第二十五章 進路希望調査
十月の終わり、二年三組の教室で進路希望調査の用紙が配られた。
井上は一枚ずつ前から回しながら言った。
「今の希望で構いません。来年になれば変わる人もいます。大学、短期大学、専門学校、就職、まだ決められない。どこへ丸をつけても、それだけで進路が決まるわけではありません」
空の前にも、白い用紙が置かれた。
氏名欄へ、水瀬空と書く。
その下に、卒業後の希望を記入する欄があった。
大学進学。
短期大学。
専門学校。
就職。
未定。
空は鉛筆を持ったまま、動けなかった。
朝倉家へ移る前なら、迷わず就職へ丸をつけていただろう。
高校を卒業したら働く。
寮のある会社か、家賃補助のある会社を探す。最初の給料が出るまでに必要な生活費をため、施設を出る。
それが空の知っていた道だった。
今は、別の道もある。
図書室で借りた大学案内。美術館で見た海辺の絵。美術室に並ぶ画材。文化祭で、自分の絵の前に立って話した時間。
大学へ行きたいのかと聞かれれば、まだ自信を持って答えられない。
けれど、美術やデザインについて、もっと知りたいと思う。
空は大学進学の横へ、小さく丸を書きかけた。
その瞬間、以前見た学費の数字が頭に浮かんだ。
入学金。授業料。実習費。画材費。
朝倉夫妻は、費用について一緒に考えると言った。
払うとは約束していない。
それでよいと思った。
簡単にすべて出すと言われれば、空はますます怖くなっていただろう。
しかし、どこまで二人へ頼ってよいのかは分からない。
空は書きかけた丸を消した。
消しゴムの跡だけが、薄く残った。
「空、何にした?」
前の席から真帆が振り返った。
「まだ」
「私は大学」
「美術系?」
「一般大学。美術は部活で続けるかも」
「美術の大学へ行かないの?」
「絵だけで仕事をする自信ないし。それに、学費が高いから母が無理って」
「相談したの?」
「夏に言った。父に少し出してもらえないか聞くって言ってたけど、まだ返事ない」
真帆は用紙へ視線を落とした。
「私は何を勉強するか決めてないから、とりあえず大学に丸をつけた」
「そんな決め方でいいの?」
「井上先生が、変わってもいいって言ったじゃん」
「でも、提出するんでしょう」
「提出しても、来月また書くかもしれないよ」
真帆は空の用紙を見ようとした。
空は腕で隠した。
「見ないで」
「まだ何も書いてないじゃん」
「だから見ないで」
「分かった」
真帆は前を向いた。
斜め前の席では、菜月が看護系の専門学校へ丸をつけている。
「菜月は、もう決めてるの?」
空が尋ねると、菜月は振り返った。
「看護師になりたいから」
「いつから?」
「中学生くらい。祖母が入院したとき、担当してくれた看護師さんが優しかったから」
「迷わない?」
「迷うよ。血を見るの苦手だし、勉強も大変そう。でも、今はこれ」
菜月は用紙を指で軽く叩いた。
「空は美術系じゃないの?」
「決めてない」
「文化祭の絵、よかったのに」
「絵が一枚描けたから、大学へ行けるわけではない」
「行けるかどうかを、これから調べるんじゃない?」
空は返事をしなかった。
井上が黒板の前から言った。
「提出は来週の月曜日です。家庭でも話してきてください」
家庭。
その言葉を聞き、空は用紙を二つ折りにした。
鞄へ入れる。
朝倉夫妻に見せるかどうかは、まだ決められなかった。
*
放課後、美術室では文化祭の作品を片づけていた。
空の『窓の向こう』は、しばらく校内の廊下へ展示されたあと、美術室へ戻ってきている。
「家へ持って帰る?」
篠原が尋ねた。
「置く場所がありません」
「結構大きいもんね」
「学校に置いてもいいですか」
「年度末までは大丈夫。来年の作品が増えたら考えよう」
篠原は空の絵を壁へ立てかけた。
「進路希望調査、配られた?」
「はい」
「美大を考えてる?」
「まだ分かりません」
「大崎先生に相談したら?」
「美大へ行きたいと決めてから相談します」
