の窓枠。その向こうには、若葉ホームの近くにあった海と、朝倉家から見える高い建物が重なっている。窓ガラスには、部員たちの姿が薄く映っていた。

 空は説明文を何度も書き直した。

『見えない景色も、知っている人には見えると思って描きました』

 最初は、それだけだった。

 篠原が紙を読み、首を傾げる。

「短いね」

「何を書けばいいか分かりません」

「どうして、この二つの景色を同じ窓に入れたの?」

「どちらも知っているからです」

「では、それを書けば?」

「住んでいた場所のことまで書くんですか」

「書きたくなければ書かなくていいよ。でも、空がこの絵で何を描きたかったのか、もう少し聞きたい」

 空は絵を見た。

 海辺の町と、東京の街。

 若葉ホームと朝倉家。

 どちらが過去で、どちらが未来なのかを分けることはできなかった。若葉ホームとのつながりは今も続き、朝倉家での生活も永遠に続くと決まったわけではない。

 それでも、空の中には、どちらの景色もある。

「一つを選んだら、もう一つがなくなるわけではないと思いました」

 空が言うと、篠原がうなずいた。

「それ、いいじゃん」

「説明文にしますか」

「空が書きたいなら」

 空は新しい紙を取り出した。

『以前暮らしていた場所からは、海が見えました。今暮らしている場所からは、街の明かりが見えます。新しい場所を選んでも、前の景色が消えるわけではありません。二つの景色を、一つの窓の中に描きました』

