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『血の通わぬ糸』  作者: 久遠 睦


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第三十章 連れてきたい人

神保町の喫茶店は、古書店が並ぶ通りから細い路地へ入ったところにあった。

 入口の扉は深い緑色で、ガラスに金色の文字が描かれている。店内へ足を踏み入れると、焙煎した珈琲豆と古い紙の匂いがした。

 壁一面の棚には、布張りや革張りの本が並んでいた。読むための本ではなく、装丁の見本として集められたものらしい。

「ここ、よく見つけたね」

 空が棚を見上げると、佐野は得意そうに笑った。

「水瀬が好きそうだと思って」

「自分が来たかったんじゃないの?」

「それもある」

「正直だね」

「四年一緒にいて、今さら格好つけても仕方ないだろ」

「今日は少し格好つけてる服だと思った」

 佐野は自分の薄い灰色のジャケットを見下ろした。

「変?」

「変じゃない。いつもよりちゃんとしてる」

「水瀬も」

 空は白いシャツと紺色のスカートを見た。

「由美さんに、デートなんだからもう少し明るい色を着たらって言われた」

「デートって言ったの?」

「由美さんが勝手に言った」

「水瀬は何て言った?」

「佐野くんと出かけるって」

「それだけ?」

「それ以上、何を言えばいいの」

「別に」

 佐野は先に歩き、窓際の席へ向かった。

 空はその背中を見ながら、自分が少し緊張していることに気づいた。

 大学時代、佐野と二人で食事をしたことは何度もある。制作の途中で昼を食べ、画材を買いに行き、帰りの電車が同じになったこともあった。

 けれど今日は、どちらにも課題がない。

 会う理由を、佐野は「行きたい店がある」としか言わなかった。

 二人は窓際の小さなテーブルへ向かい合って座った。

 空は店内のメニューを開いた。珈琲の名前が多く、違いがよく分からない。

「どれが苦くない?」

「珈琲の店でそれを聞く?」

「苦いのは苦手」

「カフェオレにすれば」

「佐野くんは?」

「深煎り」

「格好つけてる」

「普通の注文だよ」

 空はカフェオレとチーズケーキを頼んだ。佐野は深煎り珈琲だけを注文した。

「甘いもの、頼まないの?」

「水瀬のを一口もらう」

「嫌だよ」

「一口くらい」

「自分で頼んで」

「じゃあ、同じもの」

 店員が注文を書き直し、去っていった。

「最初から頼めばいいのに」

「一人で一個は多いと思った」

「食べられなかったら、残せばいいでしょ」

「残すの嫌なんだよ」

「だったら私が食べる」

「水瀬が?」

「食べられたら」

「それ、俺が一口もらうのと同じじゃない?」

「全然違う」

「どこが」

「頼む前に相談してる」

「今、相談してなかっただろ」

 二人で言い合い、同時に笑った。

 窓の外では、休日の通りを人がゆっくり歩いている。向かいの古書店の店先に、値札のついた本が積まれていた。

 珈琲とケーキが運ばれてくる。

 空はカフェオレへ口をつけた。苦みは弱く、牛乳の甘みが残る。

「仕事、どう?」

 佐野が尋ねた。

「まだ分からないことばかり。小さい図を一つ作るのに、何度も直される」

「大学より厳しい?」

「厳しいというより、正解が自分の中にない。依頼した人がいて、実際に使う人がいて、印刷する人もいるから」

「水瀬には合ってそう」

「どうして?」

「一人で完成させなくていいから」

 空はフォークを止めた。

「私が一人で全部やろうとするって言いたい?」

「前はそうだった」

「今は?」

「まだ少し」

「佐野くんに言われたくない。卒業制作、搬入の前日まで一人で直してたでしょ」

「あれは自分の作品だから」

「私が手伝うって言っても断った」

「途中から頼んだ」

「朝の四時にデータ送ってきたよね」

「起きてた?」

「通知で起きた」

「悪かった」

「今さら」

 佐野はケーキを一口食べた。

「水瀬」

「何?」

「卒業してからも、こうやって会いたいと思ってる」

「さっきも聞いた」

「そうじゃなくて」

 佐野はフォークを皿へ置いた。

 空はカフェオレのカップを持ったまま、相手の顔を見た。

「大学の友達としてだけじゃなくて、二人で会いたい」

 店の奥で、食器が触れ合う音がした。

「それは、どういう意味?」

「分かってるだろ」

「ちゃんと言って」

 佐野は一度、窓の外へ目を向けた。

「水瀬のことが好きだから、付き合ってほしい」

 空はカップを受け皿へ戻した。

 佐野が自分を特別に見ているかもしれないと、まったく考えなかったわけではない。結衣にも何度か言われた。由美の顔を見れば、何かを期待していることも分かった。

 それでも、本人の口から聞くと、胸の中に知らない場所が開いたようだった。

「今、答えないと駄目?」

「すぐじゃなくていい」

「どのくらい?」

「水瀬が決めるまで」

「一年かかるかもしれないよ」

「一年は少し長い」

「じゃあ、すぐじゃなくていいって言わないで」

「一か月くらいを想像してた」

「具体的だね」

「待つのは苦手だから」

 空は少し笑った。

「知ってる」

「でも、急がせたくはない」

「それも本当?」

「本当」

 佐野の指が珈琲カップの取っ手に触れた。

「一つだけ聞いていい?」

「何?」

「今、嫌?」

 空は首を横に振った。

「嫌じゃない」

「それなら、少し安心した」

「でも、考えたい」

「分かった」

 その後も二人は店に残ったが、会話は少しぎこちなくなった。

 目の前にいるのは、昨日までと同じ佐野だった。珈琲を飲むときにカップの取っ手を持たず、手で包む癖も変わらない。店を出るとき、伝票を先に取ろうとするところも同じだった。

 それでも、空を見る目に意味が加わったように感じた。

 駅で別れる前、佐野が言った。

「家に着いたら連絡して」

「賢司さんみたい」

「嫌なら、しなくていい」

「するよ」

「じゃあ、待ってる」

 空は電車へ乗った。

 窓際に立ち、流れていく街を見ながら考えた。

 誰かと付き合うということが、空にはまだよく分からなかった。

 一緒に出かける。連絡を取り合う。相手のことを考え、相手にも自分のことを考えられる。

 それなら、今までと何が違うのだろう。

 違うとすれば、相手との先を期待することだった。

 空は長い間、誰かに期待することを避けていた。期待して、応えてもらえなかったときに傷つくのが嫌だった。朝倉家で暮らし始めてからも、最初に言えたのは好きなものではなく、嫌なことだった。

