第三十二章 血の通わぬ糸
結婚して最初の朝、空は卵焼きを焦がした。
新しいフライパンの火加減が分からず、卵を流し入れてから味噌汁の鍋へ目を移したわずかな間に、甘い匂いへ焦げ臭さが混じった。
「あっ」
慌てて火を止め、フライ返しを差し込む。表面はきれいな黄色なのに、裏側は茶色を通り越して黒くなっていた。
「航平、起きて」
寝室へ向かって呼ぶ。
「今日は休みだろ」
「卵焼きが焦げた」
しばらく返事がなかった。
やがて、寝癖のついた航平が目を細めながら台所へ入ってきた。
「どのくらい?」
「裏側だけ」
「切れば食べられるんじゃない?」
「焦げた味が移ってると思う」
「朝倉家では、どうしてた?」
「由美さんは、ここまで焦がさない」
「そうじゃなくて、焦がしたとき」
「見たことないかも」
「じゃあ、捨てる?」
空は卵焼きを持ち上げ、黒くなった面を眺めた。
「焦げたところだけ切る」
「食べるの?」
「卵三個使ったから、全部捨てるのは嫌」
「俺も食べる」
「無理しなくていいよ」
「空一人に食べさせるほうが嫌だ」
「航平も一緒に失敗したみたいに言わないで」
「同じ家の朝食だから、少しくらいは同じ失敗でいいだろ」
二人で焦げた部分を薄く切り落とした。
形の崩れた卵焼きを皿へ載せ、味噌汁とご飯を並べる。食卓はまだ新しく、木の表面には傷一つなかった。
空が卵焼きを口へ入れる。
「少し苦い」
「こっちは大丈夫」
航平が端の部分を食べた。
「本当?」
「たぶん、空のだけ焦げが残った」
「交換して」
「もう食べた」
「ずるい」
「次は俺が作る」
「卵焼き、作れるの?」
「今から覚える」
「朝から?」
「卵、あと三個ある」
「また焦がしたら、卵がなくなるよ」
「目玉焼きにする」
「卵焼きじゃない」
「焦げてない卵を食べるという目的は同じだろ」
空は笑った。
結婚式を終え、二人で暮らし始めても、毎日は急に整わなかった。
家具を選び、家事の分担を決め、二人分の食器を揃えた。それでも、卵焼きは焦げる。洗濯物は乾かない。使おうとした調味料が、知らないうちになくなっている。
新しい家族になるとは、失敗のない暮らしを始めることではなかった。
失敗した朝に、誰が焦げた部分を食べるのかまで話せるようになることだった。
最初の一か月は、細かなことで何度も言い合った。
空は使った道具を元の場所へ戻したが、航平は次に使いやすい場所へ置いた。航平は洗濯物を色で分けたが、空は一度に洗えるものなら一緒でいいと考えた。
浴室の排水口を掃除したはずの日に、髪の毛が残っていたこともある。
「空、これ」
航平が排水口を指した。
「少しくらい残るよ」
「少しじゃない」
「気づいた人が取ればいいでしょ」
「昨日は空の当番だった」
「昨日は帰りが十時だったの」
「できないなら、言ってくれれば俺がやった」
「排水口を掃除できませんって、仕事中に連絡するの?」
「そうじゃなくて、できなかったことを黙って次へ回さないでほしいんだよ」
「航平だって、先週ゴミを出し忘れた」
「あれは一回」
「これも一回」
「髪の毛は前にもあった」
「数えてるの?」
空は腹を立て、仕事部屋へ入った。
扉を閉めてから、大学時代にも佐野と似た言い合いをしたことを思い出した。冊子の表紙、案内図の情報量、展示パネルの傾き。航平は細かいところに無頓着なようで、一度気になったことは譲らない。
空も同じだった。
一時間ほど一人で過ごしてから、空は居間へ戻った。
航平は床へ座り、乾いた洗濯物を畳んでいた。
「話していい?」
空が尋ねる。
「うん」
「排水口、次から気をつける」
「俺も、言い方が細かかった。悪かった」
「できなかったら言う。でも、航平もゴミを出し忘れたら言って」
「分かった」
「謝るだけじゃなくて、次に気づいたら出して」
「それはもちろん」
航平が畳んでいた紺色の靴下を空は取り上げた。
「これ、私の」
「大きさが同じだから分からない」
「私のは横に線が入ってる」
「どっちも紺だろ」
「違う紺」
「デザイナーみたいなことを言うな」
「二人ともデザイナーでしょ」
空は自分の靴下を畳み直した。
「暮らすって、こんな話ばかりだね」
「排水口と靴下?」
「結婚する前は、もっと違うことを想像してた」
「どんな?」
「休日に二人で出かけたり、食卓で仕事の話をしたり」
「それもしてる」
「でも実際は、洗剤が切れたとか、牛乳を買ってきてとか、その日の生活の話のほうが多い」
「朝倉家でも同じだっただろ」
「そうだった」
空は畳んだタオルを重ねた。
「家族って、ほとんど生活の話をする相手なのかもね」
「たまには違う話もする?」
「何の話?」
「次の休日、どこへ行くか」
「その前に、洗濯物をしまおう」