「決めるために相談するんじゃないの?」
篠原の言葉に、空は黙った。
「私も去年、同じことを言ったよ」
「篠原先輩も?」
「行けるかどうか分からないのに、相談するのが恥ずかしかった。先生に、美大へ行きたい人だけが相談するんじゃなくて、興味がある人も相談していいって言われた」
「先輩は、どこへ行くんですか」
「芸術系の大学を二校受ける。一般大学も一校。美術の専門学校も考えてる」
「全部、受験方法が違いませんか」
「違う。だから大変」
篠原は笑った。
「空は、何がしたいの?」
「絵を描くことは好きです」
「画家になりたい?」
「分かりません」
「デザインは?」
「それも、まだ」
「では、今度の大学見学に行ってみたら?」
篠原が美術室の掲示板を指した。
十一月の土曜日に、都内の芸術大学で高校生向けの見学会が開かれる。学科説明、校内見学、学生作品の展示、進路相談が予定されていた。
「美術部で行くんですか」
「今回は自由参加。私は行く。真帆も行くって」
「費用は?」
「見学は無料。交通費と昼食代だけ」
空は案内を見た。
絵画学科、工芸学科、映像学科、視覚デザイン学科、空間デザイン学科。
知らない名前が並んでいる。
「これも、家で相談しないと」
「相談すればいいじゃん」
「簡単に言いますね」
「一回相談したことが、全部決まるわけじゃないよ」
空は案内用紙を一枚取った。
「持って帰るだけです」
「はいはい」
篠原は笑い、自分の作品を梱包し始めた。
*
その日の夜、空は進路希望調査と大学見学会の案内を机の引き出しへ入れた。
夕食のときに話そうと思っていた。
しかし、賢司は仕事の電話をしながら遅く帰宅し、由美も翌日の会議資料を確認していた。
「空さん、明日は美術部?」
由美が資料から顔を上げずに尋ねた。
「はい」
「帰りは?」
「七時くらい」
「夕食、食べる?」
「食べます」
「分かった」
それだけで会話が終わった。
空は進路の話を切り出さなかった。
自分の部屋へ戻り、宿題を始める。
十一時を過ぎ、喉が渇いたため廊下へ出ると、ダイニングから二人の話し声が聞こえた。
「このままなら、大学の費用は用意できると思う」
賢司の声だった。
空の足が止まる。
「空さんの進学費用?」
由美が尋ねる。
「ほかに大学へ行く人はいないだろ」
「私が今から行くかもしれない」
「由美は自分で払って」
「冗談よ」
紙をめくる音がした。
「私立の美術大学だと、一般大学より高いのね」
「授業料だけじゃない。実習費や画材費もかかる。自宅から通えない場所なら住居費も必要になる」
「空さんが行きたいなら、行かせてあげたい」
「気持ちだけで決めることじゃないよ」
「分かってる。でも、最初から高いから無理とは言いたくない」
「僕も言うつもりはない。ただ、どこまで負担できるかは考えないといけない」
「奨学金もあるでしょう」
「返済が必要なものなら、卒業後は空さんの負担になる。給付型は条件を調べる必要がある」
「空さん、費用を見たら就職すると言いそう」
「それが本人の希望なら、就職を否定する必要はない」
「本当の希望かどうかを確かめないと」
「由美が大学へ行ってほしいと思いすぎるのもよくない」
二人の声は落ち着いていた。
喧嘩をしているわけではない。
それでも空には、自分のいないところで、自分のために大きな金額が動いているように感じられた。
この家の貯金。
二人が働いて得た金。
本来なら、自分たちの老後や生活のために使うものだ。
空が大学へ行けば、その一部がなくなる。
空は麦茶を取りに行くのをやめ、部屋へ戻った。
机の引き出しから進路希望調査を出す。
鉛筆を持ち、就職の横へ丸をつけた。
今度は消さなかった。
*
翌日の放課後、空は進路希望調査を井上へ提出した。
井上は用紙に目を通し、空を見た。
「就職希望でいいの?」
「はい」
「前に、大学も選択肢に入れていると言っていなかった?」
「考えて、就職にしました」
