第二十六章 選んだ春
高校三年生になった最初の日、空は教室の窓際で、新しい時間割を手帳へ書き写していた。
去年までの教室より一つ上の階になり、窓から見える校庭が少し遠くなった。桜はすでに半分ほど散り、風が吹くたび、淡い花びらがグラウンドの端へ流れていく。
「空、選択授業は何にした?」
前の席へ座った真帆が振り返った。
二年生に続き、三年生でも同じクラスになった。
「美術と英語表現」
「英語、好きだったっけ?」
「必要だから」
「受験?」
「たぶん」
「まだ、たぶんなんだ」
真帆は笑った。
空の志望分野は、美術・デザイン系から変わっていない。
それでも、志望校までは決めきれていなかった。
都内の私立大学、公立大学、専門学校。視覚デザイン、情報デザイン、装丁、広告、映像。学校によって授業も費用も入試方法も違う。
「真帆は?」
「日本史と国語表現。私は一般大学だから」
「学部は?」
「社会学か心理学。まだ迷ってる」
「去年から、あまり進んでないね」
「空に言われたくない」
真帆は机の上へ、進路指導室でもらった冊子を置いた。
「今日、最初の進路希望調査があるって」
「去年も何度も書いた」
「今年は受験校まで書くんだって」
「まだ決めてない」
「とりあえず、候補を書けばいいじゃん」
真帆は変わらず簡単に言う。
空は以前なら、その言い方に少し腹を立てていた。
今は、真帆が本当に簡単だと思っているわけではないと分かっている。迷っていても、用紙へ書いてから考えればよいと言っているのだ。
「三つあります」
「では、三つ書けば?」
「順番が決まってない」
「今日の気分で並べる」
「そんな決め方でいいの?」
「提出するたびに変えていいって、井上先生が去年言ってたでしょう」
前方の扉が開き、井上が入ってきた。
「高橋さん、私の話を先にしないで」
「すみません」
教室に笑いが起きる。
井上は教卓へ書類を置いた。
「今、高橋さんが説明してくれたとおり、進路希望調査を配ります」
真帆が空へ、小さく得意そうな顔をした。
「ただし、今日の気分だけで決めないこと」
井上が続ける。
真帆の顔が戻り、空は声を出さずに笑った。
「第三希望まで書いてください。学校名が決まっていない人は、大学、専門学校、就職などの区分だけでも構いません。保護者と話し合ったかどうかを記入する欄もあります」
用紙が配られる。
空は氏名欄へ、水瀬空と書いた。
第一希望の欄に、東都造形大学・情報デザイン学科。
第二希望に、都立芸術文化大学・視覚デザイン専攻。
第三希望に、城南デザイン専門学校・グラフィックデザイン科。
順番は、学費の安さでも、知名度でもなかった。
東都造形大学の見学会で、学生が制作した本や案内表示を見たとき、もう少し知りたいと思った。その気持ちを一番上へ置いた。
保護者との相談欄には、「相談済み」と書いた。
朝倉家で何度も話し合った。
由美は東都造形大学の装丁や編集デザインの授業に興味を示し、賢司は都立芸術文化大学の学費と就職先を調べた。どちらも、この学校にしなさいとは言わなかった。
三人で並べた選択肢を、最後に空が順番へ変えた。
「空、決まった?」
真帆が小声で尋ねる。
「うん」
「第一希望は?」
「あとで」
「隠すほどのこと?」
「提出する前に声に出すと、変えたくなる」
「では、提出したら聞く」
空は用紙を裏返した。
第一希望と書いた文字が、紙の裏から薄く透けていた。
*
五月に受けた模擬試験の結果は、空が期待していたものより悪かった。
第一希望の東都造形大学はD判定。
都立芸術文化大学はE判定。
英語と国語は平均に届いたが、数学が大きく足を引っ張っていた。実技については模擬試験の判定へ含まれていない。
放課後の進路指導室で、空は結果票を見つめた。
「Eは、一番下ですよね」
「今の段階ではね」
井上が答える。
「都立芸術文化大学は、学科試験の配点が高い。これから伸ばす必要があるわ」
「間に合いますか」
「簡単に間に合うとは言えない」
井上は空の前へ、過去の入試結果をまとめた資料を置いた。
「ただ、今の判定だけで受験をやめる必要もない。東都造形大学は、総合型選抜なら作品と面接、小論文の比重が大きい。一般選抜もある。城南デザイン専門学校は、面接と作品提出が中心」
