第二十八章 名前を選ぶ日
大学二年の春、空は学生課の窓口で一枚の用紙を受け取った。
緊急連絡先登録票。
住所、電話番号、本人との関係。昨年も同じものを書いたはずなのに、今年は最後の欄で手が止まった。
朝倉賢司。
本人との関係――元里親。
高校を卒業し、制度上の措置が終わったあとも、空は朝倉家で暮らしていた。暮らしは何も変わらない。冷蔵庫には三人の予定が貼られ、食べる時間が違う日にも誰かの分のご飯が残される。連絡を忘れれば注意され、風邪をひけば水分を取ったかと何度も聞かれる。
それでも、書類の上では「元」がつく。
「水瀬さん?」
窓口の職員に呼ばれ、空は顔を上げた。
「分からないところがありますか」
「この、本人との関係なんですけど」
「はい」
「里親の委託は終わっています。でも、今も一緒に暮らしていて、緊急時の連絡先もこの人です」
「それでしたら、『その他』に丸をつけて、元里親と書いていただければ大丈夫ですよ」
「分かりました」
職員の答えは明快だった。
空は「その他」に丸をつけ、その横に「元里親」と書いた。
文字にすれば、ほんの三文字だった。
間違いではない。嫌な扱いをされたわけでもない。職員は用紙を確認し、丁寧に受け取ってくれた。
それなのに教室へ向かうあいだ、空は自分が書いた言葉を何度も思い出した。
元里親。
それなら、自分は二人にとって何なのだろう。
元里子。
現在の関係を説明する言葉が、どこにも書かれていなかった。
「何、難しい顔してるの」
教室に入ると、結衣が手を振った。
「次の課題、そんなに嫌?」
「まだ課題を見てない」
「じゃあ、朝からずっとその顔?」
「どんな顔」
「前髪をあと三ミリ切るか悩んでる顔」
「そんなことで悩まない」
「水瀬なら定規で測りそう」
佐野が後ろの席から言った。
「二人とも、私を何だと思ってるの」
「締め切りを守る人」
「情報を詰め込みすぎる人」
「一年前の話でしょ」
「今も少しそう」
佐野が笑い、空は鞄を机へ置いた。
二年次最初の課題は、「名前の形」だった。
自分の名前を、読めない形に変えて表現する。文字の意味や音から離れ、線、色、余白だけで構成するよう指示された。
「読めないなら、名前じゃないじゃん」
結衣が課題票を見ながら言う。
「読めなくても、その人を表せればいいってことじゃない?」
佐野が答える。
「私は結衣っていう漢字が気に入ってるのに」
「その漢字に頼るなってことだろ」
「佐野くんはいいよね。航平なんて直線だけで作れそう」
「俺の名前を道路標識みたいに言うな」
二人の会話を聞きながら、空はスケッチブックに自分の名前を書いた。
水瀬空。
水。瀬。空。
どれも形があり、風景を思わせる字だった。
「空ちゃんの名前、課題に向いてそう」
結衣が覗き込む。
「水と空で、青くすれば完成」
「そのまますぎる」
「じゃあ透明」
「紙が白いままになるよ」
「提出したら怒られるかな」
「佐野くんが黒一色で出したときよりは怒られないと思う」
「あれはもう言わない約束だろ」
「誰と約束したの?」
「今、俺と」
空は笑いながら、書いた名前を指でなぞった。
「水瀬って、珍しいよね」
結衣が言った。
「そうかな」
「響きがきれい。空ちゃんにも合ってる」
「名前だけで私に合うか分かるの?」
「二年目だから、少しは分かるよ」
佐野が横からスケッチブックを見た。
「俺も水瀬は水瀬って感じがする」
「それ、何も説明してない」
「説明できないけど、ほかの名字より合ってる」
「例えば?」
「田中」
「全国の田中さんに謝って」
「小野寺は?」
結衣が聞く。
「長い」
「感想が雑すぎる」
空はスケッチブックを閉じた。
水瀬という名前を誰がつけたのか、空は知らない。
両親の顔も、声も、性格も知らない。自分の名前を呼ばれた記憶もない。残されていた書類に水瀬空と記されていたから、空はその名前で育った。
けれど、水瀬という名字を呼んだ人なら知っている。
長谷川が呼んだ。莉子が呼んだ。学校の教師が呼び、真帆や菜月が呼んだ。海辺食堂の店主が呼び、由美と賢司も最初は「水瀬さん」と呼んだ。
今では、二人は空と呼ぶ。
名字を呼ばなくても、それが消えたわけではなかった。
その日の夕食は、由美が作った鶏肉のトマト煮だった。
「大学の課題で、自分の名前を作り直すことになった」
空が話すと、由美が皿を置く手を止めた。
「名前を作り直す?」
「文字を使わないで表現するの。読めなくても、その人の名前だって感じられる形にする」
「難しいな」
賢司が言う。
「賢司さんならどうする?」
「何を?」
「朝倉賢司っていう名前を、文字なしで表す」
「名刺では駄目なのか」
「文字なしって言ったでしょ」
「名刺から文字を消す」
「白い紙になるよ」
「名刺の大きさと紙質が残る」
「それ、意外と悪くないかも」
空が考え込むと、由美が笑った。
「賢司さん、採用されたわよ」
「課題を理解していたからな」
「さっきまで名刺って言ってたのに」
由美は自分の皿へトマト煮を取り分けた。
「空はどうするの?」
「まだ決まってない。水とか空をそのまま描いたら、簡単すぎるし」
「水瀬という名字、私は好きよ」
由美が何気なく言った。
「どうして?」
「初めて名前を聞いたとき、きれいな名字だと思ったから。空という名前と並ぶと、景色みたいでしょう」
「結衣にも似たこと言われた」
「結衣ちゃん、分かってるわね」