「理由を聞いてもいい?」
「早く働きたいからです」
「どんな仕事を考えているの?」
「まだ決めていません」
「美術やデザインに関係する仕事は?」
「大学へ行かなければできないなら、諦めます」
井上は用紙を机へ置いた。
「水瀬さん、誰かに大学へ行くなと言われた?」
「言われていません」
「朝倉さんたちとは話した?」
「必要ありません」
「進学費用のことが気になっているの?」
空は答えなかった。
「この用紙は、いったん受け取るわ。でも、来月の面談までにもう一度考えてみて。就職が悪いと言っているのではないの。水瀬さんが本当に働きたいなら、そのための準備を始める。ただ、費用だけを理由に、興味のある分野を調べることまでやめる必要はないと思う」
「就職すれば、自分で生活できます」
「そうね」
「大学へ行けば、二人に払ってもらうことになります」
「そのことを、二人と話してから決めても遅くないでしょう」
「話せば、大丈夫だと言います」
「本当に大丈夫かどうかを決めるのは、水瀬さん一人ではないわ」
井上の言葉に、空の胸が詰まった。
「私のお金ではありません」
「だから、払う側の考えも聞く必要があるんじゃない?」
「払ってもらったら、返さないといけません」
「返してほしいと言われたの?」
「言われていません」
「では、それも含めて話してみて」
空は用紙を返してほしいとは言わなかった。
教室を出て、美術室へ向かう。
鞄の中には、大学見学会の案内が入ったままだった。
*
大学見学会の前日になっても、空は朝倉夫妻へ話さなかった。
真帆から、集合時間を確認するメッセージが届く。
『明日、九時に駅でいい?』
空はしばらく画面を見た。
『行けなくなった』
送信すると、すぐに電話がかかってきた。
「どうして?」
真帆は挨拶もせずに聞いた。
「予定ができた」
『何の予定?』
「家のこと」
『朝倉さんたちに、駄目って言われたの?』
「言ってない」
『言ってないのに、どうして行けないの?』
「大学へ行くか分からないから」
『行くかどうか決めるための見学でしょう』
「私は就職にした」
電話の向こうが静かになる。
『いつ?』
「進路希望調査に書いた」
『どうして?』
「早く働きたいから」
『本当に?』
「先生と同じことを聞かないで」
『だって、空、美術やデザインを見たいって言ってたじゃん』
「見るだけなら、仕事をしながらでもできます」
『大学へ行きたいって朝倉さんたちに言ったの?』
「言わない」
『何で?』
「お金がかかるから」
『空が勝手に決めたの?』
「私の進路です」
『空の進路だけど、お金を出すかどうかは朝倉さんたちが決めるんじゃないの?』
「それも先生に言われた」
『みんな同じことを言うなら、少しは聞けば?』
「真帆には関係ない」
空の声が強くなった。
しばらく沈黙が続く。
『関係ないけど』
真帆の声が少し低くなった。
『私は、空と一緒に見学へ行きたいと思っただけ』
「一人で行けばいいでしょう」
『行くよ』
「では、行って」
『分かった』
電話が切れた。
空はスマートフォンを机へ置いた。
胸の奥が痛んだ。
謝ろうと思ったが、何と謝ればよいのか分からない。進学を諦めることへ口を出さないでほしいという気持ちは、本当だった。
それでも、真帆が一緒に行きたいと言ったことまで拒む必要はなかった。
空はスマートフォンを手に取った。
そのとき、扉を叩く音がした。
「空さん、入っていい?」
由美の声だった。
「何ですか」
「学校から、進路面談の日程について連絡が来たの」
空は息を止めた。
「井上先生から?」
「保護者用の案内だけ。空さんが就職希望を出したと書いてあった」
「見たんですか」
「学校から届いた連絡だから」
「私に先に聞いてほしかった」
「どうして就職にしたの?」
由美の声には驚きが混じっていた。
「働きたいからです」
「大学は?」
「行きません」
「美術やデザインに興味があったでしょう」