「結局、生活の話だ」
二人は顔を見合わせて笑った。
空は結婚を機に、仕事で使う名前も佐野空へ揃えた。
水瀬を使い続けることも考えた。成人後に選んだ朝倉を仕事上の名前にする方法もあった。
けれど空は、書類と仕事で名前を分けるより、今の自分の名前で新しい仕事を積み重ねたいと思った。
水瀬空として作った作品が、なくなるわけではない。
朝倉空として暮らし、大学を卒業し、就職した時間も消えない。
水瀬と呼ばれた時間。
朝倉を選んだ時間。
佐野として歩き始めた時間。
名前が変わるたび、それまでの自分を脱ぎ捨てるのではなかった。一枚ずつ重ねた布のように、どの名前も空の中に残っていた。
職場で「佐野さん」と呼ばれれば振り返る。
由美と賢司は、今までどおり「空」と呼ぶ。
航平も、結婚を決めてからは空と呼ぶようになった。
名字で呼ばれていた大学時代より、その声は少し近く聞こえた。
結婚して最初の日曜日、空と航平は朝倉家を訪ねた。
玄関の呼び鈴を押すと、由美がすぐに扉を開けた。
「いらっしゃい」
空はその場に立ったまま、由美を見た。
「ただいま」
「あ」
由美が自分の言葉に気づく。
「そうね。おかえり」
「航平はいらっしゃいでいいよ」
「俺も、ただいまじゃ駄目?」
航平が尋ねた。
空と由美が同時に航平を見る。
「冗談です」
「航平くんも、おかえり」
由美が笑う。
「では、ただいま」
三人で居間へ入ると、賢司が食卓に餃子の材料を並べていた。
「また餃子?」
空が言う。
「四人で作れるからな」
「ほかの料理もあるでしょ」
「今日は航平くんが上達したか確認する」
「俺、試験を受けるんですか」
「最初に来たときは、具が出ていた」
「最近、家でも作りました」
「二回ね」
空が付け加える。
「二回作れば、少しは上手くなる」
「それを見せたいだけじゃない?」
「空も包んで」
由美が餃子の皮を差し出した。
「まだ鞄も置いてない」
「賢司さんが置いてくれるわ」
「自分で置くよ」
四人で食卓を囲んだ。
航平の餃子は、以前より形が整っていた。賢司ほど同じ形ではないが、焼いても皮が開かなかった。
「上手くなったわね」
由美が褒める。
「家でも練習したので」
「練習って言っても二回だよ」
「空はその二回で一つ開いた」
「私のは具を入れすぎただけ」
「由美さんに似たな」
賢司が言う。
「空、前は私の入れすぎを注意してたじゃない」
「少し多いほうがおいしいと思うようになった」
「人は変わるのね」
「餃子の具で大げさだよ」
食事のあと、空は青い線の入ったマグカップを使った。
赤は由美、深緑は賢司。航平には茶色の線が入った新しいカップが用意されていた。
「これ、いつ買ったの?」
航平が尋ねる。
「結婚式のあと」
由美が答える。
「空たちが来たとき、航平くんのカップがないと困るでしょう」
「ありがとうございます」
「茶色は、結婚式の招待状に使った色よ」
「覚えてたんですね」
「もちろん」
空は四つのカップを見た。
「航平のも、ここに置くの?」
「置いていってほしいの」
由美が答えた。
「来るたびに使えるでしょう」
航平は茶色のカップを持ち上げた。
「では、置いていきます」
「自分の家にもあるのに?」
空が言う。
「空の青いカップも、ここにあるだろ」
「そうだけど」
「俺の帰る場所も、一つ増えたと思えばいい」
賢司が小さく頷いた。
「そうしてくれ」
結婚後、朝倉家へ行く回数は少しずつ落ち着いた。
最初の頃は毎週のように顔を出した。忘れ物を取りに行き、結婚式の写真を見せ、由美が作りすぎた料理をもらった。
やがて月に一度になった。
会わない週にも、三人の連絡欄には短い言葉が行き交った。
〈今日は二人とも帰りが遅いので、夕食は別々です〉
〈こちらは鯖の味噌煮です〉
〈それ、私たちに必要な情報?〉
〈空が何でも書いてほしいと言った〉
大学一年の頃に空が頼んだことを、賢司は今も覚えていた。
由美からは、食器棚に並ぶ四つのカップの写真が届く。
〈航平くんのカップも洗いました〉
〈使ったの?〉
〈来週来るから、埃がついていないか確認しただけです〉
〈洗ったら棚へ伏せておけばいいよ〉
〈分かっています〉
空は画面を航平へ見せた。
「由美さん、俺のカップを大事にしすぎじゃない?」
「航平が来たことが嬉しかったんだと思う」
「空が初めて歯ブラシを置いたときも、同じだった?」
「私が置く前に、二人で用意してた」
「朝倉さんたちらしいな」
「少し怖いでしょ」
「今は分かる気がする」
その年の冬、賢司が職場で倒れた。
意識を失ったわけではなかった。会議中に立ち上がったとき、強いめまいに襲われ、机へ手をついたまま動けなくなった。念のため救急車で病院へ運ばれた。
