第四部 それぞれの糸 第二十七章 少し遠い毎日
学式の朝、空は玄関の鏡の前で、三度目の襟元を直した。
紺色のジャケットに白いブラウス。高校の制服とは違い、自分で選んだ服だった。店では似たようなジャケットを何着も試し、由美が勧めた明るい色ではなく、空は一番落ち着く紺を選んだ。
「曲がってないよ」
後ろから由美が言った。
「分かってる。でも、さっきより曲がった気がする」
「緊張してる?」
「少し」
「少しだけ?」
「……かなり」
空が認めると、由美は笑った。
「私も緊張してる」
「由美さんは入学しないでしょ」
「保護者席に座るのも初めてだから」
その言葉を聞いた空の手が止まった。
鏡の中で目が合う。由美は笑みを引っ込め、すぐに言葉を足した。
「ごめん。こういう言い方、重かった?」
「ううん」
空はもう一度、襟に触れた。
「ただ、そうなんだって思っただけ」
「そうなの。だからたぶん、私も挙動不審になる」
「写真を撮りすぎないでね」
「十枚までにする」
「三枚」
「五枚」
「四枚」
「成立」
二人が玄関へ出ると、賢司はすでに靴を履き、鞄の中を確かめていた。案内状、大学までの経路を印刷した紙、折り畳み傘、予備のハンカチまで入っている。
「天気予報、晴れだよ」
空が言うと、賢司は鞄を閉じた。
「午後は降水確率二十パーセントだ」
「それ、持っていかない人の数字だと思う」
「急な雨に濡れる確率を減らせるなら、傘一本くらいは軽い」
「賢司さん、入学式に遭難するつもり?」
由美が吹き出した。
「空、今のはなかなかよかった」
「二人とも、駅で迷っても知らないぞ」
「大学まで一本道だよ」
空は先に扉を開けた。
四月の光が廊下に差し込んだ。高校へ初めて登校した朝とは違って、今日は二人と並んでエレベーターを待った。誰が先に話し始めるかをうかがう必要もない。賢司の鞄が少し大きすぎることも、由美が空の髪を直したくて指を動かしかけていることも、空には分かっていた。
「髪は触らないで」
「まだ何もしてない」
「しようとしてた」
「よく分かったわね」
「分かるようになったから」
扉が開き、三人は同時に乗り込んだ。
東都造形大学の正門前には、色とりどりの服を着た新入生と、その家族が集まっていた。案内板の前では写真を撮る人が列をつくり、大学名が画面に入る角度を探して何度も立ち位置を変えている。
空は人の多さに足を止めた。
高校の卒業式からまだひと月も経っていない。それなのに、周囲の誰も空のことを知らなかった。若葉ホームで暮らしていたことも、高校二年の春から朝倉家に住んでいることも、姓が一人だけ違うことも知らない。
知られていないことが、今日は怖さよりも自由に思えた。
「写真、ここで撮る?」
由美が控えめに尋ねた。
「人が多いから、帰りでいい」
「分かった」
由美は携帯電話を鞄へ戻した。以前なら、せっかく来たのだからともう一度勧めていたかもしれない。空も、断ったあとに由美が残念がっていないか、表情を確かめていたかもしれない。
今は、そのどちらもしなかった。
式典会場の前で、学生と保護者の列が分かれた。
「じゃあ、あとで」
空が言うと、賢司が頷いた。
「終わったら、この広場の時計台の下で」
「分かってる」
「携帯電話は――」
「充電してあります。予備の充電器もあります。会場から出たら連絡します」
「そこまで言わなくても」
「言おうとしてたでしょ」
「半分くらいは」
「全部だと思う」
空は笑って学生の列へ向かった。数歩進んでから振り返ると、由美が小さく手を振っていた。賢司は片手を上げ、その隣で周囲の案内図を確認している。
二人を見つけるのは難しくなかった。
式のあと、空は情報デザイン学科の新入生が集まる教室へ向かった。
大きな製図机が並び、壁には上級生が制作したポスターやパッケージが貼られている。高校の美術室より広く、見たことのない機材も多かった。
指定された席に座ると、隣の女子学生がすぐに話しかけてきた。
「その鞄、いい色だね」
空は膝に置いた灰色のトートバッグを見た。
「ありがとう」
「私、小野寺結衣。結衣でいいよ」
「水瀬空です」
「空ちゃん?」
「水瀬でも、空でも」
「じゃあ空ちゃん。私は結衣で」
返事をする前に決められてしまったが、不快ではなかった。結衣は明るい黄色のカーディガンを着ていて、机の上には苺の形をした筆箱を置いていた。
「入学式、家族来た?」
「うん。二人」
「うちは母親だけ。父親は仕事だって。こういうときくらい休めばいいのにさ」
「仕事なら、仕方ないんじゃない?」
「空ちゃん、真面目だね」
「そうかな」
「そういう顔してる」
「どんな顔?」
「提出物を締め切り三日前に終わらせる顔」
「それはたぶん合ってる」
前の席に座っていた男子学生が振り返った。
「三日前に終わるなら、同じ班になりたい」
黒いパーカーに、少し長めの髪。手には傷のついた金属製の定規を持っていた。
「聞いてたの?」
結衣が眉を上げる。
「聞こえた。俺、佐野航平」
「小野寺結衣。こっちは空ちゃん」
「水瀬空です」
「よろしく、水瀬」
佐野はそれだけ言うと前へ向き直った。気を利かせた質問も、どこの高校だったのかという探りもなかった。
空は、膝の上の鞄から青い糸で縫った筆箱を取り出した。何年も使っているため布の角は白く擦れていたが、縫い目はまだほどけていない。
学科主任の挨拶が終わると、最初の課題が発表された。
課題名は「自分までの地図」。
住所や駅名を正確に描くのではなく、初めて会う誰かが自分という人間へたどり着くための地図を、一枚の紙に表現する。写真でも絵でも文字でもよい。締め切りは二週間後だった。
「いきなり難しくない?」
教室を出るなり、結衣が言った。
「自分までって何? 家までじゃないんだよね?」
