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『血の通わぬ糸』  作者: 久遠 睦


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第二十九章 家に残る理由

大学三年の六月、空は初めて一人で不動産店の扉を開けた。

 引っ越すと決めたわけではない。

 インターンシップ先を探していたとき、就職情報サイトに表示された「新社会人向け物件」という広告を、何となく開いたのが始まりだった。

 都心まで電車で三十分。駅から徒歩八分。六畳の部屋に小さな台所、浴室とトイレは別。家賃は七万三千円。

 画面の中の部屋は、壁も床も白かった。家具が何も置かれていないため、実際より広く見えた。

 一人で暮らしたら、食事の連絡はいらない。

 帰宅時刻も、浴室を使う順番も、自分で決められる。冷蔵庫に名前を書いたプリンを誰かに半分食べられることもない。

 その一方で、電気代、水道代、食費、通信費がいくらかかるのか、空にはまだ具体的に分からなかった。

 知ってから選びたい。

 そう思って、不動産店の来店予約をした。

「お一人暮らしは初めてですか」

 若い担当者に尋ねられ、空は頷いた。

「まだ大学生なので、今日は参考に見るだけです」

「もちろんです。就職先が決まってから探す方も多いですよ。ただ、希望の地域や家賃の目安を早めに知っておくと、動きやすくなります」

 担当者は空の希望を一つずつ聞いた。

 職場がまだ決まっていないこと。大学卒業後、デザイン会社への就職を考えていること。家賃は手取りの三分の一以下に抑えたいこと。制作のできる机を置きたいこと。

「保証人になってくださるご家族はいらっしゃいますか」

「います」

 空は少し間を置いて答えた。

「父と母がいます」

 その言葉は、養子縁組の直後より自然に出た。

「それでしたら、審査の選択肢も広がりますね。最近は保証会社を利用する物件も多いですが」

 担当者は二つの物件を選び、空を案内した。

 一つ目は駅に近かったが、窓の外に隣の建物の壁しか見えなかった。二つ目は駅から十二分歩く代わりに、四階の窓から小さな公園が見えた。

 部屋に入ると、空は持参した巻き尺で壁の長さを測った。

「大きめの机を置かれるんですか」

「作業用の机を置きたいので」

「こちらの壁なら、幅百四十センチくらいまで入りますよ」

 担当者が間取り図に書き込む。

 窓の近くに机を置き、その隣に本棚を置く。反対の壁にはベッド。小さな台所には、二人用の冷蔵庫なら収まりそうだった。

 暮らしている自分を想像できた。

 朝、自分でカーテンを開ける。誰にも声をかけずに家を出る。帰宅すると、朝と同じ位置に物がある。夕食を作る気力がなければ、何も作らなくてもいい。

 自由だと思った。

 同時に、夜の部屋へ入ったとき、最初に聞こえるのが自分の鍵の音だけだということも想像した。

「気に入りましたか」

 担当者に聞かれ、空は窓の外を見た。

「はい。でも、まだ決めません」

「ご家族とも相談されますか」

「相談はします。でも、決めるのは自分です」

「分かりました」

 店を出たあと、空は物件の資料を鞄へ入れた。

 由美と賢司には、不動産店へ行くことを話していなかった。

 隠しているつもりはなかった。一人で調べ、一人で見たあとに、自分がどう思うのか確かめたかった。

 けれど帰宅して、食卓の上へ鞄を置いたとき、角の折れた物件資料が隙間から落ちた。

 ちょうど台所から出てきた由美が拾う。

「これ、空の?」

「うん」

 由美は表紙に印刷された間取りを見た。

「不動産屋さんに行ったの?」

「今日、見てきた」

「一人で?」

「うん」

 由美は何か言いかけたが、資料を空へ返した。

「そう」

「怒ってる?」

「怒ってない。少し驚いたの」

「まだ引っ越すって決めたわけじゃないよ」

「分かってる」

 由美は台所へ戻った。

 声は普段と変わらなかったが、背中が少し硬く見えた。

 夕食の時間になっても、由美は物件のことを聞かなかった。

 賢司も帰宅し、三人で冷やし中華を食べた。由美が錦糸卵を細く切りすぎたこと、賢司が辛子を入れすぎたこと、空の夏休みの予定。いつもどおりの話は続いたが、間取り図のことだけが食卓の外に置かれていた。