 今は、由美と賢司が自分の望みどおりに動かないことを知っている。

 喧嘩もする。言い方を間違える。約束を忘れる。心配しすぎる。

 それでも、関係を立て直すことはできた。

 佐野とも、そうできるのだろうか。

 帰宅すると、由美が居間にいた。

「ただいま」

「おかえり。どうだった?」

「店はよかった」

「店は?」

「古い本がたくさんあった。装丁の見本が並んでて、珈琲もおいしかった」

「佐野くんは?」

「いつもどおり」

 空は靴を脱いだ。

「少し違ったけど」

 由美はそれ以上聞かなかった。

 空が鞄を置き、冷蔵庫から水を出すまで待っている。

「聞かないの?」

「聞いてほしい顔をしてる?」

「してないと思う」

「なら、空が話すまで待つ」

「最近、本当に待てるようになったね」

「すごく努力してるの」

 空はコップへ水を注いだ。

「佐野くんに、付き合ってほしいって言われた」

 由美の口が開き、そのまま止まった。

「声、出さないでよ」

 先に言うと、由美は両手で口を塞いだ。

「驚いた?」

 由美が小声で聞く。

「少し。全然分からなかったわけじゃないけど」

「返事は?」

「考えるって言った」

「そう」

「由美さんなら、どうする?」

「私なら、じゃなくて、空がどうしたいかでしょう」

「分かってる。でも、誰かと付き合うって、何を決めることなのかなと思って」

 由美は少し考えた。

「人によって違うと思う。私は賢司さんと付き合い始めたとき、もっと一緒にいたいと思った」

「結婚したいと思った?」

「最初からは思わなかったわ」

「賢司さんのどこが好きだったの?」

「約束を守るところ」

「今も?」

「今も。ただし、約束していないことまで予定に入れようとするところは面倒」

「それ、好きなところと嫌なところが同じだね」

「そういうものかもしれない」

 由美は空の隣へ座った。

「空は佐野くんと、もっと一緒にいたい?」

「会いたいとは思う」

「意見が違ったとき、嫌になる?」

「腹は立つ。でも、話したくなくなるわけじゃない」

「なら、その気持ちが何なのか、佐野くんと確かめてみてもいいんじゃない?」

「付き合って、違うと思ったら?」

「別れることもできる」

「簡単に言うね」

「簡単じゃない。でも、付き合うと決めたら一生やめられないわけではないでしょう」

 空はコップの水を飲んだ。

「賢司さんには?」

「空から話したほうがいい」

「やっぱり?」

「私から言ったら、質問を準備する時間を与えることになるもの」

「何で準備する前提なの」

「するわよ、きっと」

 玄関の鍵が回った。

 由美と空は同時に廊下を見た。

「ただいま」

 賢司が帰ってくる。

「おかえり」

 空は立ち上がった。

 賢司が靴を脱ぎながら、空の顔を見る。

「佐野くんとの外出はどうだった」

「楽しかった」

「そうか」

「それから、付き合ってほしいって言われた」

 賢司の手が止まった。

「誰に」

「佐野くん以外に誰がいるの」

「そうか」

 賢司は靴を揃え、鞄を持ち直した。

「返事は?」

「まだ」

「まだ?」

「考えてる」

「何を考えるんだ」

「付き合いたいかどうか」

「そうか」

 賢司は居間へ向かいかけ、途中で戻ってきた。

「佐野くんは、どこに住んでいる」

「今度、一人暮らしを始めるって」

「会社は?」

「卒業式のときに話したでしょ。展示や店舗のデザインをする会社」

「勤務時間は?」

「知らない」

「家族は?」

「知らない」

「知らないことが多すぎないか」

「今から知るかもしれないでしょ」

「賢司さん」

 由美が止める。

「まだ空は返事をしていないのよ」

「だから、判断する材料が必要だろ」

「判断するのは空」

「分かってる」

「分かってない顔」

 空と由美の声が重なった。

 賢司は困ったように眉間を押さえた。

「心配するなと言われても無理だ」

「心配はしていいよ。でも、私より先に相手を調べようとしないで」

「ああ」

「会社のホームページを探すのもなし」

「それくらいは公開情報だろ」

「なし」

「分かった」

「本当に?」

「見る前に聞いてくれ」

「見るつもりだったんだ」

 由美が笑い出した。

「空、返事を決める前に、賢司さんへの説明で疲れそうね」

「もう少し疲れた」

「悪かった」

 賢司は鞄を置いた。

「でも、空が選ぶなら、俺はその答えを尊重する」

「うん」

「会わせてもらえるなら、会いたい」

「まだ早い」

「そうか」

「付き合うかも決めてないのに」

「そうだったな」

 空は賢司の横を通り、台所へ向かった。

「夕飯、温めるね」

「自分でやる」

「今日は私がやる」

「なぜ」

「少し落ち着いてほしいから」

 賢司は何か言おうとしたが、由美に肩を押され、椅子へ座った。

 空が佐野へ返事をしたのは、二週間後だった。

 仕事帰りに駅前の公園で待ち合わせた。

 佐野はベンチに座り、缶珈琲を二本持っていた。空の分は甘いカフェオレだった。

「これなら苦くない」

「覚えてたんだ」

「最初のデートで言ってたから」

「デートだったんだ」

「俺はそのつもりだった」

 空はカフェオレを受け取り、隣へ座った。

「返事をしようと思って」

「うん」

 佐野の声が少し固くなる。

「私も、佐野くんと二人で会いたい。今までより、もっと知りたいと思う」

「それは」

「付き合いたいっていう返事」

 佐野は息を吐いた。

「よかった」

「そんなに緊張してた?」

「一か月待つつもりだったけど、二週間でも長かった」

「待つの苦手だもんね」

「水瀬は考えすぎる」

「考えないで決めるよりいいでしょ」

「それはそう」

 空は缶を両手で持った。

「でも、先に言っておきたいことがある」

「何?」

「私は、家族のことを全部は話せないかもしれない」

「朝倉さんたちのこと?」

「それだけじゃなくて、私の両親のこと」

 佐野は黙って続きを待った。

「私は両親のことを何も知らない。顔も、声も、どこにいるかも。水瀬という名字が、どちらの名字なのかも知らない」

「うん」

「高校生になるまで施設で暮らして、二年のときから朝倉家で暮らした。成人してから養子縁組した」

「それは知ってる」

「知ってることと、分かることは違うよ」

「分かってるとは言わない」

 佐野は缶珈琲を足元へ置いた。

「俺が知らないことは、聞いていい?」

「全部には答えないかもしれない」

「そのときは、答えたくないって言って」

「気にしないの?」

「気にはなる。でも、水瀬が話したくないことを、俺が知る権利はない」

 空は佐野の横顔を見た。

「佐野くんの家族のことも、まだ知らない」