「家までなら地図アプリで終わるから」
佐野が答えた。
「そういう意味じゃないのは分かってる。佐野くんは何描くの?」
「まだ知らない」
「空ちゃんは?」
空は廊下の窓から構内を見下ろした。
煉瓦敷きの広場を学生たちが行き交っている。歩く速さも服装もばらばらだった。高校までのように同じ制服を着て、同じ時間割に従う人はいない。
「道を描くと思う」
「どこから?」
結衣に聞かれ、空は少し考えた。
「一か所じゃなくて、何か所かから」
「迷路みたいに?」
「まだ分からない」
「水瀬も知らないんだ」
佐野が笑った。
「二週間あるから」
「やっぱり三日前に終わらせる顔だ」
「佐野くんは前日に始める顔」
「合ってる」
三人で階段を下りた。
講義が終わったという連絡をすると、由美から時計台の写真が送られてきた。写真の端に賢司の肩が半分だけ写り込んでいる。
空が広場へ着くと、二人はベンチに座っていた。
「待った?」
「十二分」
賢司が腕時計を見た。
「それは待ったうちに入らないでしょ」
「賢司さん、三分前から時計ばかり見てた」
「由美さんもでしょ」
「私は新入生の服を見てたの」
空は二人の間ではなく、由美の隣に腰を下ろした。
「友達、できたかもしれない」
自分からそう言ったあとで、空は少し驚いた。
「もう?」
由美の声が弾む。
「まだ、たぶんだけど。小野寺結衣さんと、佐野航平くん」
「男の子も?」
賢司が顔を上げる。
「同じ学科の人。今、そこに引っかかるところ?」
「いや、名前を覚えておこうと思って」
「何のために?」
「今後、話に出てくるかもしれないから」
「本当にそれだけ?」
「ほぼ」
「残りは?」
賢司が答える前に、由美が空の肩を軽く叩いた。
「放っておきなさい。入学初日から面倒な人になってるわよ」
「何も言ってないだろ」
「顔で言ってる」
「空にも同じことを言われた」
「分かりやすいんだよ、賢司さん」
二人に挟まれ、空は声を立てて笑った。
由美は携帯電話を取り出しかけたが、約束を思い出したように手を止めた。
「写真、今ならいいよ」
空が言った。
「本当?」
「四枚まで」
時計台の前に並び、近くにいた学生に撮影を頼んだ。
一枚目では賢司の目が閉じていた。二枚目では由美の髪が風に持ち上がった。三枚目は空だけがよそ見をしていた。四枚目で、ようやく三人とも正面を向いたが、撮影した学生が「もう少し寄ったほうがいいですよ」と言ったため、由美が空の腕を引き、賢司の肩が空の肩に触れた。
帰りの電車で由美が写真を見せると、空は四枚目ではなく、三枚目を選んだ。
「これがいい」
「空、横を向いてるわよ」
「二人が笑ってるから」
その日の夜、冷蔵庫に貼ってあった三人の予定表が新しくなった。
高校時代は登校、部活、帰宅予定時刻がほぼ決まっていた。大学では講義ごとに時間が違い、空き時間もある。制作のために残る日も、友人と出かける日も増えるはずだった。
空は青いペンで、一週間の予定を書き込んだ。
「月曜と木曜は五限まで。火曜は三限。水曜は午後が制作。金曜は四限まで」
「帰宅時刻は?」
賢司が尋ねた。
「まだ分からない。課題がどれくらいあるかも分からないし」
「目安だけでも――」
「決まったら連絡する」
空が言うと、賢司は一度口を閉じた。
「そうだな。それでいい」
「心配?」
「する。でも、心配することと、細かく管理することは別だから」
「うん」
由美が赤いペンを持った。
「私も書こう。水曜は会食で遅くなる。金曜は出張」
「出張?」
空が振り返る。
「一泊で大阪。言ってなかった?」
「聞いてない」
「ごめん。決まったの、今日なの」
「何時に帰る?」
「土曜の夕方」
「分かった」
今度は賢司が黒いペンで自分の予定を書いた。
「火曜と木曜は会議で遅い。土曜の午前は病院」
「どこか悪いの?」
「健康診断で再検査になっただけだ。たぶん問題ない」
空の手が止まった。
「たぶんって何」
「数値が少し高かっただけで――」
「何の数値?」
「血圧」
「ちゃんと行ってね」
「行くから予定に書いてる」
「結果も言って」
賢司は空の顔を見て、それから小さく笑った。
「分かった」
「何で笑うの」
「いや。心配されるのも悪くないと思って」
「私は怒鳴らないから」
「それは耳が痛い」
「まだ覚えてるよ」
「俺も忘れてない」
賢司が予定表の土曜日に二重丸をつけた。
「終わったら連絡する」
「そうして」
三人の予定は、同じ紙の上で少しずつ離れていた。
大学が始まると、空の鞄は急に重くなった。
スケッチブック、ノートパソコン、色見本、定規、カッター、充電器。帰宅すると肩に鞄の跡が残り、夕食の前に床へ座り込む日もあった。
「大学って、もっと自由だと思ってた」
五月の連休前、空は食卓に額をつけた。
「自由なんじゃないの?」
由美が味噌汁を置く。
「自由だけど、自由にするために全部自分で決めなきゃいけない。時間割も、課題をやる順番も、昼をどこで食べるかも」
「昼を食べる場所まで悩むの?」
「学食は混んでるし、外は高いし、空いてる教室は日によって違う」
「若者にも大変なことがあるんだな」
新聞を畳んだ賢司に、空は顔だけを向けた。
「すごく他人事みたい」
「俺の昼は社員食堂で二十年ほぼ同じ席だ」
「それ、楽しい?」
「考えなくて済む」
「私には無理かも」
「空は窓際の席を探して歩きそうだものね」
由美が言った。
「窓際が好きなんじゃなくて、描きやすい場所が好きなの」
「同じじゃないの?」
「違う。窓際でも光が強すぎたら嫌」
食事をしながら、空は授業の話をした。
色彩構成の講師が、赤を使わずに熱を表現しろと言ったこと。結衣が青い炎を描いて褒められたこと。佐野が黒一色の作品を出し、「色彩構成の課題だと理解しているか」と聞かれたこと。