「由美さんから聞いた?」

 空が先に言った。

 賢司の箸が止まる。

「物件を見てきたことか」

「うん」

「聞いた」

「何か言わないの?」

「空が話すのを待っていた」

「二人とも、待ちすぎ」

 空は冷やし中華の胡瓜を箸で集めた。

「まだ大学三年だよ。すぐに出ていくわけじゃない」

「一人暮らしを考えてるの?」

 由美が尋ねた。

「考えてる。就職先によっては、ここから遠いかもしれないし」

「今日の部屋は?」

「悪くなかった。駅から少し歩くけど、窓から公園が見える」

「家賃はいくらだ」

「七万三千円。管理費が四千円」

「光熱費と通信費を入れたら、住居関係だけで九万円を超えるな」

「計算した」

「食費は?」

「月三万円くらい。外食が増えたらもっとかかる」

「初任給で無理なく払えるかは、就職先次第ね」

 由美は感情を抑えるように、ゆっくり話していた。

「反対しないの?」

 空が聞くと、由美は目を伏せた。

「反対する理由がないでしょう。空はもう大人だし、一人で暮らしたいなら応援する」

「賢司さんも?」

「安全面や契約条件は確認したい。でも、最後に決めるのは空だ」

「そう」

 望んでいた答えのはずだった。

 二人が寂しいからと引き留めれば、空は困っただろう。養子になったのだから家を離れないでほしいと言われたら、選んだことを後悔したかもしれない。

 それなのに、二人があまりにもすぐに受け入れたため、胸の奥に小さな不満が残った。

「空?」

 由美に呼ばれる。

「何でもない」

「何でもない顔じゃない」

「由美さんに言われたくない」

「私もそんな顔してる?」

「してる」

「どんな顔だ」

 賢司が尋ねる。

「二人とも、もう私が出ていく前提で考えてる顔」

「そんなつもりはない」

「でも、引き留めないんでしょ」

「引き留めてほしいの?」

 由美の問いに、空は答えられなかった。

「分からない」

 それだけ言い、食事へ戻った。

 自分から一人暮らしの準備を始め、二人に応援すると言われて腹を立てる。筋が通っていないことは分かっていた。

 空は食器を洗ったあと、物件資料を自分の部屋へ持っていった。

 机の上へ広げる。

 六畳の部屋。小さな台所。公園が見える窓。

 そこに自分の家具を描き込もうとしたが、鉛筆は動かなかった。

 翌日、大学で結衣に話すと、呆れた顔をされた。

「それは空ちゃんが面倒だよ」

「分かってる」

「一人暮らしを止められたら嫌なんでしょ?」

「嫌だと思う」

「応援されても嫌なの?」

「嫌というか……少しは寂しがってほしかった」

「絶対、寂しがってるよ」

 結衣は学食のカレーを食べながら言った。

「でも、空ちゃんが自分で選ぶことを邪魔したくないんじゃない?」

「そうだと思う」

「分かってるなら、怒らなくてもいいじゃん」

「分かることと、納得することは違う」

「今日の空ちゃん、ちょっと子どもみたい」

「結衣にだけは言われたくない」

「私は一人暮らしを始めて三か月で、実家から米を送ってもらってる立派な大人です」

「それは立派なの?」

「生きてるから立派」

 向かいに座っていた佐野が笑った。

「小野寺の部屋、まだ段ボールが三箱あるらしいよ」

「二箱になった」

「一箱減っただけじゃん」

「冬物だから、秋まで開けなくていいの」

「部屋、狭くない?」

 空が尋ねる。

「狭いよ。でも楽しい。夜中にアイス食べても誰にも言われないし、洗濯物を三日ためても怒られない」

「三日はためすぎ」

「こうやって自分の限界を知るの」

「ただ面倒なだけでしょ」

 佐野は食後の水を飲みながら、空の物件資料を見た。

「水瀬、本当に出るの?」

「まだ決めてない」

「就職先も決まってないのに、早くない?」

「どのくらいお金が必要か知りたかった」

「朝倉さんたちと住むの、嫌になった?」

「違う」

 空はすぐに答えた。

「嫌じゃないから、迷ってる」

「なら、急がなくていいだろ」

「佐野くんは実家から出たいと思わないの?」

「思う。大学まで一時間半だし、父親のいびきは壁越しでも聞こえるし、母親は俺の服を勝手に洗う」

「洗ってもらって文句言うの?」

「縮むんだよ」

「自分で洗えばいい」

「それもそう」

 佐野は資料を空へ返した。

「でも、出たいと思うことと、出ることは別だな。金もかかるし」

「一人で暮らすほうが自立してると思う?」

「どうだろ。小野寺を見てると、住所だけでは決まらない気がする」

「失礼だな」

 結衣が佐野の皿へ福神漬けを一つ投げた。

「一人暮らしだって大変なんだよ。熱を出しても誰も水持ってきてくれないし、排水口も自分で掃除しなきゃいけないし」

「排水口は家族と住んでても掃除するよ」

「空ちゃんは真面目すぎるの」

「結衣が掃除しなさすぎるんだと思う」

 三人の会話は、次の講義が始まる時間まで続いた。

 空は物件資料を捨てなかった。

 部屋へ持ち帰り、机の引き出しへしまった。

 一人暮らしをする場合に必要な費用も、表計算の画面へまとめた。家賃、敷金、礼金、引っ越し代、家具、家電。初期費用だけで、予想より大きな金額になった。

 だからといって、不可能ではなかった。

 青葉プリントで貯めた金がある。就職して安定した給与を得られれば、広さや地域を選び直すことで一人でも暮らせる。

 できないから朝倉家にいる、という形にはしたくなかった。

 夏休みに入ると、空は二週間のインターンシップへ参加した。

 会社は神田にある灯路デザイン室だった。社員は二十人ほどで、自治体の広報誌、病院の案内表示、商品のパッケージ、学校案内などを手がけている。

 初日、空は会議室で、ほかのインターン生五人と課題を受けた。

 古い公共施設の案内表示を見直し、初めて訪れる人にも使いやすい提案を作る。

 実際に施設を歩き、利用者へ聞き取りをし、五日後に社員へ発表する。

「水瀬さんは、こういうの得意そうだね」

 参加者名簿を見た学生に言われ、空は一瞬、自分のことだと気づかなかった。

 インターンシップでは作品名の「水瀬空」で応募していた。

「得意かどうかは分からないけど、大学で似た課題はやりました」

「地図とか好き?」

「好きというより、迷うのが嫌なんです」

「自分が?」

「自分も。ほかの人も」

 空は施設の入口から受付まで歩き、視線の高さ、文字の大きさ、光の反射を記録した。高齢者、子ども連れ、外国人利用者にも話を聞いた。

 必要な情報を全部載せたくなる癖は、まだ残っていた。

 社員の中間講評で、情報量の多さを指摘される。

「伝える相手を考えているのは分かります。ただ、相手を助けようとしすぎて、選ぶ余地を奪っていませんか」

 一年前に佐野から言われたことと似ていた。

 空は案内図を持ち帰り、表示を半分まで減らした。どうしても残したい詳細は、二次元コードから確認できるようにした。

 最終日、制作部長の槙野が空の提案を見た。

「最初の案より、ずっと使いやすくなりましたね」

「削るのに時間がかかりました」

「削るほうが難しいでしょう」

「はい」

「でも、あなたのいいところは、削る前に必要な人を考えていることです。見栄えだけで情報を捨てていない」

