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『血の通わぬ糸』  作者: 久遠 睦


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第三十一章 婚礼の日

空と佐野が新しい部屋を決めるまでに、四つの休日を使った。

 一つ目の部屋は空の会社に近かったが、佐野の通勤に一時間以上かかった。二つ目は二人の職場の中間にあったものの、窓の外に隣の建物の非常階段しか見えなかった。

 三つ目は台所が広く、佐野が気に入った。

「二人で料理できる」

 そう言いながら、佐野は流し台と冷蔵庫を置く場所の間に立った。

「佐野くん、そんなに料理する?」

「これからする」

「今の部屋でもできるでしょ」

「台所が狭いから、やる気が出ない」

「広くなっても、やらない人の言い方だよ」

「水瀬は俺を信用してないな」

「料理については、あまり」

「餃子は前より上手くなった」

「餃子以外は?」

「炒飯」

「二つだけ?」

「味噌汁も作る」

「それ、由美さんに教わったでしょ」

「教わったことを作れるなら問題ないだろ」

 二人で話していると、不動産会社の担当者が笑った。

「こちらは二口コンロですし、調理台も広いですよ」

「でも、机を二つ置けない」

 空は隣の部屋へ移った。

 二人とも、仕事を家へ持ち帰ることがある。食事をする机で作業を始めれば、紙やパソコンを毎回片づけなければならない。

「こっちの壁に、長い机を一つ置くのは?」

 佐野が巻き尺を伸ばす。

「並んで仕事するの?」

「嫌?」

「集中してるときに話しかけないなら」

「水瀬のほうが話しかけるだろ」

「私は必要なことしか言わない」

「『この文字、小さすぎない?』って俺の画面を覗くのは必要なこと?」

「小さかったから」

「俺の仕事だ」

「そういうところ、家でも続くのかな」

「続くと思う」

 空は少し考え、首を振った。

「ここはやめよう」

「台所はいいのに」

「仕事で喧嘩する」

「今でもしてる」

「家の中で逃げる場所がないのは嫌」

「それはそうだな」

 四つ目の部屋は、二人の職場までそれぞれ四十分ほどだった。

 駅から十分歩く。建物は新しくないが、居間のほかに二つの部屋があった。片方は寝室、もう片方は二人の仕事部屋にできる。

 台所は三つ目の部屋より狭かったが、二人で並べないほどではない。

 窓の外には、低い住宅の屋根と、遠くの給水塔が見えた。

「空が見える」

 空が言った。

「水瀬の名前みたいって?」

「自分で言うと恥ずかしいから言わない」

「俺が言ったことになるの?」

「佐野くんが言った」

「ずるいな」

 二人は窓の前に並んだ。

 朝倉家の部屋から見える景色とは違う。海も見えない。大学の窓から眺めた煉瓦敷きの広場もない。

 まだ何の記憶もない景色だった。

「ここがいい」

 空が言うと、佐野も頷いた。

「俺も」

「本当に? 台所、少し狭いよ」

「二人で入って邪魔なら、交代で作ればいい」

「佐野くんも作るんだよ」

「分かってる」

「味噌汁だけじゃなくて」

「分かってるって」

 申し込みの手続きを終えたあと、二人は近くの商店街を歩いた。

 八百屋、惣菜店、クリーニング店、小さな書店。駅前には遅くまで営業する食料品店もある。

「ここなら、帰りが遅くても何か買えるね」

 空が言う。

「最初から作らない日を想定してる」

「毎日作る約束はしてないよ」

「そうだけど」

「お互い、帰れるほうが先に帰る。作れるほうが作る。無理なら買う」

「由美さんみたいに作り置きできる?」

「由美さんも、いつもはしてない」

「朝倉家で食べると、毎回何か出てくるから」

「佐野くんが来る日は、由美さんが作ってるだけ。普段は冷蔵庫に何もない日もあるよ」

「そうなんだ」

「賢司さんが買った豆腐と納豆しかない日とか」

「急に普通の家に聞こえる」

「普通だよ」

 空は商店街の端で立ち止まり、振り返った。

 この道を、仕事帰りに歩く。鍵を開ければ、佐野の靴がある日も、ない日もある。

 一人で暮らせるか確かめたあと、空は朝倉家に残ることを選んだ。今度は、朝倉家を出て佐野と暮らす。

 出ることと、残ることは反対ではなかった。

 どちらも、自分が誰と、どこで暮らしたいのか考えた結果だった。

 新居の契約を終えると、次は婚姻届に記す名字を決めた。

 佐野は、自分が朝倉になってもよいと言った。

「仕事では佐野を使い続ければいい」

 朝倉家の食卓でそう話すと、賢司が眉を寄せた。

「俺たちの名字を残すために、佐野くんが変える必要はありません」