「父と母と姉。実家は埼玉。父は鉄道会社を退職して、今は家庭菜園ばかりやってる。母は図書館で働いてる。姉は結婚して千葉に住んでる」

「一気に言うね」

「聞かれたから」

「今度、少しずつ聞く」

「分かった」

「それから、私と付き合っても、朝倉家からすぐに出るつもりはない」

「出てほしいとは言ってない」

「家族と過ごす時間も大事にしたい」

「うん」

「仕事も続けたい」

「俺も続けたい」

「意見が違ったとき、黙っていなくならないで」

「水瀬も」

「私は、いなくならない」

「部屋にこもることは?」

「一晩くらいはあるかも」

「じゃあ、次の日には話す」

「分かった」

 佐野は空へ右手を差し出した。

「何?」

「握手」

「仕事みたい」

「じゃあ、どうすればいい?」

 空は少し迷ってから、佐野の手を握った。

「これでいい」

「うん」

 佐野の手は、思っていたより大きかった。

 空はすぐには離さなかった。

 付き合い始めて三か月後、空は佐野を朝倉家へ連れていくことにした。

 卒業式で一度会ってはいるが、そのときは大学の友人としてだった。

「正式に紹介したい」

 夕食のあとに空が言うと、由美はすぐに予定表を開いた。

「いつ?」

「来月の日曜日。佐野くんの仕事が休みの日」

「昼? 夜?」

「昼」

「何を作ろうかしら」

「普通でいい」

「普通って何?」

「いつものご飯」

「いつものご飯をお客様に出すの?」

「お客様というより――」

 空は言葉に詰まった。

「恋人?」

 由美が嬉しそうに言う。

「由美さん、声が大きい」

「ごめん。恋人なのね」

「付き合ってるんだから、そうだと思う」

 向かいにいた賢司は、予定表を見つめたまま黙っていた。

「賢司さん」

「聞いてる」

「質問は三つまで」

「三つ?」

「由美さんも」

 賢司が予定表から顔を上げた。

「私はまだ何も聞いてないわ」

「当日は二人合わせて三つ」

「少なすぎないか」

「面接じゃないから」

「普通の会話で質問をすることはあるだろ」

「仕事、年収、結婚の予定は禁止」

「結婚の予定がないことを確認するのも駄目か」

「それも質問に入ってる」

「空、今のは私も少し聞きたい」

 由美が控えめに手を上げる。

「まだ付き合って三か月だよ」

「そうね。聞かない」

「賢司さんも」

「分かった」

「家族構成も聞かないで。本人が話したら聞いていいけど」

「何を話せばいいんだ」

「天気とか」

「初対面の取引先より難しいな」

「卒業式で会ってるでしょ」

「数分だけだ」

「だったら、普通に佐野くんの話を聞いて。評価しようとしないで」

 賢司は腕を組んだ。

「空にとって大切な相手なら、どういう人か知りたいと思うのは当然だろう」

「知ろうとすることと、合格か不合格か決めることは違う」

 空が言うと、賢司は腕をほどいた。

「そうだな」

「二人が気に入らなくても、私はすぐに別れないよ」

「危険な相手でも?」

「危険だと思う理由は聞く。でも、最後は私が決める」

「分かった」

 由美が手を叩いた。

「では、当日は普通の昼食。質問は二人で三つまで」

「手を叩くほどのこと?」

「大事な約束だから」

「紙に書かないでね」

「書かないわよ」

 空が入浴しているあいだに、由美は賢司と相談して質問を三つ選んだ。

 翌朝、冷蔵庫に小さな付箋が貼られている。

 〈一、仕事で一番面白いこと

 二、休日に何をするか

 三、食べ物の好き嫌い〉

「本当に書いたの?」

 空が呆れると、由美が台所から答えた。

「忘れないため」

「三つ目、昼食を作る前に聞くことでしょ」

「空に聞けばいいと思って」

「佐野くんは、ほとんど何でも食べるよ。セロリだけ苦手」

「ほとんど何でもという人は、意外なものが苦手なのよ」

「由美さん、質問を増やそうとしてない?」

「してない」

「その顔はしてる」

 佐野が来る日の前日、由美は家中を掃除した。

「普段から汚くないよ」

 空が言っても、棚の上を布巾で拭き続けた。

「お客様が来るなら、きれいにしたいでしょう」

「普通でいいって言った」

「掃除は普通よ」

「私が初めて泊まったときも、こんなに掃除した?」

 由美の手が止まった。

「あのときは、三日前からしてた」

「やっぱり」

「あなたが使う部屋の引き出しを何度も開けたり閉めたりして、賢司さんに落ち着けと言われたわ」

「賢司さんも、緊張してたでしょ」

「玄関の鍵を確認するふりをして、廊下を何度も見てた」

「今と変わらないね」

「そうね」

 由美は布巾を置いた。

「あのとき空を迎えた家に、今度は空が大切な人を連れてくるのね」

「まだ、大切って言うの、少し恥ずかしい」

「違うの?」

「違わないけど」

「ならいいじゃない」

「本人の前では言わないでね」

「努力する」

「絶対じゃないんだ」

 当日、佐野は約束の時刻より五分早く来た。

 空が玄関を開けると、紺色のシャツを着た佐野が、紙袋を持って立っていた。

「早かった?」

「五分だけ」

「外で待とうかと思ったけど、それも変だから」

「入って」

「これ、朝倉さんたちに」

「何?」

「焼き菓子。駅の近くで買った」

「そんなに気を遣わなくてよかったのに」

「手ぶらも変だろ」

 佐野は靴を脱ぎ、丁寧に揃えた。

 居間へ入ると、由美と賢司がほぼ同時に立ち上がった。

「今日はお招きいただき、ありがとうございます」

 佐野が頭を下げる。

「こちらこそ、来てくれてありがとう」

 由美が笑顔で答えた。

「座ってください」

 賢司の声は、会社で来客を迎えるときのように固かった。

「賢司さん、仕事の声になってる」

 空が言う。

「普通だ」

「普通じゃないよ」

「水瀬、今日は許してあげたら」

 佐野が小声で言った。

 由美がその呼び方に反応した。

「今も水瀬って呼んでるのね」

「あ、はい。大学で最初に知った名前なので」

「私は、どちらでもいいと言ってる」

 空が付け加える。

「佐野くんだけじゃなくて、大学の友達は水瀬って呼ぶ人も多いから」

「素敵ね」

「何が?」

「二つの名前を自然に使ってること」

「由美さん、今はその話を広げないで」

「ごめんなさい」

 三人は食卓へ移った。

 由美が用意したのは、鶏肉のトマト煮、サラダ、南瓜のスープだった。普段より皿の数は多かったが、空が止めたため、特別な飾りつけはなかった。

「佐野くん、苦手なものはない?」

 由美が尋ねる。

「ほとんどありません。セロリだけ少し」

「やっぱり聞いてる」

 空が言う。

「これは質問の三つ目だから」

「もう使ったの?」

 賢司が小声で尋ねる。