由美から電話が来たのは、空が仕事を終えようとしていた午後六時前だった。
「空、今、話せる?」
声が震えている。
「話せる。どうしたの」
「賢司さんが病院へ運ばれたの」
空は椅子から立ち上がった。
「どこの病院?」
「会社の近く。今から私も向かう」
「私も行く」
「仕事は?」
「終わるところ。場所を送って」
「航平くんには?」
「私から連絡する」
空は同僚へ事情を伝え、会社を出た。
電車の中から航平へ電話をかける。
「賢司さんが病院へ運ばれた」
「容体は?」
「まだ分からない。めまいで動けなくなったって」
「俺も行く」
「仕事は?」
「今、終わった。病院の場所を送って」
「うん」
病院へ着くと、由美が待合室にいた。
「どう?」
空が駆け寄る。
「検査中。話はできてるって」
「原因は?」
「まだ分からない」
由美の手は冷たかった。
空は隣へ座り、その手を握った。
「大丈夫とは言わないよ」
「うん」
「結果が出るまで待とう」
「うん」
高校生の頃、空は待つことが嫌いだった。
何が起きるか分からないまま、自分には何もできない。誰かの返事を待つ時間は、自分の行き先を相手へ預けるように思えた。
今も、待つことが楽になったわけではない。
けれど、由美の隣にいることはできる。水を買い、医師の説明を聞く準備をし、航平へ状況を伝えられる。
結果を変えられない時間にも、そばにいることはできた。
航平が到着して間もなく、医師から説明があった。
深刻な異常は見つからなかった。疲労と水分不足に加え、服用している薬の影響も考えられるという。一晩入院し、翌日にもう一度検査をすることになった。
病室へ入ると、賢司はベッドの上で不機嫌そうな顔をしていた。
「全員来たのか」
「来るよ」
空が椅子を引く。
「大げさだ」
「救急車で運ばれた人が言わないで」
「意識はあった」
「だから何?」
「明日の検査が終われば帰れる」
「医師が決めることだよ」
賢司は空を見た。
「仕事は大丈夫なのか」
「終わってた」
「航平くんは?」
「俺も大丈夫です」
「由美さんは?」
「あなたが倒れたのに、仕事の心配ばかりしないで」
由美の声に怒りが混じった。
「病院へ向かう電車の中で、何度電話をしても出なかったのよ」
「検査中だったから」
「分かってる。でも、怖かった」
賢司は黙った。
「心配をかけて悪かった」
「謝るところは、倒れたことじゃない」
空が言う。
「朝から体調が悪かったのに、誰にも言わなかったことでしょ」
「少しふらついただけだ」
「それを言って」
「言えば、二人とも病院へ行けと言うだろ」
「行けばよかったんだよ」
「会議があった」
「会議と体、どちらが大事?」
「そういう単純な話では――」
「賢司さん、私が高校生のとき、体調が悪かったら必ず言えって言ったよね」
「言った」
「自分も守って」
賢司は返事をせず、窓の外を見た。
航平が少し離れたところで笑いをこらえている。
「航平くん、笑わないでください」
賢司が言う。
「すみません。空が賢司さんに似てきたと思って」
「どこが?」
「心配すると、質問が増えるところ」
「私は怒鳴ってない」
「今は」
「航平も、帰ったら話がある」
「どうして俺まで」
「先週、頭が痛いって言いながら仕事へ行ったでしょ」
「もう治った」
「そういうところ」
由美が泣きながら笑い出した。
「賢司さん、味方がいなくなったわね」
「空を育てた結果がこれか」
「育てたって言った」
空は賢司の布団の端を整えた。
「育ててもらったよ。でも、今は私も二人を心配するの」
賢司は諦めたように目を閉じた。
「次から気をつける」
「次がないようにして」
「それは約束できない」
「じゃあ、体調が悪かったら言うこと」
「ああ」
翌日、賢司は予定どおり退院した。
空と航平は朝倉家へ行き、由美が作った夕食を一緒に食べた。空は薬の飲み方を確認し、次回の診察日を家族の予定表へ入れた。
「空、俺の予定を管理しなくていい」
「管理じゃなくて共有」
「同じじゃないか」
「違うよ」
航平が横から口を挟む。
「諦めたほうがいいと思います。俺も健康診断の日を入れられました」
「航平くんまで」
「二人とも、自分の体のことになると雑なんだから仕方ない」
「空もでしょう」
由美が言う。
「去年、熱があったのに出勤しようとしたわよね」
「あれは締め切りが――」
「会議と同じだな」
賢司が言う。
空は黙った。
三人の視線が集まる。
「分かった。私も気をつける」
「それでいい」
賢司が満足そうに頷いた。
「急に元気になったね」
空は呆れながら笑った。
それから二年が過ぎた。
空は仕事で、公共施設の案内表示を任されるようになった。