「都立は?」
「学科の勉強を続ける。夏の結果を見て、改めて考えましょう」
「全部受けるんですか」
「それを決めるのは水瀬さんよ」
空は結果票を二つ折りにした。
「朝倉さんたちに見せたくない?」
井上が尋ねる。
「見せます」
「本当に?」
「隠すと、あとで余計に面倒です」
「面倒?」
「二人とも、私が隠した理由から考え始めるから」
井上が笑った。
「よく分かっているのね」
「分かるようになりました」
進路指導室を出る。
結果票は鞄の奥へ入れず、一番上へ置いた。
*
空が朝倉家へ帰ると、由美はまだ仕事から戻っていなかった。
賢司が台所で、玉葱の皮を剥いている。
「ただいま」
「おかえり」
「今日は早いですね」
「在宅勤務に切り替えた。夕食はカレー」
「また?」
「今月は初めてだよ」
「先月の終わりに食べました」
「月が変わったからいいだろ」
「そういう数え方ですか」
空は鞄を椅子へ置き、結果票を取り出した。
「模試、悪かったです」
賢司の手が止まる。
「見てもいい?」
「そのために出しました」
賢司は手を洗い、結果票を受け取った。
空は賢司の顔を見ていた。
眉間に皺が寄る。数学の点数を見ているのだろう。口元がわずかに動いたが、何も言わない。
「低いでしょう」
「数学は低いね」
「正直ですね」
「高いとは言えない」
「東都造形大学はD。都立はEです」
「書いてある」
「無理だと思いますか」
賢司は結果票をテーブルへ置いた。
「空さんは、やめたい?」
「分かりません」
「では、この結果だけで決めなくてもいいと思う」
「賢司さんなら、もっと計算すると思いました」
「必要ならするよ。でも、今日は模試を受けた日だろ」
「先週です」
「結果を受け取った日」
賢司は玉葱をまな板へ戻した。
「夕食を食べてから考えよう」
「分析しないんですか」
「空さんが手伝ってほしいならする。でも、見せたからといって、すぐ僕が計画を作る必要はないだろ」
空は少し驚いた。
「成長しましたね」
「誰の影響だろうね」
「由美さんですか」
「空さんだと思って言ったんだけど」
「自分で言わせるのは違います」
賢司が笑う。
「カレー、手伝う?」
「玉葱を切るなら」
「泣くよ」
「玉葱くらいで泣きません」
「そういう意味ではなくて、目に染みる」
「分かっています」
空は制服から着替え、台所へ戻った。
由美が帰宅したのは、カレーが煮え始めたころだった。
「ただいま。いい匂い」
「おかえり」
空が答える。
「今日は二人で作ったの?」
「私が玉葱と人参を切りました」
「賢司は?」
「じゃがいも」
由美が鍋を覗いた。
「今日は大きく残ってる」
「僕も上達するんだよ」
「皮は?」
「少し厚かったです」
「空さん、それは言わなくてもいいだろ」
三人で食卓へ座る。
空は模試の結果を由美にも見せた。
「悪かったです」
「うん。数学は大変そうね」
「二人とも同じところを見ます」
「ほかは、思っていたほど悪くないでしょう」
「第一希望はDです」
「Dから上がった人もいるんじゃない?」
「簡単に言わないでください」
「ごめん」
由美は結果票を空へ返した。
「今日は、励まされたくない?」
「分かりません」
「では、何も言わずにカレーを食べる?」
「少しだけ、どう思うか聞きたいです」
空はカレーを一口食べた。
「難しいと思いますか」
「難しいと思う」
賢司が答える。
由美が賢司を見る。
「でも、難しいことと、やめたほうがいいことは同じじゃない」
賢司は続けた。
「夏まで勉強して、作品も準備する。そのあとで受験方法を考えても遅くないと思う」
「数学はどうすれば?」
「それは、学校の先生に聞いたほうがいい。僕が教えることもできるけど、教え方が合うか分からない」
「賢司さん、数学は得意だったんですか」
「高校のころは」
「今は?」
「忘れているところもある」
「では、少しだけ試します」
「試す?」
「教え方が合うか」
「僕が試されるんだね」
「空さんに教えるの、大変よ」
由美が言う。
「どうして?」
「分からないところを曖昧にしないから」