「佐野くんも、水瀬は水瀬って感じがするって」
賢司の箸が止まった。
「佐野くんも?」
「名前の課題だから、みんなで話しただけ」
「そうか」
「また顔に出てるよ」
「何も考えてない」
「賢司さん、何も考えてないときはもっとぼんやりした顔をするもの」
由美が言う。
「二人で俺の顔を分析するのはやめないか」
「分かりやすいから仕方ない」
空はトマト煮を一口食べた。
元里親という言葉について、その場では話さなかった。
話そうと思えば話せた。けれど、口に出せば、その先まで考えなければならない気がした。
空自身、何が引っかかっているのか、まだ分かっていなかった。
名前の課題には、一枚の薄い紙を使った。
紙の中央を水で濡らし、青い絵の具を一滴落とす。色は紙の繊維に沿って広がり、濃いところと薄いところを作った。その上に、紺、灰色、赤の細い糸を置いた。
糸は一か所で結ばず、重なったり離れたりしながら紙の端へ伸びている。
最後に、透明な絵の具を何度も塗った。光を当てなければ見えない層が、紙の上に残った。
講評の日、坂巻教授は作品の前で立ち止まった。
「名前を読ませる気はありませんね」
「はい」
「この三本の糸は?」
「人です」
「誰ですか」
「一人ずつ名前をつけるつもりはありません」
「なぜ?」
「決めてしまうと、それ以外に見えなくなるからです」
坂巻教授は紙へ顔を近づけ、光の角度を変えた。
「この見えにくい層は?」
「今までいた場所です。見えなくても、なくならないもの」
「なるほど」
教授はしばらく作品を見た。
「前より余白を怖がらなくなりましたね」
空は一年前の講評を思い出した。
「少しだけです」
「少しずつでいいでしょう。名前も、人も、一度で全部は読めませんから」
講評後、作品を外していると、佐野が横へ来た。
「これ、赤い糸だけ少し古い?」
「家にあった糸を使ったから」
「何か縫った残り?」
「由美さんの鞄」
「由美さん?」
「一緒に暮らしてる人」
「ああ」
佐野は赤い糸の端を見た。
「俺、これ好きだな」
「珍しく素直に褒めるね」
「いつも褒めてる」
「直すところを言ってからでしょ」
「じゃあ一つだけ。展示するとき、光の向きを決めたほうがいい。透明な層が見えない」
「それ、褒めたあとに言ってる」
「順番を変えた」
「同じだよ」
空が笑うと、佐野も笑った。
課題の提出が終わっても、元里親という三文字は空の中に残っていた。
六月のある土曜日、空は若葉ホームを訪ねた。
長谷川は事務室にいて、退所した子どもの就職先へ提出する書類を整理していた。空が扉から顔を出すと、眼鏡を外して笑った。
「いらっしゃい。今日は一人?」
「うん。由美さんたちは買い物」
「空ちゃんも行かなくてよかったの?」
「二人で寝具を見に行った。賢司さんと由美さんで欲しい硬さが違うから、たぶん時間がかかる」
「仲がいいのか悪いのか分からないわね」
「仲はいいと思う。面倒だけど」
「空ちゃんがそう言えるなら安心」
事務室の奥で相沢が記録を読んでいた。顔を上げると、空へ椅子を勧めた。
「大学はどう?」
「忙しいです。でも、楽しい」
「アルバイトも続いてる?」
「はい。最近、名刺の注文を一人で任せてもらえるようになりました」
「すごいじゃない」
「縦か横かは、絶対に確認します」
長谷川が茶を入れ、三人は小さな机を囲んだ。
空は大学の課題や友人のことを話した。結衣が寝坊して一限の講義を三回休んだこと。佐野と地域デザインの授業でまた同じ班になったこと。青葉プリントの店主が、紙の見本帳を一冊譲ってくれたこと。
話が途切れたところで、空は鞄から折り畳んだ紙を出した。
緊急連絡先登録票の控えだった。
「これ、大学に出したんです」
長谷川が目を通す。
「元里親のところが気になる?」
「間違いじゃないんですけど」
「うん」
「今も一緒に住んでるのに、前の関係みたいで」
相沢がすぐに答えず、空の顔を見た。
「どう書きたかった?」
「分かりません」
「家族?」
長谷川に聞かれ、空は指先を組んだ。
「それでもいいと思います。でも、書類によっては、続柄を選ばないといけないから」
「書類のためだけに、関係を決めたいわけではないでしょう」
「はい」
「何か考えていることがある?」
空は机の上の湯飲みを見た。
「養子縁組って、成人してからでもできるんですよね」
長谷川の表情がわずかに変わった。
「できるわ」
「高校のとき、一度説明を聞きました。でも、そのときは考えられなかった」
「今は考えたい?」
「まだ分かりません。どうなるのか、きちんと知りたいです」
相沢がファイルを閉じた。
「空さんが自分で知りたいなら、説明の場を用意できます。朝倉さんたちには伝えず、まず空さんだけで聞くこともできますよ」
「二人に内緒で?」
「隠すためではなく、自分の考えを持つためです。二人の希望を先に聞くと、空さんがそれに合わせようとする可能性もあるでしょう」
空はすぐに否定できなかった。
由美と賢司が望むなら応えたい。その気持ちは、今も空の中にある。けれど、それだけで名前や戸籍を変えたくはなかった。
「お願いします」
「分かりました」
長谷川が緊急連絡先登録票を空へ返した。
「一つだけ聞いてもいい?」
「はい」
「養子縁組をしたいと思ったのは、朝倉さんたちの家にずっといていいと確認したいから?」
空は考えた。