 そこまで書き、手を止めた。

 里親家庭で暮らしていることを、説明文に入れる必要はない。

 だが、「今暮らしている場所」と書くだけで、自分には十分だった。

「空、こっち押さえて」

 真帆が展示用の布を持っている。

「今行く」

 空は説明文を机へ置き、真帆のところへ向かった。

「そっち、もう少し上」

「これくらい?」

「上げすぎ。少し下」

「真帆が押さえればいいでしょう」

「私が脚立に乗ると怖いから」

「私も怖い」

「空は平気そうに見える」

「見えるだけ」

 空は脚立の上で布の位置を整えた。

 菜月が下から見上げる。

「右が少し下がってる」

「どちらから見て右?」

「私から」

「空からだと左」

「ややこしい」

「菜月が上がれば?」

「私はもっと怖い」

 三人で言い合っていると、大崎が近づいてきた。

「手伝おうか?」

「お願いします」

 三人の声が重なった。

 大崎が笑い、脚立を押さえた。

「文化祭の日、水瀬の家の人も来るの?」

 菜月が尋ねた。

「来る」

「二人とも?」

「うん」

「賢司さんと由美さんだっけ」

「そう」

「会ってみたい」

 真帆が言う。

「どうして?」

「空が似てないって言うから、本当に似てないか見たい」

「血がつながっていないから、顔は似てないよ」

「顔じゃなくて、中身」

「似てない」

「最近、空が細かいことを確認するのは賢司さんに似たんでしょう」

「前からです」

「食べ物の話をするのは由美さんに似た?」

 菜月が言う。

「私は前から食べることは好きです」

「前は、そんなに話さなかったじゃん」

「今は話してるだけ」

「そこが変わったんだよ」

 真帆が笑った。

 空は言い返さず、布の端を留めた。

     *

 文化祭当日の朝、空はいつもより一時間早く家を出た。

「お昼前に行くからね」

 由美が玄関まで見送りに来た。

「はい」

「忘れ物は?」

「ありません」

「発表の原稿は?」

「鞄に入っています」

「入場券は私たちが持ってる」

「由美さんの忘れ物を確認しているんですか」

「違うわよ」

「私はもう学校へ行くので、二人の準備は自分たちでしてください」

「分かってます」

 由美は笑った。

「行ってらっしゃい、空さん」

「行ってきます」

 空が扉を開けると、寝室から賢司が出てきた。髪がまだ整っていない。

「間に合った。行ってらっしゃい」

「起きたばかり?」

「さっき起きた」

「文化祭は、お昼からです」

「分かってる」

「今から準備しないでください」

「しないよ」

「服は?」

「由美と昨日決めた」

「どんな服?」

「見てからのお楽しみ」

「不安になる言い方をしないで」

 賢司が笑った。

「普通の服だから安心して」

「では、あとで」

 空は二人へ背を向け、エレベーターへ向かった。

 扉が閉まる直前、由美と賢司が並んで立っている姿が見えた。

 空は小さく手を上げた。

 二人も同時に手を上げた。

     *

 文化祭が始まると、学校は普段とは別の場所になった。

 正門には色とりどりの旗が飾られ、校舎の窓にはクラスごとの看板が並んでいる。廊下には焼きそばや菓子の匂いが漂い、体育館からは吹奏楽部の演奏が聞こえた。

 空は午前中、美術室の受付を担当した。

「こんにちは。作品には触れないでください。写真撮影は、作者の許可があるものだけです」

 同じ説明を何度も繰り返す。

 展示室へ入ってくるのは、生徒だけではない。小さな子どもを連れた家族、卒業生、近所の人たちもいる。

 空の絵の前で立ち止まる人は多かった。

「海と街が一緒にある」

 小学生くらいの女の子が言った。

「本当だ。窓に映っている人もいるね」

 母親らしい女性が答える。

「どこから見た景色なんだろう」

「説明を読んでみたら?」

 二人は空の説明文を読み、もう一度絵を見た。