「それはいいことだろ」
「賢司も、説明を曖昧にしないでしょう。二人とも譲らなくなりそう」
「由美さんは、数学できますか」
「私は二人を応援する」
「できないんですね」
「はっきり言わなくていいの」
空は笑った。
模試の結果は変わらない。
それでも、食卓へ出したことで、紙に印刷されたDとEが少しだけ小さく見えた。
*
数学の勉強は、由美の予想どおり、二日目で行き詰まった。
「どうして、この式を先に変形するんですか」
空が尋ねる。
「そのほうが計算しやすいから」
賢司が答える。
「変形しなくても解けます」
「解けるけど、時間がかかる」
「私は、このほうが分かりやすいです」
「入試では時間も大事だよ」
「でも、分からない方法を使うと間違えます」
「まず手順を覚えて、それから意味を――」
「意味が分からないまま覚えるのは嫌です」
ダイニングテーブルの向かいで、二人は同じ問題集を見ながら動かなくなった。
由美はソファで本を読んでいたが、ページをめくる手を止めた。
「休憩にしたら?」
「まだ三十分です」
空が言う。
「三十分で、もう喧嘩になりそうよ」
「喧嘩ではない」
賢司が答える。
「では、その硬い顔は何?」
「説明を考えている」
「空さんも、眉間に皺が寄ってる」
空は自分の額へ触れた。
「怒ってません」
「賢司も?」
「怒ってない」
「では、二人でお茶を飲んで」
由美は麦茶を二人の前へ置いた。
空は一口飲み、問題集を見た。
「学校の補習を受けます」
「僕の教え方が悪かった?」
「悪いとは言ってません。合わないだけです」
「二日で?」
「一日目から少し思っていました」
「なら、早く言ってくれれば」
「賢司さんが、やる気だったから」
「僕のために続けなくていいよ」
賢司は問題集を閉じた。
「では、補習を受ける。分からない問題があって、空さんが僕に聞きたいと思ったときだけ聞く。それでどう?」
「うん。それがいいです」
空は自然にうなずいた。
「一問だけ、今聞いてもいい?」
「どうぞ」
「この変形の意味を、もう一度説明してください」
「そこは聞くんだ」
「全部が合わないとは言ってません」
由美が笑った。
「二人とも、少しだけ似ているわね」
「今は数学の話です」
空と賢司の声が重なった。
*
六月、空は週に二回の数学補習へ通い始めた。
美術部では、受験用の作品を準備する時間が増えた。大崎と相談し、これまで描いた鍵、部室の窓、美術館で見た海辺の二人をもとに、新しい作品を作ることになった。
だが、受験のために描くと思った途端、筆が動かなくなった。
誰かに評価される絵。
合格するための絵。
そう考えるほど、何を描いても間違っているように見える。
「空、また消したの?」
真帆が隣から尋ねた。
「形が違う」
「昨日も同じこと言ってた」
「昨日と違うところです」
「そこ、もう三回描き直したよ」
「数えてたの?」
「隣で見てたら分かる」
空は消しゴムを置いた。
「真帆は、受験勉強どう?」
「聞かないで」
「模試は?」
「CとD」
「私よりいい」
「学科が違うでしょう。私は実技がないし」
真帆は自分の英単語帳を閉じた。
「空、最近ずっと疲れてるよ」
「普通です」
「それ、疲れてる人が言うやつ」
「美術部と補習があるから」
「土日も大学見学でしょう」
「今月は二回だけ」
「朝倉さんたち、何も言わないの?」
「言う。由美さんは早く寝ろって。賢司さんは一週間の予定を減らせって」
「減らした?」
「日曜の午前中は何もしないことにした」
「何もしない予定を入れたんだ」
「賢司さんが」
真帆が笑った。
「本当に似てきたね」
「それは言わないで」
空は画用紙を見た。
「今週の日曜日、若葉ホームへ行く」
「久しぶり?」
「一か月ぶり」
「泊まるの?」
「土曜日から泊まる。二人には言ってある」
「寂しがられた?」
「由美さんは少し。賢司さんは、帰る時間だけ聞いた」
「もう怒鳴らない?」
「怒鳴らない。充電器も持ってる」
「私のお母さんの車にも乗る?」
「次は乗せてもらう」
「よし」
真帆が満足そうにうなずいた。
*
若葉ホームでは、莉子が就職用の履歴書を書いていた。
食堂の長い机に、求人票が三枚広げられている。