「少しは、あるかもしれません」
「それは悪いことじゃない。でも、縁組をしなくても、住み続けることはできる。反対に、縁組をしても、三人の関係がずっと同じとは限らないわ」
「分かってます」
「それならいいの。答えを急がないでね」
「はい」
「あと、私が反対してると思わないで。空ちゃんがどちらを選んでも、私は嬉しいことも心配なことも言うから」
「長谷川さんらしい」
「空ちゃんも言うようになったわね」
長谷川は苦笑し、空の湯飲みに茶を足した。
後日、空は相沢と一緒に自治体の相談窓口を訪れた。
担当者は、成人の普通養子縁組について、一つずつ説明した。
空と朝倉夫妻の合意により、市区町村へ養子縁組届を提出すること。空はすでに成人しているため、通常は未成年者の場合のような家庭裁判所の許可を必要としないこと。届書には当事者の署名と、成人した証人二人の署名が必要になること。
受理された日から、朝倉夫妻と空の間に法律上の親子関係が生じる。扶養や相続にも関わる。
そして、空が結婚していない現在の状態で二人の養子になれば、原則として朝倉の氏を名乗り、二人の戸籍に入る。
「水瀬ではなくなるということですか」
空が尋ねた。
「法律上の氏は、朝倉になります」
「水瀬という名前を、仕事や作品で使うことはできますか」
「通称や作家名として使うことはできます。ただ、大学や銀行、保険など、正式な氏名の変更手続きが必要なものもあります」
「普通養子縁組だと、私の実の親との関係はどうなりますか」
「特別養子縁組とは異なり、普通養子縁組では、実親側との法律上の親族関係も残ります」
実の親。
空はその言葉を聞いても、思い浮かぶ顔がなかった。
知らない二人とのつながりが戸籍に残り、知っている二人とのつながりが新しく書き加えられる。
それを奇妙だとは思ったが、嫌だとも嬉しいとも、すぐには判断できなかった。
「養子縁組をしないという選択も、もちろんあります」
担当者が言った。
「家族として暮らすために、必ず必要な手続きではありません。法律上の関係を持つ意味と、持たない意味を、皆さんでよく話し合ってください」
「はい」
相談を終えたあと、相沢と近くの喫茶店へ入った。
空は注文したアイスティーへストローを差したが、口をつけなかった。
「どうでしたか」
「思っていたより、紙一枚で決まるんだと思いました」
「紙一枚を書くまでに、考えることが多いですけどね」
「名字が変わることは分かってたつもりです。でも、はっきり言われると、少し怖いです」
「水瀬という名字を失うように感じる?」
「はい」
空は窓の外を見た。
「私は両親のことを何も知りません。水瀬が父の名字なのか、母の名字なのか、それ以外なのかも。でも、この名前でずっと呼ばれてきました」
「大切な名前ですね」
「大切です」
「朝倉になりたい気持ちと、水瀬でいたい気持ちは、同時にあってもいいんですよ」
「どちらかを選ばなきゃいけないのに?」
「手続きでは選ぶ必要があります。でも、心の中まで一つに決める必要はありません」
空は氷の溶け始めたグラスを見た。
「二人には、まだ言わなくてもいいですか」
「空さんが話せると思ったときでいいです。ただ、結論まで一人で出してから伝えると、朝倉さんたちは置いていかれたように感じるかもしれません」
「それも分かります」
「難しいですね」
「はい」
「でも、以前の空さんなら、難しい話をする前に諦めていたかもしれない」
空はストローで氷を動かした。
「今も逃げたいです」
「逃げたいと言えるようになりましたね」
「相沢さんまで、そういうこと言うんですね」
「長谷川さんに似てきたかもしれません」
二人で少し笑った。
空が二人に話したのは、それから三週間後だった。
金曜日の夜、三人で夕食を食べ終えたあとだった。由美が皿を重ね、賢司が食後のコーヒーを入れようと立ち上がる。
「待って」
空が言った。
賢司が椅子へ戻った。
「どうした」
「話したいことがある」
由美が皿を置いた。
「大学?」
「違う」
「アルバイト?」
「それも違う」
空は膝の上で両手を握った。
「二人と、養子縁組をすることを考えてる」
由美の目が大きくなった。
賢司は何も言わなかった。
冷蔵庫が低い音を立て、やがて止まった。
「考えてるだけで、まだ決めたわけじゃない」
空は続けた。
「若葉ホームで相沢さんに相談して、制度の説明も聞いた。成人しているから、三人が合意して届出をすればできるって」
「いつから考えていたの?」
由美が尋ねた。
「大学に緊急連絡先の書類を出したとき。賢司さんとの関係を元里親って書いて、それが少し嫌だった」
「嫌だったから、養子になろうと思ったのか」
賢司の声は低かったが、怒ってはいなかった。
「それだけじゃない」
「空、まず確認したい」
「何」
「俺たちにしてもらったことへの礼や、返済のつもりではないか」
空の指に力が入った。
「違う」
「大学の学費や生活費を出していることを、負担に思っていないか」
「違うって言ってる」
「賢司さん」
由美が止めようとしたが、賢司は空から目を離さなかった。
「養子縁組をしなくても、空はここにいていい。それは変わらない。俺たちの老後を背負う必要もない」
「分かってる」
「本当に分かっているなら、急いで決める必要はない」
「急いでない。もう何週間も考えた」
「何週間で決めることでもない」
空は椅子から立ち上がった。