「使ったわ」

「そんなに大事だったのか」

「献立に関わるでしょう」

「二人とも、質問を数えなくていいから」

 空が言うと、佐野が笑った。

「質問、三つまでなんですか」

「空に制限された」

 賢司が答える。

「賢司さん、余計なこと言わないで」

「俺は約束を守っている」

「守ってることを相手に言ったら意味がないでしょ」

 緊張していた佐野の肩から、少し力が抜けた。

 食事が始まると、由美は最初の質問をした。

「佐野くんは、今の仕事で何をしているの?」

「店舗や展示会の空間デザインをしています。まだ新人なので、図面の修正と模型作りが多いです」

「大きな建物も?」

「今は小さな展示ブースが中心です。先輩の指示どおりに直しているだけですけど」

「面白い?」

「面白いです。完成した場所を人が歩いているのを見ると、図面だったものが本当に空間になったんだと思います」

「質問一つ目」

 由美が小声で言う。

「数えなくていいって言ったよね」

 空が睨む。

「ごめん」

 次は賢司が尋ねた。

「空とは大学で、よく同じ制作をしていたそうですね」

「はい。一年のとき、最初のグループ課題で一緒になりました」

「意見が合わなかったと聞いています」

「よく喧嘩しました」

「今もします」

 空が言う。

「今は喧嘩というより、話し合いだろ」

「佐野くんが先に意見を変えないから長くなる」

「水瀬も変えない」

「私は理由があれば変える」

「俺も」

「ほら、始まった」

 由美が笑う。

 賢司は二人を見比べた。

「意見が合わないときは、どうするんですか」

「一度、別々に考えます」

 佐野が答えた。

「その場で続けると、勝つことが目的になるので。水瀬は自分の部屋に戻ると考え直せるタイプです」

「どうして知ってるの」

「大学でも、話すのをやめて一人で作業したあと、次の日に修正案を持ってきただろ」

「あれは佐野くんも同じ」

「だから、俺も一人で考えます」

 賢司が小さく頷いた。

「答えになってる?」

 空が尋ねる。

「ああ」

「今ので質問二つ目?」

「一つの続きだ」

「ずるい」

「仕事で面白いことは由美さんが聞いた。今のが俺の一つ目だ」

「二人で三つって言ったでしょ」

「では、あと一つだ」

 佐野が笑いをこらえている。

「佐野くんも笑わないで」

「ごめん。でも、水瀬の家って、思ったより水瀬が一番強いんだな」

「そんなことない」

「あるわよ」

 由美が言う。

「空が嫌だと言ったことは、ちゃんと聞かないといけないもの」

「由美さんが先回りしたら、私が止めるし、賢司さんが心配しすぎたら止める。でも、私も止められるよ」

「誰に?」

「二人に」

「どんなとき?」

「仕事で無理してるときとか、全部一人でやろうとしてるとき」

「なるほど」

 佐野は少し安心したように頷いた。

 食事の途中、佐野が水の入ったグラスへ手を伸ばし、袖でスプーンを落とした。

 金属の音が響く。

「すみません」

 佐野が慌てて拾おうとする。

「そのままでいいよ」

 空が先に拾った。

「緊張してる?」

「してる」

「卒業式では普通だったのに」

「あのときは、友達として会ったから」

 賢司が聞く。

「今日は違うんですか」

「賢司さん、それは最後の質問?」

 空がすぐに止めた。

「確認だ」

「同じ」

 佐野は姿勢を正した。

「今日は、空さんとお付き合いしていることを、きちんとお伝えするために来ました」

 空さん。

 普段は水瀬と呼ぶ佐野が、二人の前でそう言った。

「付き合い始めて三か月です。まだ、将来のことまで決めているわけではありません」

 賢司の表情が少し動いた。

 空はそれを見ていたが、口を挟まなかった。

「でも、大学時代から大切な友人でした。今は、友人だったときより大切に思っています」

「空のどこが好きなんですか」

 由美が尋ねた。

「由美さん!」

「最後の一つ」

「それを選ぶの?」

 佐野は少し考えた。

「人を助けようとするのに、助けたことを相手に背負わせないところです」

 空は顔を上げた。

「あと、意見が違っても、最後まで聞こうとするところ。すぐには聞かないときもありますけど、次の日には考え直してくれる」

「佐野くんも、すぐには聞かないでしょ」

「今は俺の答える番」

「うん」

「それから、笑うようになったところです」

「昔の私を知ってるみたいに言わないで」

「大学の最初の頃より、よく笑う」

 佐野は空を見た。

「怒るときも、前より分かりやすい」

「それは褒めてる?」

「褒めてる」

 由美が目元を押さえた。

「由美さん、泣かないで」

「泣いてない」

「今のどこで泣くの」

「空が大学で、ちゃんと見てもらっていたんだと思って」

「私だけじゃなくて、佐野くんも見られてたからね」

 空は佐野へ言った。

「大学一年の頃より、格好つけなくなった」

「それは悪くなってない?」

「前より話しやすい」

「なら、いいか」

 食事が終わる頃には、賢司の声も普段に戻っていた。

 佐野が持ってきた焼き菓子を食べ、大学時代の作品や仕事の話をした。質問が三つを超えたかどうかは、途中から誰も数えなかった。

 ただし、賢司が「休日はどこへ行くことが多いのか」と尋ねたとき、空は一度だけ睨んだ。

「これは普通の会話だ」

「そういうことにしておく」

 佐野が帰る時間になると、由美は玄関まで見送りに出た。

「今日は来てくれてありがとう。また来てね」

「はい。ごちそうさまでした」

 賢司も頭を下げた。

「気をつけて」

「ありがとうございます」

 空は駅まで佐野を送った。

「どうだった?」

 外へ出るなり聞くと、佐野は大きく息を吐いた。

「仕事の面接より緊張した」

「賢司さん、怖かった?」

「最初は。でも、思ってたより話してくれた」

「質問を制限しなかったら、もっと聞いてたよ」

「聞かれて困ることはないけど」

「年収も?」

「それはまだ少ないから困る」

「正直だね」

「空さんって呼んだの、変だった?」

「少し」

「二人の前で水瀬って呼ぶのも、違う気がした」

「いつもどおりでいいよ」

「じゃあ次は水瀬」

「また来るつもり?」

「来ていいって言われた」

「由美さんは、誰にでもまた来てって言うよ」

「そうなの?」

「たぶん、佐野くんには本気」

「水瀬は?」

 空は少し先を歩き、振り返った。

「また来てほしい」

「なら、来る」

 駅の改札前で別れ、空は家へ戻った。

 居間では、由美と賢司が並んで座っていた。

「話し合いしてた?」

 空が聞く。

「感想を話してた」

 由美が答える。

「感想って何。人を展示みたいに言わないで」

「悪い意味じゃないわ」