「残すためというより、空さんが自分で選んだ名字なので」

「選んだからこそ、次の選択も空に任せたい」

 賢司が空を見る。

「空はどうしたい」

「佐野にする」

 空は答えた。

 由美が少し驚いた顔をしたが、何も言わなかった。

「理由は?」

 佐野に尋ねられ、空は考えながら話した。

「朝倉は二人の養子になるときに選んだ名前。佐野は、これから二人で暮らすために選ぶ名前にしたい」

「朝倉じゃなくなることは、寂しくない?」

 由美が尋ねる。

「少しは寂しい。でも、名字が変わっても、二人との親子関係は変わらないでしょ」

「そうだけど」

「水瀬から朝倉になったとき、水瀬を捨てたわけじゃなかった。今も仕事では水瀬を使ってる。佐野になっても、朝倉だった時間はなくならないよ」

 賢司は頷いた。

「分かった」

「由美さんは?」

「私も分かってる。ただ、朝倉空宛ての郵便が初めて来た日のことを思い出したの」

「封筒、まだ持ってるよ」

「そうだったわね」

「佐野空宛ての最初の郵便も、取っておこうかな」

「空も私に似てきたでしょう?」

「封筒だけだよ。写真を何千枚も残したりしない」

「何千枚は大げさ」

「この前、整理したら一万枚を超えてたよね」

「空の写真だけじゃないわ」

「そのうち何枚が空?」

 由美は答えず、食卓へ視線を落とした。

「ほとんどなんだ」

 佐野が笑う。

「笑ってるけど、結婚したら佐野くんの写真も増えるわよ」

「覚悟しておきます」

「しなくていいよ」

 空は由美の携帯電話を見た。

「結婚式も、撮るのは式場の人に任せて。由美さんは自分の目で見て」

「一枚も撮ったら駄目?」

「少しならいい。でも、ずっと画面越しに見ないで」

「分かった」

 引っ越しは、結婚式の一か月前に決めた。

 空は仕事から帰るたび、自分の部屋の荷物を箱へ詰めた。

 服、本、仕事の資料、大学時代の作品。必要なものだけを選んでいるつもりでも、箱は増えていった。

「最初にここへ来たときは、四箱だったのに」

 由美が部屋の入口に立って言った。

「今は十二箱」

「増えたわね」

「由美さんが服を買おうとするから」

「私だけのせいじゃないでしょう」

「本も多い」

 賢司が廊下から箱を覗き込む。

「賢司さんが勧めた本もあるよ」

「読んだなら、持っていけばいい」

「この資料集、賢司さんのじゃない?」

「いつの間に空の部屋へ」

「借りたんだと思う」

「覚えてないのか」

「たぶん、大学三年の頃」

「それなら、もう空のものだ」

「いいの?」

「ああ」

 空は資料集を箱へ入れた。

 机の引き出しから、銀色の鍵を描いた絵を取り出す。高校二年の春、朝倉家の鍵を初めて受け取った頃に描いたものだった。

「これは持っていく」

「そうね」

 由美が言う。

 その下から、紺色の革の鍵飾りがついた銀色の鍵が出てきた。

 今も使っている朝倉家の鍵だった。

「それも持っていって」

 賢司が先に言った。

「本当に返さなくていい?」

「ああ」

「佐野くんと暮らす家の鍵も持つから、二つになるよ」

「鍵は二つくらい持てるだろ」

「そういう問題じゃない」

「空がいつ帰ってきても入れるようにしておきたい」

 賢司は少し間を置いた。

「ただし、来る前に連絡はしてくれ」

「分かってる。二人がいないときに勝手に入らない」

「緊急時は別だ」

「緊急時って?」

「俺か由美さんが連絡できないとき」

「今から決めなくてもいいよ」

「連絡先と鍵の場所は、佐野くんにも伝えておく」

「賢司さん、話が大きくなってる」

 由美が笑った。

「でも、空。鍵は持っていて。あなたが使わない日が続いても、返さなくていいから」

「うん」

 空は鍵を新しい鞄の内ポケットへ入れた。

 引っ越し前日の夕食は、三人で作った。

 何か特別な料理にしようと由美が言ったが、空は普段どおりのものがいいと答えた。

 鯖の味噌煮、ほうれん草のお浸し、豆腐の味噌汁。食卓の中央には、三人で何度も使った大皿が置かれている。

「明日の朝、引っ越し業者は何時?」

 賢司が尋ねる。

「九時」

「佐野くんは?」

「新しい部屋で待ってる。先に冷蔵庫が届くから」

「荷物は全部、今日中に箱へ入ったの?」

 由美が聞く。

「入った。洗面所のものだけ、明日の朝に入れる」

「歯ブラシも?」

「うん」

 歯ブラシという言葉のあと、三人の会話が止まった。

 空がこの家へ少しずつ物を置き始めた頃、最初に置いたものの一つが歯ブラシだった。家族になるとは決めていなかった。次も来るかどうか分からないまま、洗面所の端に一本だけ置いた。