「どこを受けるの?」
空が隣へ座る。
「駅前のホテル。従業員寮があるから」
「接客?」
「最初は清掃か、レストランの補助。慣れたらフロントもできるかも」
「莉子、知らない人と話すのが苦手でしょう」
「だから、最初は裏の仕事」
「ほかは?」
「食品工場と介護施設。介護は資格を取りながら働けるって」
「どれがいいの?」
「まだ分かんない」
莉子は履歴書へ視線を落とした。
「空は大学でしょう」
「まだ受かってない」
「でも、行くんでしょう」
「行きたいとは思ってる」
「いいな」
莉子の声が小さくなった。
空は何と答えればよいか迷った。
「莉子も大学へ行きたい?」
「違う」
「では、何が?」
「選ぶものが多いのが、少しうらやましいだけ」
「私も、前は就職しか考えてなかった」
「今は朝倉さんたちがいるから、大学を選べる」
莉子の言葉は間違っていない。
それでも、胸の奥が少し痛んだ。
「うん」
空は否定しなかった。
「二人がいなかったら、大学を調べなかったと思う」
「ずるいって言ったわけじゃないよ」
「分かってる」
「私も、空と同じ家に行きたいわけじゃない。知らない夫婦と暮らすなんて無理」
「私も最初は無理だと思った」
「今は?」
「喧嘩するし、面倒なときもある。でも、帰る場所にはなった」
「家族?」
空は少し考えた。
「まだ、言葉にすると難しい」
「またそれ?」
「簡単に決める必要はないでしょう」
「空らしい」
莉子は履歴書へ向き直った。
「私はホテルを第一希望にする」
「どうして?」
「寮があるからだけじゃなくて、制服が少し格好いい」
「それで決めるの?」
「最初の理由なんて、それくらいでよくない?」
空は求人票の制服写真を見た。
「本当に、制服で?」
「半分。説明会で話した人が、失敗しても仕事は覚えられるって言ってたから」
「では、半分ずつ?」
「空の大学だって、見学会の本がきれいだったからでしょう」
「本だけではありません」
「最初はそうだったじゃん」
莉子が笑う。
空も笑った。
「面接の練習、する?」
「空が?」
「海辺食堂で接客をしていたから」
「面接とは違う」
「長谷川さんにも頼めばいい」
「では、空は厳しい客の役」
「ホテルの客は、みんな厳しくありません」
「空の細かい質問に答えられたら、本番は大丈夫そう」
莉子は履歴書を空の前へ置いた。
二人で志望動機を考えた。
空が大学へ行くことと、莉子が就職すること。
どちらが優れているわけでもない。
それぞれが、持っている選択肢の中から進む道を選ぼうとしていた。
*
七月、美術部の最後の校内展が開かれた。
三年生は、この展示を終えると正式に引退する。
空は受験用に描き始めた作品を出した。
題名は『帰路』。
雨の駅に立つ一人の少女と、その足元から三方向へ伸びる道を描いた。一本は海へ、一つは高い建物のある街へ、もう一つは画面の外へ続いている。
大崎は絵の前に立ち、長く見ていた。
「まだ完成していないね」
「展示の日までに描きました」
「期限へ間に合わせたという意味では完成してる。でも、空はこの道の先をまだ決めてないでしょう」
「決めたほうがいいですか」
「絵の中では、決めなくてもいいと思う」
「では、何が足りないんですか」
「少女が、どこを見ているのか分からない」
空は自分の絵を見た。
少女の顔は横を向き、目元は髪で隠れている。
「分からないように描きました」
「なぜ?」
「どこへ行くか決めていないから」
「それなら、このままでいい。ただ、空自身がそのことを分かって描いたのならね」
大崎は空へ向き直った。
「技術だけで言えば、まだ足りないところは多い。形を正確に取る力も、色を重ねる方法も、受験までに練習が必要になる」
「はい」
「でも、空は何を描くかを考えられる。それは大切にしたほうがいい」
「受かると思いますか」
「私が保証できることではない」
「そうですよね」
「ただ、受ける準備はできると思う」
大崎は笑った。
「夏休みは、かなり描くことになるよ」
「分かっています」
「数学もあるでしょう」
「それも分かっています」
「休む日も必要」
「賢司さんと同じことを言います」