「それで佐野くんは?」
由美が尋ねる。
「黒にも色があるって言ってた」
「格好いいじゃない」
「先生に、そういうことは黒を使い分けてから言えって返されてた」
「厳しいな」
「でも、次の週、本当に黒だけで六種類作ってきた」
「負けず嫌いなのね」
「たぶん」
賢司は黙って焼き魚をほぐしていた。
空が見ると、目が合った。
「何」
「何でもない」
「佐野くんの名前が出ると、ちょっと黙るよね」
「気のせいだ」
「絶対、気のせいじゃない」
「同じ学科の友人だろ。分かってる」
「分かってない顔」
「空、あまり賢司さんをからかうと、本当に面倒になるわよ」
「もうなってる」
「俺は一言も口を挟んでないぞ」
「口を挟まないで面倒なの、すごいね」
由美は箸を置いて笑い出した。賢司は不服そうに味噌汁を飲み、空も焼き魚へ箸を伸ばした。
自分から学校の話をしようと思ったわけではなかった。食卓に座ると、言葉が勝手に続いた。二人が知らない場所のことを説明するのも、以前ほど難しくなかった。
最初の課題「自分までの地図」で、空は三本の道を描いた。
一本は海沿いの道だった。潮風に揺れる草、古い食堂の看板、若葉ホームの白い壁が並ぶ。
一本は目黒の駅から続く道だった。交差点、コンビニエンスストア、高層住宅の窓、三人分の予定が書かれた冷蔵庫。
もう一本は、まだ何も描かれていない細い道だった。
三本は中央で重ならなかった。それぞれが近づき、少し離れたまま、一人の人影を囲んでいた。
講評の日、坂巻教授は空の作品をしばらく見ていた。
「丁寧ですね」
「ありがとうございます」
「でも、丁寧すぎる」
褒められたと思った空は、顔を上げた。
「見る人が迷わないように、全部説明している。海辺の建物が何なのか、こっちの部屋で誰と暮らしているのか、文字で分かるようにしてありますね」
「課題が地図だから、伝わるようにしたほうがいいと思いました」
「伝えることは大切です。ただ、人は説明された順番でしか、あなたへ近づけないのでしょうか」
教室の後ろで、紙をめくる音がした。
「分からない部分を残すのが怖いですか」
空はすぐに答えられなかった。
坂巻教授は、何も描かれていない三本目の道を指した。
「私はここが一番気になります。あなた自身も、まだ知らない場所だからです」
講評が終わったあと、空は作品を筒へ入れながら息を吐いた。
「怒られた気分」
隣で佐野が言った。
「佐野くんは黒が多すぎるって言われてたでしょ」
「あれは予想してた。水瀬のは、褒めてたと思うけど」
「丁寧すぎるって」
「丁寧なのは悪くない。全部やろうとすると、見てるほうが息をつけないってことじゃない?」
空は手を止めた。
「佐野くん、たまに先生みたいなこと言うね」
「年上に見える?」
「偉そうに見える」
「ひどいな」
結衣が二人の間へ割り込んだ。
「私は名前の漢字を間違えられたよ。講評以前の問題」
「結衣の作品、字が小さかったから」
「空ちゃんまで先生側なの?」
三人で教室を出た。廊下の掲示板には、アルバイト募集の紙が何枚も貼られていた。
飲食店、画材店、大学図書館、イベント設営。その中に、大学から二駅離れた小さな印刷店の求人があった。
業務内容は受付、製本補助、紙の裁断、店内清掃。週二日から、と書かれている。
空が立ち止まると、結衣が覗き込んだ。
「アルバイト探してるの?」
「うん」
「授業だけでも忙しいよ」
「分かってる。でも、自分で使う分くらいは稼ぎたい」
画材や印刷費は、入学前に想像していたより高かった。賢司と由美は必要な学費として出すと言ってくれたが、友人と食事をしたり、服を買ったりする費用まで当然のように受け取ることには抵抗があった。
「ここ、面白そう」
佐野が募集の紙を見た。
「紙の種類を覚えられるかも」
「そう思った」
「でも水瀬、三日前に課題を終わらせる人じゃなくなるよ」
「二日前に終わらせる」
「その自信はどこから来るんだ」
空は求人票に書かれた番号を携帯電話で撮影した。
その夜、食卓で話すと、賢司はすぐに予定表を見た。
「週に何日入るつもりだ」
「最初は二日。火曜と土曜」
「土曜は課題に使うんじゃないの?」
由美が聞く。
「毎週じゃないし、午前だけでもいいって」
「働くこと自体には反対しない。ただ、生活費のためなら必要ない」
賢司の言葉に、空は箸を置いた。
「生活費を払おうとしてるんじゃないよ」
「そうじゃないのか」
「画材とか、友達と出かけるお金とか。全部二人に出してもらうのは違うと思う」
「私たちは出してもいいと思ってる」
「それは分かってる。でも、私が嫌なの」
由美は何か言いかけ、空の顔を見て言葉を変えた。
「働いてみたい気持ちもある?」
「ある。印刷のことを覚えられるし」
「それなら、やってみたらいいんじゃない」
賢司はまだ予定表を見ていた。
「無理になったら辞めること。稼いだ額で家にいられるかどうかが決まるわけじゃない。そこは混ぜないでほしい」
「分かってる」
「本当に?」
「本当に。家賃を払うつもりなら、あの店じゃ全然足りないし」
「そこまで計算したの?」
「した」
「空らしいわね」
由美が笑った。
「でも、最初のお給料で高いものを買ってくれなくていいからね」
「何で由美さんに使うことになってるの」
「違うの?」
「違います」
「急に敬語になった」
「期待されると困るから」
面接を受け、空は青葉プリントで働き始めた。
店は古い商店街の端にあり、入口のガラスには営業時間を示す白い文字が貼られていた。店内には紙とインクの匂いが満ち、壁一面の棚に色や厚さの異なる用紙が並んでいる。
店主の青木は五十代の女性で、空に最初から難しい機械を触らせることはなかった。
「紙は見た目が同じでも、触れば違うから」