「興味があるだけです」
「費用のこと?」
由美はすぐに気づいた。
空は立ち上がった。
「二人が話しているのを聞きました」
「いつ?」
「この前の夜。美術大学は高いって」
「聞いていたの?」
「聞こうとしたわけではありません」
「高いとは話した。でも、無理だとは言ってない」
「無理ではなくても、二人のお金を使います」
「それは、空さん一人が決めることではないでしょう」
「私の進路です」
「そうだけど、お金を出すかどうかは私たちにも――」
由美は途中で言葉を止めた。
井上や真帆と同じことを言いかけたのだと、空には分かった。
「どうして、みんな同じことを言うんですか」
「みんな?」
「先生も真帆も。私の進路なのに、私一人で決めるなって」
「一人で決めてはいけないとは言ってない」
「でも、相談しろと言う」
「相談することと、決めてもらうことは違うでしょう」
「相談したら、由美さんは大学へ行けと言います」
「行けとは言わない」
「行ってほしい顔をします」
由美が黙った。
「二人の期待どおりになりたくないと言ったのに」
「大学へ行くことが、私たちの期待どおりなの?」
「二人は、私に選択肢を増やしたいんでしょう」
「そうよ」
「増えた選択肢を選ばなかったら、がっかりしますか」
「しないとは言えない」
由美は正直に答えた。
「空さんが、費用への遠慮だけで諦めたら、私は悔しいと思う。でも、空さんが本当に就職を選ぶなら、応援したい」
「本当の希望かどうか、どうして由美さんが決めるんですか」
「決めてない。聞いているの」
「今は、聞かれたくないです」
空は扉へ視線を向けた。
「出ていってください」
由美は傷ついた顔をした。
それでも、言い返さなかった。
「分かった」
扉を閉める前に、由美が言った。
「面談の返事は、空さんが決めて。私が勝手に出席するとは答えないから」
扉が閉まった。
空は椅子へ座った。
自分の進路を守ったはずなのに、何か大切なものを遠ざけた気がした。
*
翌朝、空は一人で大学見学会へ向かった。
真帆へは、家を出る前に連絡した。
『昨日はごめん。一人で行くと言ったけど、やっぱり一緒に行ってもいい?』
真帆からの返事は短かった。
『九時。遅れないで』
駅へ着くと、真帆は改札前で待っていた。
「おはよう」
空が言う。
「おはよう」
真帆は少し不機嫌そうだった。
「昨日は、関係ないと言ってごめん」
「関係ないのは本当だけど」
「一緒に行きたいと言ってくれたことまで、断る必要はなかった」
「分かればいい」
「怒ってる?」
「少し」
「いつまで?」
「お昼くらいまで」
「長い」
「空の計画表みたいに、時間を決めてみた」
空は思わず笑った。
「誰に似たの?」
「空」
二人は電車へ乗った。
大学の最寄り駅には、高校生や保護者らしい人たちが大勢いた。親子で案内を見ている者もいれば、友達同士で歩いている者もいる。
真帆が空の隣へ並んだ。
「朝倉さんたちは来ないの?」
「言ってない」
「また?」
「今日は、まず自分で見たかった」
「それならいいけど」
二人は受付を済ませ、視覚デザイン学科の説明会へ入った。
教室の壁には、ポスター、商品パッケージ、本の装丁、駅の案内表示などが並んでいる。
絵を描くだけではない。
文字の形、写真の配置、色の組み合わせ。誰かへ情報を伝えるために、多くの要素が使われていた。
講師が学生の作品を映しながら説明する。
「デザインは、自分の好きなものを表現するだけではありません。誰に、何を、どのように伝えるかを考えることが重要です」
空は画面から目を離せなかった。
旅先で由美たちへ渡した手描きの地図を思い出した。
海辺食堂の献立表。若葉ホームの行事案内。学校の文化祭で作った展示の説明。由美が勤める出版社の本。
どれも、誰かへ何かを伝えるための形だった。
「空」
真帆が小声で呼ぶ。
「何?」
「顔が違う」
「どんな顔?」
「行きたい顔」
「まだ分からない」