「誰?」
「家の人です」
空は自然に答えた。
*
夏休み、空の一日は朝七時から始まった。
午前中は学校の補習か受験勉強。午後は美術室で作品制作。週に一度は大学や専門学校の見学へ行った。
由美は弁当を作る日もあれば、空が自分で買う日もあった。賢司は予定表を作ったが、空が「休む時間まで管理されたくない」と言うと、日曜日の欄だけを空白にした。
「空白だと、逆に何か入れたくなります」
空が言うと、賢司はペンを取り上げた。
「では、予定表そのものを見ない日」
「それも予定です」
「難しいね」
「日曜日は、朝になってから決めます」
「それでいい」
由美が横から言った。
「二人とも、日曜日の使い方で十五分も話してる」
「由美さんは、何をするんですか」
「昼まで寝る」
「それが予定でしょう」
「いいの。私は受験生じゃないから」
空は笑った。
八月の終わり、二度目の模擬試験を受けた。
東都造形大学はC判定へ上がった。
都立芸術文化大学は、EからDになった。
「上がってる」
由美が結果票を見て言う。
「まだDです」
「EからDでしょう」
「都立は難しいです」
「やめる?」
賢司が尋ねた。
「まだやめません」
「では、次まで続けよう」
「簡単に言いますね」
「簡単ではないのは、空さんを見ていれば分かるよ」
賢司はそれ以上、計画を作ろうとしなかった。
*
十月、空は東都造形大学の総合型選抜を受験した。
作品ファイル、小論文、面接。
面接では、なぜデザインを学びたいのかと聞かれた。
「誰かに何かを伝えるための形を作りたいからです」
空は答えた。
「分かりにくい案内や、読みにくい文章があると、必要な人へ情報が届きません。私は、手描きの地図や学校の展示を作った経験から、同じ内容でも、見せ方で伝わり方が変わると知りました」
面接官は、空の作品ファイルを開いた。
「この『窓の向こう』には、違う場所の景色が一つの窓に描かれていますね」
「はい」
「なぜ、二つの場所を選んだのですか」
「以前暮らしていた場所と、今暮らしている場所のどちらも、自分から消したくなかったからです」
「今の場所へ移ったことを、どう考えていますか」
空は一瞬迷った。
「新しい場所を選ぶことは、前の場所を否定することではないと思っています」
面接を終えて会場を出ると、緊張で足が震えた。
校門の外では、由美と賢司が待っていた。
二人とも一緒に来る必要はないと言ったが、空が「終わる時間だけ伝えます」と言うと、二人で迎えに来た。
「どうだった?」
由美が尋ねる。
「分からない」
「話せた?」
「聞かれたことには答えました」
「それなら――」
「まだ、大丈夫とは言わないで」
空が止める。
由美は口を閉じた。
「分かった。お疲れさま」
「お腹は?」
賢司が聞く。
「空いてる」
「では、何か食べよう」
三人は駅前の蕎麦屋へ入った。
空は天ぷら蕎麦を食べながら、面接で聞かれたことを少しずつ話した。
二人は、合格したかどうかを予想しなかった。
*
結果は、不合格だった。
十一月の冷たい雨が降る夕方、空は学校から帰ると、自分の部屋へ直行した。
鞄の中には、大学から届いた通知が入っている。
『選考の結果、今回は合格に至りませんでした』
短い文章だった。
何度読んでも、意味は変わらない。
空は制服のまま、ベッドへ座った。
泣きたいのか、腹が立っているのか、自分でも分からなかった。
作品が足りなかった。
小論文が悪かった。
面接で答えを間違えた。
思い当たることを数えていると、扉を叩く音がした。
「空さん、入っていい?」
由美だった。
「今は、少し」
「分かった。夕食は七時にするね」
由美は理由を聞かなかった。
足音が遠ざかる。
空は通知を机の引き出しへ入れた。
夕食の時間になっても、部屋を出なかった。
由美からメッセージが届く。
『食事は取っておきます。食べたくなったら来てください』
賢司からの連絡はなかった。
帰宅していないのかもしれない。
午後八時過ぎ、玄関の扉が開く音がした。
「ただいま」
「おかえり」
由美の声が返る。
二人が小声で話している。
大学の結果について、由美が伝えているのだろう。
空は耳を塞ぎたくなった。