そう言って、何十種類もの紙を空の前へ置いた。
「これは上質紙。これはコート紙。これはマットコート。こっちは再生紙。名前を覚える前に、指で感じて」
空は紙の端を親指と人差し指で挟んだ。
「少しざらざらしてる」
「そう。印刷されたら、そのざらつきがどう見えると思う?」
「色が沈む?」
「正解。じゃあ、沈むのは悪いこと?」
空は考えた。
「落ち着いて見せたいなら、悪くない」
「そういうこと」
大学とは違う学び方だった。店には自分の作品を作りたい学生だけでなく、町内会の回覧板を印刷する人、店のメニューを作り直したい人、孫の写真を冊子にしたい老人も来た。
専門用語を並べても伝わらない。どんな紙がいいかではなく、どんな場面で誰が手に取るのかを聞く必要があった。
失敗もした。
初めて一人で受け付けた名刺の注文で、空は縦書きと横書きの確認を忘れた。印刷前に青木が気づいたため作り直しにはならなかったが、注文票を返されると胸が縮んだ。
「すみません」
「謝るのは一回でいい。次はどうする?」
「確認項目に入れます」
「なら、それで終わり」
「でも――」
「失敗しない人を雇ったんじゃないよ。失敗したとき、隠さない人を雇ったの」
青木は注文票の余白に、赤いペンで丸をつけた。
空はその言葉を、帰りの電車でも考えていた。
失敗しない人ではなく、隠さない人。
朝倉家で暮らし始めた頃の自分なら、間違いを知られる前に自分で何とかしようとしただろう。できなければ、最初から頼まなかったことにしたかもしれない。
帰宅すると、由美が台所に立っていた。
「ただいま」
「おかえり。アルバイト、どうだった?」
「失敗した」
靴を脱ぎながら言うと、由美が振り返った。
「初日に?」
「三日目」
「何を失敗したの?」
「名刺の向きを確認し忘れた。印刷する前に店長が見つけてくれたけど」
「怒られた?」
「怒られなかった。次はどうするって聞かれた」
空は手を洗い、台所へ入った。
「切るものある?」
「胡瓜をお願い。細切り」
「分かった」
包丁を取りながら、空は青木に言われたことを話した。
由美は春雨を湯から上げ、少し考えてから言った。
「いい店長さんね」
「うん」
「でも、無理して続けなくてもいいのよ」
「今、続けたいって話をしたところ」
「そうだった。つい先回りした」
「由美さん、最近減ったけど、まだ時々やるね」
「なかなか治らないの」
「私も、人に言わずに何とかしようとするの、まだ治ってないから同じ」
「じゃあ、お互い指摘し合いましょう」
「優しくね」
「できるだけ」
「できるだけなんだ」
空が笑うと、由美も笑った。
六月、基礎演習のグループ課題が始まった。
三人一組で、大学の最寄り駅から校舎までの案内冊子を作る。対象は、初めて大学を訪れる人。地図、写真、文章を組み合わせ、八ページにまとめることになった。
くじ引きの結果、空は結衣、佐野と同じ班になった。
「三日前に終わる人がいる」
佐野が言った。
「まだそれ言うの?」
「心強いって意味」
「自分も働いて」
「もちろん。俺、表紙やる」
「決めるの早いな」
結衣が笑う。
「私は写真がいい。空ちゃんは地図?」
「どうして決まってるの」
「得意そうだから」
空は一度、配られた課題要項を読み直した。
「先に、誰が見るか決めたほうがいいと思う」
「初めて来る人でしょ」
「高校生か、保護者か、業者の人かで違う」
「全部じゃだめ?」
「全部にすると、必要なものが多すぎる」
佐野が椅子の背にもたれた。
「じゃあ、受験で来る高校生」
「一人で来る人?」
「親と来る人もいるだろ」
「障害がある人は?」
「水瀬、最初から広げすぎ」
その言い方に、空は眉を寄せた。
「でも、階段しか載せなかったら、車椅子の人は困る」
「載せればいいよ。ただ、全部を同じ大きさで入れたら、何を見ればいいか分からなくなる」
「必要な情報を削って、迷わせるほうが問題でしょ」
「迷わないように情報を減らすんだよ」
「減らした情報が必要だった人は?」
結衣が二人の間で手を上げた。
「待って。始まって十分で喧嘩しないで」
「喧嘩じゃない」
空と佐野の声が重なった。
「それを喧嘩って言うの」
結局、その日は方向性が決まらなかった。
空は帰宅してからも資料を広げ、駅から大学までの道にある段差、横断歩道、歩道橋、エレベーターの位置を書き出した。若葉ホームの避難案内を作り直したときに学んだことが、頭から離れなかった。
誰かが迷ったとき、「普通なら分かる」と言われる地図にはしたくない。
翌週、三人で実際に駅から大学まで歩いた。
佐野は写真を撮り、結衣は道沿いの店を記録した。空は段差や分岐点を確かめた。
駅前の交差点で、ベビーカーを押した女性が歩道橋の手前で立ち止まり、少し離れた横断歩道へ回っていくのが見えた。
空は地図に印をつけた。
「やっぱり、迂回路は必要」
「必要だな」
佐野が素直に答えたため、空は顔を上げた。
「反対しないの?」
「見たから。必要な理由が分かった」
「最初から言ってた」
「水瀬は全部必要って言うから、優先順位が分からなかった」
「全部なんて言ってない」
「全部に近かった」
「二人とも、また始まった」
結衣が自動販売機で買った水を二人へ一本ずつ渡した。
三人は大学までの道を、立場を変えて何度も歩いた。駅を出てから一度も地図を見ずに進む学生。地図を何度も拡大する保護者。日本語の案内を読むのに時間がかかる留学生。重い荷物を持ち、階段を避けたい人。
調べるほど、すべてを一枚に載せることはできないと空にも分かった。
冊子の基本の地図は単純にし、必要な人が詳しい情報へ進めるよう、迂回路や設備を別のページにまとめた。色だけで区別せず、記号と線の種類も変えた。
佐野は表紙に、駅から校舎まで続く一本の赤い線を描いた。