 空は頭を下げた。

「ありがとうございます」

「うちの採用を受ける予定はありますか」

 思いがけない質問だった。

「まだ三年なので、はっきり決めていません」

「来年、募集を出します。興味があれば応募してください」

「はい」

 会社を出たあと、空は由美へ電話をかけた。

「終わった?」

 由美がすぐに出る。

「今、終わった」

「どうだった?」

「採用を受けないかって言われた」

「本当に?」

「募集が出たら、だけど」

 由美の声が弾んでいるのが、電話越しにも伝わった。

「すごいじゃない。今日、お祝いしよう」

「まだ採用されたわけじゃないよ」

「インターンシップを最後まで終えたお祝い」

「それなら、してもいい」

「何が食べたい?」

「由美さん、出張じゃなかった?」

「今日の夜に帰る。八時くらい」

「私もそのくらいになる」

「賢司さんには連絡した?」

「まだ」

「空からしてあげて。私から聞くより喜ぶから」

「分かった」

 電話を切り、今度は賢司へかける。

「どうした」

「インターンシップ、終わった」

「お疲れさま。今どこだ」

「会社を出たところ。採用に興味があったら応募してって言われた」

 賢司は一瞬黙った。

「そうか」

「それだけ?」

「いや。すごいと思ってる」

 賢司の声のトーンが、いつもよりわずかに高かった。

「声が普通」

「会社の廊下にいるんだ。大きな声は出せない」

「じゃあ帰ってから言って」

「分かった。何度でも言う」

「一回でいい」

「夕食は?」

「家で食べる。由美さんも帰るって」

「では、何か買って帰る」

「お祝いはまだ早いよ」

「インターンシップを終えた祝いだ」

「由美さんと同じこと言ってる」

「夫婦だからな」

 空は電話を切った。

 以前の二人なら、会社名を確認し、勤務条件を調べ、採用される可能性や通勤経路まで先に話していたかもしれない。

 今は、空が詳しく話すまで待ってくれる。

 その夜、三人は賢司が買ってきた小さなケーキを食べた。

 空はインターンシップで失敗したことも話した。案内図へ情報を詰め込みすぎたこと。発表前に何度も作り直したこと。社員から採用への応募を勧められたこと。

「その会社へ入りたいの?」

 由美が聞く。

「候補にはしたい。でも、ほかも見てから決める」

「そうね」

「由美さん、会社を紹介しようとしないんだ」

「してほしい?」

「してほしくない」

「でしょう? だから黙ってるの」

「少しは学んだね」

「私が何年、空と暮らしてると思ってるの」

 以前、空が賢司へ言った言葉だった。

 三人ともそれに気づき、笑った。

 秋から、空は就職活動の準備を始めた。

 ポートフォリオには、高校時代の作品を一つ、大学の作品を八つ入れた。若葉ホームの避難案内を作り直した経験は、その後の制作の原点として短く記した。

 表紙には「水瀬空」と入れた。

 履歴書の氏名は「朝倉空」。使用名として水瀬空を併記した。

「名字が二つあること、面接で聞かれるかな」

 空が食卓で話すと、賢司はポートフォリオをめくった。

「聞かれる可能性はある」

「どう答えればいいと思う?」

「事実を簡潔に説明すればいいんじゃないか。成人後に養子縁組をして、戸籍上は朝倉。作品では以前の氏を使っている」

「養子縁組まで言わなきゃ駄目?」

「言いたくないなら、旧姓を使用しているだけでもいいと思う」

「でも、本当の旧姓とは少し違うよね」

 由美が表紙を見た。

「空が説明したい範囲でいいんじゃない? 会社が知りたいのは、仕事でどの名前を使うかでしょう」

「仕事では朝倉にしたほうがいいのかな」

「どうして?」

「手続きが簡単だから」

「それも理由になるわね」

「水瀬を使いたい気持ちもある」

「今、決めなくてもいいんじゃないか」

 賢司が言った。

「採用された会社の規定を確認してからでいい」

「それが一番現実的ね」

 空は頷いた。

「ポートフォリオ、ほかに気になるところある?」

 由美が少し身を乗り出す。

「言っていいの?」

「聞いたんだから、いいよ」

「この説明文、少し長い。作品を見れば分かることまで書いてある」

「やっぱり?」

「こっちの冊子は、制作過程をもう少し入れたほうがいいと思う。最初の案からどう変えたのかが分からないから」

「賢司さんは?」

「全体の順番に理由があるのか気になった。制作年順ではないようだが」

「最初に見せたいものから並べた」

「最後の作品が少し弱く見える。面接のとき、最後に何を覚えてほしいか考えたほうがいい」

 空は二人の意見をノートへ書いた。

「聞いておいて何だけど、二人とも意外と厳しいね」

「褒めるだけでいいなら、いくらでも褒めるわよ」

「それは要らない」

「だから真面目に見たの」

 空はポートフォリオを閉じた。

「ありがとう。全部は直さないけど、考える」

「それでいい」

 由美は笑った。

 就職活動は、思いどおりには進まなかった。

 最初に応募した広告制作会社は、書類選考で不採用になった。二社目は面接まで進んだが、「個人作品に比べ、商業デザインへの適応が見えにくい」という理由で落ちた。

 三社目の面接では、家族について聞かれたわけではない。それでも、朝倉と水瀬の二つの名字を説明するときに言葉が詰まり、帰宅してから何度も答え方を考え直した。

「また駄目かもしれない」

 空が居間の床へ座り込むと、由美が隣へクッションを置いた。

「まだ連絡は来てないんでしょう?」

「面接官の顔で分かった」

「空は人の顔を読みすぎるところがあるから、当てにならないわよ」

「由美さんの顔は分かる」

「私は分かりやすいから」

「賢司さんも」

「賢司さんも分かりやすい」

 台所で茶を入れていた賢司が振り返る。

「本人がいる前で決めないでくれ」

「じゃあ、賢司さんはどう思う?」

 空が聞く。

「面接官の顔だけでは判断できない。結果が出るまで待つ」

「正しいけど、今ほしい答えじゃない」

「では、空を採用しない会社は見る目がない」

「それも違う」

「難しいな」

「賢司さん、もう少しだけ落ち込ませてあげて」

 由美が言う。

「どうすればいい」

「お茶を置いて、黙って隣に座る」

 賢司は言われたとおり、空の前へ湯飲みを置き、向かいの椅子へ座った。

「隣じゃない」

「ここでいい」

 空は湯飲みを両手で持った。

「不採用になるたびに、私の全部を駄目だって言われてる気がする」

「全部を見て判断できるほど、面接は長くない」

 賢司が言った。

「だから、仕事との相性を見られているだけだ。空自身を家から追い出す話ではない」

「家の話はしてない」

「でも、空は何かに選ばれなかったとき、自分の居場所までなくなったように考えることがある」

 空は返事をしなかった。

 賢司の言葉は、悔しいほど当たっていた。

「今日は落ち込んでいい。ただ、結果が一つ出るたびに、ここにいていいかどうかまで疑わなくていい」

「分かってる」

「分かっていても、言っておく」

「こういうときだけは、細かく言ってもいいよ」

「覚えておく」