「どうして最初から、私が恩返しのために言ってるって決めるの」
「決めたわけじゃない。確認してるんだ」
「同じだよ」
「空、座って」
由美が言った。
「嫌」
空は二人を見た。
「二人は、私に自分で選べってずっと言ってきたでしょ。それなのに私が選ぼうとしたら、それは借りを返したいだけじゃないかとか、分かってないとか言う。私が考えたことを、最初から間違いみたいにしないで」
「間違いだとは言ってない」
「じゃあ、最初に聞いてよ。私がどうしてそう思ったのか」
賢司は口を閉じた。
空はそれ以上話さず、自分の部屋へ入った。
扉を閉めると、胸の奥で抑えていたものが一度に溢れた。
反対される可能性も考えていた。二人が戸籍上の親子になることを望まないなら、その答えも受け入れなければならないと思っていた。
けれど、空の気持ちを聞く前に、恩返しだと疑われるとは思わなかった。
机の上には「名前の形」の課題が置いてある。
紺と灰色と赤の糸。
誰がどの糸かを決めなかったのは、二人を家族だと言い切ることが怖かったからではない。名前をつけなくても分かると思ったからだった。
扉が二度、軽く叩かれた。
「空」
由美の声だった。
「今は話したくない」
「分かった。今日はもう入らない」
由美は扉を開けなかった。
「でも、これだけ言わせて。私も賢司さんも、空の気持ちを聞きたくないわけじゃない。聞く順番を間違えたの。ごめんなさい」
空は返事をしなかった。
「明日でも、来週でもいい。空が話せるときに、もう一度聞かせて」
足音が遠ざかった。
空はベッドへ横になった。怒りは消えなかったが、扉を開けずに待ってくれたことは分かった。
翌朝、台所へ行くと、賢司が一人でコーヒーを飲んでいた。
由美はまだ寝ているらしい。
「おはよう」
空が言うと、賢司は顔を上げた。
「おはよう」
空は冷蔵庫から牛乳を出した。
話しかけてほしくないような、謝ってほしいような、どちらとも決められない気持ちだった。
賢司はしばらく黙っていたが、空がパンを焼き始めると口を開いた。
「昨日は悪かった」
「うん」
「俺は、空が何かを返すために自分の人生を決めることが怖かった」
「返さないよ」
「分かってるつもりだった。でも、養子縁組と聞いて、確かめることばかり考えた」
トースターの中でパンが焼けていく。
「心配してることを先に言わないで、私の話を聞いてほしかった」
「そのとおりだ」
「私だって、何も考えずに言ったんじゃない」
「ああ」
「水瀬じゃなくなることも、戸籍のことも聞いた」
「名字が変わるのは、平気なのか」
「平気じゃない」
賢司が空を見た。
「水瀬は捨てたくない。でも、朝倉になりたい気持ちもある」
「両方あるのか」
「ある」
トースターが音を立てた。空はパンを取り出し、皿へ載せた。
「今日はアルバイトか」
「午後から」
「話す時間はある?」
「朝ご飯のあとなら」
「由美さんを起こしてくる」
「まだ寝かせてあげたら?」
「昨夜、ほとんど寝てないと思う」
「どうして」
「自分が余計なことを言ったかもしれないと、ずっと話していた」
「賢司さんに?」
「ああ。俺は途中で寝た」
「最低」
「反省してる」
空は少し笑った。
「じゃあ、起こしてきて。コーヒーは私が入れる」
三人は朝食のあと、食卓を片づけずに話を始めた。
空は緊急連絡先登録票のことから、相沢との相談、制度の説明まで順番に話した。
「元里親って書くのが嫌だった。でも、書類の続柄を変えるためだけに養子になりたいんじゃない」
二人は口を挟まずに聞いていた。
「私は二人と暮らしてから、家族って呼ぶために何が必要なのか、ずっと分からなかった。最初は一緒にご飯を食べても、鍵を持っても、家族だと思えなかった」
「うん」
由美が小さく頷く。
「今は、家族だと思ってる。喧嘩したり、面倒だと思ったり、帰るのが遅くなったりしても、そう思う」
「面倒なのね」
「二人とも、かなり」
「そこは否定できないな」
賢司が言った。
「でも、私が養子にならなくても家族だっていうことも分かってる。だから、家族になるためじゃない」
「それなら、何のため?」
由美に聞かれ、空は考えながら言葉を選んだ。
「今ある関係を、法律の上でも選びたい」
「選ぶ?」
「私は、自分が生まれた家族を選べなかった。そもそも、誰なのかも知らない。でも、これから関わっていく家族は選べる」
空は二人の顔を交互に見た。
「二人に何かあったとき、私は他人として連絡を待つだけなのは嫌。二人の老後を全部背負うとか、そういう意味じゃない。私だって働くし、自分の生活を持つ。でも、必要なときは関わりたい」
「それを義務にしたいの?」
「権利にもしたい」
賢司は黙って聞いている。
「二人が私のことを心配するのと同じように、私も二人を心配する。育ててもらったから返すんじゃなくて、今の二人だから」
由美の目に涙が滲んだ。
「泣くと、話しにくい」
「ごめん。続けて」
由美は指で目元を押さえた。
「それから、朝倉という名字を使ってみたい」
「水瀬は?」
「なくしたくない。大学の作品や、これからデザインの仕事をするときは、水瀬空を使うかもしれない。まだ決めてない」
「法律上は朝倉になって、仕事では水瀬を使うということ?」
「うん。それが面倒なことも分かってる。でも、どちらかが偽物になるわけじゃないと思う」
賢司は腕を組み、しばらく考えた。