「赤だと、強すぎない?」
空が言う。
「目に入るだろ」
「でも、危険表示にも見える」
「じゃあ何色?」
「青は?」
「遠く見える」
「緑」
「避難経路っぽい」
「それは佐野くんが言う?」
「二人とも、茶色でいいじゃん。煉瓦の道なんだから」
結衣の一言で、表紙の線は茶色になった。
作業が続くうち、空の帰宅は少しずつ遅くなった。
以前のように連絡が途切れることはなかった。制作室に残る日は、夕方までに「今日は九時頃。夕食はいりません」と送った。電車へ乗れば、「今、大学を出た」と短く知らせた。
賢司から返ってくるのは、「了解」の二文字か、親指を上げた印だけだった。
最初は、それが少しそっけなく感じた。
長い注意も、帰宅時間の確認もない。自分でそうしてほしいと頼んだのに、空は携帯電話の画面を見ながら、何か足りないと思った。
ある夜、大学を出た空は、駅のホームから賢司へ電話した。
「どうした」
すぐに出た声には、わずかな緊張があった。
「何でもない。今、電車待ってる」
「何でもないなら、電話しなくてもいいだろ」
「電話したら駄目だった?」
「いや。珍しいから驚いた」
向こうで紙をめくる音がする。
「まだ仕事?」
「家だ。資料を読んでた。由美さんは風呂」
「今日、冊子の形がだいたいできた」
「そうか」
「表紙の線の色で揉めた」
「何色になった」
「茶色」
「空が選んだのか」
「結衣。私と佐野くんは、ずっと違う色を言ってた」
「佐野くんと意見が合わないことが多いな」
「でも、必要なところは聞いてくれるよ。私も、前よりは聞いてる」
「前よりは?」
「たぶん」
電車がホームへ入ってきた。
「乗るから切るね」
「ああ。気をつけて」
「賢司さん」
「何だ」
「今度から、了解だけじゃなくて、たまには何か書いて」
短い間があった。
「何かとは?」
「何でもいい。そっちの夕飯とか」
「今日は鯖の味噌煮だった」
「それ、私も食べたかった」
「残ってる」
「夕飯いらないって言ったのに?」
「由美さんが多く作った」
「じゃあ、少し食べる」
「分かった。温めておく」
「自分でやるよ」
「そうか」
「でも、ありがとう」
電話を切ってから、空は来た電車へ乗り込んだ。
窓に映った自分の顔が、少し笑っていた。
七月の初め、グループ課題の提出前日は、印刷機の周囲に学生が集まっていた。
どの班も締め切り直前まで修正を続け、プリンターは何度も紙詰まりを起こした。空たちの冊子も、試し刷りをすると地図の細い線が消え、写真の色が暗く沈んだ。
「線を太くしよう」
空が言う。
「全ページ直すのに一時間かかる」
佐野が時計を見る。
「でも、このままだと迂回路が見えない」
「写真の調整も終わってないよ」
結衣の声も焦っている。
「私が地図を直す。佐野くんは写真。結衣は文章の確認をお願い」
「製本は?」
「最後に三人で」
作業を始めて一時間後、空のパソコンの画面が動かなくなった。
何度操作しても反応しない。保存したのは三十分前だった。
「待って」
空の指先が冷たくなった。
「どうした?」
「固まった」
「保存は?」
「途中まで」
「再起動しよう」
「駄目。まだ戻るかもしれない」
「水瀬」
「ちょっと待って」
佐野が何か言おうとしたが、空は画面から目を離せなかった。ここで失敗すれば、班全体の提出が遅れる。自分が地図を担当すると言った。自分が直すと決めた。
「空ちゃん、手、震えてる」
結衣に言われ、空は両手を膝の上へ置いた。
「大丈夫」
「大丈夫じゃないでしょ」
「私がやらなきゃ」
「三人の課題だよ」
佐野が空の隣へ椅子を引いた。
「途中までのデータ、共有フォルダにある。俺のパソコンで直せる」
「でも、地図の設定が――」
「教えて。俺が触るから」
「間違えるかもしれない」
「そのときは戻す。水瀬だけが分かる状態にしてたら、そっちのほうが困るだろ」
正しいことを言われているのに、すぐには手を放せなかった。
若葉ホームの避難案内を作ったときも、自分で最後まで仕上げた。高校の作品も、受験の資料もそうだった。任されたことを最後まで自分でやれば、誰にも迷惑をかけないと思っていた。
「空ちゃん」
結衣が空の肩に触れた。
「失敗するなら、三人で失敗しよう。成功するときだけ三人なのは嫌だよ」
空はゆっくり息を吐いた。
「……分かった」
佐野へ設定を伝え、結衣へ文章の最終確認を任せた。空は固まったパソコンを再起動し、復旧したデータを確認した。
作業は予定より遅れたが、夜九時前に冊子は完成した。
折り目を揃え、表紙を重ね、三人で一冊ずつホチキスを留めた。
「終わった」
結衣が机に突っ伏した。
「三日前じゃなかったな」
佐野が言う。
「まだ締め切りの十五時間前」
「水瀬の基準だと大失敗?」
「前なら、そう思ったかも」
「今は?」
空は出来上がった冊子を開いた。
茶色の線が駅から大学まで続いている。空の地図、佐野の写真、結衣の文章。そのどれか一つだけでは、この形にはならなかった。
「今は、ちゃんと間に合ったからいい」
「成長したね、空ちゃん」
「結衣に言われると少し腹が立つ」
「それも成長」
三人で笑った。
空は携帯電話を取り出し、朝倉家の三人の連絡欄へメッセージを送った。
〈課題が終わりました。十時半頃に帰ります。夕食は食べて帰ります〉
すぐに賢司から返事が来た。
〈了解。こちらは由美さんが冷蔵庫のプリンを二つ食べました〉
続いて由美から送られてきた。
〈一つは賢司さんです。虚偽の報告をしないでください〉
空は画面を佐野と結衣に見せた。
「家の人?」
佐野が尋ねる。
「うん」
「面白いね」
「こういうときだけ」
「普段は?」
「普段も、まあまあ」
結衣が画面を覗いた。
「仲いいじゃん。ご両親?」