かわいそうだと思われたくない。励まされたくもない。次があると言われるのも嫌だった。
九時ごろ、空は部屋を出た。
由美と賢司はダイニングにいた。
テーブルの上には、空の分の夕食が覆いをかけて置かれている。
「落ちました」
空は二人の前で言った。
「うん」
賢司が答えた。
「由美さんから聞きましたか」
「学校から帰ったときの様子で、そうかもしれないと思っただけ。空さんから聞くまで、結果は決めないようにしていた」
「不合格です」
「そっか」
由美はそれだけ言った。
「次があるとは言わないんですか」
「今は聞きたくないと思って」
「はい」
「残念だったね」
由美の声が低くなる。
空は唇を噛んだ。
「頑張ったのに」
「うん」
「作品も、何度も描き直した」
「知ってる」
「面接も、答えました」
「うん」
「それでも、落ちました」
涙が出た。
空は慌てて目元を拭いた。
二人の前で泣くつもりはなかった。
由美は椅子から立ち上がりかけ、動きを止めた。
「隣へ行ってもいい?」
空は返事をしなかった。
由美は待った。
「少しだけ」
空が言うと、由美は隣の椅子へ移った。
肩を抱かず、手も握らない。
ただ、同じ側へ座った。
賢司も向かいの席から動かなかった。
「今日は、分析しない?」
賢司が尋ねる。
「しません」
「分かった」
「明日もしないかもしれません」
「それでもいい」
「ずっとしなかったら?」
「そのときは、空さんがどうしたいか聞く」
空はしばらく泣いた。
由美は背中をさすらなかった。
空が自分から少しだけ肩を寄せると、由美の肩が触れた。
それ以上は近づかなかった。
*
三日後、空は大崎と井上へ、不合格の通知を見せた。
作品ファイルを開き、面接で話した内容も書き出した。
「どこが悪かったと思いますか」
空が尋ねる。
「大学から講評はないから、正確には分からない」
大崎が答える。
「ただ、この作品ファイルは、一つひとつの作品はよく考えられているけれど、デザインの課題が少ない。絵画としての作品が多いね」
「では、ポスターや案内を作る?」
「空が情報デザインを学びたいなら、その力を見せたほうがいい」
井上は小論文を見た。
「文章は、結論が後ろに来ている。水瀬さんは理由を丁寧に書こうとして、最初に何を言いたいのかが見えにくくなってる」
「直せますか」
「練習すれば」
「一般選抜と、別の大学の総合型選抜を受けます」
空は自分で言った。
「東都造形大学は、一般でもう一度受ける。城南デザイン専門学校にも出願します。都立は、次の模試を見て決めます」
大崎と井上がうなずいた。
「家では話した?」
「昨日、話しました」
前夜、空は由美と賢司へ、自分の考えを伝えていた。
『もう一度受けたい』
二人は、「頑張って」とは言わなかった。
賢司は受験日程を確認し、由美は「必要な画材はある?」と尋ねた。
空は、自分で予定を組み、必要なところだけ助けを求めた。
*
冬休み、空は新しい作品を作った。
題材に選んだのは、若葉ホームの避難経路図だった。
古い案内図は文字が小さく、幼い子どもには読みづらい。空は長谷川の許可を取り、実際の建物を確認して、色や記号を使った新しい案を作った。
低学年の子どもでも分かるよう、出口には緑色の扉の絵を入れた。火事のときに使ってはいけないエレベーターには、大きく印をつけた。
芽衣に見せる。
「どっちが分かりやすい?」
「空ちゃんの」
「どうして?」
「絵があるから」
「色だけで決めてない?」
「こっちは字がいっぱいで、読むのが嫌」
芽衣は正直だった。
花音にも見せる。
「この緑のところが出口?」
「そう」
「でも、暗くなったら色が見えないかも」
空はその言葉で、形だけでも出口が分かる記号へ修正した。
「二人とも、よく気づくね」
長谷川が言った。
「実際に使う人へ聞かないと分からないから」
「それが、空の勉強したいこと?」
「たぶん」
「まだ、たぶん?」
「大学で、本当にやりたいことか確かめたいです」
「では、確かめに行かないとね」
空は完成した避難経路図を作品ファイルへ入れた。
若葉ホームで暮らした経験を、隠すためではなく、誰かに伝わる形へ変えるために使った。