「合格とか不合格もなしだからね」

「分かってる」

 空は二人の向かいへ座った。

「どうだった?」

「聞いてほしいの?」

「少しは」

「私は、いい人だと思った」

 由美が言う。

「空の話をするとき、空だけを見ていたから」

「それ、二人の前で失礼じゃない?」

「そうじゃなくて、私たちに気に入られるための答えではなかったということ」

「賢司さんは?」

「判断するには、まだ早い」

「やっぱり評価してる」

「空に合うかどうかを、俺が決めるつもりはない。ただ、今日の印象は悪くなかった」

「それ、賢司さんの中ではかなり褒めてるわよ」

 由美が補う。

「分かりにくい」

「俺も緊張していた」

「スプーンは落とさなかったけどね」

「落とさない」

「賢司さんは、家でも来客みたいな顔をしてたよ」

「次はもう少し普通にする」

 空は笑った。

「次も会う気なんだ」

「空が連れてくるなら」

「うん」

 それから佐野は、何度も朝倉家を訪れた。

 最初は月に一度ほどだった。二人で出かけた帰りに夕食を食べ、由美が作りすぎた料理を持って帰った。

 半年を過ぎる頃には、佐野が一人で先に来ることもあった。

 空が残業で遅くなった夜、佐野は賢司と二人で将棋盤を挟んでいた。どちらも強くはないのに、考える時間だけが長かった。

「何してるの?」

 帰宅した空が尋ねると、二人は同時に盤から顔を上げた。

「将棋」

「見れば分かる。どうして?」

「佐野くんが、仕事で使う展示台の構造について相談があると言って」

 賢司が答える。

「それが、どうして将棋になるの」

「話が終わったあと、賢司さんが出してきた」

 佐野が言う。

「空、夕食は台所にあるわよ」

 由美が浴室から顔を出した。

「佐野くん、私より先に家に来るようになったね」

「水瀬が遅いから」

「連絡したでしょ」

「した。でも、由美さんが先に食べてって言ってくれたから」

「私の家なのに」

 口ではそう言いながら、嫌ではなかった。

 佐野が三人の暮らしへ入り込むのではなく、少しずつ自分の場所を見つけている。賢司とは仕事の道具や図面の話をし、由美とは本や映画の話をした。

 空がいなければ会わなかった三人が、空の知らない会話を持つようになった。

 その一方で、空と佐野の関係が、いつも穏やかだったわけではない。

 付き合って二年目の秋、佐野が名古屋の展示施設を担当することになった。

 期間は八か月。会社が借りる部屋で暮らし、月に一度は東京へ戻る。

 空がその話を聞いたのは、決定から一週間後だった。

「来月から?」

 仕事帰りに入った食堂で、空は箸を止めた。

「うん」

「いつ決まったの」

「先週」

「どうして今まで言わなかったの」

「正式に決まってから話そうと思った」

「先週、正式に決まったんでしょ」

「水瀬も忙しかったし」

「それ、関係ないよ」

「八か月だけだから」

「長いか短いかの話じゃない」

 佐野は水を飲んだ。

「言ったら、心配すると思った」

「するよ。でも、心配するかどうかを佐野くんが決めないで」

「仕事の話だ。断るつもりはなかった」

「断ってほしいなんて言ってない」

「じゃあ、何が嫌なんだ」

「決めたあとまで言わなかったこと」

「水瀬に相談しても、決めるのは俺だろ」

「そうだよ。でも、相談と許可は違う」

 声が大きくなり、隣の席の人が一度こちらを見た。

 空は息を整えた。

「私は佐野くんの仕事を止めない。でも、八か月離れることを、一人で決められたくなかった」

「俺が名古屋へ行くかどうかは、俺が決めることだ」

「分かってる。だから、行くなとは言ってない」

「同じ話をしてる」

「違う」

 空は鞄を持ち、席を立った。

「今日は帰る」

「食事、まだ途中だろ」

「今は一緒に食べたくない」

 佐野は追いかけてこなかった。

 空は電車へ乗り、窓に映る自分の顔を見た。

 怒っている。

 以前なら、怒りの奥にあるものを認められなかったかもしれない。

 寂しい。

 八か月、佐野が近くにいないことが寂しい。

 その気持ちを知られる前に、佐野が決めてしまったことが悔しかった。

 帰宅すると、由美と賢司は夕食を終えていた。

「ただいま」

「おかえり。夕食、外で食べるんじゃなかった?」

 由美が尋ねる。

「途中で帰ってきた」

「佐野くんと何かあった?」

「喧嘩した」

 空は鞄をソファへ置いた。

「何か食べる?」

「いらない」

「少しだけでも」

「今はいい」

 賢司が居間へ来た。

「話したくなったら、聞く」

「今、少し聞いて」

 三人は食卓へ座った。

 空は佐野が名古屋へ行くこと、決まってから一週間黙っていたことを話した。

「仕事なら仕方ないんじゃない?」

 由美が言いかけ、空の顔を見て止めた。

「ごめん。先に空がどう思ったのか聞く」

「行くことが嫌なんじゃない。決まる前に相談してほしかった」

「相談されたら、どう答えた?」

 賢司が尋ねる。

「行ってきてって言ったと思う」

「それなら、佐野くんは結果が同じだと考えたのかもしれないな」

「結果が同じなら、話さなくていいの?」

「いいとは言ってない。佐野くんの考えを想像しただけだ」

「私が心配すると思ったから言えなかったって」

「空を心配させたくなかったのね」

 由美が言う。

「それ、優しさだと思う?」

「優しさのつもりで、間違えたんだと思う」

 空は黙った。

 賢司が続ける。

「俺たちも、空のためだと思って先に決めようとしたことがある」

「進路のこととか?」

「ああ。正しいと思ったことを急いで伝え、空が考える時間を奪いかけた」

「佐野くんも同じ?」

「同じかどうかは、本人に聞かないと分からない」

「賢司さん、佐野くんの味方をするんだ」

「味方ではない。空が怒っている理由も分かる」

「どっちなの」

「どちらかを悪者にしないと、話せないのか」

 空は言葉に詰まった。

「佐野くんが黙っていたことは、俺もよくないと思う。ただ、空が何を求めていたのか、怒るだけでは伝わらない」

「言ったよ。相談してほしかったって」

「佐野くんは、相談を許可と受け取った。そこを、もう一度話したほうがいい」

 由美が空へ水を差し出した。

「今日は食べなくてもいいけど、水は飲んで」

「うん」

 空はコップを受け取った。

「二人とも、別れろって言わないんだね」

「それを決めるのは空でしょう」

 由美が答える。

「私たちは佐野くんに慣れたけど、佐野くんを守るために空へ我慢させるつもりもない。話しても同じことが続くなら、別れる選択もある」

「うん」

「でも、今は話せると思ってるんでしょう?」

 空は頷いた。

「たぶん」

「なら、まず話してみたら」