 感想を残す小さな用紙に、女の子が何かを書いた。

『海がとおくまでつづいていて、きれいでした』

 字の横には、青い魚の絵がある。

 空は女の子が去ったあと、その紙を読んだ。

 海は実際の景色ではない。若葉ホームの窓から見えた海とも、少し違う。

 それでも、知らない誰かに海が見えた。

「空、笑ってる」

 受付を交代しに来た真帆が言った。

「笑ってない」

「それ、もう無理があるよ」

 空は感想用紙を裏返した。

「隠さなくていいじゃん」

「見せたくない」

「あとで全部掲示するんだよ」

「今は、私が先に読みたいの」

「では、交代。クラスの喫茶店へ行く時間でしょう」

「分かった」

 空は感想用紙を箱へ入れ、美術室を出た。

     *

 二年三組の喫茶店は、教室の前まで行列ができていた。

 空はエプロンを身につけ、注文を取る役を担当した。

「コーヒー二つと、パンケーキ一つですね」

「アイスコーヒーにしてください」

「分かりました。席でお待ちください」

 注文票を厨房係へ渡し、次の客へ向かう。

 海辺食堂で働いていたため、接客には慣れている。クラスメートたちより動きが速く、注文の聞き間違いも少なかった。

「空、すごい」

 同じ係の菜月が言った。

「仕事でしていたから」

「パンケーキ運ぶのもお願い」

「分かった」

 二人分のパンケーキを盆へ載せ、窓際の席へ運ぶ。

 教室の入口から、紺色の服を着た由美が顔を覗かせているのが見えた。

 その後ろには、薄い灰色のシャツを着た賢司がいる。

 確かに普通の服だった。

 二人とも、空を見つけても声を上げなかった。由美が少しだけ手を振り、賢司は頭を下げた。

 空は盆を持ったまま二人へ近づいた。

「来たんですね」

「来てって言われたから」

 賢司が答える。

「混んでるわね」

 由美が教室の中を見る。

「三十分くらい待ちます」

「待つよ」

「ほかを見てきてもいいです」

「では、あとで戻ってこようかしら」

 由美は少し迷っている。

 空は教室の行列を見た。

「二人なら、一番後ろの席を取っておきます」

「いいの?」

「ほかの人には内緒です」

「えこひいきにならない?」

 賢司が尋ねる。

「予約席ではありません。空いたら案内するだけ」

「では、普通に待つよ」

「三十分ですよ」

「大丈夫」

「賢司さん、待つのが嫌いでしょう」

「今日は待てる」

 空は少し笑った。

「では、待っていてください」

 その言葉を言えることが、以前より自然になっていた。

     *

 二十分ほどして席が空き、空は由美と賢司を窓際へ案内した。

「ご注文は?」

「コーヒーを二つ」

 賢司が答える。

「パンケーキは?」

 空が尋ねる。

「甘いものは由美が――」

「一つください」

 由美が遮った。

「二人で食べるの?」

「空さんも少し食べる?」

「私は係です」

「では、賢司と半分にする」

「僕は甘いものが苦手だよ」

「空さんの学校のパンケーキでしょう」

「学校だから味は変わらない」

「注文は、パンケーキ一つでいいですね」

 空が確認すると、由美がうなずいた。

「お願いします」

「少し待ってください」

「空さん」

「何?」

「エプロン、似合ってる」

 由美が小声で言った。

「ありがとうございます」

「写真は?」

「あとで一枚だけ」

「覚えてたのね」

「撮りたい顔をしているから」

 空は注文票を持ち、厨房へ戻った。

 真帆が入口から教室を覗いていた。

「あの二人?」

「そう」

「挨拶してもいい?」

「今?」

「あとで美術室でもいいけど」

「少し待って」

 空はパンケーキとコーヒーを二人の席へ運んだ。

 由美は紙皿に載ったパンケーキを見て、楽しそうにしている。賢司は小さなプラスチックのフォークを持ち、どう分けるか考えていた。