「俺たちが断る可能性は考えたか」
「考えた」
「その場合は?」
「しばらく怒ると思う」
「しばらく?」
「どのくらいかは、断られてみないと分からない。でも、家を出るとは言わない」
由美が思わず笑った。
「前なら、戻る場所を探していたかもしれないわね」
「今は、断られたくらいで出ていくのは悔しいから」
「強くなったな」
賢司が言う。
「二人のせいでね」
空は息を吸った。
「二人はどう思ってるの」
由美と賢司は顔を見合わせた。
先に話したのは由美だった。
「嬉しい。でも、すぐに喜んでいいのか分からなくて、怖かった」
「どうして?」
「私たちが子どもを望んでいたことを、空は知っているでしょう。養子縁組をすれば、その願いを空にかなえてもらうことになるんじゃないかと思った」
「私は、由美さんが欲しかった子どもの代わりになるつもりはないよ」
「分かってる」
「由美さんが思っていた娘みたいにも、たぶんならない」
「それも分かってる。空は服を選んでも私の勧めた色をほとんど選ばないし、休みの日に一緒に買い物へ行こうと言っても、三回に一回しか来ないもの」
「三回に一回は行ってる」
「十分よ」
由美は涙の残る目で笑った。
「私が養子になってほしいのは、空が理想の娘だからじゃない。空だから。嫌なことを嫌だと言って、私が余計なことをしたら怒って、それでも同じ家に帰ってきてくれる空だから」
「うん」
「でも、水瀬という名前を変えさせることが、ずっと気になっていた。私たちと同じ名字にならなくても、空は空だと思ってる」
「それは私も分かってる」
「なら、急がなくていい。何か月でも、何年でも考えて」
賢司も腕をほどいた。
「俺も、由美さんとほぼ同じだ」
「ほぼ?」
「俺は、空と法律上の親子になりたい」
はっきりと言われ、空は目を伏せた。
「ただし、それで今より空に口を出せるとは思っていない」
「そこは大事」
「親になった途端、門限を復活させるつもりもない」
「したら、養子縁組をやめたくなるかも」
「普通養子縁組には離縁もあるからな」
「賢司さん、今それを言う?」
由美が眉をひそめる。
「できない約束をするよりいい。関係は、手続きをすれば壊れなくなるわけじゃない。壊さないように話すのは、今までと同じだ」
空は顔を上げた。
「うん」
「だから、縁組をした翌日から俺を父親と呼ぶ必要もない」
「呼んでほしい?」
賢司はすぐに答えなかった。
「いつか、空がそう呼びたいと思ったら嬉しい。でも、賢司さんのままでも構わない」
「由美さんは?」
「私はお母さんと呼ばれたら、たぶん一日中泣くから、今のままでいい」
「それは困るね」
「でしょう?」
三人は笑った。
その日、結論は出さなかった。
空は大学とアルバイトを続け、由美と賢司も普段どおり仕事へ行った。夕食の献立で意見が分かれ、浴室の排水口を誰が掃除するかでもめ、休日には三人で映画を見た。
養子縁組については、毎日話さなかった。
一か月に一度だけ、三人で時間を決めて話した。
名字を変えたあとの手続き。大学の記録。健康保険や銀行口座。将来、空が結婚したときに何が変わるか。扶養や相続のこと。縁組後も、普通養子縁組では空の実親側との法的な関係が残ること。
「私は、実の親のことを何も知らない」
ある夜、空が言った。
「何も知らない相手との関係が戸籍に残って、二人との関係が増える。変な感じはするけど、消したいとは思わない」
「会いたいとは思う?」
由美が慎重に尋ねる。
「分からない。顔も名前も知らないから、会いたい相手を想像できない」
「そうね」
「今は、探すつもりもない」
「分かった」
由美はそれ以上聞かなかった。
八月、空は二十歳の誕生日を迎えた。
年齢としてはすでに成人していたが、二十という数字には区切りを感じた。
誕生日の夕食は、空の希望で餃子になった。高校時代、大学を目指すと決めた夜と同じように、三人で大量の餃子を包んだ。
「今回は何個?」
空が聞く。
「四十」
賢司が答える。
「前より増えてる」
「空がよく食べるようになったから」
「賢司さんもでしょ」
「俺は昔から変わらない」
「この前、健康診断で体重を注意されてなかった?」
「空、それは言わない約束じゃないか」
「約束してないよ」
由美が餃子の皮に具を載せながら笑った。
「誕生日の人が正しいことにしましょう」
「毎年それを続けるのか」
「私の誕生日もね」
「それは不公平だ」
「賢司さんの誕生日も、賢司さんが正しいことにすればいい」
「空、いい案ね」
「一日だけなら我慢できる」
「普段は我慢してるのか」
三人の餃子は、形がそれぞれ違った。
由美の餃子は具が多く、丸く膨らんでいる。賢司は皮のひだを同じ幅で揃える。空は最初こそ丁寧に包んでいたが、途中から形より速さを優先した。
「空、具が少なすぎない?」
「最後に足りなくなるよりいいでしょ」
「余ったら炒め物にすればいいのよ」
「由美さんのは入れすぎ。焼いたら開くよ」
「大丈夫」
「前も三つ開いた」
「今回は水をつけたから」
「毎回つけてよ」
焼き上がった餃子のうち、由美が包んだものが二つ開いた。
「二つに減った」
「成長したわ」
「前向きだな」
三人で四十個をほとんど食べきった。
食後、由美からは赤い革の名刺入れ、賢司からは製図用のシャープペンシルを贈られた。
「二人で相談したの?」
「別々に選んだ」
賢司が言う。
「かぶらなくてよかったわ」