航平も、展示空間の一部ではなく、小さな店舗全体の設計を担当するようになった。
二人とも仕事が忙しく、夕食を別々に取る日が増えた。それでも、週末のどちらかは一緒に食事をした。無理な週は、無理だと伝えた。
月に一度は朝倉家へ行った。
賢司の体調は安定していたが、階段を上ったあとに息を整える時間が長くなった。由美は小さな文字を読むとき、老眼鏡をかけるようになった。
二人も、空の目元に疲れが見える日は、すぐに理由を聞かなくなった。
必要なときに聞き、話せないと言われれば待つ。
三人で覚えた距離は、離れて暮らしても変わらなかった。
春の終わり、空は朝倉家の食卓で、由美と賢司へ一枚の写真を見せた。
小さな白黒の画像だった。
由美は老眼鏡をかけ、写真を見つめる。
「これは?」
「赤ちゃん」
空が答えた。
「誰の?」
賢司が尋ねる。
「私と航平の」
二人の動きが止まった。
「空、妊娠したの?」
「うん。今、四か月」
「四か月?」
由美の声が大きくなる。
「どうしてもっと早く言わなかったの?」
「病院で確認して、少し落ち着いてから話そうと思った」
「体調は?」
賢司がすぐに聞く。
「つわりは少しあるけど、仕事には行けてる」
「食事は?」
「食べられるものを食べてる」
「病院はどこ?」
「賢司さん」
空が止める。
「今日は質問、三つまで」
「またか」
「心配なのは分かってる。でも、私と航平で病院へ行ってるし、必要なことは医師に聞いてる」
「そうか」
「困ったことがあったら相談する」
由美は写真を両手で持ったまま、動かなかった。
「由美さん?」
「ごめん。嬉しくて」
「泣いてる?」
「まだ泣いてない」
「もう泣いてるよ」
「孫なのね」
「うん」
「私たちの孫?」
空は眉を上げた。
「ほかに誰の孫なの」
「そうよね」
「賢司さんも、何か言って」
賢司は口を開き、また閉じた。
「おめでとう」
「ありがとう」
「本当に、孫か」
「何度も確認しないで」
「まだ実感がない」
「私もないよ」
由美は空の腹部を見た。
「触ってもいい?」
「今はまだ、あまり分からないと思う」
「それでも」
「今日はやめて」
「分かった」
由美はすぐに手を引いた。
「触ってほしくなったら、空から言って」
「うん」
「何か必要なものはある?」
「まだない」
「赤ちゃんの服とか――」
「由美さん」
「見るだけ」
「先に買わないでね。私たちで選びたいから」
「分かった」
「本当に?」
「努力する」
「それ、買う人の答えだよ」
賢司が由美へ言う。
「空に止められたものを、勝手に買ってはいけない」
「賢司さんも、ベビーカーを調べないでね」
空が言うと、賢司の表情が止まった。
「もう調べたの?」
「安全性だけだ」
「やっぱり」
「買ってはいない」
「当然でしょ」
航平が笑い、由美も笑った。
笑いが治まったあと、空は白黒の画像を見た。
「少し、不安なんだ」
「体のこと?」
由美が尋ねる。
「それもある。でも、親になること」
由美は黙って続きを待った。
「病院の問診票に、家族の病歴を書くところがあった」
空は指を組んだ。
「父方、母方。高血圧とか、糖尿病とか、遺伝する病気があるかとか。私は全部、分からないって書いた」
「そうだったのね」
「赤ちゃんに何かあっても、私の家族のことは何も説明できない」
「空のせいではない」
賢司が言う。
「分かってる。でも、この子が大きくなって聞いたら、私は答えられない」
航平が空の隣へ座った。
「分からないことは、分からないって伝えよう」
「それしかないけど」
「俺の家族のことは伝えられる。空の家族については、分かっていることを伝える」
「若葉ホームや、二人のこと?」
「うん」
空は賢司と由美を見た。
「それから、私がちゃんと親になれるか分からない」
「ちゃんとした親って?」
由美が聞く。
「子どもが安心できる親」
「それなら、失敗しない親とは違うわね」
「失敗してもいいの?」
「いいとは言わない。でも、すると思う」
「由美さんも?」
「たくさんしたでしょう」
由美が笑う。
「空のためだと思って服や進路に口を出しすぎた。帰りが遅いと、事情を聞く前に謝ってほしいと思った。空が家を出るときは、寂しいと言わないほうがいいと思って、かえって困らせた」
「うん」
「そんな私でも、空の母親でいていいと思ってる」
「私は、由美さんを母親だと思ってるよ」
「なら、完璧じゃなくても親にはなれる」
賢司も言った。
「子どもが安心できているかどうかを、親だけで決めないことだ」
「どういうこと?」
「俺は、生活を整えれば空が安心すると思っていた。規則を作り、予定を確認し、安全な道を示せばいいと考えた。でも、空はそれを監視だと感じたことがある」
「うん」