「また言ってる」
説明会のあと、学生作品の展示を見る。
空は一冊の絵本の前で立ち止まった。文章と絵だけではなく、紙の手触りやページをめくる方向まで考えて作られている。
隣には、災害時の避難経路を分かりやすく示した案内板があった。高齢者や子どもにも見やすい色と文字を選んだという。
空が以前思っていた美術とは違った。
美術館で見る絵や、部室で描く作品だけではない。
人の生活の中にも、絵や色や文字がある。
進路相談の部屋では、学生が高校生の質問に答えていた。
「学費が心配なんです」
空は順番が来ると、最初に尋ねた。
学生は驚かず、資料を開いた。
「私も心配でした。給付型の奨学金と、大学独自の減免制度を使っています。アルバイトも週に二日しています」
「それだけで払えますか」
「全部は無理です。家からも一部出してもらっています」
「返すんですか」
「家に?」
「はい」
「返さなくていいと言われています。でも、私は卒業して働いたら、少しずつ何かしたいと思っています」
「何を?」
「まだ決めてません。旅行へ連れていくかもしれないし、家の修理代を出すかもしれない。お金をそのまま返すとは限らないと思っています」
学生は笑った。
「ただ、家の人に何も相談せずに決めるのは無理でした。出せる金額も、無理な金額も、話してもらわないと分からないから」
「行きたいと言ったら、反対されませんでしたか」
「最初は、就職できるのか心配されました。だから、卒業生の就職先や授業内容を一緒に調べました」
「それで?」
「今も心配はされてます」
学生は肩をすくめた。
「でも、心配されることと、諦めることは同じじゃないでしょう」
相談を終え、空は学費と支援制度の資料を受け取った。
真帆が廊下で待っている。
「どうだった?」
「高い」
「それは知ってる」
「でも、方法は一つではない」
「行きたい?」
空はすぐに答えなかった。
壁に貼られた学生作品を見る。
「視覚デザインを、もう少し知りたい」
「それ、朝倉さんたちに言えば?」
「帰ってから言う」
「本当に?」
「今日は言う」
真帆が笑った。
「では、怒るのはお昼までの予定だったけど、今終わりにする」
「予定より早い」
「いいことじゃん」
二人は大学の食堂へ向かった。
*
朝倉家へ戻ると、由美と賢司はダイニングにいた。
テーブルの上には、進路関係の資料も、家計の表もなかった。
「ただいま」
空が言う。
「おかえり」
二人の声が重なった。
「大学見学へ行ってきました」
空は鞄を持ったまま言った。
由美が立ち上がる。
「今日だったの?」
「昨日、言えませんでした」
「一人で?」
「真帆と」
「どうだった?」
空は由美の質問にすぐ答えず、自分の部屋へ鞄を置いた。
戻ってくると、二人の向かいへ座った。
「視覚デザイン学科を見ました」
「視覚デザイン?」
賢司が尋ねる。
「ポスターや本、商品の箱、案内表示を作る勉強です。絵を描くだけではなくて、誰に何を伝えるかを考えます」
「空さんは、そこへ行きたいの?」
由美の声は慎重だった。
「まだ、この大学に決めたわけではありません」
「うん」
「でも、デザインを勉強できる大学や専門学校を調べたいです」
由美が何か言いかけたが、黙った。
空が続きを話すのを待っている。
「費用は高いです。二人に全部出してもらうつもりはありません。奨学金や授業料の減免を調べます。アルバイトもします」
「アルバイトの時間が多すぎると、実習や課題へ影響するかもしれない」
賢司が言った。
「それも見学会で言われました」
「では、現実的な金額を一緒に考えよう」
「表にしますか」
「必要なら」
「表だけで決めないでください」
「決めない。空さんが何を学びたいかを先に聞く」
賢司は答えた。
空は由美を見る。
「由美さん」
「何?」
「昨日、出ていってと言ってごめんなさい」
「話したくないときに、部屋から出てほしいと言うのは悪いことじゃないわ」