 今では三本が、同じ容器に並んでいる。

「空の歯ブラシがなくなるのね」

 由美が言った。

「新しい部屋へ持っていくから」

「分かってる」

「二人分になるだけだよ」

「分かってるわ」

「由美さん」

「何?」

「寂しいって言っていいんだよ」

 由美は箸を置いた。

「寂しい」

「うん」

「空が初めて泊まった朝、洗面所に歯ブラシが一本増えただけで、何度も見に行ったの」

「見に行ってたの?」

「由美さんは、空が起きる前に三回くらい洗面所へ行ってた」

 賢司が言う。

「賢司さんも、空の靴があるか玄関を見てたでしょう」

「それは一度だけだ」

「二人とも、怖いね」

「今だから言えるのよ」

 由美は笑ったが、目に涙が浮かんでいた。

「明日から、この家が少し広くなる」

「私の部屋、使っていいからね」

「すぐには使わないわ」

「半年後には物置になってそう」

「しない」

「一年後には?」

「仕事部屋にするかもしれない」

「それでいいよ」

 空は味噌汁を飲んだ。

「でも、泊まりに来たときはどこで寝るの?」

「そのときは片づける」

「もう泊まる前提なんだな」

 賢司が言う。

「来ないほうがいい?」

「そんなことは言ってない」

「佐野くんと喧嘩したときだけ来るんじゃなくて、普通の日にも来る」

「一人で?」

「二人でも。一人でも」

「そうして」

 由美が答えた。

 食事を終え、三人で食器を洗った。

 空は青い線の入ったマグカップを箱へ入れず、食器棚へ戻した。

「それは持っていかないの?」

 由美が尋ねる。

「ここに置いておく」

「新しい家で使わない?」

「向こうでは、佐野くんと新しいのを選ぶ」

「そう」

「このカップは、ここへ来たときに使う」

 赤、深緑、青。

 三つのカップが、棚の中に並んだ。

 翌朝、空は洗面所から自分の歯ブラシを抜いた。

 空いた場所を見てから、箱の蓋を閉じる。

 引っ越し業者が来ると、部屋は急速に空になった。積み上げてあった箱が運び出され、机と本棚がなくなる。壁に残った日焼けの跡だけが、そこに家具があったことを示していた。