 三社目からも不採用の通知が届いた。

 空はその日のうちに、次の会社へ応募した。

 四年生の五月、灯路デザイン室の採用選考が始まった。

 インターンシップで顔を覚えられていたが、それだけで採用が決まるわけではなかった。書類選考、一次面接、実技課題、最終面接。

 実技課題は、災害時に避難所で配布する案内紙の制作だった。

 限られた紙面へ何を載せるか。どの言語を使うか。視力の弱い人や、文字を読むことが難しい人へどう伝えるか。

 空は、すべてを一枚に入れようとしなかった。

 最初に必要な行動を絵と短い文で示し、詳しい情報へ進む方法を分けた。色だけに頼らず、記号と枠の形を変えた。

 提出前日、佐野が大学の制作室で空の案を見た。

「ここ、少し固い」

「どこ?」

「『係員の指示に従ってください』って文。正しいけど、怖くない?」

「災害時だから、曖昧にできない」

「『分からないことは係員に聞いてください』を近くに入れたら?」

「文字が増える」

「水瀬が言うんだ」

「私は減らすことを覚えたの」

「完全には覚えてないだろ」

「佐野くんよりは」

「俺は最初から少ない」

「少なすぎるの」

 二人で言い合っていると、結衣が遠くから声をかけた。

「また始まった。夫婦喧嘩みたい」

 空と佐野は同時に結衣を見た。

「違う」

「違う」

 声が重なった。

 結衣は楽しそうに笑った。

「そこまで同じにしなくていいのに」

「結衣、卒業制作は進んでるの?」

 空が話を変える。

「今、それを聞くのは卑怯」

「締め切りまで三週間だよ」

「知ってる。だから現実を言わないで」

 佐野が空の案内紙を指した。

「この一文、入れるかどうかは水瀬が決めればいい。でも、質問できるって分かるのは大事だと思う」

「考える」

「採用されたら、昼飯おごって」

「どうして佐野くんに?」

「助言料」

「まだ採用されてないし、助言を採用するとも言ってない」

「採用されたらでいい」

「佐野くんは?」

「来週、最終面接」

「決まったら、私がおごる」

 言ってから、空は少し照れた。

「就職祝いとして」

「分かってる」

 佐野は笑った。

 空は実技課題へ「質問や手助けが必要な方は、係員へ声をかけてください」という一文を加えた。文字を増やした分、重複する説明を一つ削った。

 最終面接では、槙野と社長が空のポートフォリオを見た。

「インターンシップのときから、作品が変わりましたね」

 槙野が言った。

「どこが変わりましたか」

「人に任せる部分が増えた。以前は、作り手が正解を全部用意しようとしていた」

「大学の先生にも、似たことを言われました」

「自分では、どう思いますか」

「全部説明したい気持ちは、今もあります。でも、情報を受け取る人にも選ぶ力があると考えられるようになりました」

「それは、なぜ?」

 空は少し考えた。

「自分が、誰かに決められることを嫌だと思ったからです」

 面接室の空気が止まった。

「助けるつもりでも、相手の選択肢を奪うことがあります。私は、困る人を置いていかないデザインを作りたいです。でも、何を選ぶかまで決めるものにはしたくありません」

 社長が頷き、ポートフォリオの表紙を見た。

「水瀬空という名前で制作を続ける予定ですか」

「現在は、そのつもりです。戸籍上は朝倉空ですが、学生時代までの作品は水瀬で発表しています」

「入社後、仕事で使う名前は?」

「会社の規定に従います。ただ、可能なら、制作者名を出す仕事では水瀬を使いたいと考えています」

「理由を聞いても?」

「どちらも、自分で生きてきた名前だからです」

 空は面接官の顔を読みすぎないように、背筋を伸ばした。

「朝倉は、自分で家族を選んだ名前です。水瀬は、それ以前の私を知る人たちが呼んでくれた名前です。どちらかを隠す必要はないと思っています」

 面接を終えると、緊張で膝が少し震えた。

 駅へ向かう途中、由美から「どうだった?」と連絡が来た。

 〈分からない。でも、言いたいことは言えた〉

 由美から返ってきたのは、親指を上げた印だけだった。

 続いて賢司から届いた。

 〈こちらの夕食は鯖の塩焼きです〉

 空は歩きながら笑った。

 〈それ、面接の日に必要な情報?〉

 〈何でも書いてほしいと言われたことを覚えている〉

 大学一年の夜、空が賢司へ頼んだことだった。

 〈覚えてたんだ〉

 〈もちろん〉

 〈家で食べます〉

 〈了解。大根おろしを多めに用意する〉

 灯路デザイン室から内定の連絡が来たのは、その四日後だった。

 空は大学の廊下でメールを開き、何度も文面を読み直した。

 採用内定。

 入社予定日。勤務条件。回答期限。

「水瀬?」

 佐野に呼ばれても、すぐに顔を上げられなかった。

「どうした」

 空は携帯電話の画面を見せた。

 佐野が最後まで読み、顔を上げる。

「決まった?」

「うん」

「おめでとう」

「ありがとう」

 声にすると、急に実感が押し寄せた。

 空の目から涙が落ちた。

「何で泣くんだよ」

「分からない」

「落ちたみたいに見える」

「受かったから」

「知ってる」

 佐野は鞄からハンカチを出した。空が受け取ろうとすると、途中で手を止める。

「これ、きれい?」

「昨日洗った」

「なら借りる」

「そこ、確認するんだ」

「大事でしょ」

 空は涙を拭いた。

「佐野くんの結果は?」

「俺も決まった。昨日」

「どうして言わなかったの」

「水瀬の面接結果が出てから言おうと思って」

「別に待たなくてよかったのに」

「俺が待ちたかった」

 佐野は少し目をそらした。

「昼、何食べる?」

「おごってくれるんじゃなかった?」

「それは水瀬が採用されたら、俺におごる話」

「佐野くんも決まったんだから、お互い様でしょ」

「じゃあ、割り勘」

「最初からそのつもりだった?」

「半分くらい」

 二人で笑い、結衣へ連絡した。

 三人で大学近くの定食屋へ行き、それぞれの内定を祝った。結衣も出版社の制作部から内定を得ていた。

「全員決まったね」

 結衣がグラスを持ち上げる。

「まだ卒業制作があるけど」

 空が言う。

「今日くらい忘れさせて」

「提出できなかったら内定も――」

「空ちゃん、今日は黙って食べて」

「はい」

 夕方、空は予定より早く家へ帰った。

 由美と賢司はまだ帰宅していない。

 空は冷蔵庫にあった炭酸水を三つ取り出し、食卓へ並べた。夕食の準備を始めようとしたが、落ち着かず、何度も玄関を見た。

 七時前、由美が帰ってきた。

「ただいま」

「おかえり」

 空が玄関まで迎えに出ると、由美は驚いた。

「どうしたの?」

「決まった」

「何が?」

「灯路デザイン室。内定もらった」

 由美は鞄を床へ置き、空を抱きしめた。

「おめでとう」

「苦しい」

「ごめん。でも、もう少し」

「少しなら」

 空も由美の背中へ腕を回した。

 賢司が帰るまで、二人は夕食の支度をした。内定の知らせを電話で伝えようか迷ったが、由美の提案で直接伝えることにした。

 八時過ぎに玄関の鍵が回る。

「ただいま」

「おかえり」

 空と由美が並んで迎えると、賢司が不審そうに立ち止まった。