由美が名刺入れを空へ渡した。
「いつか、自分の名刺を持つでしょう?」
「まだ二年も先だよ」
「もっと先でもいい。使いたくなったときに使って」
空は赤い革を指でなぞった。
「ありがとう」
「色は嫌じゃない?」
「これは赤がいい」
由美が嬉しそうに笑う。
「シャープペンシルは?」
賢司が尋ねる。
「使う。明日から」
「芯の太さは〇・五だ」
「見れば分かる」
「予備の芯も――」
「入ってるんでしょ」
「確認しておいてくれ」
「分かった」
空は二つの贈り物を机に並べた。
「私も、二人に話すことがある」
「今日?」
「今日」
空は一度、自分の部屋へ戻った。
机の引き出しから一枚の紙を取り出し、食卓へ戻る。紙は何度も開いて読んだため、折り目が少し柔らかくなっていた。
養子縁組届だった。
「決めたの?」
由美が尋ねた。
「うん」
空は二人の前へ紙を広げた。
「二人がまだ迷ってるなら、待つ。でも、私は二人の養子になりたい」
「名字も?」
「朝倉空になる」
由美は紙に触れず、空を見た。
「水瀬は?」
「なくさない。大学の作品には、水瀬空って書く。仕事を始めてからどうするかは、そのとき決める」
「二つの名前を使うのは、大変かもしれないぞ」
賢司が言う。
「分かってる。でも、水瀬で生きた時間も、朝倉を選んだことも、どちらも私だから」
「後悔しないか」
「することはあるかもしれない」
空は正直に答えた。
「名字を変えなければよかったって思う日も、手続きが面倒だって思う日もあると思う。でも、後悔しないことだけ選ぼうとしたら、何も選べない」
賢司が口元を緩めた。
「誰かに言われたのか」
「自分で考えた」
「そうか」
「成長したでしょう」
「自分で言うところは、まだだな」
「賢司さんも認めてよ」
「認めてる」
由美はしばらく黙っていた。
空が見ると、目に涙は浮かんでいたが、由美は笑っていた。
「由美さんは?」
「私も、空の母親になりたい」
「今でも、ほとんどそうだけどね」
「ほとんど?」
「余計なことを言うところとか」
「それは母親じゃなくても言うわよ」
「じゃあ、由美さんらしいところ」
「空、うまく逃げたわね」
賢司が養子縁組届を手元へ引き寄せた。
「証人はどうする」
「長谷川さんと相沢さんに頼みたいと思ってる」
「もう話したのか」
「決めてから連絡するって伝えてある」
「二人なら、俺たちも異存はない」
「提出する日は?」
由美が尋ねる。
「三人が休める日。急がなくてもいいけど、先延ばしにもしたくない」
予定表を確認し、三週間後の月曜日に決めた。
長谷川と相沢へ頼むと、二人は快く証人を引き受けた。
ただし、長谷川は署名する前に、空と朝倉夫妻へ別々に意思を確かめた。
「本当に三人とも、自分で決めましたか」
若葉ホームの面談室で尋ねられ、空たちは一人ずつ答えた。
「はい」
「空ちゃんは、断りたくなったら今からでも断れます」
「分かってます」
「朝倉さんたちも、空ちゃんの気持ちを守るためだけに同意していませんか」
「していません」
賢司が答える。
「私たちも望んでいます」
由美が続けた。
長谷川は三人の顔を見たあと、ようやくペンを取った。
「では、証人になります」
「長谷川さん、審査する人みたい」
空が言う。
「大事なことだから」
「分かってる」
「分かっていても聞くの。これが私の役目です」
相沢も証人欄へ署名した。
「空さん」
「はい」
「縁組をしても、困ったときは相談に来てください。朝倉さんたちと家族になったから、若葉ホームとの関係が終わるわけではありません」
「来ます」
「嬉しいことがあったときも」
「それも来ます」
「なら、安心です」
莉子には、提出日が決まってから伝えた。
電話の向こうで、莉子はしばらく黙った。
「朝倉空になるの?」
「うん」
「呼び方も変える?」
「莉子は今までどおり空でしょ」
「書くときは?」
「どっちでもいい」
「じゃあ私は、水瀬空って書く」
「どうして?」
「私が知ってる空だから。でも、朝倉空も覚える」
「うん」
「嬉しい?」
「嬉しい。少し怖いけど」
「空が自分で決めたなら、いいんじゃない」
「莉子は簡単に言うね」
「難しく言ってほしい?」
「いらない」
「じゃあ、おめでとう。まだ早い?」
「少し早い」
「提出したら、もう一回言う」
届出の日、三人は朝から落ち着かなかった。
賢司は必要なものを三度確認し、本人確認書類を透明な袋へ入れた。由美は早く起きたのに、コーヒーへ砂糖を入れ忘れた。空は食卓に置いた養子縁組届を、何度も鞄へ入れたり出したりした。
「紙、破れるわよ」
由美が言う。
「分かってる」
「忘れるのが心配なら、私が持とうか?」
「自分で持つ」
「そう言うと思った」
賢司が玄関から呼んだ。
「出るぞ。窓口が混む前に着きたい」
「予約じゃないんだから、少しくらい遅くても大丈夫だよ」
「書類に不備があったら時間がかかる」
「事前に確認してもらったでしょ」
「それでもだ」
「今日の賢司さん、いつもより賢司さんだね」
「意味が分からない」
由美が靴を履きながら笑った。
「私は分かるわ」
区役所までの道を、三人は歩いた。
晴れていたが、夏の暑さは少し和らいでいた。街路樹の葉が風で揺れ、歩道に細かな影を落としている。
空は鞄の中にある届書を意識していた。
紙一枚で、昨日までなかった関係が戸籍に記される。