 最後の箱が運び出されたあと、空は部屋の中央に立った。

 最初に入った日と似ていた。

 けれど、あの頃の部屋は、誰のものでもなかった。今の部屋には、物がなくても、空が過ごした時間が残っている。

「行く?」

 由美が扉のそばで尋ねた。

「うん」

「忘れ物は?」

「たぶん、ない」

「たぶん?」

「忘れても取りに来られるから」

「そうね」

 玄関には賢司が立っていた。

 空は靴を履き、鞄の中の鍵を確かめた。

「送っていこうか」

 賢司が尋ねる。

「大丈夫。新しい家で佐野くんが待ってる」

「昼は?」

「二人で食べる」

「夕食は?」

「向こうで食べるよ」

「そうか」

 空は二人を見た。

 言いたいことは多いはずなのに、言葉が見つからなかった。

「行ってきます」

 最初に出たのは、いつもの言葉だった。

 由美の目から涙が落ちる。

「行ってらっしゃい」

 賢司も頷いた。

「気をつけて」

 空は扉を開けた。

 廊下へ出てから、もう一度振り返る。

「また来るからね」

「分かってる」

「来週、結婚式の打ち合わせもあるし」

「分かってるわ」

「じゃあ」

 空は扉を閉めた。

 エレベーターを待つあいだ、胸の奥が強く痛んだ。

 戻ろうと思えば、まだ戻れる。扉を開け、今日は引っ越すのをやめると言うこともできる。

 それでも空は、下りてきたエレベーターへ乗った。

 新しい部屋では、佐野が冷蔵庫の説明書を読んでいた。

「遅かった?」

「予定どおり。荷物は?」

「もうすぐ来る」

「朝倉さんたちは?」

「泣いてた」

「二人とも?」

「賢司さんは泣いてないって言うと思う」

「水瀬は?」

「少しだけ」

 佐野は何も言わず、空の鞄を受け取った。

「鍵、持ってる?」

「朝倉家の?」

「ここの」

「あ」

「忘れた?」

「賢司さんに朝倉家の鍵を返すか聞いて、そのことばかり考えてた」

「不動産屋から受け取った鍵、俺が二つとも持ってる」

「よかった」

「最初から渡す」

 佐野は鍵を一本、空の手のひらへ置いた。

 新しい鍵には、何の飾りもついていない。

「鍵飾り、必要だね」

「今度、二人で選ぼう」

「うん」

 空は朝倉家の鍵と、新しい家の鍵を並べて見た。

 二つは形も色も違った。

 どちらが本当の家の鍵か、決める必要はない。

 荷物が届き、二人は夕方まで箱を開け続けた。

 仕事部屋へ机を二つ入れると、佐野の机が窓際になった。

「水瀬、窓際がよかった?」

「光が強すぎるから、こっちでいい」

「本当に?」

「何年、私と一緒にいると思ってるの」

「朝倉さんたちと同じこと言うようになったな」

「一緒に暮らしてたから」

 夜は、近くの惣菜店で買った弁当を食べた。

 食卓用の机は届いていたが、椅子は翌日になる。二人は床に座り、箱を机代わりにした。

「新居最初の食事が弁当」

 佐野が言う。

「いいんじゃない」

「料理するって言ったのに」

「今日は無理だよ」

「明日は味噌汁を作る」

「味噌汁だけ?」

「ご飯も炊く」

「おかずは?」

「買う」

「少しずつだね」

「水瀬も作ってよ」

「月曜は私が作る」

 二人で決めた暮らしの約束は、朝倉家で作ったものより少なかった。

 帰宅時刻が遅くなるときは連絡する。相手の仕事道具には勝手に触れない。一人で過ごしたいときは、黙り込まずに伝える。家事の分担は、忙しさに合わせて変える。

 完璧な規則を最初から作ることはやめた。

 困ったときに、その都度話す。

 食事を終え、二人で弁当の容器を片づける。

 空は浴室から戻ったあと、寝室に積まれた箱の間へ座った。

 携帯電話には、由美から写真が届いていた。

 洗面所の歯ブラシが、二本だけになっている。

 〈空いたところには、何も置かないでおきます〉

 続いて、賢司から送られてきた。

 〈空の部屋の窓を閉めました。忘れ物は見当たりません〉

 空は二人へ返した。

 〈無事に荷物が着きました。夕食も食べました〉

 少し考え、もう一文を書く。

 〈新しい家に帰りました〉

 由美からすぐに返事が来る。

 〈おかえり〉

 賢司からも届いた。

 〈おかえり。おやすみ〉

 空は画面を佐野に見せた。

「新しい家に帰ったのに、おかえりって」

「間違ってないだろ」

「うん」

 佐野は箱の上へ腰を下ろした。

「水瀬」

「何?」

「俺も言っていい?」

「何を?」

「おかえり」

 空は少し笑った。

「ただいま」

「俺はずっとここにいたけど」

「そういうことじゃないでしょ」

「分かってる」

 空も佐野へ言った。

「おかえり」

「ただいま」

 何も整っていない部屋に、二人の声が残った。

 結婚式は、海が見える小さな式場で行うことにした。

 空は豪華な式を望まなかった。佐野も、大勢の前で長い挨拶をするのは苦手だった。

 招くのは、家族と親しい友人、職場で世話になった人だけにした。

 打ち合わせで式場の担当者から、生い立ちを紹介する映像を勧められたとき、空はすぐに首を横に振った。

「作りません」

「お写真が少ない場合は、最近のお写真を中心にすることもできます」

「写真が少ないからではないんです」

 空は卓上の見本を閉じた。

「生まれたときから順番に紹介する形にしたくないので」

 担当者が少し戸惑った。

「別の映像をご希望ですか」

「映像自体、なくてもいいと思っています」

 佐野が隣で頷く。

「俺たちも、その時間は来てくれた人と話したいです」

「承知しました。必須ではありませんので、なしにいたしましょう」

 打ち合わせが終わったあと、由美が空へ尋ねた。

「本当によかったの?」

「何が?」

「生い立ちの映像。若葉ホームにいた頃の写真も、家に来てからの写真もあるでしょう」

「あるよ。でも、結婚式で私の人生を順番に説明しなくてもいい」

「そうね」