*
二月、城南デザイン専門学校から合格通知が届いた。
続いて、東都造形大学の一般選抜にも合格した。
都立芸術文化大学は、最後まで判定が上がりきらず、受験しなかった。
二つの合格通知を食卓へ並べ、三人で見比べる。
「専門学校は二年間。実習が多くて、就職までが早い」
空が説明した。
「東都造形大学は四年間。専門学校より費用はかかるけど、デザイン以外の授業も取れます」
「空さんは、どちらへ行きたい?」
由美が尋ねる。
「東都造形大学」
空はすぐに答えた。
「理由は?」
賢司が聞く。
「専門学校のほうが、早く仕事へつながると思います。でも、大学では一年目に絵画、写真、映像、文字のデザインを全部学べます。そのあとで専攻を選べる。私は、今決めていることだけではなくて、まだ知らないものも見たいです」
「費用は?」
「大学独自の授業料減免へ申し込みます。結果が出なくても、二人が前に言った範囲と、自分の貯金で足ります。アルバイトは週二日までにします」
「もう計算したの?」
「賢司さんの表を使いました」
「僕の表が役に立った」
「数字だけです」
「少しくらい褒めてくれても」
「前より見やすくなりました」
「空さんが書き直したからでしょう」
由美が笑う。
「では、東都造形大学にするのね」
「うん」
空は合格通知へ手を置いた。
「最初に落ちたところへ、もう一度行きます」
「選んだのは、落ちたことを取り返すため?」
賢司が尋ねる。
「違います」
空は首を振った。
「学びたいものが、一番多かったから」
「それなら、僕たちから言うことはない」
「入学手続きを進めよう」
由美の声が少し震えた。
「泣きますか」
「今日は泣いてもいいでしょう」
「まだ卒業式があります」
「その日も泣く」
「二回も?」
「回数は決められないわよ」
由美が目元を押さえる。
賢司は笑いながら、合格通知をもう一度読んでいた。
「お祝いは、何がいい?」
「餃子」
空は答えた。
「また?」
「進路希望調査を書き直したとき、三十二個作ると言って、まだ作ってません」
「作ったでしょう」
「二十八個でした」
「四個足りなかったの?」
「数えました」
「やっぱり賢司に似てる」
由美が笑った。
「では、今日は三十二個」
「私が包みます」
「僕も」
「賢司さんは形を崩すから、焼く係です」
「麻婆豆腐とは違うよ」
「まだ覚えています」
三人は買い物へ出かけた。
合格通知は、冷蔵庫へ貼らなかった。空が自分の机の引き出しへしまった。
誰かへ見せるためではなく、自分が選んだ結果として残したかった。
*
三月、卒業式の日。
空は制服の胸へ白い花をつけ、校門を通った。
式が終わり、教室で最後のホームルームを迎える。井上から卒業証書を一人ずつ受け取った。
「水瀬さん、卒業おめでとう」
「ありがとうございます」
「大学でも、分からないことを分からないままにしないでね」
「はい」
「でも、少しくらいは分からないまま進んでも大丈夫よ」
空は笑った。
「それも、少し覚えました」
真帆は別の一般大学へ進学する。菜月は看護系の専門学校へ進む。
三人で校門の前に立ち、写真を撮った。
「大学が別でも、会うよね」
菜月が尋ねる。
「会うでしょう」
真帆が答える。
「空は?」
「二人が連絡をくれれば」
「空からもして」
「分かった」
「本当に?」
「真帆まで確認が多い」
「空に似た」
三人で笑った。
校門の外には、由美と賢司が待っていた。
少し離れた場所には、長谷川と莉子、芽衣、花音もいる。
「どうして、みんな来たんですか」
空が驚いて尋ねる。
「学校の中には入れなかったけど、外なら会えるでしょう」
長谷川が答える。
「芽衣が、どうしても空ちゃんの制服を見たいって」
「卒業、おめでとう!」
芽衣が空へ小さな花束を差し出した。
「ありがとう」
空は花束を受け取った。
由美の目は、すでに赤い。
「泣きましたね」
「式の途中から」
「遠くて、私の顔は見えなかったでしょう」
「名前が呼ばれたから」
「それだけで?」
「それだけで十分なの」
賢司は泣いていなかったが、いつもより口数が少なかった。
「賢司さんは?」
「何が?」
「泣きましたか」
「少し」