「子どものためにしたことが、子どものためになるとは限らない。嫌だと言われたら、聞き直せばいい」
「赤ちゃんは、まだ嫌って言えないよ」
「泣く。顔をそむける。大きくなれば、言葉が増える」
由美が続ける。
「それに、空一人で親になるわけではないでしょう。航平くんがいる。私たちもいる。航平くんのご両親もいる」
「頼っていいのかな」
空が言うと、由美は驚いた顔をした。
「頼ってほしい」
「由美さん、先回りしそう」
「そこは気をつける」
「賢司さんは調べすぎる」
「必要なときだけにする」
「航平は仕事が忙しいと、相談する前に一人で決める」
「気をつけます」
航平が答えた。
「私は、何でも一人でやろうとする」
空は自分で言った。
「それは、全員で止める」
航平が言う。
「全員?」
「朝倉さんたちにも頼む」
「分かった」
賢司が頷く。
「任せて」
由美も続いた。
「二人とも、止めるときに一度に言わないでね」
空は笑った。
妊娠が進むにつれ、空の体は思うように動かなくなった。
以前と同じ速さで歩くと息が切れ、長時間座っていると腰が痛んだ。仕事を早めに切り上げることにも、最初は抵抗があった。
航平が夕食を作る日が増えた。
味噌汁、炒飯、野菜炒め。料理の種類はまだ多くなかったが、空が食べられる味を考えて作った。
「今日は少し薄い」
空が味噌汁を飲んで言う。
「前に濃いって言ったから」
「昨日より薄い」
「毎日、同じ味にはできない」
「由美さんは、だいたい同じだった」
「俺を由美さんと比べないで」
航平の声が少し固くなる。
「ごめん」
空はすぐに言った。
「味噌を、あと少しだけ足してほしい」
「今入れる」
「自分でできるよ」
「俺が作ったんだから、俺が直す」
「じゃあお願い」
航平が鍋へ味噌を足す。
空は食卓から、その背中を見ていた。
誰かにしてもらうことを、以前ほど負担に感じなくなった。
代わりに、航平が疲れている日は空が食器を洗った。休日には二人で作り置きをし、無理な日は惣菜を買った。
支える側と支えられる側は、日ごとに入れ替わった。
予定日が近づくと、由美は小さな布の袋を持ってきた。
「何?」
空が開けると、白いガーゼの布が何枚も入っていた。
「赤ちゃん用。口を拭いたり、汗を拭いたりできると思って」
布の縁は、一枚ずつ赤い糸で縫われていた。
「由美さんが縫ったの?」
「そう」
「ここ、少し曲がってる」
「久しぶりだったから」
「この糸は少し緩い」
「空なら直せるでしょう?」
「最初から私に直させるつもりだった?」
「そんなことはないわよ」
空は一枚を光へ透かした。
縫い目は揃っていなかったが、布の端は丁寧に折り込まれている。
「ありがとう。使う」
「無理に使わなくてもいいのよ」
「使いたいから使う」
由美が笑った。
「色は赤でよかった?」
「うん」
「青も考えたの」
「どうして赤にしたの?」
「最初の鞄を思い出したから」
由美は、今も使っている鞄を見た。持ち手には、空が高校生の頃に縫った赤い糸が残っている。
「まだ切れてないね」
空が縫い目へ触れる。
「空が丈夫に縫ってくれたから」
「糸が丈夫だっただけかも」
「どちらでもいいわ」
「切れたら、今度は私がまた直す」
「前もそう言ってくれた」
「今度は、もっときれいにできるよ」
「同じ赤い糸でお願い」
「分かった」
予定日より五日遅れて、空は女の子を産んだ。
長い時間がかかった。
思っていたより痛く、思っていたより怖かった。航平の手を強く握りすぎ、あとで指が痛いと言われた。
「それ、今言う?」
空は疲れ切った声で言った。
「文句じゃない。空が頑張った証拠」
「変な言い方」
「ごめん」
生まれたばかりの赤ん坊を胸元へ抱かされたとき、空はすぐに涙を流さなかった。
小さい。
赤い。
泣いている。
最初は、その事実しか考えられなかった。
この子が自分の中にいたことも、自分と血がつながっていることも、実感が追いつかなかった。
「かわいい?」
航平が小声で尋ねる。
「分からない」
空は正直に答えた。
「怖い。小さすぎる」
「うん」
「落としそう」
「俺も怖い」
「大丈夫って言わないんだ」
「大丈夫かどうか、俺にも分からないから」
「そっか」
「一緒に持とう」
航平は赤ん坊の体へ手を添えた。
二人の手の間で、赤ん坊は泣いている。
「澪」
空が呼んだ。
二人で決めた名前だった。
水の中にできる、船が通る道。
流れの中にありながら、進む場所を示すもの。
「佐野澪」
航平も呼んだ。
澪は返事をしなかった。
小さな指を動かし、空の胸元の布を握った。
その瞬間、空の中に生まれたのは、はっきりした愛情というより、離してはいけないという強い感覚だった。
この子を守りたい。