「私の両親が誰か分からないことも、幼い頃の写真が少ないことも、会場にいる全員へ説明する必要はない。知ってる人は知ってるし、知らない人は知らないままでいい」

「寂しくない?」

「寂しくないとは言わない。でも、ない写真の代わりを無理に作るほうが嫌」

 由美は頷いた。

「分かった」

「その代わり、招待状と席次表は私たちで作る」

 空が言うと、佐野が苦笑した。

「仕事みたいになるぞ」

「自分たちのなら、好きに作れる」

「締め切りは守って」

「佐野くんに言われたくない」

 招待状は、一枚の地図を折り畳む形にした。

 広げると、海辺の町、若葉ホーム、目黒の家、大学、二人の職場、新しい家が、細い線でつながっている。

 すべての道を正確には描かなかった。

 ある場所から次の場所へ、どのようにたどり着いたのかを、空だけが知っていればよい部分も残した。

 地図の中には、赤と青の二本の糸を描いた。

 赤は由美の鞄を繕った糸。青は空の筆箱を縫った糸だった。

 佐野が画面を見て尋ねる。

「俺はどの糸?」

「決めてない」

「二本しかないのに?」

「人数と糸の数を合わせなくていいの」

「俺の糸も欲しい」

「何色がいい?」

「茶色」

「大学の案内冊子と同じ」

「最初に三人で作ったものだから」

 空は赤と青の間へ、茶色の線を加えた。

 三本は途中で重なり、また少し離れ、式場の印へ向かって伸びている。

「これなら?」

「いい」

「糸が増えすぎると、分かりにくくなる」

「今は三本だから大丈夫」

「将来、増えたら?」

「そのとき考える」

 席次表の肩書きについて、空は迷わなかった。

 新婦父 朝倉賢司。

 新婦母 朝倉由美。

 若葉ホームの長谷川と相沢は、恩人ではなく、「新婦家族友人」とした。莉子、芽衣、花音は新婦友人。真帆、菜月、結衣も同じだった。

 長谷川から確認の電話がかかってきた。

「家族友人って、珍しい肩書きね」

「駄目?」

「駄目じゃないけど、どうして?」

「施設職員って書くと、私が今も施設にいるみたいだし、恩人だと遠いから」

「元施設職員でもいいのよ」

「長谷川さんと相沢さんは、それだけじゃないでしょ」

 電話の向こうで、長谷川が黙った。

「もし嫌なら変える」

「嫌じゃないわ。嬉しいの」

「泣いてる?」

「泣いてません」

「由美さんと同じこと言う」

「一緒にしないで。私はまだ声が震えてないでしょう」

「少し震えてる」

「空ちゃんは、本当に遠慮がなくなったわね」

「長谷川さんが、怒りや不満を言えるほうがいいって言ったから」

「ここまで言えるようになれとは言ってません」

 二人で笑った。

 式の二週間前、空は仕事帰りに朝倉家へ寄った。

 衣装合わせの写真を見せるためだった。

「ただいま」

 自分の鍵で扉を開けると、由美が居間から出てきた。

「おかえり。今日は早かったのね」

「残業がなかったから」

「佐野くんは?」

「仕事。夕食も別」

「食べていく?」

「うん」

 空は洗面所へ向かった。

 二本だけの歯ブラシが並んでいる。その横には、何も置かれていなかった。

「本当に空けてある」

 空が言うと、由美が後ろから覗いた。

「何も置かないって言ったでしょう」

「掃除用のブラシくらい置けばいいのに」

「そこは空の場所なの」

「私の歯ブラシは新しい家にあるよ」

「泊まりに来たとき、置くかもしれないでしょう」

「そのときは新しいのを出す」

「だから空けてるの」

 空は鏡越しに由美を見た。

「由美さん、意外と頑固だよね」

「知ってるでしょう?」

「知ってる」

 食卓には、空が置いていった青い線のマグカップが出された。

 空はそれを両手で持つ。

「このカップ、使った?」

「空が来るときだけ」

「使っていいのに」

「三つ並べておきたいから」

「一つだけ使っても、三つ並べられるでしょ」

「そういう問題じゃないの」

「由美さんも、そう言うようになったね」

 賢司が帰宅すると、三人で衣装合わせの写真を見た。

 空は、飾りの少ない白いドレスを選んでいた。髪も大きく結い上げず、低い位置でまとめる。

「似合ってる」

 賢司が言う。

「本当に?」

「ああ」

「写真を見て泣かなかった?」

「写真で泣くわけがない」

「由美さんは泣いたよ」

「少しだけよ」

 由美が携帯電話を取り返す。

「佐野くんは?」

「似合ってるって」

「それだけ?」

「三回言ってた」

「十分じゃない」

「賢司さんは一回」

「回数の問題なのか」

「違うけど」

 由美が次の写真を見せた。

「式の入場は、どうすることにしたの?」

「二人と歩きたい」

 空が答えた。

「二人?」

 賢司が顔を上げる。

「うん。両側に一人ずつ」

「父親と歩くものじゃないの?」

「そういう決まりはないって、式場の人が言ってた」

「私は客席で見ていてもいいのよ」

「私は二人と歩きたいの」

 空は由美を見た。

「二人が一緒に迎えてくれたから。どちらか一人を選びたくない」

 由美の目がすぐに潤んだ。

「また泣いてる」

「まだ式の前なのにね」

「当日は歩ける?」

「頑張る」

「転ばないでね」

「空こそ」

「私は大丈夫」

「ドレスの裾、長いでしょう」

「練習したから」

 賢司は衣装の写真を見つめていた。

「賢司さんは?」

「歩く」

「嫌じゃない?」

「嫌なわけがない。ただ、由美さんが途中で泣いて歩けなくなる可能性を考えている」

「そのときは、二人で支えて」

「空が支えるのか」

「三人で歩けば、誰かがふらついても大丈夫でしょ」

 婚礼の日は、よく晴れた。

 式場の窓から海が見えた。風は穏やかで、水平線の上に薄い雲が浮かんでいる。

 控室で支度を終えた空は、鏡の中の自分を見た。

 白いドレス。低くまとめた髪。耳元には、由美から借りた小さな真珠の飾りがある。

「苦しくない?」

 由美が背後から尋ねる。

「大丈夫」

「歩ける?」

「歩ける」

「水は?」