「見たかった」
「由美が隣で泣いてたから、目立たなかった」
「二人とも、約束を守りませんでしたね」
「文化祭ではないから」
由美が言う。
莉子が笑った。
「朝倉さんたち、本当に空の親みたい」
空はすぐに否定しなかった。
由美と賢司を見る。
二人は空の返事を待っているようで、何も言わなかった。
「みたいではなくて」
空は一度言葉を止めた。
家族。
親。
どちらも、まだ完全に自分のものになった言葉ではない。
「今、一緒にいる人たちです」
空はそう言った。
莉子は「そっか」とだけ答えた。
「写真を撮ろう」
長谷川が言う。
空を中央にして、由美、賢司、長谷川、莉子、芽衣、花音が並んだ。
一枚目は全員が硬い顔をしている。
「空ちゃん、笑って」
芽衣が言う。
「芽衣も笑ってない」
「空ちゃんが笑ったら笑う」
「では、同時に」
「せーの」
二枚目の撮影音が鳴った。
空は自然に笑っていた。
*
その夜、朝倉家の食卓には、卒業祝いの料理が並んだ。
餃子、唐揚げ、筍ご飯、甘くない卵焼き。
「多すぎませんか」
空が言う。
「卒業式だから」
由美が答える。
「三人分ではありません」
「明日も食べればいい」
「筍ご飯は、長谷川さんの作り方?」
「少し変えた」
「前より薄いです」
「薄いほうがよかった?」
「私は前のほうが好き」
「では、次は戻す」
賢司が餃子の皿を見た。
「三十二個ある?」
「数えたわよ」
「空さんも数える?」
「由美さんが数えたなら信用します」
「僕と扱いが違う」
「賢司さんは、数字を確認したがるから」
「それと信用は関係ないだろ」
三人は笑った。
食事の途中で、空は卒業証書を二人へ渡した。
「見てもいい?」
由美が尋ねる。
「そのために持ってきました」
由美は証書を両手で持ち、名前を読む。
「水瀬空」
「名字は変わっていません」
「うん」
「大学でも、水瀬空です」
「うん」
「それでいいですか」
由美が顔を上げた。
「空さんが、そうしたいなら」
賢司もうなずいた。
「僕たちとの関係を証明するために、名前を変える必要はない」
「でも、いつか考えるかもしれません」
二人の表情が変わった。
「今すぐではないです」
空は先に言った。
「大学へ行って、もう少し自分で考えます」
「分かった」
賢司が答える。
「僕たちから急がせない」
「由美さんも?」
「急がせないわ」
「その顔は、急いでいます」
「顔までは止められないの」
由美は困ったように笑った。
空は卒業証書を受け取り、筒へ戻した。
「春からも、ここから大学へ通います」
「うん」
「帰りは、今より遅くなるかもしれません」
「連絡方法は、また話し合おう」
「アルバイトも始めます」
「それも一緒に考えよう」
「私が中心に決めます」
「分かってる」
「二人とも、少しは寂しいですか」
空が尋ねると、由美と賢司が顔を見合わせた。
「まだ家を出るわけじゃないのに?」
由美が笑う。
「高校が終わったから」
「寂しいというより、早いなと思う」
賢司が答えた。
「初めて会ったときは、高校一年生だったから」
「まだ道を聞いただけでした」
「あの道から、ここまで来るとは思わなかった」
「私も」
空は言った。
「でも、自分で来ました」
「うん」
「二人に連れてこられたわけではありません」
「分かってる」
由美が答える。
「空さんが選んで、ここにいる」
三人は食卓を囲んでいた。
空が選んだ大学の話をし、春から必要になる鞄や画材について話した。賢司は通学時間を調べようとし、空に「今日はやめて」と止められた。由美は入学式に何を着るか考え始め、空に「まだ一か月あります」と笑われた。
高校を卒業したからといって、空が急に大人になるわけではない。
由美と賢司が、完全な親になるわけでもない。
それでも、空は以前より多くのものを自分で選べるようになった。
選択肢が増えたからではない。
迷ったことも、失敗したことも、二人の前へ持ち帰れるようになったからだった。
卒業証書には、水瀬空と書かれている。
春から通う大学の学生証にも、同じ名前が記される。
名前は変わらない。
けれど、その名前で進む道を、空はもう一人だけで決めなくてもよかった。