「半分に切ればいいでしょう」

 空が言った。

「きれいに分けたい」

「文化祭のパンケーキです」

「大きさが違うと、由美が大きいほうを取る」

「賢司が甘いものはいらないと言ったんでしょう」

「一口は食べるよ」

「二人とも、後ろが待っています」

 空が言うと、由美が笑った。

「ごめんなさい。すぐ食べる」

 その様子を真帆が見ている。

「空」

 呼ばれ、空は振り向いた。

「紹介して」

「今?」

「今」

 真帆の後ろには菜月もいる。

 空は二人を由美と賢司の席へ連れていった。

「同じクラスで、美術部の高橋真帆と森川菜月です」

「初めまして」

 真帆が頭を下げる。

「空と同じ美術部です」

「いつも空さんがお世話になっています」

 由美が立ち上がりかける。

「由美さん、立たなくていいです」

 空が止めた。

「そう?」

「ここは喫茶店だから」

「では、座ったままで。朝倉由美です。こちらは夫の賢司」

「初めまして」

 賢司も頭を下げた。

 菜月が空を見る。

「朝倉さんたちって、どう紹介すればいいの?」

 悪意のない質問だった。

 空は少しだけ迷った。

「今、一緒に暮らしている家の人」

「家の人?」

「里親です」

 自分から付け加える。

 由美も賢司も、空の言葉を待っていた。

「そうなんだ」

 菜月はそれだけ言い、由美へ笑いかけた。

「空のお弁当、いつもおいしそうです」

「本当?」

 由美の顔が明るくなる。

「唐揚げが特に」

「菜月、食べたことあるの?」

 空が尋ねる。

「一個もらった」

「いつ?」

「先月」

「聞いてない」

「唐揚げ一個まで報告するの?」

 真帆が笑った。

「次は私にもください」

「真帆は焼きそばパンを半分くれたでしょう」

「また交換しよう」

 四人の会話を聞きながら、由美と賢司が笑っている。

 空は恥ずかしかった。

 だが、二人を紹介したことを後悔はしなかった。

     *

 午後二時、美術室には折り畳み椅子が並べられた。

 部員が一人ずつ前に立ち、自分の作品について話す。十人ほどの予定だった観客は、文化祭の案内を見た人たちが集まり、三十人近くになっていた。

 空は美術室の隅から椅子を見回した。

 由美と賢司は、最後列に並んで座っている。

 前へ来なくてよいと頼んだわけではない。

 それでも二人は、空の視界に入るぎりぎりの場所を選んでいた。

「緊張してる?」

 発表の順番を待ちながら、真帆が小声で聞いた。

「少し」

「朝倉さんたちを見ないほうがいいよ」

「見てない」

「さっきから三回見た」

「人数を数えてた」

「最後列だけ?」

「うるさい」

 真帆が笑う。

「大丈夫。空の絵、みんな立ち止まって見てるよ」

「それが余計に緊張する」

 前の部員の説明が終わり、拍手が起きた。

 大崎が空の名前を呼ぶ。

「次は、二年の水瀬空さんです」

 空は前へ出た。

 自分の絵の横に立つ。

 観客の視線が集まり、頭の中から用意した言葉が消えた。

 画用紙に書いた原稿は、手元にある。

 読み上げればよい。

 だが、最初の一行を見ても、声が出なかった。

 最後列を見る。

 由美は、励ますように笑っていない。賢司も、うなずいていない。

 二人とも、ただ座っている。

 空が話し始めるのを待っている。

 空は息を吸った。

「この絵の題名は、『窓の向こう』です」

 声が少し震えた。

「美術室の窓から見える景色を描く課題で、私は、実際には同時に見えない二つの場所を描きました」

 原稿から顔を上げる。

「海があるのは、以前暮らしていた町です。高い建物があるのは、今暮らしている場所です」

 会場は静かだった。

「私は最初、新しい場所へ行けば、前にいた場所から離れなければならないと思っていました。でも、暮らす場所が変わっても、前の場所で過ごした時間が消えるわけではありません」