けれど、紙一枚で突然家族になるわけではない。三人で暮らし始めた日も、初めて鍵を使った日も、喧嘩のあとに戻った日も、大学へ合格した日も、すでに過ぎている。
今日までに積み重ねたものが、紙の上へ移される。
戸籍窓口で番号札を取り、椅子へ並んで座った。
由美は膝の上で指を組んでいる。賢司は電光掲示板の番号を見続けていた。
「緊張してる?」
空が小声で聞いた。
「少し」
由美が答える。
「賢司さんは?」
「かなり」
「入学式の朝と逆だね」
「あのとき、空はかなり緊張してたものね」
「二人もしてたでしょ」
「今日は逃げられないからな」
賢司が言う。
「逃げたいの?」
「そういう意味じゃない。受理されたら、責任が生じるという意味だ」
「今まで責任がなかったみたいに聞こえる」
「今までもあった。ただ、今日は俺たちも改めて選ぶ日だ」
「うん」
番号を呼ばれ、三人は窓口へ向かった。
職員が届書を受け取り、記入欄を一つずつ確認した。賢司、由美、空の本人確認書類も確認される。
「養子となる方の氏は、朝倉に変わります」
職員が空へ確認した。
「はい」
「本日受理されますと、本日から法律上の親子関係が成立します。よろしいですか」
「はい」
賢司と由美にも意思の確認があり、二人はそれぞれ答えた。
書類の確認には少し時間がかかった。
空たちはもう一度待合の椅子へ座った。賢司は膝へ手を置き、由美は何度も窓口のほうを見ている。
「不備があったのかな」
由美が囁く。
「混んでるだけだよ」
「賢司さん、聞いてきて」
「今、確認中だ。待とう」
「賢司さんが待とうって言ってる」
空が言うと、賢司は苦笑した。
「俺も少しは変わる」
やがて番号が呼ばれた。
「書類を受理いたしました」
職員が言った。
「戸籍への記載が完了するまでには日数がかかります。氏名変更に伴うほかのお手続きについては、こちらをご確認ください」
何枚かの案内を渡された。
空はそれを受け取り、頭を下げた。
「ありがとうございます」
窓口を離れても、何か大きな変化が起きたようには感じなかった。
音楽も鳴らない。拍手もない。周囲では出生届や転居届を出す人が、同じように番号を待っている。
三人で庁舎の外へ出た。
空は階段の下で立ち止まった。
「終わったね」
由美が言う。
「うん」
「朝倉空さん」
空は由美を見た。
「もう一回言って」
「朝倉空さん」
「変な感じ」
「嫌?」
「嫌じゃない。まだ、自分のことみたいに聞こえないだけ」
賢司も空を見た。
「空」
「何」
「これからもよろしく」
「それだけ?」
「何を言えばいいか、考えていたんだが」
「考えて、それ?」
「大事なことだろ」
空は笑った。
「うん。これからもよろしく」
由美が二人の腕へ自分の腕を絡めた。
「ちょっと、歩きにくい」
「今日くらいいいでしょう」
「写真は?」
賢司が尋ねる。
「いらない」
空は答え、それから少し考えた。
「やっぱり、一枚だけ」
庁舎の前で、通りかかった女性に撮影を頼んだ。
三人は肩を寄せた。
写真の中では、由美が泣いたあとの顔で笑い、賢司は緊張が抜けきらない表情をしていた。空も、少しだけ目を赤くしていた。
「もっとちゃんと撮ればよかった」
由美が画面を見ながら言う。
「これでいいよ」
「空、目を閉じかけてる」
「一枚って言ったから、撮り直さない」
「記念の日なのに」
「ちゃんとしてないところが、三人らしいでしょ」
「それは否定できないな」
その夜の夕食は、特別な料理ではなかった。
由美が豚肉と野菜を炒め、空が味噌汁を作り、賢司が買ってきた刺身を皿へ移した。
「何かお祝いらしいものを頼めばよかったかしら」
由美が言う。
「誕生日に餃子を食べたばかりだから、普通でいい」
「でも、今日は一度しかないのよ」
「毎日、一度しかないよ」
「空ちゃん、坂巻先生みたいなこと言うようになったわね」
「それ、褒めてる?」
「半分」
食卓には、赤、深緑、青の線が入った三つのマグカップが並んでいる。
名字が同じになっても、カップの色は違った。
翌日から、氏名変更の手続きが始まった。
大学の学生課、銀行、携帯電話、保険、アルバイト先。思っていた以上に書類が多く、賢司が作った手続き一覧が役に立った。
「こういうときの賢司さんは、すごいね」
空が言う。
「こういうとき以外は?」
「少し面倒」
「言い方が由美さんに似てきた」
「一緒に暮らしてるから」
大学の学生証も、新しいものに変わった。
講義の出席名簿に「朝倉空」と表示された最初の日、結衣は画面を見て首を傾げた。
「朝倉空って、空ちゃん?」
「うん」
「名字、変わったの?」
「養子縁組したから」
結衣は驚いた顔をしたあと、すぐに笑った。
「そっか。おめでとうでいい?」
「うん」
「おめでとう、朝倉空ちゃん」
「フルネームで呼ばれると恥ずかしい」
「じゃあ、空ちゃんは空ちゃんね」
佐野は新しい名簿と空を見比べた。
「朝倉になったんだ」
「うん」
「俺は何て呼べばいい?」
「水瀬でも、朝倉でも、空でも」
「選択肢が多いな」
「佐野くんが決めて」
佐野は少し考えた。
「今までどおり、水瀬でいい?」
「どうして?」
「俺が最初に知った名前だから。でも、嫌なら変える」
「嫌じゃない」
「じゃあ水瀬」
「うん」
空は新しい学生証を財布へ入れた。
公式には朝倉空。
作品を作るときは、水瀬空。
友人には空と呼ばれ、由美と賢司にも空と呼ばれる。