けれど、守ることと、この子の人生を決めることを混ぜてはいけない。
まだ言葉を持たない澪が、やがて自分の好きなものを選び、嫌だと言い、空の知らない場所へ出かける日が来る。
そのとき、待てる親でいたい。
間違えたら、謝れる親でいたい。
「空」
航平が呼んだ。
「何?」
「泣いてる」
空は自分の頬が濡れていることに気づいた。
「今、気づいた」
「俺も」
「航平も泣いてる」
「少し」
二人で笑い、澪はさらに大きな声で泣いた。
由美と賢司が病院へ来たのは、翌日の午後だった。
病室へ入る前から、由美の目は赤かった。
「まだ会ってないのに泣いてるの?」
空が尋ねる。
「写真を見たから」
「写真だけで?」
「孫の写真よ」
賢司は由美の後ろで、小さな紙袋を持っていた。
「何を持ってきたの?」
「必要なものだけだ」
「何?」
「空の着替えと、頼まれた充電器。航平くんに確認した」
「赤ちゃん用品は?」
「買っていない」
「調べた?」
「少しだけ」
「やっぱり」
航平が笑いながら、澪の眠る小さなベッドを二人の近くへ動かした。
「抱きますか」
由美は両手を胸の前で握った。
「抱いていいの?」
「澪が起きたら」
空が言う。
「今は寝てるから、もう少し待って」
「分かった」
由美はベッドの横へ座り、眠っている澪の顔を見つめた。
「小さい」
「昨日、私も同じこと言った」
「空に似てる?」
賢司が尋ねる。
「分からない。航平にも似てる気がする」
「眉は空かもしれない」
由美が言う。
「私の赤ちゃんの頃を知らないでしょ」
「今の空の眉に似てるの」
「こんなに薄くないよ」
「形よ」
「まだ変わると思う」
三人が話していると、澪が目を開けた。
口を小さく動かし、すぐに顔を歪める。
「泣く」
空が言った直後、澪の声が病室へ響いた。
由美が立ち上がる。
「どうするの?」
「お腹が空いたのかも」
「何かできる?」
「今は大丈夫。少し待って」
「うん」
由美はすぐに座り直した。
空は澪を抱き、授乳した。背中を軽く叩くと、澪はしばらくして落ち着いた。
「抱く?」
空が尋ねる。
「いいの?」
「うん。椅子に座って」
由美は緊張した顔で腕を出した。
「頭をここで支えて。反対の手で体を」
「こう?」
「もう少し上」
「怖い」
「私も最初は怖かった」
空はゆっくり澪を由美へ渡した。
由美の腕の中で、澪が小さく動く。
「こんにちは」
由美が囁いた。
「おばあちゃんです」
その言葉を聞いた途端、由美の目から涙が落ちた。
「澪に落とさないでね」
空が言う。
「ごめん」
「泣くなとは言ってない。顔を少し離して」
「はい」
賢司は二人の横に立ったまま、手を出さなかった。
「賢司さんも抱く?」
「首が据わってからでいい」
「今、抱かなくて後悔しない?」
賢司は少し迷い、椅子へ座った。
「お願いします」
由美から澪を渡される。
賢司の腕は、由美よりさらに固かった。
「力を入れすぎ」
空が言う。
「分かってる」
「分かってない顔」
「空、今は黙ってくれ」
「怖い?」
「かなり」
澪が片手を動かし、賢司の人差し指を握った。
賢司の表情が変わった。
「握った」
「赤ちゃんは、近くにあるものを握るよ」
空が言う。
「分かってる」
「嬉しい?」
「ああ」
賢司は澪の顔を見つめた。
「この子が、俺たちの孫か」
「そうだよ」
空は答えた。
「二人の孫」
由美がまた泣き、賢司も目元を赤くした。
「二人とも、澪より泣いてるね」
空が笑う。
「空も昨日泣いたんだろ」
賢司が言った。
「少し」
「全員同じじゃないか」
退院してからの一か月は、昼と夜の区別がなくなった。
澪は二時間おきに泣いた。授乳をしても泣き、おむつを替えても泣いた。抱いて歩くと眠るのに、布団へ置くと目を覚ました。
空も航平も眠れなかった。
「どうして泣いてるの」
午前三時、空は澪を抱きながら言った。
「分からない」
航平が眠そうな顔で答える。
「さっき飲んだよね」
「飲んだ」
「おむつも替えた」
「替えた」
「熱は?」
「ない」
「じゃあ、どうして」
「理由がなくても泣くんじゃない?」
「理由はあるでしょ。言えないだけで」
空は部屋の中を歩いた。
腕が重い。背中も痛い。眠りたいのに、澪の声が止まらない。
「代わる」
航平が腕を伸ばす。
「さっきも代わってもらった」
「俺は少し寝た」
「明日、仕事でしょ」
「午後から行く」
「私がやる」
「空」
「大丈夫」
「大丈夫じゃない顔」
航平が澪を受け取ろうとする。
空は一歩下がった。
「落とさないで」
「落とさない」
「眠いでしょ」
「空も」
「私は母親だから」
言った瞬間、航平の表情が変わった。
「俺も父親だ」
低い声だった。
空は黙った。