「何だ」

「決まった」

 空が言う。

「内定か」

「どうして分かったの」

「二人の顔を見れば分かる」

「賢司さんも、少しは読めるようになったね」

「俺は昔から人の顔くらい読める」

「空の顔だけでしょう」

 由美が言う。

 賢司は靴を脱ぎ、空の前に立った。

「おめでとう」

「ありがとう」

「よく頑張ったな」

「うん」

 賢司は空の頭へ手を伸ばしかけ、途中で止めた。

「何?」

「いや」

「今さら遠慮するの?」

「子ども扱いになるかと思って」

「今日だけならいいよ」

 賢司の手が、空の頭に軽く触れた。

 空は少し俯いた。高校生の頃なら、身を固くしていたかもしれない。今は、その手の重さをそのまま受け止められた。

 三人は炭酸水で乾杯した。

 内定の喜びが落ち着くと、次に考えなければならないのは卒業後の暮らしだった。

 灯路デザイン室は神田にあり、朝倉家からの通勤時間は乗り換えを含めて五十分ほどだった。無理な距離ではない。

 会社には社員寮がなかったが、条件を満たせば住宅手当が出る。一人暮らしをするなら、以前見た部屋より会社に近い地域も選べた。

 空はもう一度、不動産店を訪れた。

 今度は就職先と初任給を伝え、現実的な家賃の範囲で三つの部屋を見た。

 一つは会社まで二十分。狭いが新しかった。

 一つは古い建物だったが、台所が広かった。

 最後の部屋は駅から遠い代わりに、八畳あり、窓から空がよく見えた。

 どの部屋にも、暮らせると思った。

 一人で掃除をし、食事を作り、金を管理することもできる。分からないことがあれば調べ、必要なら人へ聞くこともできる。

 できることを確かめたあと、空は若葉ホームへ向かった。

 長谷川と相沢に、内定を報告するためだった。

「おめでとう、空ちゃん」

 長谷川は自分のことのように喜んだ。

「最初に会ったときは、必要なことしか話してくれなかったのにね」

「それ、毎回言うつもり?」

「毎回は言ってないでしょう」

「大事な日には言ってる」

「空ちゃんが覚えてるなら、そのくらい言ってるのね」

 相沢が笑いながら、空へ茶を出した。

「卒業後の住まいは決めましたか」

「まだです。一人暮らしの部屋も見ました」

「朝倉さんたちは何と?」

「どちらでも応援するって」

「それが不満?」

 長谷川に見抜かれ、空は眉を寄せた。

「どうして分かったの」

「今の顔」

「みんな、私の顔を読みすぎ」

「分かりやすくなったんですよ」

 相沢が言う。

「以前は、顔に出さないようにしていたから」

 空は湯飲みを持った。

「引き留めてほしいわけじゃないんです。たぶん」

「たぶん?」

「少しは言ってほしい気もする。でも、本当に言われたら嫌だと思う」

「難しいわね」

 長谷川が笑う。

「一人で暮らしたいの?」

 相沢の問いに、空は窓の外を見た。

 庭では芽衣たちが洗濯物を取り込んでいる。誰かがタオルを落とし、二人で拾って笑っていた。

「一人で暮らせるようにはなりたいです」

「暮らしたいかどうかを聞きました」

「それが、分かりません」

「一人暮らしをしないと、自立したことにならないと思っている?」

「少し」

「誰に言われましたか」

「誰にも。でも、大学を卒業して働くなら、家を出るのが普通なのかと思って」

「普通の家は、卒業した子どもを全員追い出すの?」

 長谷川が尋ねる。

「そうじゃないと思います」

「一人暮らしをする人も、実家に残る人もいる。家賃を入れる人も、貯金を優先する人もいる。家ごとに違うでしょう」

「私が家に残ったら、二人に甘えることになりませんか」

「家に残ることと、何も引き受けないことは別です」

 相沢が答えた。

「成人した三人として、生活費や家事を話し合うことはできます。逆に、一人暮らしをしていても、困るたびに朝倉さんたちへ全部任せるなら、住所が違うだけです」

「結衣も似たこと言ってました」

「お友達は正しいことを言っていますね」

「本人には言わないでください。調子に乗るから」

 三人は笑った。

「空ちゃん」

 長谷川が少し真剣な表情になった。

「朝倉家に残るなら、二人が寂しがるからではなく、自分がそこで暮らしたいからにしてね」

「はい」

「出るなら、家族から離れなければ成長できないと思うからではなく、暮らしてみたいからにする」

「はい」

「できるかどうかではなく、したいかどうかを考えるの」

 空は頷いた。

 その夜、空は自分の部屋にあるものを一つずつ見た。

 高校時代から使っている机。青い糸で繕った筆箱。入学式の写真。大学で作った冊子。青葉プリントでもらった紙の見本帳。

 この部屋は、最初に用意された「誰のものでもない部屋」から、空の部屋になった。

 置いてあるものは、空が自分で選んだものばかりだった。

 それでも、大学を卒業して社会人になる自分が、この部屋で暮らす姿を想像すると、少し狭く感じた。

 机は制作物でいっぱいになり、本棚には入らない資料が床へ積まれている。高校時代の服と就職活動用のスーツが、同じ収納に押し込まれていた。

 家を出たいのではなく、今のままではいたくない。

 その違いに気づいた。

 日曜日の朝、空は由美と賢司を食卓へ呼んだ。

「二人とも、今日の午後、時間ある?」

「あるけど」

 由美が答える。

「どこか行きたいの?」

「話がある」

 賢司が新聞を畳んだ。

「今でもいいぞ」

「朝ご飯のあとがいい」

「重大な話?」

 由美の声に緊張が混じる。

「重大ではあるけど、悪い話じゃない」

「そういう言い方をされると、余計に気になる」

「じゃあ、先にご飯食べて」

 空はトーストへ苺ジャムを塗った。

 食後、三人は居間へ移った。

 空は不動産店でもらった三つの物件資料と、自分で作った生活費の計算表を机へ並べた。

「ここまで調べたのか」

 賢司が計算表を見る。

「うん。一人暮らしはできると思う。最初は余裕が少ないけど、貯金を全部使わなくても引っ越せる」

「そうね」

 由美は窓の大きい部屋の写真を見た。

「この部屋、空が好きそう」

「好きだった。机も置ける」

「なら、ここにするの?」

「しない」

 二人が同時に空を見た。

「私は、ここに残りたい」

 由美の指が資料の上で止まった。

「本当に?」

「うん」

「私たちが寂しがってると思ったからじゃない?」

「二人とも、寂しいって言わなかったでしょ」

「言わなかったけど、顔には出てたと思う」

「出てた。だから少し腹が立った」

「どうして?」

「顔では出ていってほしくないって言ってるのに、口では何でも応援するって言うから」

 賢司が困ったように眉を寄せた。

「空の選択を邪魔したくなかった」

「分かってる。でも、私も二人の気持ちを聞きたい。私だけが決めて、二人が我慢するのは違うから」

 由美は資料を閉じた。

「私は、空に残ってほしい」

 はっきりとした言葉だった。

「大学を卒業しても、一緒に暮らしたい。でも、それを言ったら、空が私たちのために残るんじゃないかと思って言えなかった」

「賢司さんは?」

「俺も同じだ」

「本当に?」