どの名前も、自分だった。
青葉プリントでは、新しい名札を青木が用意してくれた。
「朝倉だけでいい?」
青木に聞かれ、空は少し考えた。
「朝倉でお願いします」
「作品の名前は水瀬を使うのね」
「はい」
「じゃあ、名刺を作るときは二種類必要になるかもね」
「まだ先です」
「先のことなんて、すぐ来るよ」
青木は新しい名札を空へ渡した。
白い紙に「朝倉」と印刷されている。
空は古い名札を外し、新しい名札を胸につけた。
「似合いますか」
「名字に似合うも何もないでしょう」
「友達には、水瀬が似合うって言われたので」
「じゃあ、朝倉が似合うようになるまで働いて」
「そこは仕事と関係ありますか」
「少しはある」
青木が笑い、空も笑った。
一週間後、家の郵便受けに、空宛ての封書が届いた。
朝倉空様。
空は封筒を持ったまま玄関に立っていた。
「どうしたの?」
帰宅した由美が尋ねる。
「初めて来た」
「何が?」
「朝倉空宛ての郵便」
由美は封筒を見て、ゆっくり笑った。
「本当ね」
「変じゃない?」
「少し見慣れない。でも、変じゃない」
空は靴を脱ぎ、封筒を食卓へ置いた。
賢司が帰るまで開けずに待とうかと思ったが、大学からの事務連絡だったので、先に封を切った。
「待たなくていいの?」
由美が聞く。
「私宛てだから」
「そうね」
中身を確認し、必要な書類を自分の鞄へ入れる。
空は封筒だけをしばらく眺めたあと、机の引き出しへしまった。
その夜、賢司が帰宅すると、由美がすぐに報告した。
「今日、空に初めて郵便が来たの」
「何の郵便だ」
「大学の連絡」
空が答える。
「そうじゃなくて、朝倉空様って書いてあったのよ」
「写真は撮ったのか」
「撮ってない」
「最初の一通なら、撮ってもよかったんじゃないか」
「封筒なら取ってあるよ」
「取ってあるのか」
「一応」
賢司が笑った。
「何」
「由美さんと同じことをしてると思って」
「私は封筒くらいしか残してない」
「十分だ」
「賢司さんだって、私の大学の合格通知をまだ持ってるでしょ」
「重要書類だからだ」
「もう入学して二年目だよ」
「卒業するまでは必要になるかもしれない」
「絶対ならない」
由美が冷蔵庫から麦茶を出した。
「二人とも似た者同士ね」
「由美さんに言われたくない」
「私も何か取ってあると思ってる?」
空と賢司は同時に由美を見た。
「何よ」
「入学式の写真を四枚とも印刷してる」
空が言う。
「空が初めて作った親子丼の写真も残してる」
賢司が続ける。
「いいじゃない。写真は場所を取らないもの」
「由美さんの携帯、写真でいっぱいだよ」
「大事な記録です」
三人で笑った。
空は冷蔵庫の予定表へ、翌日の帰宅時刻を書き込んだ。
名前を書く欄は、以前から「空」だった。
そこは変える必要がない。
名字が違っていた頃から、三人は同じ紙に予定を書いていた。朝倉になったあとも、それぞれ別の時間に出かけ、別の場所で一日を過ごす。
同じ名前になったから、同じ人間になるわけではない。
意見が違えば喧嘩もする。余計な心配をされれば、空は嫌だと言う。由美が先回りすれば止め、賢司が細かく確認しすぎれば面倒だと伝える。
それでも帰れば、三人分のカップがある。
空は予定表の自分の欄へ、青いペンで書いた。
〈大学、アルバイト。二十一時頃帰宅〉
その下へ少し迷ってから、もう一行を加えた。
〈夕食、家で食べます〉
由美が横から覗き込む。
「何を作ろうかしら」
「先に食べてていいよ」
「分かってる。でも、空の分は残しておく」
「うん」
「何がいい?」
「何でもいい」
「一番困る答えね」
「じゃあ、鶏の照り焼き」
「分かった」
空は青いペンの蓋を閉めた。
水瀬空として生きてきた時間は、どこにも消えていない。
朝倉空として歩き始める道も、昨日までの道と途切れてはいなかった。
自分へつながる道は、一つではない。
生まれたときに与えられた名前。
多くの人に呼ばれ、自分のものになった名前。
そして、自分の意思で選んだ名前。
どれも空の中で重なり、離れずに続いていく。
翌朝、空は玄関で新しい学生証を鞄へ入れた。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい、空」
由美が台所から答える。
「気をつけて」
賢司の声も続いた。
扉を開ける前に、空は振り返った。
「二人とも」
「何?」
「呼び方は、今までどおりでいいからね」
由美が頷いた。
「分かってる」
「それに、まだ賢司さんと由美さんだから」
「ああ」
「でも」
空は銀色の鍵を握った。
「外で誰かに聞かれたら、二人のこと、父と母って言うかもしれない」
由美は両手で口元を覆った。
「泣かないでよ」
「まだ泣いてない」
「もう泣いてる」
「朝から泣かせた空が悪い」
「自分で勝手に泣いたんでしょ」
賢司は空から少し目をそらし、咳払いをした。
「賢司さんも?」
「俺は泣いてない」
「目が赤いよ」
「寝不足だ」
「昨日、十時に寝てたよね」
「空、大学に遅れるぞ」
「逃げた」
「早く行きなさい」
空は笑いながら扉を開けた。
「行ってきます」
二人の声が重なった。
「行ってらっしゃい」
廊下へ出た空は、扉が閉じる前にもう一度、家の中を見た。
名字を選ぶよりもずっと前から、そこは空の帰る場所だった。
けれど今は、その場所へ続く名前も、自分で選んだものになった。