空は少しだけ言葉を選んだ。
「里親。高校二年のときから、一緒に暮らしてる」
「あ、そうなんだ」
結衣は一度目を丸くしたが、それ以上は聞かなかった。
佐野も「目黒から通ってるんだっけ」と言っただけだった。
「そう。朝は混む」
「うちも。埼玉だから一時間半」
「遠いね」
「水瀬の話を聞いて、その感想だけ?」
「ほかに何て言えばいいんだよ」
「別に、何も言わなくていい」
空が答えると、佐野は頷いた。
「じゃあ、何も言わない」
その反応に、空は肩の力が抜けるのを感じた。
事情を話せば、驚かれることはある。気の毒そうな顔をされることも、詳しく知りたがられることもある。それでも、話した相手全員に理解してもらう必要はない。
今の空に必要だったのは、説明の続きを求められないことだった。
冊子の講評では、坂巻教授から「必要な情報を整理しながら、複数の人が使える形になっている」と評価された。一方で、表紙と中面の雰囲気が少し違うとも指摘された。
「三人で作った痕跡が残っています。それを欠点と考えるか、面白さと考えるかは、次の課題ですね」
満点ではなかった。賞に選ばれたわけでもない。
それでも、空は冊子を一部持ち帰った。
由美は最初のページから最後までゆっくり読み、賢司は駅の出口番号と迂回路を見比べた。
「この地図、分かりやすいな」
「本当?」
「ああ。情報は多いけど、順番がある」
「佐野くんに、全部同じ大きさで入れるなって言われた」
「いい意見ね」
由美が言う。
「私も最初は反対したけど」
「最後は納得したの?」
「半分。向こうも半分は譲ったから」
「それなら、いい組み合わせだったんじゃないか」
賢司が表紙を閉じる。
「喧嘩ばかりしてたよ」
「意見を言える相手なら、悪くない」
「それは賢司さんが言うと説得力あるね」
「どういう意味だ」
「私と最初によく揉めたから」
「今も時々揉める」
「前より減ったでしょ」
「お互い、言い方を覚えたからな」
空は冊子を受け取り、自分の名前が印刷された裏表紙を見た。
水瀬空、小野寺結衣、佐野航平。
一人で完成させたものではない。そのことを、空は以前よりも誇らしく思えた。
夏休みに入ると、空は青葉プリントの勤務を週三日に増やした。
大学の友人と展覧会へ行き、真帆や菜月とも久しぶりに会った。若葉ホームへ顔を出すと、莉子はホテルの研修で覚えたベッドメイクの速さを自慢し、芽衣は空が持っていった大学の冊子を何度もめくった。
「大学、楽しい?」
芽衣に聞かれ、空はすぐに頷いた。
「楽しいよ。大変だけど」
「どっち?」
「両方」
「変なの」
「芽衣もそのうち分かる」
「空ちゃん、大学生みたいなこと言う」
「大学生だから」
帰る時間になると、芽衣は玄関までついてきた。
「次、いつ来る?」
「九月には来る。文化祭の準備、手伝うって長谷川さんに言ったから」
「絶対?」
「予定表に入れてある」
「じゃあ絶対だ」
空は笑った。
「うん。絶対」
八月の終わり、空がアルバイトから予定より早く帰ると、家には誰もいなかった。
玄関に賢司の靴がなく、由美のパンプスもない。冷蔵庫の予定表を見ると、二人の欄に赤い文字で「映画、食事」と書かれていた。
空はしばらく、その文字を見つめた。
聞いていない、と思った直後、朝、由美が「今日は賢司さんと映画を見てくる」と言っていたことを思い出した。空はアルバイトに遅れそうで、「うん」とだけ返したのだった。
冷蔵庫には、空のための夕食はなかった。
自分が要らないと言ったから当然なのに、がらんとした台所へ立つと、妙な気持ちになった。
以前は、二人が自分を待つことを負担に感じた。夕食を用意され、帰宅時間を気にされるたび、暮らす場所を与えてもらった代わりに何かを返さなければならないような気がした。
けれど、待たれていない部屋は、思っていたより広かった。
空は戸棚から乾麺を取り出し、野菜室に残っていたキャベツと人参を切った。焼きそばを作り始めたところで、二人の帰宅時間が気になった。
〈今、帰りました。夕飯は?〉
送ってから、質問が足りないことに気づいた。
〈二人の夕飯は食べた?〉
由美から、すぐに写真が返ってきた。映画館の近くの洋食店らしく、皿の上に大きなオムライスが載っている。
〈今、食べています。空は?〉
〈焼きそばを作ってる〉
〈一人分?〉
〈二人が食べるなら三人分〉
〈食べたばかりなので入りません〉
続いて賢司から届いた。
〈少しなら食べられる〉
間を置かず、由美からもう一通来た。
〈この人、さっきオムライス大盛りを食べました〉
空は鍋の中を見て、麺をもう一玉加えた。
〈少し残しておく〉
二人が帰宅したのは九時過ぎだった。
「ただいま」
由美の声に、空は居間から返した。
「おかえり」
「映画、面白かったわよ。空も好きそうだった」
「二人で行った映画を私に勧めるの?」
「今度は三人で行けばいいじゃない」
「同じ映画を?」
「私はもう一回見てもいい」
賢司は台所へ向かい、蓋をしてある皿を見つけた。
「これか」
「冷蔵庫に入れようと思ってた。食べるなら温めるよ」
「自分でやる」
「そう言うと思った」
賢司が電子レンジへ皿を入れる。由美は空の隣へ座り、映画のパンフレットを差し出した。
「今度、空も友達と行ってきたら?」
「二人と行ってもいいけど」
由美が一瞬、黙った。
「何」
「嬉しくて」
「泣かないでよ」
「まだ泣いてない」
「目がそうなってる」
「由美さん、空が友達と行ってもいいって言えば寂しがるし、三人で行くって言えば泣くし、どうすればいいんだ」
賢司が焼きそばの皿を持って戻ってきた。
「賢司さんは黙って食べて」
「はい」
空はパンフレットをめくった。
三人で暮らすことは、三人がいつも同じ場所にいることではない。