「ああ。ただ、ここに住み続けることで、空が一人で暮らす機会を失うのではないかと考えた」

「一人暮らしは、したくなったときにできるよ」

「今は、したくないのか」

「うん」

 空は三つの物件資料へ手を置いた。

「できると思う。家賃を払って、食事を作って、掃除もできる。困ったら自分で調べられる。それを確かめたかった」

「確かめたうえで、ここを選ぶ?」

「そう」

「理由を聞いてもいい?」

 由美の問いに、空はすぐには答えなかった。

 理由は一つではない。

「二人と暮らしたいから」

 まず、そう言った。

「家賃が浮くからだけじゃない。家事をしてもらえるからでもない。ここに帰って、二人とご飯を食べたり、今日あったことを話したりしたい」

「毎日、一緒に食べられるとは限らないわよ」

「分かってる。私も仕事で遅くなると思うし、由美さんも出張があるし、賢司さんも会議がある」

「それでも?」

「一緒にいない時間も含めて、ここで暮らしたい」

 賢司は黙って聞いていた。

「それに、二人と暮らしていたら自立できないとは思わなくなった」

「どうして?」

「自立って、一人で全部やることじゃないから。自分にできることを知って、できないときは頼んで、相手にできないことは自分がやることだと思う」

 空は由美を見た。

「由美さん、仕事が忙しいと、洗濯物を畳んだまま三日くらい置くでしょ」

「三日はない。二日よ」

「同じようなものだよ。私が片づける」

 次に賢司を見る。

「賢司さんは、体調が悪くても病院へ行くのを後回しにする」

「毎回ではない」

「私が予約したか確認する」

「それは俺が空にしていたことと同じじゃないか」

「嫌なら自分で先に行って」

「分かった」

「私は仕事で失敗したら、たぶん一人で何とかしようとする。そういうときは、二人が気づいて」

「気づいても、すぐに口を出さずに待つのね」

 由美が言う。

「少しだけ待って。それから聞いて」

「難しい注文ね」

「二人ならできる」

 由美は涙をこらえるように唇を結んだ。

「家族だから残るんじゃない」

 空は続けた。

「家族でも、別々に暮らす人はいる。私は二人と暮らしたいから残る。いつか気持ちが変わったら、そのときはまた話す」

「ああ」

 賢司が頷く。

「分かった」

「ただし、今までと同じ暮らし方はしない」

「というと?」

「働き始めたら、生活費を入れる。家事の分担も変える。帰宅時間は許可を取るんじゃなくて、予定を共有する。部屋も少し作り直したい」

 空は自分で作った別の表を出した。

「月三万五千円を家に入れるつもり」

 賢司がすぐに計算を始める顔をした。

「初任給から三万五千円は多くないか」

「家賃と食費を考えたら少ない」

「貯金も必要だ」

「できる」

「住宅手当は、実家から通う場合にも出るの?」

「会社に確認した。出ない」

「なら、その差額も考えたほうが――」

「賢司さん」

 空が止める。

「まず、私の案を最後まで聞いて」

「悪い。続けて」

「三万五千円の中に食費と光熱費を含める。日用品は共通の口座から出す。自分の昼食や携帯電話、服は自分で払う」

 由美が尋ねる。

「家事は?」

「料理は週二回。洗濯は自分の分は自分で。共有部分の掃除は三人で交代」

「仕事を始めたら、料理ができない週もあるでしょう」

「そのときは代わってもらう。でも、次の週に返す」

「返すという言い方は、少し気になるな」

 賢司が言う。

「じゃあ、調整する」

「それならいい」

「それから、部屋の机と収納を替えたい。費用は自分で出す」

「ベッドも替える?」

 由美が聞く。

「まだ使えるから、そのままでいい」

「カーテンは?」

「どうしてカーテンまで替えるの」

「社会人になる記念に」

「カーテンで社会人にはならないよ」

「でも、少し大人っぽい色にしても――」

「今の色、私が選んだんだけど」

「そうだったわね」

「由美さん、部屋のことになると、すぐ自分の好みを入れようとする」

「見るだけならいいでしょう?」

「見るだけなら」

「二人とも、まだ決めることがある」

 賢司が計算表を指した。

「生活費の金額は、初任給を受け取ってから一度見直そう。三万五千円をそのまま使うのではなく、一部は空の名義で貯金する方法もある」

「それだと、私が家に入れる意味がない」

「家計への負担と、将来の備えを両方考えたい」

「私のお金だよ」

「ああ。だから、空が納得しなければしない」

 空は少し考えた。

「まず三万にする。残りは自分で貯金する」

「俺が管理する必要はない」

「最初からそのつもり」

「なら、それでいい」

 三人の話し合いは昼を過ぎた。

 最後に、空は不動産店の資料を重ねた。

「この部屋、断ってくる」

「捨てるの?」

 由美が尋ねる。

「取っておく」

「どうして?」

「一人でも暮らせるって確かめた記録だから」

 空は資料を自分の鞄へ入れた。

「それに、いつか本当に引っ越すとき、参考になるかもしれない」

 由美の表情が少し曇る。

「そのときは、そのときだよ」

 空が言うと、由美は頷いた。

「そうね」

 卒業制作で、空は「帰るための案内」を作った。

 災害や事故で交通機関が止まったとき、人が自分の帰る場所を選び、必要な情報へたどり着くための案内システムだった。

 家族の家へ帰る人。友人の家へ行く人。避難所へ向かう人。職場へ残る人。帰る場所を決められない人。

 一つの道を正解にせず、複数の選択肢を同じ重さで示した。

 佐野は、空の展示用パネルを運ぶのを手伝った。

「これ、重い」

「一人で持てるって言ったの、佐野くんでしょ」

「持てるけど、重いものは重い」

「じゃあ、そっちの端を上げて」

「水瀬、指示だけは早いな」

「落としたくないから」

「分かってる」

 二人でパネルを壁へ取りつける。

 少し離れて確認すると、右側が数ミリ下がっていた。

「曲がってる」

 空が言う。

「これくらい分からない」

「私は分かる」

「水瀬しか分からないんじゃない?」

「私の作品だから、私が分かれば直す理由になる」

「はいはい」

 佐野は脚立へ上がり、パネルを直した。

「どう?」

「あと少し右」

「厳しいな」

「佐野くんの卒業制作も手伝ったでしょ」

「あのときは、水瀬が勝手に文字間を直し始めた」

「ひどかったから」

「そういうところ、仕事でも嫌われるぞ」

「佐野くんにだけは言われたくない」

 脚立から下りた佐野が、空の隣に立った。

「これでいい?」

「うん。ありがとう」

「じゃあ昼、行く?」

「結衣は?」

「出版社の研修説明会」

「二人で?」

「嫌なら、別の日にする」

 空は佐野の顔を見た。

「嫌じゃない」

「じゃあ行こう」

 二人で大学を出た。

 いつもの定食屋ではなく、佐野が見つけた小さな喫茶店へ入った。窓際の席に座り、空はオムライス、佐野はナポリタンを頼んだ。

「卒業したら、会う回数減るな」

 佐野が言う。

「会社が違うからね」

「小野寺も忙しくなりそうだし」

「結衣は忙しくなくても連絡してくるよ」

「それはそう」

 料理が運ばれてくる。