 その夜、空は自分の部屋へ戻り、佐野へ連絡した。

 〈明日、話したい〉

 返事はすぐに来た。

 〈俺も。仕事のあとでいい?〉

 〈うん〉

 翌日、二人は大学時代によく使った駅の近くで会った。

 佐野は、空より先に来ていた。

「昨日は、ごめん」

 顔を合わせるなり言う。

「何について?」

「決まったあとまで言わなかったこと」

「うん」

「水瀬に反対されるとは思ってなかった。でも、家に残るって決めたときみたいに、俺が遠くへ行くなら、俺たちのことも考え直すって言われるかもしれないと思った」

「どういう意味?」

「水瀬にとって、朝倉さんたちとの暮らしが一番大事なのは分かってる」

「一番なんて決めてない」

「でも、俺が入る場所がないように感じるときがある」

 空は黙った。

 佐野は駅前を通る人を見ながら続けた。

「朝倉さんたちはいい人だし、俺にもよくしてくれる。でも、三人には長い時間があるだろ。俺が何か言っても、最後は三人で決めるんじゃないかって思うことがある」

「だから、名古屋へ行くことを一人で決めたの?」

「仕事のことは自分で決めたかった。水瀬の家族と比べられる前に」

「比べてないよ」

「俺が勝手に比べた」

「うん」

「悪かった」

 空はゆっくり息を吐いた。

「私も、佐野くんが行くことより、置いていかれると思って怒った」

「置いていくつもりはない」

「でも、何も言わなかった」

「うん」

「相談してほしいっていうのは、許可を取ってほしいという意味じゃない。佐野くんが何をしたいのか聞いて、私がどう思うかも伝えたいの」

「最終的に意見が違ったら?」

「違ったまま、どちらかが決めることもある」

「それでいい?」

「よくないときもある。でも、話さないよりいい」

 佐野は頷いた。

「名古屋へは行く」

「行ってきて」

「月に一度は戻る」

「無理なら、無理って言って。約束して守れなくなるほうが嫌」

「分かった」

「私も会いに行く。仕事の都合がつけば」

「来て」

「由美さんたちと佐野くんを比べるつもりはないよ」

「うん」

「二人が大事だから、佐野くんが入れないわけじゃない。佐野くんと付き合ってるから、二人との時間を捨てる必要もない」

「分かってるつもりだった」

「私も、佐野くんが分かってると思ってた。言ってなかった」

 二人は駅前のベンチへ座った。

「昨日、朝倉さんたちに話した?」

「話した」

「何て?」

「二人とも、佐野くんを悪く言わなかった」

「そうなんだ」

「少しくらい私の味方をしてほしいと思った」

「してくれなかった?」

「味方はしてくれた。でも、佐野くんを悪者にしなかった」

「それは、ありがたい」

「調子に乗らないでね」

「乗ってない」

 空は少し笑った。

「名古屋へ行く前に、三人にも話して」

「俺から?」

「うん。佐野くんがどうしたいのか、自分で話して」

「分かった」

 八か月の遠距離は、簡単ではなかった。

 予定が合わず、二週間電話だけで過ごすこともあった。佐野が疲れて短い返事しかせず、空が怒る日もあった。空の仕事が立て込み、名古屋へ行く約束を一度取りやめたこともある。

 それでも、二人は黙ったままにしなかった。

「今日は話す余裕がない」と伝え、翌日に時間を決めた。会えない寂しさを、相手の責任にしないようにした。

 佐野が東京へ戻ると、朝倉家にも立ち寄った。

 土産の菓子を食べながら、賢司へ仕事の愚痴を話し、由美に現地で見つけた書店の話をした。

「佐野くん、前より話すようになったね」

 空が言うと、佐野は湯飲みを持ったまま答えた。

「慣れたから」

「最初は仕事の面接みたいだったものね」

 由美が笑う。

「賢司さんが怖かったんです」

「俺は普通にしていた」

「声が低かったよ」

 空が言う。

「そうだったか」

「今は大丈夫です」

 佐野が言うと、賢司は少し複雑そうな顔をした。

「大丈夫と言われるのも妙な気分だな」

「怖がられてるよりいいでしょ」

 名古屋での仕事を終え、佐野が東京へ戻ったのは、空と付き合い始めて三年目の春だった。

 仕事が落ち着いた休日、二人は海へ行った。

 空が高校時代に暮らしていた町とは別の海だった。電車で一時間ほどの場所にあり、駅から砂浜まで歩いて行ける。

「どうして海?」

 空が尋ねると、佐野は海沿いの道を歩きながら答えた。

「水瀬が好きそうだから」

「最初の喫茶店と同じ理由」

「俺も来たかった」

「それも同じ」

 風が強く、空の髪が何度も顔へかかった。佐野が笑い、空は手で押さえた。

「笑わないで」

「いつも髪を結んでるから、珍しい」

「今日は由美さんに、たまには下ろしたらって言われた」

「似合ってる」

「風がなければね」

 二人は砂浜へ下りず、防波堤沿いの道を歩いた。

 海面に陽が反射し、遠くの船が小さく見える。

「水瀬」

「何?」

「一緒に住みたい」

 空は足を止めた。

「東京に戻ったから?」

「それもある。でも、前から考えてた」

「私に朝倉家を出てほしいってこと?」

「違う。水瀬が出たいと思ったときでいい」

「それだと、一緒に住めないかもしれないよ」

「だから、聞いてる」

「何を?」

「俺と暮らしたいと思うか」

 佐野は空の正面に立った。

「できれば、結婚したい」

 空は海の音を聞いた。

「できればって何」

「結婚したい。今のは言い直した」

「急だよ」

「考えてるとは言った」

「私には言ってない」

「言ったら、今と同じことになるだろ」

「でも、少しずつ聞きたかった」

「遠回しに聞いたら、水瀬は気づかない」

「それはそうかも」

 佐野は緊張した顔で空を見ている。

「返事は、すぐじゃなくていい」

「今度はどのくらい待てる?」

「一か月」

「前と同じ」

「今回は半年まで待つ」

「具体的だね」

「待つのは、前より少し上手くなった」

 空は笑った。

「うん。少しね」

「嫌?」

「嫌じゃない」

「それも前と同じだ」

「でも、考えたい」

「分かった」

「名字のことも、仕事のことも、どこに住むかも。二人のことも」

「うん」

「佐野くんの家族にも会わないと」

「母が会いたがってる。父も、たぶん」

「私のこと、何て話したの?」

「デザイナーで、大学の同級生で、よく喧嘩する人」

「最後、要らないでしょ」

「母親に、仲が悪いのか聞かれた」

「当然だよ」

「ちゃんと、仲はいいって言った」

 空は海を見た。

 佐野と暮らすことを想像する。

 朝、同じ部屋で目を覚ます。仕事の時間が違えば、先に出るほうが静かに扉を閉める。食事を作る日を決め、忙しいときは買って帰る。意見が違えば言い合い、話したくなくなれば別の部屋へ行く。