「さっき飲んだ」

「由美さん」

「何?」

「緊張してるのは私だから、少し黙って」

「ごめんなさい」

 由美は口を閉じたが、三秒後には空の裾へ手を伸ばした。

「ここ、少し曲がってる」

「衣装の人が直してくれたから大丈夫」

「そうね」

 空は鏡越しに由美を見た。

 由美が持っている小さな鞄の持ち手には、赤い糸の縫い目が残っている。

「その鞄、今日も持ってきたんだ」

「式に合わない?」

「合うよ」

「空が直してくれたものだから」

「高校生のときだよ。そろそろ糸が切れるかも」

「切れたら、また直して」

「自分で直してもいいんだよ」

「空のほうが上手だから」

「青木さんに教わっただけ」

「それでも」

 空は由美の鞄へ触れた。

「今度は、もっと丈夫な糸にする」

「赤がいい」

「分かってる」

 扉が叩かれ、賢司が入ってきた。

 礼服姿の賢司は、普段より背筋が伸びている。空を見ると、入口で足を止めた。

「何か言って」

 空が促す。

「きれいだ」

「それだけ?」

「さっき写真でも言った」

「今日は回数を増やしてもいいよ」

「よく似合ってる」

「ありがとう」

 賢司は空のそばへ来た。

「緊張してるか」

「かなり」

「俺もだ」

「由美さんも」

「私は少しだけ」

「少しじゃないだろ」

「二人とも、今は争わないで」

 三人で笑った。

 入場の時刻が近づき、扉の前へ並んだ。

 空が中央に立ち、右に賢司、左に由美。空は二人の腕へ自分の腕を絡めた。

「昔と逆ね」

 由美が囁いた。

「何が?」

「入学式の日、私が空の腕を引いたでしょう」

「覚えてる」

「今日は空が私たちの腕を取ってる」

「転ばないようにね」

「やっぱり私たちを支えるつもりなの?」

「三人で支えるの」

 音楽が聞こえ、扉が開いた。

 光の先に、参列者の顔が並んでいる。

 長谷川と相沢。莉子、芽衣、花音。真帆と菜月。結衣。職場の青木と槙野。佐野の両親と姉。

 通路の先には、佐野が立っていた。

 空は最初の一歩を踏み出した。

 高校二年の春、朝倉家の玄関へ入ったときは、足元ばかり見ていた。今日は顔を上げ、両側にいる二人の歩幅を感じながら進んだ。

 由美の腕が震えている。

「大丈夫?」

 空が小声で聞く。

「大丈夫」

「泣いてる?」

「少しだけ」

 賢司は前を向いたままだったが、目元が赤い。

「賢司さんも?」

「前を見なさい」

「二人ともだね」

 三人の歩幅は、完全には揃っていなかった。

 由美が少し遅れ、賢司が合わせ、空が二人の間で速さを緩めた。

 急ぐ必要はなかった。

 通路の先へ着くと、佐野が三人へ頭を下げた。

 賢司は空の手を佐野へ渡さなかった。

 由美も、空の腕を押し出さなかった。

 二人はただ、空の腕から自分たちの腕をほどいた。

 空は自分で一歩進み、佐野の隣へ立った。

 誓いの言葉は、二人で考えたものにした。

 佐野が先に読む。

「うまくいく日だけでなく、意見が合わない日にも、あなたの言葉を聞きます。すぐに聞けないときは、聞けるまでの時間を伝えます。一人で決める前に、あなたと話します」

 空は佐野を見た。

「私も、あなたの言葉を聞きます。分かってもらう前に諦めず、嫌なことも、嬉しいことも伝えます。助けることと決めることを混同せず、お互いが選ぶための時間を守ります」

 二人は指輪を交換した。

 拍手が起こる。

 空は客席を見た。

 由美はすでに泣いていた。賢司は横を向き、目元を押さえている。長谷川も、相沢も、莉子も泣いていた。

 結衣だけは泣きながら笑い、隣の真帆に何か話している。

 式のあと、海を背に全員で写真を撮った。

 由美は約束どおり、携帯電話をほとんど出さなかった。代わりに、空の顔を何度も見ていた。

「見すぎ」

 空が言う。

「今日くらいいいでしょう」

「写真を撮らない代わりに、ずっと見てるね」

「自分の目で見てって言ったのは空よ」

「そうだけど」

 披露の席では、長い映像を流さなかった。

 その代わり、各テーブルに小さな地図を置いた。

 海辺、若葉、目黒、大学、仕事、新居。

 地図の裏には、その場所で出会った人への短い言葉が記されていた。

 若葉の卓には、

 〈帰る場所が変わっても、私が育った場所であることは変わりません〉

 目黒の卓には、

 〈鍵を渡し、私が使うまで待っていてくれた場所〉

 大学の卓には、

 〈違う意見を持つ人と、一緒に作ることを覚えた場所〉

 新居の卓には、

 〈二人でこれから作る、まだ地図にない場所〉

 佐野の母、恵子は地図を見ながら空へ言った。

「素敵ね。航平には作れないわ」

「母さん、それは失礼だろ」

「航平はこういう細かいところを忘れるでしょう」

「佐野くんも手伝いました」

 空が言う。

「茶色の線は佐野くんが決めたんです」

「そこだけ?」

「文字の大きさでも喧嘩しました」

「結婚式の準備でも喧嘩したのね」

 恵子は楽しそうに笑った。

「それなら安心したわ」

「どうして?」

「喧嘩しないふりをして結婚するより、ずっといいでしょう」

「母さんまで朝倉さんたちと同じことを言うな」

「皆に言われるなら、正しいんじゃない?」

 空も笑った。

 食事が進み、友人たちの挨拶が続いた。

 結衣は大学時代の冊子を持ってきていた。

「空ちゃんと佐野くんは、一年生の最初から意見が合いませんでした」

 会場に笑いが起きる。

「空ちゃんは必要な情報を全部入れたがり、佐野くんは格好よく見せるために減らしたがりました。二人の間で困った私は、表紙の線を茶色に決めました」

「結衣、それを自慢するところ?」

 空が席から言う。

「大事な話です」

 結衣は胸を張った。

「今も二人は、どちらか一人の正解にしないで、一緒に決めています。たぶん、これからも私が間に入らないと決まらないことがあると思うので、そのときは食事をごちそうしてください」