 空が卵へスプーンを入れたところで、佐野が続けた。

「水瀬は、家に残るんだっけ」

「うん」

「朝倉さんたちと?」

「そう」

「一人暮らし、やめたの?」

「やめたというより、今は選ばなかった」

「そういう言い方、水瀬らしいな」

「変?」

「変じゃない。選べる状態にしてから、別のほうを選ぶんだなと思って」

 空はオムライスを一口食べた。

「一人で暮らせないから残るのは嫌だった」

「朝倉さんたちには、何て言った?」

「一緒に暮らしたいから残るって」

「言えたんだ」

「何、その反応」

「前の水瀬なら、理由を半分くらい隠したと思う」

「佐野くんまで、そういうこと言うようになったね」

「三年見てきたから」

 以前、同じような言葉を聞いたことがある。三年の時間は、空の知らないうちに、佐野との間にも積み重なっていた。

「佐野くんは家を出るの?」

「会社の近くへ引っ越す。父親のいびきから、ようやく離れられる」

「洗濯は?」

「自分でやる」

「服、縮ませないでね」

「母親よりは上手くやる」

「それ、本人に言ったら怒られるよ」

「言わない。水瀬にだけ言う」

 佐野は水を飲み、窓の外を見た。

「卒業しても、会ってくれる?」

 空の手が止まった。

「結衣も一緒?」

「二人でも」

 佐野は空を見た。

「嫌なら、三人で」

 空はすぐに答えなかった。

 嫌ではない。

 二人で制作をしている時間も、帰りの電車で話す時間も、空は好きだった。佐野が余計な事情を聞かず、意見が違えば遠慮なく言い返してくることも知っている。

「二人でもいいよ」

「本当?」

「どうして佐野くんが驚くの」

「断られるかと思った」

「私を何だと思ってるの」

「慎重な人」

「それは合ってる」

 佐野は笑った。

「じゃあ、卒業制作が終わったら、どこか行こう」

「近いところなら」

「最初から条件があるんだ」

「仕事が始まる前に疲れたくないから」

「分かった。近いところを探す」

「私も探すよ」

 二人は食事を続けた。

 空はまだ、それを約束以上の言葉にはしなかった。

 けれど帰宅して予定表へ卒業制作の予定を書き込むとき、翌週の日曜日に小さく「佐野くんと外出」と書いた。

 由美は気づいたが、何も聞かなかった。

 賢司は三度ほど予定表の前を通り、そのたびに同じ場所を見た。

「何か聞きたい?」

 空が言うと、賢司は足を止めた。

「どこへ行くんだ」

「まだ決めてない」

「帰宅は?」

「それも決まってない。決まったら書く」

「二人で?」

「うん」

 賢司の眉間に皺が寄る。

「賢司さん」

 由美が居間から声をかけた。

「今はそれだけで戻ってきなさい」

「何も言ってない」

「顔で十個くらい質問してる」

「空にも同じことを言われた」

「分かりやすいからね」

 空が笑うと、賢司は諦めたように居間へ戻った。

 卒業式の日、空は黒いスーツの上に式服をまとった。

 大学の記録上の名前は朝倉空。卒業証書にも、その名前が記されていた。

 卒業制作の展示には、水瀬空。

 どちらも間違いではない。

 式を終え、空が構内の広場へ出ると、由美と賢司が時計台の近くで待っていた。

 四年前の入学式と同じ場所だった。

 由美が空を見つけ、手を振る。

「空!」

「写真は四枚までだからね」

 近づく前に言うと、由美が笑った。

「今日は十枚」

「増えてる」

「卒業式だから」

「五枚」

「八枚」

「六枚」

「成立」

「二人とも、入学式と同じことをしてるな」

 賢司が言う。

「賢司さんは、今日は傘を持ってないね」

「降水確率はゼロだ」

「成長した」

「天気予報に従っただけだ」

 長谷川と相沢も、少し遅れて広場へ来た。莉子は仕事で来られなかったが、朝から長い祝いのメッセージが届いている。真帆と菜月からも、今夜電話をすると連絡があった。

 結衣と佐野が空を見つけ、こちらへ歩いてきた。

「空ちゃん、おめでとう」

「結衣もおめでとう」

「紹介して」

 結衣に促され、空は二人のほうを向いた。

「父の賢司さんと、母の由美さん」

 言葉にした瞬間、由美の目が赤くなった。

「泣かないでよ」

「まだ泣いてない」

「入学式の朝から同じこと言ってる」

「今日は仕方ないでしょう」

 佐野が頭を下げた。

「佐野航平です。大学でずっと同じ学科でした」

「君が佐野くんか」

 賢司の声が少し低くなる。

「はい」

「賢司さん、普通にして」

 空が肘で軽く押す。

「普通だ」

「それが普通なら、会社でも怖がられてるよ」

 由美が佐野へ笑いかけた。

「空からよく話を聞いています」

「何を話してるんですか」

 佐野が空を見る。

「課題で喧嘩したこととか」

「いい話が一つもない」

「冊子を一緒に作ったことも話した」

「それなら、少しはいいか」

 結衣が小声で由美に言う。

「二人、ずっとこんな感じです」

「そうなのね」

「由美さん、嬉しそうにしないで」

「何も言ってないでしょう?」

「顔で言ってる」

 六枚の写真を撮った。

 一枚は三人で。一枚は長谷川と相沢を交えて。残りは結衣と佐野も加わった。

 最後の一枚では、誰かが何かを言ったため、全員が違う方向を見て笑っていた。

 空はその写真を選び、携帯電話の保存欄へ入れた。

 四月、空は灯路デザイン室へ入社した。

 最初の一週間は、覚えることばかりだった。

 社内の規則、共有データの保存場所、印刷会社への入稿方法、取引先への連絡。大学では作品の意図を自分で決められたが、仕事では依頼主の希望、予算、納期がある。

 初めて任されたのは、病院の外来案内に使う小さな図の修正だった。

 先輩から戻された指示は細かく、空が整えた線は何度も描き直された。

「この角度だと、車椅子ではなく椅子に座っている人に見える」

「はい」

「線を増やせば分かりやすくなるとは限らない。縮小したときに潰れます」

「直します」

 残業して仕上げた案が、翌朝もう一度戻された。

 帰宅した空は、玄関で靴を脱ぐなり床へ座りたくなった。

「ただいま」

「おかえり」

 台所から由美の声がする。

「夕食は?」

「食べる」

「先にお風呂へ入る?」

「うん」

 由美は空の顔を見たが、すぐには何も聞かなかった。

 空が浴室から出ると、食卓に豚汁とおにぎりが用意されていた。賢司はまだ帰っていない。

「仕事、うまくいかなかった?」

 由美が向かいに座る。

「何度も直された」

「何を?」

「病院の案内図に使う絵。車椅子の人が、椅子に座ってる人に見えるって」

 由美は箸を置き、空の話に耳を傾けた。

「違い、難しそうね」

「難しい。線を増やすと、小さくしたときに見えなくなるし」

「明日も続き?」

「うん」

「辞めたい?」

「まだ辞めない」

「まだ?」

「今日は少し辞めたいと思った」

「それなら、豚汁を食べてから考えたら」

「豚汁で決めるの?」

「お腹が空いていると、悪いほうへ考えるから」

 空はおにぎりを一口食べた。

「おいしい」

「賢司さんが握ったの」

「本当?」

「私より形が揃ってるでしょう」