「でも、言い方が強かった」
「私も、驚いて質問を重ねた。ごめんなさい」
「進路希望調査には、就職と書きました」
「変更できるの?」
「井上先生が、もう一度考えていいと言いました」
「空さんは、変えたい?」
「大学進学に変えます。志望分野は、デザインです」
由美は目元を押さえそうになり、手を止めた。
「泣かないでください」
「まだ泣いてない」
「文化祭でも聞きました」
「今日は家だから、少しくらいいいでしょう」
「私が大学へ行くと、決まったわけではありません」
「分かってる。ただ、空さんが言ってくれたことがうれしいの」
「期待しすぎないでください」
「努力する」
「由美さんの努力は、少し心配です」
空が言うと、賢司が笑った。
「そこは僕も同意する」
「二人ともひどい」
由美は笑いながら目元を拭いた。
賢司が席を立ち、書斎へ向かおうとした。
「表を取りに行くんですか」
空が尋ねる。
「違う。ノートだけ」
「同じです」
「では、今日は何も出さない」
賢司は座り直した。
「まず、空さんが見てきたものを聞く」
空は鞄から資料を取り出した。
学科の授業内容、学生作品、学費、奨学金、卒業後の進路。今日見たものを、一つずつ説明する。
由美は本の装丁の写真へ興味を示し、賢司は案内表示のデザインを長く見ていた。
「空さん、昔から地図を描くのが上手だったものね」
由美が言う。
「昔といっても、会ったばかりのころでしょう」
「あの手描きの地図、まだ持ってる」
「捨てていないんですか」
「大事なものだから」
「道を描いただけです」
「分かりやすかった。あの地図がなかったら、帰りに迷ってたかもしれない」
「大げさです」
「でも、誰かへ道を伝えるのもデザインなんでしょう?」
空は資料の案内図を見た。
「たぶん」
「空さんに合っているかもしれない」
「まだ決めないで」
「合っているかもしれないと言っただけ」
「由美さんは、すぐ先へ行きます」
「今日はこのくらいにする」
由美が自分の口を手で押さえた。
空は笑った。
*
翌週、三人は進学費用について話し合った。
賢司は一枚の表を作ったが、金額を細かく決めるためではなく、選択肢を並べるためのものだった。
私立大学。公立大学。専門学校。
自宅から通う場合。一人暮らしをする場合。
奨学金。授業料の支援。朝倉夫妻が負担できる金額。空がアルバイトで負担する金額。
未定の欄が多かった。
「決まっていないことばかりですね」
空が言う。
「今は、それでいい」
賢司が答える。
「空さんが学校を調べて、僕たちが家計を確認する。奨学金や支援制度については、相沢さんにも相談する」
「二人が負担する金額は?」
「候補の学校が決まってから話そう」
「上限はありますか」
「ある」
「今、教えてください」
空が言うと、賢司は由美を見た。
由美もうなずく。
賢司は、現在の貯蓄や今後の生活を考え、年間で負担できるおおよその金額を伝えた。
空が想像していたより大きかった。
「そんなに出して、大丈夫なんですか」
「僕たちの生活を無理に削らない範囲で考えた」
「老後は?」
「それも計算している」
「本当に?」
「それは信用してほしい」
「賢司さんの計算は信用しています」
「僕自身は?」
「今は計算の話です」
由美が笑った。
「空さん、少しずつ賢司の扱いが上手になってる」
「扱っていません」
「では、お願いがある」
賢司が言った。
「この金額を、借金だとは考えないでほしい」
「でも」
「空さんに使うと、僕たちが決める金だ」
「私が大学を辞めたら?」
「理由を聞く」
「前にも聞きました」
「答えは変わらない」
「返せとは言わない?」
「言わない」
由美も続けた。
「その代わり、私たちが何でも出すとは思わないで。高い画材や必要以上の買い物については、一緒に考える」
「はい」
「アルバイトも、学業や体調へ影響が出たら見直す」
「それは私が決めます」