「最後、それが目的?」

「二人とも、本当におめでとう」

 結衣の声が少し震えた。

「大学を卒業しても、結婚しても、三人で作った冊子は私の家にあります。これからも、たまには三人で集まって喧嘩しましょう」

 空は笑いながら涙を拭いた。

 披露の終わりが近づくと、司会者から空へ合図があった。

 両親への手紙。

 最初は、しないつもりだった。

 式場で勧められた型どおりの文章を読むことに抵抗があった。生まれた日や幼い頃の思い出から始める手紙は、空には書けない。

 けれど、由美と賢司へ伝えたい言葉はあった。

 空は封筒から便箋を出した。

「賢司さん、由美さん」

 二人が並んで空を見る。

「今日だけ、お父さん、お母さんと呼ぼうか迷いました。でも、私にとって二人は、名前で呼び続けた時間も含めて父と母なので、いつもどおり呼びます」

 会場のあちこちから、小さな笑いが起きた。

「二人と出会った頃の私は、必要なことしか話しませんでした。好きなものを聞かれても、何でもいいと答えました。欲しいものを言えば、それを失ったときに困ると思っていたからです」

 空は一度、息を吸った。

「二人は、私をすぐに家へ連れていきませんでした。会いに来て、出かけて、泊まる場所を作り、私が選ぶのを待ってくれました」

 由美は手で口元を覆っている。

「家に来てからも、うまくいったことばかりではありません。私が連絡をしないまま帰りが遅くなり、賢司さんが怒鳴った夜がありました。私は若葉ホームへ戻ると言いました」

 賢司が俯く。

「でも、賢司さんは自分が間違えたと認めて、謝ってくれました。由美さんも、私に謝ることだけを求めず、自分たちの不安を私に背負わせたと認めてくれました。三人で、連絡の方法を決め直しました」

 空は便箋から顔を上げた。

「あの夜、二人が怒ったことを愛情だとは思っていません。間違えたあとに、関係を諦めず、話し直してくれたことを、私は家族になっていくことだと思いました」

 由美の肩が震えている。

「大学へ行きたいと言ったとき、二人は何でも払うとは言いませんでした。どこまでできるか一緒に考えました。私が就職して家に残りたいと言ったときも、出ていくべきだとは言いませんでした。佐野くんと結婚したいと言ったときも、二人の許可が必要だとは言いませんでした」

 空は便箋を持つ手へ力を入れた。

「二人は、私の代わりに人生を決める人ではありませんでした。私が決めるまで待ち、決めたあとも、うまくいかなければ一緒に考える人でした」

 賢司が目元を拭った。

「私は両親のことを知りません。顔も声も、どんな人だったのかも知りません。それを寂しいと思う日があります。これから先も、きっとあります」

 会場は静かだった。

「でも私は、自分で選んだ父と母を知っています。好きな食べ物も、苦手なことも、怒ったときの顔も、泣くのを我慢するときの顔も知っています」

 由美が泣きながら笑った。

「二人が私を選んでくれたことに感謝しています。それ以上に、私が二人を選ぶまで待ってくれたことに感謝しています」

 空の声が震えた。

「一緒に暮らしてくれて、ありがとう。家を出ても、私は二人の娘です。これからも、心配しすぎたり、余計なことを言ったりしてください。そのときは、今までどおり嫌だと言います」