 朝倉家とは違う、新しい暮らし。

 できるかどうかではなく、したいかどうか。

「一か月はかからないと思う」

 空が言うと、佐野は少し笑った。

「どのくらい?」

「まだ決めない」

「分かった」

 二人はまた歩き始めた。

 空が結婚を決めたのは、それから三週間後だった。

 佐野の両親と姉に会い、由美と賢司にも話した。一人でも考え、長谷川と相沢にも報告した。

「家を出るのが怖い?」

 長谷川に聞かれ、空は頷いた。

「少し」

「怖いからやめたい?」

「違います」

「なら、怖いまま選んでもいいんじゃない?」

 相沢も言った。

「朝倉家を出ることと、朝倉さんたちとの関係が終わることは別です」

「分かってます」

「分かっていても、寂しい?」

「はい」

「それは、家族だからでしょう」

 空は朝倉家へ帰り、自分の部屋で養子縁組届を出した日の写真を見た。

 三人とも、泣いたあとの不格好な顔で笑っている。

 その写真の隣に、大学の卒業式の写真がある。佐野と結衣も一緒に写っている。

 一つの写真から出たら、次の写真へ入れなくなるわけではない。

 空は佐野へ電話をかけた。

「考えた」

「うん」

「結婚したい」

 向こうで、長い息が聞こえた。

「よかった」

「でも、話すことがたくさんある」

「分かってる」

「どこに住むか」

「二人の通勤時間を考えて決める」

「家事」

「半分ずつ」

「忙しい週は?」

「できるほうがやる」

「お金」

「共通の口座と、それぞれの口座を持つ」

「名字」

 佐野は少し黙った。

「水瀬は、どうしたい?」

「法律上の名字は、佐野でもいいと思ってる」

「朝倉を選んだばかりなのに?」

「選んだことは消えないよ。私は今でも水瀬を使ってるし、佐野になっても朝倉家の娘であることは変わらない」

「俺が朝倉になることもできる」

「仕事では佐野を使ってるでしょ」

「水瀬だって、仕事では水瀬だろ」

「だから、どちらでも大きくは変わらない」

「簡単に決めなくていい」

「うん。婚姻届を書くまでに考える」

「ほかには?」

「二人に、改めて一緒に話してほしい」

「朝倉さんたち?」

「うん。付き合ってる人としてじゃなくて、結婚したい人として」

「分かった」

 佐野を家へ招く日、由美は以前ほど掃除をしなかった。

「今日は普通でいいの?」

 空が尋ねると、由美は食卓へ皿を並べながら答えた。

「佐野くんはもうお客様じゃないから」

「まだ家族でもないよ」

「空が結婚したい人なら、少しは近いでしょう」

「先回りしないで」

「ごめん」

「でも、今日は少しくらいならいい」

 由美が笑った。

 賢司は朝から落ち着かなかったが、質問を紙に書くことはしなかった。

「今日は制限しないよ」

 空が言う。

「何を?」

「質問。でも、面接にしたら止める」

「分かってる」

 佐野は約束の時刻ちょうどに来た。

 紙袋も、花束も持っていない。空が何も要らないと言ったからだった。

 居間へ入り、三人の前へ座る。

 由美が茶を出したあと、佐野は姿勢を正した。

「空さんと、結婚したいと思っています」

 賢司は黙って佐野を見た。

 由美は隣で両手を組んでいる。

「空さんから、返事はもらっています」

「はい」

 賢司が答えた。

「空から聞いています」

「今日は、許可をいただきたいというより、二人にも自分の言葉で伝えたいと思って来ました」

「空は、私たちが許可しなければ結婚をやめると思いますか」

「思いません」

 佐野はすぐに答えた。

「俺も、空さんの人生を二人から渡してもらうつもりはありません」

 賢司の表情が少し緩んだ。

「それならいい」

「でも、空さんが大切にしている家族に、黙って進めたくはありません」

「ありがとう」

 由美が言った。

「一つ、聞いていいですか」

 賢司が尋ねる。

「はい」

「空を幸せにできますか、とは聞きません。空は自分で幸せになる力を持っているから」

 空は賢司を見た。

「ただ、うまくいかない日に、話し合うことを諦めないと約束できますか」

 佐野は一度、空のほうを見た。

「約束します。ただ、すぐに話せない日はあると思います」

「それでいい。一日でも二日でも、時間を置くことはある。ただ、黙って関係を終わらせないでほしい」

「はい」

「空も同じです」

 賢司が空へ言う。

「分かってる」

「俺たちと喧嘩したとき、戻らないつもりで若葉ホームへ行ったことがあったな」

「今、その話をする?」

「空にも約束してほしい」

「黙っていなくならない。佐野くんにも、もう言った」

「ならいい」

 由美が目元を押さえた。

「由美さん、もう泣いてる」

「まだ結婚式でもないのにね」

「結婚式では、どうなるの」

「今から心配」

「空、タオルを用意したほうがいいかもしれないな」

「賢司さんも必要でしょ」

「俺は泣かない」

「養子縁組の日もそう言ってた」

「寝不足だった」

「まだそれで通すつもり?」

 佐野が笑った。

「笑うところじゃない」

 賢司が言う。

「すみません。でも、空さんの家らしいと思って」

「佐野くんも、もう慣れたわね」

 由美が言った。

 その日の夕食は、四人で餃子を包んだ。

「どうして大事な日はいつも餃子なの?」

 空が尋ねる。

「三人で最初に進路を決めたときからでしょう」

 由美が答える。

「養子縁組を決めた日も食べた」

 賢司が具を量りながら言う。

「佐野くん、餃子は包める?」

「一人暮らしで作る料理じゃないので、ほとんどやったことがありません」

「じゃあ教える」

 空が皮を一枚取り、佐野の前へ置いた。

「具は、このくらい」

「少なくない?」

「由美さんみたいに入れると開くよ」

「今回は開かないわ」

「毎回言ってる」

 佐野が空の手元を見ながら、皮を折った。

「ひだは?」

「なくても閉じればいい」

「賢司さんは、きれいに揃ってる」

「賢司さんのは時間がかかるから」

「仕上がりが大事だ」

「全部包む前にお腹が空くよ」

 四人で包んだ餃子は、形がさらにばらばらになった。

 佐野の最初の一つは具が端から出ていた。由美の餃子は二つ開き、賢司のものは同じ形に揃い、空のものは後半になるほど雑になった。

 焼き上がった餃子を食卓へ置く。

「どれが誰のか分からないね」

 空が言う。

「食べれば同じでしょう」

 由美が答える。

「賢司さんのは見れば分かる」

「佐野くんのも」

「最初のだけです。途中から上手くなりました」

「本当?」

「たぶん」

 四人で笑った。

 食事のあと、佐野が帰る時間になると、賢司が玄関まで出た。

「佐野くん」

「はい」

「空をよろしくお願いします、とは言いません」

 空と佐野が同時に賢司を見る。

「空は自分のことを自分で決める。君だけに任せるつもりはない」

「はい」

「ただ、二人で困ったときは、相談してください。俺たちにできることならします」