「そう言われると、賢司さんのおにぎりに見える」

 空は二つ目にも手を伸ばした。

 食べ終える頃には、辞めたい気持ちは少し小さくなっていた。

 翌日、空は先輩へ質問した。

「参考にしている図はありますか」

「あります。昨日、聞いてくれればよかったのに」

「自分で直さなければいけないと思っていました」

「仕事は一人で正解を当てるものじゃありません。分からないまま時間を使うほうが困ります」

「はい」

 渡された資料を参考にすると、修正は一時間で終わった。

 空は帰りの電車で、朝倉家の連絡欄へ送った。

 〈今日は直しが一回で通りました。夕食は家で食べます〉

 賢司から返事が来る。

 〈了解。今日は由美さんのハンバーグです〉

 由美から続く。

 〈失礼ね。私のハンバーグはおいしいでしょう〉

 〈形が不揃いという意味です〉

 〈賢司さんの分だけ小さくします〉

 空は画面を見ながら笑った。

 家へ残ると決めたあとも、暮らしは急に立派なものにはならなかった。

 空は生活費として毎月三万円を入れた。給与明細を見ながら自分で貯金額を決め、奨学金の返済予定も確認した。

 料理を担当する日に残業すれば、連絡して由美と交代した。賢司が掃除当番を忘れれば、空が指摘した。由美が空の洗濯物まで取り込もうとすると、「自分でやる」と止めた。

 三人の予定表は紙から共有の予定表へ変わったが、冷蔵庫には今も一週間分の食事予定だけが貼られていた。

 空の部屋も作り直した。

 高校時代から使っていた机を処分し、幅の広い作業机を入れた。本棚を増やし、仕事の資料と大学時代の作品を分けた。

「この絵、取っておく?」

 由美が箱の底から一枚の紙を出した。

 空が高校時代に描いた、銀色の鍵の絵だった。

「取っておく」

「こっちは?」

 初めて作った色彩構成の失敗作。

「捨てる」

「本当に?」

「由美さん、全部取っておこうとしないで」

「でも、思い出でしょう」

「置く場所がなくなる」

「写真に撮れば?」

「そこまでしなくていい」

 由美は名残惜しそうに紙を見た。

「じゃあ、鍵の絵だけ」

「うん」

「私が持ってもいい?」

「私の部屋に置く」

「分かった」

 空は鍵の絵を新しい机の引き出しへしまった。

 捨てるものと残すものを、自分で選ぶ。

 由美が寂しそうにしても、全部を残す必要はない。捨てたからといって、過ごした時間までなくなるわけでもなかった。

 部屋の模様替えが終わった夜、空は新しい机へ向かった。

 窓の外には、見慣れた街の灯りが並んでいる。

 携帯電話が震えた。

 佐野からだった。

 〈日曜、空いてる?〉

 〈午後なら〉

 〈行きたい店がある〉

 〈何の店?〉

 〈会ったときに言う〉

 〈怪しい〉

 〈普通の店〉

 〈普通って言う人が一番怪しい〉

 すぐに電話がかかってきた。

「何」

 空が出ると、佐野の笑う声が聞こえた。

「水瀬、警戒しすぎ」

「店の名前を言わないからでしょ」

「神保町の喫茶店。古い装丁の本がいっぱい置いてある」

「最初からそう言えばいいのに」

「行く?」

「行く」

「二時に駅で」

「分かった」

 電話を切ると、開いたままの扉の向こうに由美が立っていた。

「聞いてた?」

「通りかかっただけ」

「どこから?」

「普通の店、あたりから」

「ほとんど全部じゃない」

 由美はいたずらっぽく笑った。

「佐野くん?」

「うん」

「日曜日?」

「うん」

「賢司さんには、空から言ってね」

「予定表に入れる」

「口でも言ったほうがいいと思う」

「どうして?」

「予定表を見て、たぶん一人でいろいろ考えるから」

「面倒だね」

「でも、気になるでしょう?」

「少しだけ」

「由美さん」

「何?」

「私、いつか佐野くんを家に連れてきたいって言ったら、どうする?」

 由美は目を見開いた。

「いつかって、いつ?」

「まだ分からない。今すぐじゃないよ」

「私は、もちろん歓迎するけど」

「賢司さんは?」

「固まると思う」

「やっぱり?」

「でも、空が連れてきたい人なら、ちゃんと会うわ」

「由美さんは質問しすぎないでね」

「いくつまでならいい?」

「数を決める問題じゃない」

「三つ」

「もう質問する気でいる」

 居間から賢司の声がした。

「何の話をしてるんだ」

 由美と空は顔を見合わせた。

「空から話して」

 由美が小声で言う。

「まだ何も決まってないのに」

「日曜日のことだけでも」

 空は新しい机の椅子から立ち上がった。

 居間へ行くと、賢司がソファで本を読んでいる。

「日曜日、佐野くんと出かけてくる」

 賢司は本から目を上げた。

「二人で?」

「うん」

「どこへ?」

「神保町の喫茶店」

「何時に帰る」

「まだ決めてない。夕食がいらないなら、七時までに連絡する」

「分かった」

「それだけ?」

「ほかに聞いたら、質問しすぎなんだろ」

「聞いてたの?」

「由美さんの声が大きい」

「ごめんなさい」

 廊下から由美が答えた。

 空は賢司の隣へ座った。

「賢司さん」

「何だ」

「嫌?」

「何が」

「私が佐野くんと出かけること」

 賢司は本を閉じた。

「心配はする」

「うん」

「でも、嫌ではない」

「本当?」

「空が大学で何度も名前を出した相手だ。意見が違っても、ちゃんと話せる人なんだろう」

「たぶん」

「たぶんなのか」

「絶対って言うと、賢司さんが安心しすぎるから」

「俺を試すな」

 空は笑った。

「いつか、会ってほしいと思うかもしれない」

「いつか?」

「まだ決まってない」

「そうか」

 賢司は少しだけ背筋を伸ばした。

「そのときは、前もって言ってくれ」

「何を準備するの」

「準備ではない。心の整理だ」

「面接みたいにしないでね」

「しない」

「会社名や年収を聞かない」

「聞かない」

「家族構成も」

「聞かない」

「本当に?」

「空、俺を何だと思ってる」

「心配性の父親」

 言ってから、空は少し照れた。

 賢司も一瞬黙り、それから本を膝へ置いた。

「それなら、少しくらい心配させてくれ」

「少しだけね」

「ああ」

 由美が台所から声をかけた。

「お茶、飲む?」

「飲む」

 空が答える。

「俺も」

 賢司も続いた。

 三人分のマグカップが食卓へ並んだ。

 赤、深緑、青。

 空が働き始めても、名字が同じになっても、それぞれのカップは変わらなかった。

 一人で暮らす力を持つことと、一人で暮らすことは違う。

 家に残ることと、子どものままでいることも違う。

 空は、できないからここにいるのではなかった。

 賢司と由美に求められたからでもない。

 出ていく道を確かめ、その先にある部屋を自分の目で見た。家賃を計算し、一人分の暮らしを想像した。そのうえで、空はこの家へ続く道を選び直した。

 これから先、ずっと同じ選択をするとは限らない。

 けれど今は、三人分の声が聞こえる場所で暮らしたい。

 それが、空が家に残る理由だった。


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