「空さんが中心に決める。でも、疲れているのに大丈夫と言い続けたら、私たちも意見を言う」
由美の言い方は以前より慎重だった。
「分かりました」
空は表の未定欄へ、自分で一つ書き加えた。
志望分野――視覚デザイン、情報デザイン、装丁。
「装丁?」
由美が尋ねる。
「本を作るデザインです」
「私の会社にも装丁をする人はいるけど、今すぐ会わせたりはしないわよ」
「先に言われました」
「前なら、すぐ見学を考えていたから」
「成長したね」
賢司が言う。
「自分で言わないでください」
空と賢司の声が重なった。
三人は顔を見合わせ、笑った。
*
月曜日、空は井上のところへ新しい進路希望調査を持っていった。
就職の横につけた丸は、きれいに消した。
大学進学の横へ丸をつける。
志望分野には、「美術・デザイン系」と書いた。
「話し合えた?」
井上が尋ねる。
「はい」
「朝倉さんたちに大学へ行けと言われたの?」
「言われていません」
「では、水瀬さんが決めた?」
「まだ大学そのものは決めていません。でも、調べることにしました」
「それで十分よ」
「就職に戻るかもしれません」
「そのときは、また話しましょう」
井上は新しい用紙を受け取った。
「前の用紙は、どうしますか」
「学校で保管する必要はないから、返すわ」
就職へ丸をつけた用紙が、空の手元へ戻ってきた。
空は二枚を見比べた。
どちらも、そのときの自分が書いたものだった。
就職したいという気持ちが嘘だったわけではない。早く自分の収入を得て、誰にも負担をかけずに暮らしたいと思っていた。
今も、その気持ちは残っている。
それでも、負担をかけないことだけを基準に未来を決めなくてもよいと、少しずつ思えるようになった。
「先生」
「何?」
「前の用紙も持って帰っていいですか」
「いいけど、どうするの?」
「残しておきます」
空は二枚を鞄へ入れた。
*
その日の夕方、空は美術部を終え、朝倉家へ帰った。
「ただいま」
台所から由美が答える。
「おかえり。今日はどうだった?」
「進路希望調査を出し直しました」
空は靴を脱ぎながら言った。
「大学進学?」
「うん。美術とデザイン」
由美が台所から出てくる。
「そう」
「それだけ?」
「うれしいと言うと、期待しすぎだと言われるから」
「少しくらいなら、いいです」
「では、少しうれしい」
「少し?」
「かなりうれしい」
「すぐ増えましたね」
二人は笑った。
賢司はまだ帰っていなかった。
空は連絡用グループへ、自分からメッセージを送る。
『進路希望調査を、大学進学へ変更しました。志望分野は美術・デザイン系です』
賢司からの返信は、十分ほどして届いた。
『了解。帰ったら、お祝いに何を食べたいか聞かせてください』
空は由美へ画面を見せた。
「お祝いですか」
「進学が決まったわけではないのにね」
「賢司さんも、すぐ先へ行きます」
「何が食べたい?」
由美も尋ねた。
「由美さんまで?」
「進路を決めたお祝いではなくて、自分の希望を書けたお祝い」
空は少し考えた。
「餃子」
「急ね」
「食べたいものを聞いたでしょう」
「今日は材料がないから、明日でもいい?」
「いいです」
由美は指を折りながら、数を数え始めた。
「何個食べる?」
「十個」
「多くない?」
「由美さんが聞いたんです」
「分かった。明日は三十個作ろう」
「賢司さんは十二個食べます」
「では、三十二個」
「由美さんは?」
「十個」
「全部で三十二個ですね」
「空さん、計算が早い」
「これくらいはできます」
空は自分の部屋へ向かった。
机の引き出しへ、二枚の進路希望調査を入れる。
就職と書いた紙。
大学進学と書いた紙。
どちらかを捨てる必要はなかった。
自分で働きたいという気持ちも、学びたいという気持ちも、空の中にある。
今は、選択肢を閉じずに進む。
空は大学見学会でもらった資料を開き、次の見学会の日付へ印をつけた。
今度は、由美と賢司にも見せてから申し込もうと思った。