「ありがとうございます」

 由美も続けた。

「嬉しいことがあったときも来てね。困ったときだけじゃなくて」

「はい」

 空は靴を履いた。

「駅まで送ってくる」

「遅くならないように」

 賢司が言う。

「そこは今も言うんだ」

「もう十一時だ」

「分かってる。帰ったら連絡する」

「家に戻るんだから、連絡はいらない」

「そうだった」

 佐野と並んで夜道を歩いた。

「緊張した?」

 空が尋ねる。

「最初に来たときよりは、しなかった」

「賢司さん、何点?」

「採点しない約束だろ」

「覚えてたんだ」

「水瀬は?」

「何が?」

「今日の俺」

 空は少し考えるふりをした。

「七十点」

「低い」

「餃子が開いたから」

「次は上手く包む」

「次も来るつもり?」

「来ていいって言われた」

「前と同じこと言ってる」

 佐野は笑った。

 駅へ着くと、改札の前で立ち止まった。

「水瀬」

「何?」

「本当にいい?」

「何が」

「朝倉家を出て、俺と暮らすこと」

 空はすぐに答えなかった。

「寂しいよ」

「うん」

「怖くないわけでもない」

「うん」

「でも、佐野くんと暮らしたい」

 佐野は頷いた。

「俺も」

「一人で決めないでね」

「何を?」

「部屋も、家具も、将来のことも」

「分かった」

「私も、一人で全部決めない」

「それ、忘れないで」

「佐野くんもね」

 電車が来る時刻を知らせる音が鳴った。

 佐野は改札へ入り、振り返った。

「着いたら連絡する」

「待ってる」

 空は手を振り、姿が見えなくなるまでその場にいた。

 家へ戻ると、居間の明かりがついていた。

 由美と賢司は、まだ起きている。

「ただいま」

「おかえり」

 二人の声が重なった。

 空は居間へ入り、二人の向かいへ座った。

「佐野くん、電車に乗った?」

 由美が聞く。

「うん。着いたら連絡くれる」

「そう」

 賢司は空の顔を見た。

「空」

「何?」

「いつ、家を出る予定だ」

 空は少し息を止めた。

 その話は、まだ二人へ具体的に伝えていなかった。

「結婚式の少し前。二人で住む部屋を探して、家具を揃えてから」

「そうか」

「まだ半年以上あるよ」

「ああ」

「寂しい?」

 由美は笑おうとしたが、うまくできなかった。

「寂しいわ」

「うん」

「でも、嬉しい」

「うん」

「賢司さんは?」

「同じだ」

「二人とも、無理に平気な顔をしなくていいよ」

 由美の目から涙が落ちた。

「空もね」

「私は、まだ泣かない」

「またそれを言ってる」

 空は笑ったが、声が少し震えた。

「家を出ても、帰ってくるよ」

「分かってる」

「鍵は返したほうがいい?」

 賢司はすぐに首を横に振った。

「持っていていい」

「でも、勝手に入ったら困るでしょ」

「空なら困らない」

「佐野くんと喧嘩して、毎回来るかもしれないよ」

「そのときは話を聞く。ただし、佐野くんへ連絡せずに泊まり続けるのは駄目だ」

「まだ何も起きてないのに、決まりを作らないで」

「先に考えておくのは大事だ」

「賢司さんらしいね」

 由美が笑いながら涙を拭いた。

「部屋はどうする?」

「私が出たあとの?」

「しばらくは、そのままにしておきたい」

「由美さん、ずっとそのままにしそう」

「少しくらいいいでしょう」

「二人で使って。賢司さんの本も増えてるし、由美さんも仕事を持ち帰ることがあるから」

「空のものは?」

「必要なものは持っていく。残したものは、勝手に捨てないで」

「もちろん」

「でも、部屋を保存しなくていいよ。私は結婚して家を出るんだから」

 言葉にすると、胸の奥が痛んだ。

 高校二年の春、誰のものでもなかった部屋へ入った。歯ブラシを置き、本を置き、自分の鍵を持った。

 その部屋を、自分から出る日が来る。

 追い出されるのではない。

 居場所を失うのでもない。

 戻る場所を持ったまま、新しい場所を選ぶ。

「空」

 由美が呼んだ。

「何?」

「あなたを迎えてよかった」

 空は目を伏せた。

「今、それを言うのはずるい」

「どうして?」

「泣きそうになるから」

「泣けばいいのに」

「由美さんが先に泣いてるでしょ」

「一緒に泣けばいい」

「賢司さんは?」

「俺は泣いてない」

「二人とも、もうその言い方やめようよ」

 空は笑いながら目元を拭った。

 携帯電話が震えた。

 佐野からの連絡だった。

 〈着いた。今日はありがとう〉

 空は返事を打った。

 〈おかえり。こちらこそ〉

 送信してから、少し考え、もう一文を加えた。

 〈今度は、二人で住む部屋を探そう〉

 すぐに返ってくる。

 〈うん。一緒に決めよう〉

 空は画面を閉じた。

「佐野くん?」

 由美が聞く。

「うん。家に着いたって」

「よかった」

 空は立ち上がり、台所から三人分の水を持ってきた。

「今日はお茶じゃないの?」

 由美が尋ねる。

「もう遅いから水」

「空、明日は仕事だろ」

 賢司が時計を見る。

「分かってる。もう寝る」

「話は終わった?」

「全部は終わらないよ」

 空は二人を見た。

「これからも話すことは増えるから」

「そうね」

「明日は、結婚式の日取りを考える。来週は部屋を見に行く。それから、名字をどうするかも佐野くんと決める」

「忙しくなるな」

「二人にも手伝ってもらうよ」

「もちろん」

「ただし、先回りはしないで」

 由美が頷く。

「努力します」

「賢司さんも、予定表を勝手に作らないで」

「必要になったら、空から言ってくれ」

「うん」

 空は自分の部屋へ向かった。

 机の引き出しを開けると、銀色の鍵を描いた高校時代の絵が入っている。その下には、大学の卒業証書と、初めて受け取った朝倉空宛ての封筒があった。

 名前を選び、家に残ることを選び、今度は家を出ることを選ぶ。

 選ぶたびに、以前の自分を捨てるわけではない。

 空は引き出しを閉めた。

 半年後、この部屋を出る。

 それでも鍵は持っていていいと、賢司は言った。

 その言葉に甘え続けるつもりはなかった。けれど、帰れる場所があることを否定する必要も、もうなかった。

 空には、二人へ連れてきたい人ができた。

 そして今、佐野と一緒に作りたい場所がある。

 どちらかを選ぶのではない。

 新しい場所へ進みながら、これまで自分を支えた場所ともつながっていく。

 空は窓を少し開けた。

 夜の風が入り、机の上の紙を揺らす。

 居間から、由美と賢司の話し声が聞こえていた。

 いつか、この声を毎晩聞くことはなくなる。

 その寂しさを抱えたままでも、空は次の扉を開けられる。

 開けた先で、また自分の言葉で「ただいま」と言える場所を、今度は佐野と二人で作っていく。


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