 空は自分の絵を見た。

 若葉ホームの海。

 朝倉家の窓から見える街。

 美術室の窓へ映る部員たち。

「一つを選んでも、もう一つを捨てなくていいと思って、この絵を描きました」

 そこまで言い、頭を下げた。

 拍手が起きる。

 最初は小さく、やがて美術室全体へ広がった。

 空は最後列を見た。

 由美は両手で拍手をしている。泣いてはいない。目は少し赤いように見えたが、約束どおり声も出していない。

 賢司は由美よりゆっくりと拍手していた。

 空と目が合うと、わずかにうなずいた。

 それだけだった。

 空は自分の席へ戻った。

「上手に話せてたよ」

 真帆が小声で言う。

「途中で全部忘れた」

「そう見えなかった」

「原稿と違うことを言った」

「そのほうがよかったんじゃない?」

「分からない」

 空は膝の上で握っていた原稿を開いた。

 紙には、用意した文章が残っている。

 しかし、声にした言葉は、そこには書かれていなかった。

     *

 発表が終わると、観客は自由に作品を見て回った。

 由美と賢司が、空の絵の前へ来る。

「お疲れさま」

 賢司が言った。

「緊張した」

 空は敬語を忘れて答えた。

「そう見えなかった」

「真帆にも言われました」

「私、泣かなかったでしょう」

 由美が言う。

「少し危なかった」

「約束は守ったわ」

「目が赤いです」

「照明のせい」

「ここは白い照明です」

「少しくらいは許して」

 由美が笑った。

「この海、前に写真で見せてもらった場所?」

「若葉ホームの窓から見える海に近いけど、同じではありません」

「空さんの中にある海なのね」

「そうかもしれない」

 賢司は絵へ近づき、窓枠の部分を見る。

「今日は、曲がってると言わないんですね」

 空が尋ねる。

「もう言わないよ」

「少しは思っていますか」

「それを聞く?」

「賢司さんなら思ってると思って」

「線が少しだけ左へ傾いてる」

「やっぱり」

「でも、その傾きがあるから、窓の外と中が別の場所に見える」

 賢司は絵から離れた。

「僕は、直さなくてよかったと思う」

 空は賢司の横顔を見た。

「それ、考えてきた言葉ですか」

「今思った」

「本当に?」

「空さん、僕を疑いすぎじゃない?」

「前に、鍵の絵を見て曲がってると言いました」

「今回は成長したんだよ」

「五か月で?」

「人は変わる」

「自分で言わないで」

 由美が笑った。

 篠原が近づいてきた。

「空、このあと中庭でライブペイントがあるけど、来る?」

「受付は?」

「交代できる。真帆も出るよ」

「私は見るだけでいいです」

「もちろん」

 篠原は由美と賢司へ頭を下げた。

「空には、いつも助けてもらっています」

「空さんが?」

 由美がうれしそうに尋ねる。

「展示の順番や受付の予定を整理してくれました。私たち、そういうのが苦手で」

「賢司さんに似たんじゃない?」

 空が言うと、賢司が驚いた顔をした。

「今、自分から似てると言った?」

「予定を整理するところだけ」

「十分です」

 賢司が笑う。

「朝倉さんたちも、ライブペイントを見ますか」

 篠原が尋ねた。

 由美と賢司は空を見た。

「見てもいい?」

 由美が聞く。

 空は時計を確認した。

「二人は、もう帰る予定だった?」

「空さんの発表が終わったら、邪魔にならないうちに帰ろうかと話してた」

 賢司が答える。

「もう帰るんですか」

 自分でも意外なほど早く言葉が出た。

 由美と賢司が顔を見合わせる。

「残ってほしい?」

 由美が尋ねた。

「せっかく来たなら、見ていけばいいと思って」

「では、見ていく」

「夕方までいてもいい?」

「私のクラスの仕事は終わっています」

「一緒に回る?」

「少しなら」

 由美の顔が明るくなった。

「では、ライブペイントを見て、そのあと校内を案内して」

「全部は無理です」

「見たいところだけでいい」

「賢司さんは?」

「僕も残る」

「仕事は?」

「今日は休みだよ」

「本当に?」

「文化祭の途中で会社へ行ったりしない」

「では、中庭へ行きましょう」

 空は二人の前を歩いた。

 後ろからついてくる足音を確かめる必要はなかった。

     *

 中庭では、大きな白い布が壁へ張られていた。

 美術部員たちは音楽に合わせ、一人ずつ絵の具を加えていく。完成図は決められていない。前の人が描いた線や色を受け取り、次の人が新しい形を重ねる。

 観客用の椅子は、半分ほど埋まっていた。

 空は最後列の三席を見つけた。

「ここでいい?」

 由美が尋ねる。

「前でもいいです」

「後ろのほうが全体を見やすいから」

 三人は並んで座った。

 最初に篠原が青い線を引き、次の部員が黄色い円を描く。真帆は赤い絵の具で、円から伸びる枝のような形を加えた。

「何を描いてるの?」

 賢司が小声で尋ねる。

「決まっていません」

「完成図がないの?」

「一人ずつ、前の人の絵を見て加えます」

「失敗したら?」

「次の人が変えます」

「消すこともある?」

「あります」

 賢司は大きな布を見た。

「僕には難しそうだ」

「賢司さんは、先に完成図を作るから」

「空さんはできる?」

「分かりません。でも、やってみたいです」

「今日は参加しないの?」

「見学のつもりでした」

 そのとき、篠原が空を見つけた。

「空もやろう!」

 中庭全体に聞こえる声で呼ばれる。

 観客の視線が一斉に空へ向いた。

「呼ばれてる」

 由美が小声で言う。

「聞こえています」

「行ってきたら?」

 賢司は勧めたが、立ち上がらせようとはしなかった。

 空は大きな布を見た。

 完成図はない。

 失敗しても、次の人が線を加える。

 空は椅子から立ち上がった。

「鞄、持っていますか」