「空が全部やるなら、俺は何のためにいるんだ」
「そういう意味じゃない」
「今は、そう聞こえた」
「航平は仕事があるから」
「空だって、体が戻ってない」
「でも――」
「一人でやろうとしたら止めるって、朝倉さんたちと約束しただろ」
澪は二人の間で泣き続けている。
空の目から涙が出た。
「分かってる。でも、任せて何かあったら怖い」
「俺も怖い」
「航平は昼にいない」
「いる時間は俺がやる」
「分からないことがあったら?」
「一緒に調べる。必要なら病院に聞く。朝倉さんたちにも、うちの親にも頼る」
「私は、ちゃんとできてない」
「誰と比べてる?」
空は答えられなかった。
知らない母親。
顔も声も分からない人。
自分を産んだあと、その人が空を抱いたのかどうかも知らない。
由美。
高校生の空を迎え、食事を作り、間違えれば謝った人。
どちらとも同じにはなれない。
「分からない」
空は言った。
「誰と比べてるのかも、何がちゃんとしてるのかも」
「なら、今できることだけにしよう」
航平がもう一度、腕を伸ばした。
「俺が抱く。空は一時間寝る」
「泣き止まなかったら?」
「泣き止まなくても抱いてる」
「困ったら起こして」
「うん」
空はようやく、澪を航平へ渡した。
寝室へ行っても、すぐには眠れなかった。澪の泣き声が聞こえる。航平が小さな声で何か話している。
それでも目を閉じた。
一時間後に航平に起こされるまで、空は眠った。
翌日、空は由美へ電話をかけた。
「今日、来られる?」
自分から助けを求めるのに、まだ少し勇気が必要だった。
「行ける。どうしたの?」
「二時間だけ、澪を見ていてほしい。眠りたい」
「分かった。何時がいい?」
「昼頃」
「必要なものは?」
「何も買わなくていい。来てくれるだけでいい」
「分かった」
本当に、由美は何も買わずに来た。
弁当を二つ持っていたが、それは自分と空の昼食だと言った。
「先に食べる?」
「寝たい」
「分かった。澪ちゃんは?」
「さっき飲んだ。おむつも替えた。次に泣いたら――」
「分からなかったら起こすわ」
「すぐに起こさなくていい。少し抱いてみて」
「うん」
「勝手に何か飲ませないでね」
「しない」
「顔に布をかけないで」
「しないわ」
「由美さん」
自分が賢司のように質問を重ねていることに気づいた。
「ごめん」
「心配なのね」
「うん」
「大丈夫とは言わない。分からなかったら空を呼ぶ。それまでは私に任せて」
「分かった」
空は寝室へ入った。
扉を閉める直前、由美が澪へ話しかける声が聞こえた。
「お母さん、少し眠るからね」
お母さん。
それが自分を指す言葉だと理解するまで、一瞬かかった。
空はベッドへ横になり、目を閉じた。
二時間後に目を覚ますと、居間のソファで由美が澪を抱いていた。
澪は眠っている。
「泣いた?」
空が小声で尋ねる。
「少し。抱いて歩いたら寝たわ」
「由美さん、疲れた?」
「少し。でも、嬉しい」
「ありがとう」
「こちらこそ、頼ってくれてありがとう」
空は由美の隣へ座った。
「私、昨日、航平に任せられなかった」
「どうして?」
「何かあったら怖かった。私が全部やらなきゃって思った」
「航平くん、怒った?」
「怒った。俺も父親だって」
「そのとおりね」
「うん」
空は眠っている澪の頬を見た。
「この子が大きくなったら、私に似てるって言われるのかな」
「もう少し似てる気がする」
「由美さん、毎回言うね」
「眉がそっくり」
「まだ分からないよ」
「空は、似ていると言われるのが嫌?」
「分からない。誰かと血がつながってるって、こういうことなんだと思う」
「嬉しい?」
「少し。不思議」
空は指先で、澪の小さな手に触れた。
「でも、血がつながってたら、何もしなくても親子になれるわけじゃないんだね」
「そう思う?」
「昨日、全然泣き止ませられなくて、澪が何を嫌がってるか分からなかった。私が母親なのに」
「生まれて一か月でしょう。分からないことばかりで当然よ」
「由美さんも、私のこと分からなかった?」
「今も全部は分からない」
「今も?」
「空だって、私のことを全部は分からないでしょう?」
「うん」
「分からないから聞くの。聞けないときは見る。間違えたら、また聞く」
由美は澪を空へ渡した。
「血がつながっていても、いなくても、それは同じだと思う」
空は澪を抱いた。
眠ったままの澪が、口元を少し動かす。
「澪は、二人と血がつながってない」
「そうね」
「でも、孫だよね」
「孫よ」
由美は迷わず答えた。
「私たちの、大切な孫」
三か月後、空と航平は澪を連れて朝倉家へ向かった。
退院後、由美と賢司が空たちの家を訪れることはあったが、澪を連れて朝倉家へ行くのは初めてだった。