空が大学へ行くあいだ、由美と賢司にはそれぞれの仕事がある。二人で映画を見る夜もある。空にも、二人が知らない友人や時間が増えていく。
少し寂しいと感じるのは、離れたからではなかった。
戻ったときに、いてほしいと思う人ができたからだった。
秋になると、空は夕食に間に合わない日が増えた。
ある木曜日、制作に夢中になり、連絡を忘れたまま八時を過ぎた。携帯電話を見ると、由美から「夕食はどうしますか」と一通だけ届いていた。
空は慌てて電話をかけた。
「ごめん。連絡、忘れてた」
「無事ならいいけど、夕食は?」
「帰って食べる。九時半くらい」
「分かった。先に食べてるね」
由美の声は怒っていなかった。
けれど帰宅すると、食卓には空の分だけがラップをかけて置かれていた。流しには二人分の食器があり、賢司は居間で本を読んでいた。
「ただいま」
「おかえり」
「連絡、忘れてごめんなさい」
由美が台所から顔を出した。
「次から気をつけて」
「うん」
「温めようか?」
「自分でやる」
空は皿を電子レンジへ入れた。由美が隣で湯飲みを洗っている。
「怒ってる?」
「少し」
「心配した?」
「それもあるけど、ご飯が必要か分からないまま待つのが嫌だった」
由美は手を止めずに言った。
「空が帰ってこないから、じゃなくて、予定が分からないまま自分の時間まで止まるのが嫌。私もそういう言い方をしていいと思うようになったの」
「うん。言っていい」
「空は?」
「忘れた私が悪い。でも、毎回待たれるのも少し重い」
「じゃあ、どうする?」
空は温まった皿を取り出した。
「六時までに連絡がなかったら、二人は先に食べて。私の分は、材料があれば自分で作る」
「本当にそれでいい?」
「うん。必要なら自分から言う」
賢司が居間から口を挟んだ。
「六時は早くないか。講義中のこともあるだろ」
「じゃあ七時」
「七時まで連絡がなければ、夕食は各自」
由美が言う。
「決まりね」
「冷蔵庫に書いておく」
空は食事を運ぶ前に、予定表の下へ新しい決まりを書き加えた。
〈十九時までに連絡がなければ、夕食は待たない〉
その下に由美が小さく書いた。
〈ただし、食べたい人は残り物を探してよい〉
賢司がさらに書き足す。
〈プリンは名前を書いた人のもの〉
「それ、この前のことまだ気にしてるの?」
空が聞く。
「大事な規則だ」
「賢司さんが二つ食べたのに」
「一つ半だ」
「半分なら人のものを食べてもいいと思ってる?」
由美の追及が始まり、空は笑いながら食卓についた。
冬休み前、空は青葉プリントで初めて自分の給料だけを使い、三人分のマグカップを買った。
高価なものではない。白い地に、それぞれ違う色の細い線が入っていた。由美には赤、賢司には深緑、自分には青を選んだ。
「高いものはいらないって言ったのに」
包みを開けた由美が言う。
「高くないよ」
「値段の問題じゃなくて、空が稼いだお金でしょう」
「だから買いたかったの」
賢司はマグカップの底を確認した。
「食器洗浄機は使えるのか」
「最初に見るところ、そこ?」
「毎日使うなら大事だ」
「使えます」
「それなら助かる」
由美が赤い線のマグカップを両手で持った。
「ありがとう。大事にする」
「割れたら、また買えばいいよ」
「そういうことを言えるようになったのね」
「何が?」
「前の空なら、一度あげたものを割られたら、自分までいらなくなったみたいな顔をしたと思う」
空は返事をせず、青いマグカップの縁を指でなぞった。
由美の言うことは、たぶん合っていた。
「今も、割れたら少し嫌だよ」
「少しならいいの」
「でも、カップが割れても、三人でお茶は飲めるから」
賢司が深緑のマグカップを持ち上げた。
「割る前提で話すのはやめないか」
「賢司さんが一番割りそう」
「俺は食器を割ったことがほとんどない」
「ほとんどってことは、あるんだ」
「十年以上前に一度」
「覚えてるのがすごいね」
三人は新しいマグカップでコーヒーと紅茶を飲んだ。
年が明け、空は一年次最後の個人制作に取りかかった。
題材に選んだのは、「待つ時間」だった。
駅のホーム、病院の待合室、印刷店の受付、夕食前の食卓。人が誰かを待つ場所を写真に撮り、その場所で聞こえた音を短い言葉にして重ねた。
以前の空にとって、待たれることは監視されることに近かった。相手の時間を奪い、帰る義務を負わされることでもあった。
今は違う。
待たないと決めることもできる。先に食事をすることも、連絡が来るまで自分の時間を過ごすこともできる。それでも、玄関の音がすれば顔を上げる。
それは義務ではなく、習慣に近かった。
講評で坂巻教授は、壁に並んだ写真を見た。
「最初の課題より、説明が減りましたね」
「はい」
「見る人に任せる部分が増えた」
「全部分かってもらわなくてもいいと思えるようになりました」
「どうして?」
空は少し考えた。
「分からないまま、そばにいることもできるからです」
教室の後ろで、佐野と結衣が作品を見ていた。
教授が次の作品へ移ると、結衣が空のそばへ来た。
「最後の食卓の写真、好き」
「ありがとう」
「三人分のカップがあるやつ」
「新しく買ったから撮った」
「家の人に?」
「うん」
「佐野くん、空ちゃんの作品だけ長く見すぎじゃない?」
結衣が振り返ると、佐野は壁から目を離した。
「文字の置き方を見てた」
「本当に?」
「何で小野寺に説明しなきゃいけないんだ」
「怪しい」
「結衣、やめて」
空は写真を外し始めた。
「空ちゃん、顔、赤いよ」
「暖房が強いから」
「そういうことにしておく」
佐野が無言で、一番高い位置に貼った写真を外して空へ渡した。
「来年の選択演習、何取る?」
「まだ決めてない。佐野くんは?」
「地域デザイン」
「私も少し考えてる」