「持ってる」

 由美が空の鞄を受け取る。

「行ってきます」

「行ってらっしゃい」

 二人の声が重なった。

 空は中庭の中央へ走った。

 篠原から筆を受け取る。

 目の前には、青い線、黄色い円、赤い枝がある。

 海にも、太陽にも、木にも見えた。

 空は白い絵の具を取り、青い線の上へ細い波を描いた。その波を赤い枝の先までつなげる。

 何を描いたのか、自分でも説明できない。

 それでも、筆を動かすのが楽しかった。

「空、いいじゃん!」

 真帆が声を上げる。

 次の部員が緑色の絵の具を持ち、空の白い線へ葉を加えた。

 空の描いたものは、ほかの色の中へ溶けていく。完全には消えず、形を変えながら残った。

 空は最後列を見た。

 由美と賢司が並んで座っている。

 二人とも立ち上がらず、大声で応援もしない。ただ、空が次の人へ筆を渡すまで、同じ席から見ていた。

     *

 文化祭が終わるころ、校内放送で閉会の案内が流れた。

 空は美術室の片づけを終え、正門へ向かった。

 由美と賢司が、門の外で待っている。

「先に帰ってよかったのに」

 空が言うと、賢司が腕時計を見た。

「待ち合わせは五時だったから」

「少し遅れました」

「十分くらいだよ」

「由美さん、疲れていませんか」

「少し。でも楽しかった」

「パンケーキは?」

「味は普通だった」

 由美が答える。

「普通って言いましたね」

「高校の文化祭らしくて、おいしかったという意味」

「賢司さんは?」

「コーヒーは薄かった」

「そこは言わなくていいでしょう」

「空さんが聞いたんだよ」

 三人は駅へ向かって歩いた。

 朝倉家へ帰る前に、駅前の小さな洋食店で夕食を取ることになった。

 由美がオムライス、賢司がハンバーグ、空がグラタンを選ぶ。

「文化祭で一番よかったのは、何ですか」

 空が尋ねた。

「空さんの発表」

 由美がすぐに答える。

「それ以外」

「ライブペイント」

 賢司が言った。

「完成図がないのに、最後は一枚の絵になっていた」

「賢司さんには、できないでしょう」

「何度も言わなくていい」

「由美さんは?」

「空さんの友達に会えたこと」

「それも私のことです」

「では、吹奏楽部の演奏」

「二曲しか聞いてません」

「二曲でもよかったの」

 由美は笑った。

「空さんは?」

「私?」

「一番よかったこと」

 空は少し考えた。

 自分の絵を説明したこと。感想用紙に青い魚が描かれていたこと。真帆や菜月へ二人を紹介したこと。ライブペイントで白い線を加えたこと。

「二人が最後までいたこと」

 口にすると、由美と賢司が黙った。

「どうして何も言わないんですか」

「驚いてる」

 賢司が答える。

「帰ったほうがいいと思ってたから」

「どうして?」

「空さんが、僕たちに長くいられると困るかもしれないと思った」

「最初は、お昼からでいいと言いました」

「うん」

「でも、来てからは、もう少しいてもいいと思いました」

「そう言ってくれれば、いつでも残るわよ」

 由美が言う。

「いつでもは困ります」

「そこは変わらないのね」

「学校へ毎日来られたら困ります」

「毎日は行かない」

「本当に?」

「文化祭や学校行事だけ」

「それも私が来ていいと言ったときです」

「分かってる」

 由美は笑った。

「次はいつ?」

「まだ決まってません」

「決まったら教えて」

「考えておきます」

 空も笑った。

 注文した料理が運ばれてくる。

 三人は「いただきます」と言い、それぞれの皿へ向かった。

 グラタンは想像していたより熱く、空は最初の一口で舌を火傷しそうになった。

「熱い?」

 由美が水を差し出す。

「大丈夫」

「ゆっくり食べて」

「子どもではありません」

「高校二年生は、まだ子どもだよ」

 賢司が言う。

「文化祭では、何も言わずに後ろにいたのに」

「今は学校じゃないから」

「場所で変わるんですか」

「家族には、いろいろな場所があるんじゃない?」

 由美の言葉に、空は水を飲んだ。

「ここは家ではありません」

「では、家の人といる場所」

「由美さん、うまく言ったつもりですか」

「少し」

「普通です」

「空さんの普通は厳しいわね」

 三人は笑った。

     *

 文化祭の翌日、真帆から写真が送られてきた。

 美術部の発表中、空が自分の絵の横に立っている写真だった。

 空の奥、最後列には由美と賢司が並んで座っている。二人とも、ほかの観客と同じように空を見ていた。

 もう一枚は、中庭でのライブペイントだった。

 白い線を描く空の向こうに、二人の姿が小さく写っている。

『二人とも、ちゃんと来てたね』

 真帆のメッセージが続く。

『賢司さん、思ってたより怖くなかった』

 空は返信した。

『普段は怖くない』

『由美さんは、お弁当がおいしそうな人だった』

『どういう意味?』

『話したら分かる』

『私は分からない』

 真帆から、笑っている顔の絵が送られてきた。

 空は二枚の写真を保存した。

 印刷した写真を、自分の部屋の本棚へ飾る。

 若葉ホームのみんなと撮った写真の隣だった。

 二つの写真立ての間に、少し隙間がある。

 空はその間を詰めなかった。

 離れていても、同じ棚に置くことはできる。

 廊下から由美の声がした。

「空さん、朝ご飯できたわよ」

「今行く」

 空は敬語を使わずに返事をした。

 それが自然に出たことへ、あとから気づいた。

 部屋を出る前に、もう一度写真を見る。

 最後列の二人は、空よりも小さく写っている。

 それでも、そこにいることははっきり分かった。

 空は扉を開け、二人が待つ食卓へ向かった。


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