 会場に笑いが広がった。

「そして、嬉しいことがあったら、一番に話したいと思います」

 空は手紙を閉じた。

「これからも、よろしくお願いします」

 由美は空を抱きしめた。

「こちらこそ、ありがとう」

 声が涙で途切れていた。

 賢司は空の前へ立ったが、すぐには言葉が出なかった。

「何か言って」

 空が小声で促す。

「空」

「うん」

「俺たちを選んでくれて、ありがとう」

 賢司の目から涙が落ちた。

「やっぱり泣いてる」

「今日は寝不足じゃない」

「知ってる」

 空は賢司にも腕を回した。

 三人で抱き合うと、由美がさらに泣き、空も笑いながら泣いた。

「苦しい」

 空が言う。

「もう少し」

 由美が答える。

 入学式の日、由美に抱きしめられたときと同じ言葉だった。

「今日だけだからね」

「うん」

 賢司が二人の背中へ手を置いた。

 披露の席が終わり、参列者を見送ったあと、空と佐野は外へ出た。

 夕方の海は、昼より濃い青になっていた。

「疲れた?」

 佐野が尋ねる。

「疲れた。でも、楽しかった」

「泣きすぎて目が赤い」

「佐野くんも泣いてたでしょ」

「少し」

「賢司さんみたいに隠さないんだ」

「隠しても分かるだろ」

「うん」

 佐野は空の手を取った。

 指輪が触れ合う。

「帰ろうか」

「うん」

「新しい家に」

 空は会場のほうを振り返った。

 窓の向こうに、由美と賢司がいる。式場の係の人へ何かを確認しているらしい。賢司は引き出物の数を数え、由美は忘れ物がないか見回していた。

「最後まで二人らしいね」

「朝倉さんたち?」

「うん」

「挨拶してから帰る?」

「さっき何度もしたよ」

「じゃあ行こう」

 空は鞄の内ポケットへ手を入れた。

 新居の鍵と、朝倉家の鍵が並んでいる。

 二つとも、そこにあった。

 由美と賢司は、式場を出たあと、二人で車に乗った。

 運転席は賢司、助手席は由美。

 海沿いの道を走ると、空と出会った頃の旅行を思い出した。

「あのときも、こんな道だったわね」

 由美が窓の外を見ながら言う。

「もう少し狭かった」

「賢司さんが道を間違えたのよ」

「案内表示が分かりにくかった」

「今なら空に直してもらえるわね」

「仕事になるぞ」

「娘だから安くしてくれないかしら」

「空は仕事と家族を混ぜない」

「そうだった」

 二人は笑った。

 旅先で道に迷い、海辺の店へ入った。

 そこで、一人で食事を運んでいた少女を見た。必要なことしか話さず、笑うときも周囲を確かめるような目をしていた。

 あの日の二人は、その少女と暮らすことになるとは知らなかった。

 大学へ進み、名前を選び、仕事を始め、誰かを家へ連れてくる日が来るとも知らなかった。

「終わったのね」

 由美が言った。

「何が」

「三人の暮らし」

「暮らし方が変わっただけだ」

「分かってる。でも、毎日同じ家に帰るのは終わったでしょう」

「ああ」

「寂しい?」

「寂しい」

 賢司は前を向いたまま答えた。

「嬉しい?」

「ああ」

「私も」

 車内で、二人はしばらく話さなかった。

 家へ着く頃には、外は暗くなっていた。

 玄関を開けても、空の靴はない。

「ただいま」

 由美が言った。

「ただいま」

 賢司も続く。

 返事はなかった。

 二人は居間の明かりをつけ、礼服を脱いだ。食事をするほど空腹ではなく、由美は湯を沸かした。

 食器棚を開ける。

 赤、深緑、青のマグカップが並んでいた。

 由美は赤と深緑だけを取り出した。

 青いカップは、棚へ残した。

「空の部屋、見る?」

 由美が尋ねる。

「今日はいい」

「そうね」

 二人は食卓へ向かい合って座った。

 空が来る前も、二人だけで暮らしていた。

 その頃と同じ人数へ戻ったはずなのに、部屋の広さも、聞こえる音も、以前とは違って感じられた。

「最初は、二人で十分だと思ってた」

 由美が言う。

「十分だった」

「そうね。あの頃も幸せだった」

「ああ」

「空と暮らして、その幸せが間違いだったことにならなくてよかった」

「空が来たから足りないものが埋まったわけじゃない」

「うん」

「三人になって、別の暮らしが増えた」

 由美は赤いマグカップを両手で包んだ。

「今日からは?」

「また別の暮らしになる」

「二人で慣れられるかしら」

「慣れる」

「すぐに?」

「すぐでなくていい」

 由美が笑った。

「待てるようになったわね」

「由美さんも」

 携帯電話が震えた。

 空から写真が届いていた。

 新居の食卓に、二つのマグカップが並んでいる。一つは淡い青、もう一つは茶色だった。

 〈帰りました。今日はありがとう〉

 由美は賢司へ画面を見せた。

「帰ったって」

「ああ」

「何て返す?」

「いつもどおりでいい」

 由美は文字を打った。

 〈おかえり。今日はおめでとう〉

 賢司も続けて送る。

 〈おかえり。二人とも、ゆっくり休んでください〉

 少しして、空から返ってきた。

 〈二人も。おやすみ〉

「おやすみ、空」

 由美が画面へ向かって言った。

 賢司は食器棚に残る青いカップを見た。

「次に来るのは、いつだ」

「来週の日曜日。式の写真を見に来るって」

「そうか」

「一週間もある」

「短いだろ」

「今までは毎日だったから」

「一週間後には、佐野くんも来るかもしれない」

「餃子にする?」

「またか」

「四人で包めるでしょう」

「佐野くんは、まだ開く」

「次は上手くなるわよ」

 二人は顔を見合わせて笑った。

 家の中には、二人の声だけが響いた。

 寂しさは、消えなかった。

 消す必要もなかった。

 喜びも、懐かしさも、同じ場所にあった。

 空が使っていた部屋も、洗面所の空いた場所も、食器棚の青いカップも、失ったものではない。

 ここで三人が暮らした時間の形だった。

 由美は立ち上がり、窓の外を見た。

 遠くの街に、空と佐野の家がある。

 空はもう、同じ屋根の下にはいない。それでも、帰る場所を失ったわけではなかった。

 家を出た娘は、自分で選んだ人と、新しい食卓を作り始めている。

 賢司が由美の隣へ立った。

「由美さん」

「何?」

「これからも、二人で出かけよう」

「映画?」

「旅行でもいい」

「また道に迷うかも」

「今度は案内を確認する」

「迷ってもいいんじゃない?」

「どうして」

「道を間違えた先で、空に会ったでしょう」

 賢司は少し考え、頷いた。

「そうだな」

 二人は窓の外に並ぶ灯りを見た。

 どの窓にも、それぞれの暮らしがある。

 同じ場所へ戻り続ける道もあれば、途中で分かれる道もある。分かれたあと、また交わる道もある。

 空は自分の道を選び、婚礼の日を迎えた。

 賢司と由美も、娘を送り出した場所から、二人の道を歩き直していく。

 その道が離れて見える日にも、三人を結んだ時間がほどけることはなかった。





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