「じゃあ、また同じ班になるかもな」
「次は表紙を勝手に決めないでね」
「水瀬も情報を全部載せようとするなよ」
「もうしない」
「本当に?」
「たぶん」
「そこは自信ないんだ」
空は写真を重ね、角を揃えた。
「でも、前よりは人に任せる」
「じゃあ信じる」
「簡単に言うね」
「一年見てきたから」
その言葉に、空は手を止めた。
一年。
入学式の日、前の席から振り返った佐野の顔を思い出した。結衣の黄色いカーディガンも、「友達、できたかもしれない」と二人に報告したことも覚えている。
まだ一年しか経っていない。それでも、その一年の中には、空の知らなかった毎日がいくつもあった。
三月、大学の一年目が終わった。
空は青葉プリントの勤務を終え、夕方の電車に乗った。携帯電話には、由美から「今日は会食」、賢司から「帰宅は九時頃」と連絡が入っていた。
家には空が一番早く着く。
玄関の鍵を開けると、暗い廊下が奥まで続いていた。
「ただいま」
返事はない。
空は靴を脱ぎ、居間の明かりをつけた。冷蔵庫には三人の予定が書かれた紙が貼られている。以前より書き込みが増え、空白の日は少ない。
空は炊飯器を開け、残っていたご飯の量を確かめた。
〈今、帰りました。夕飯、二人とも家で食べる?〉
由美からは、会食で済ませると返ってきた。賢司からは、食べたいという返事が来た。
〈何がある〉
〈卵と鶏肉。親子丼なら作れる〉
〈お願いします〉
〈帰る時間が分かったら連絡して〉
〈了解。九時十五分予定〉
空は鶏肉を切り、玉葱を薄く刻んだ。
以前、由美に教わった分量を思い出しながら出汁を作る。味見をすると少し甘かったが、賢司はこのくらいのほうが好きだった。
九時十分に玄関の鍵が回った。
「ただいま」
「おかえり。手、洗って。もうできるから」
賢司が居間へ入ってきた。
「いい匂いだな」
「親子丼。味は保証しない」
「空が作ったなら食べる」
「それ、褒めてるようで褒めてないよ」
「まずかったら正直に言う」
「それも嫌だな」
空は丼にご飯を盛った。卵でとじた鶏肉を載せ、三つ葉の代わりに刻んだ葱を散らす。
賢司は一口食べ、ゆっくり頷いた。
「うまい」
「本当?」
「ああ。ただ、少し甘い」
「やっぱり」
「でも俺はこのくらいが好きだ」
「知ってる。だから砂糖を減らさなかった」
賢司が箸を止めた。
「何」
「いや。覚えていたんだな」
「一緒に何年暮らしてると思ってるの」
言ってから、空は自分の言葉を聞き直した。
何年。
まだ、数えれば片手に収まる。人生の長さに比べれば短い。それでも空にとって、毎日の好みを覚えるには十分な時間だった。
由美が帰宅したのは十時を過ぎてからだった。
「ただいま。ああ、疲れた」
「おかえり」
空はソファから顔を上げた。
「親子丼、少し残ってるけど食べる?」
「会食で食べたから大丈夫。明日の朝、いただくわ」
「朝から親子丼?」
「空が作ったんでしょう?」
「そうだけど、無理しなくていいよ」
「無理じゃない。楽しみなの」
由美は赤い線のマグカップへ湯を注ぎ、空の隣へ座った。賢司は向かいの椅子で、翌日の資料を読んでいる。
「一年、終わったのね」
由美が言った。
「うん」
「早かった?」
「早かった。でも、長かった」
「どっちなの?」
「両方」
「芽衣ちゃんと同じことを聞いてるわね」
空は笑った。
携帯電話が震えた。佐野から、来年度の選択演習の申込画面が送られてきた。
〈地域デザイン、明日締切。忘れるな〉
空は短く返した。
〈もう申し込んだ〉
〈さすが三日前の人〉
〈今回は一日前〉
画面を閉じると、由美が横から見ていた。
「佐野くん?」
「うん。来年の授業のこと」
「来年も同じ授業?」
「たぶん」
「そう」
由美の口元が少し動く。
「何」
「何でもない」
「何でもない顔じゃない」
「賢司さんには、まだ言わないでおこうと思って」
「だから何を?」
資料を読んでいた賢司が顔を上げた。
「佐野くんがどうした」
「何でもないって」
空が言うと、賢司の眉間に薄く皺が寄った。
「授業が同じになるだけ」
「そうか」
「それだけだよ」
「分かってる」
「分かってない顔」
「賢司さん、その顔、直したほうがいいわよ。空が誰かを連れてきたら、一秒で帰られる」
「連れてくるとは言ってない」
「空、いつか連れてくるの?」
「今の話から、どうしてそこまで行くの」
二人が同時に質問を始め、空は青い線のマグカップを持って立ち上がった。
「もう部屋に行く」
「逃げた」
「逃げます。おやすみ」
「おやすみ」
「明日の朝は何時に出る?」
賢司に聞かれ、空は廊下で振り返った。
「十時。春休みなんだから、少し寝る」
「分かった」
「二人は?」
「俺は七時半」
「私は八時」
「じゃあ、起きられたら見送る」
「無理に起きなくていいのよ」
「分かってる。起きたいから起きるの」
空は自分の部屋へ入った。
机の上には、一年間で作った冊子や写真、使いかけの紙が積まれている。青い糸で繕った筆箱は、入学式の日と同じ場所に置かれていた。
窓の外には、夜の街が広がっていた。
大学へ通う道も、友人と歩く道も、アルバイトへ向かう道も増えた。空が知らない場所へ行くたび、二人との距離は少しずつ遠くなった。
けれど、遠くなることは、失うことではなかった。
帰る時刻を知らせる相手がいる。食べるかどうかを尋ねる夕食がある。先に眠っていてもいいと言いながら、玄関の音に気づけば「おかえり」と返す声がある。
空は翌朝の目覚ましを八時に設定した。
机の端に置いた銀色の鍵には、紺色の革の鍵飾りがついている。何度も鞄から出し入れした革は、以前より柔らかくなっていた。
空は鍵へ指先で触れ、部屋の明かりを消した。
少し遠くへ行けるのは、戻る場所を、自分で知っているからだった。