荷物は、空と航平の一泊旅行より多くなった。
おむつ、着替え、哺乳瓶、ガーゼ、タオル。由美が赤い糸で縫ったガーゼも入っている。
「近所へ行くだけなのに」
航平が鞄を持ち上げる。
「何があるか分からないから」
「朝倉家にも、おむつを置いたんじゃなかった?」
「由美さんが買ったものが合うか分からない」
「事前に種類を伝えたんだろ」
「大きさが変わってるかもしれない」
「伝えたのは三日前だよ」
「赤ちゃんは変わるの」
「空、賢司さんに似てきたって言われない?」
「言わないで」
航平が澪を抱き、空が大きな鞄を持った。
朝倉家の前へ着く。
空は今も家の鍵を持っていたが、今日は呼び鈴を押した。
すぐに由美の声が聞こえる。
「はい」
「私」
扉が開いた。
由美の後ろに、賢司もいる。
「いらっしゃい」
由美が言い、すぐに首を振った。
「違うわね」
空は笑った。
「ただいま」
「おかえり」
由美と賢司の声が重なった。
航平が澪を少し持ち上げる。
「澪も来ました」
「おかえり、澪ちゃん」
由美が両手を伸ばしかけ、途中で止めた。
「抱いていい?」
「まず中に入れて」
「ごめんなさい」
玄関には、小さな靴を置く場所が用意されていた。
澪はまだ靴を履かないのに、由美は低い棚の端を空けている。
「ここ、何?」
空が尋ねる。
「そのうち澪ちゃんの靴を置くでしょう?」
「歩くのは、まだ先だよ」
「すぐよ」
「先回りしすぎ」
「場所を空けただけ」
「洗面所の歯ブラシと同じことしてる」
「何も買ってないからいいでしょう」
居間には、青い線のマグカップが出してあった。
その隣には赤、深緑、茶色。
「全部出したの?」
空が聞く。
「五人で集まる日だから」
「澪はまだ使えないよ」
「分かってるわ」
由美は澪のための場所を食卓の近くへ作っていた。床には柔らかな敷物があり、その上に、航平の両親から贈られた小さな玩具が置かれている。
「澪のカップは?」
航平が尋ねる。
「まだ買ってないわ」
由美が答える。
「色だけでも決めておけば?」
空が言う。
「さっき先回りしすぎって言っただろ」
「買うのは先でいい。考えるだけ」
「何色がいいかしら」
「澪が自分で選べるようになってからでいい」
賢司が言った。
三人が同時に賢司を見る。
「何だ」
「賢司さんが、一番待てる答えを言った」
空が笑う。
「俺も成長した」
「自分で言うんだ」
由美が澪を抱いた。
澪は最初、見慣れない部屋に目を動かしていたが、由美の腕の中で落ち着いた。
賢司は隣へ座り、澪の顔を覗き込む。
「前より重くなったな」
「毎日、少しずつ大きくなってる」
「首も安定してきた」
「でも、まだ支えて」
「分かってる」
澪が声を出した。
言葉にはならない、小さな音だった。
「今、何て言った?」
由美が尋ねる。
「分からない」
「おばあちゃんって」
「言ってないよ」
「まだ早いです」
航平も笑う。
「でも、最初に言うかもしれないでしょう」
「最初は、もっと短い言葉だと思う」
「ゆ、なら言えるかしら」
「由美さんの、ゆ?」
「そう」
「賢司さんは?」
「け、は難しいな」
賢司が真剣に考える。
「二人とも、自分の名前を最初に言わせようとしないで」
「空だって、お母さんと呼ばれたいだろ」
「それは、呼ばれたら嬉しいけど」
「全員同じね」
由美が笑った。
昼食は、由美の鶏肉のトマト煮だった。
澪が泣くたび、食事は中断した。
空が抱き、航平がおむつを替え、由美がガーゼを取り、賢司が食事へ蓋をした。
「二人とも、先に食べてていいよ」
空が言っても、由美は立ち上がった。
「何かすることは?」
「今はない」
「本当に?」
「抱いていれば落ち着くと思う」
「では、空の皿を下げておく」
賢司が冷めないように台所へ運ぶ。
最初から上手く役割が分かれたわけではなかった。
由美が同じガーゼを二枚出し、賢司が必要のないタオルまで持ってくる。航平がおむつをどこに置いたか忘れ、空が鞄の中を探す。
全員が少しずつ間違えた。
そのたびに言い直し、渡し直した。
午後、澪が眠ると、家の中も急に静かになった。
由美はソファで澪を抱いたまま、動かなかった。
「布団に置けば?」
空が小声で言う。
「起きるかもしれない」
「腕、疲れるよ」
「もう少し」
「ずっと抱いていたいだけでしょ」
「分かる?」
「顔で」
賢司は向かいの椅子へ座り、澪から目を離さない。
「賢司さんも抱きたい?」
「起きてからでいい」
「我慢してる顔」
「空、顔を読みすぎだ」
「分かりやすいから」
空は立ち上がり、以前使っていた部屋へ向かった。
扉を開ける。
部屋は半分、由美と賢司の仕事部屋になっていた。壁際に机が二つ並び、本棚には二人の資料が入っている。
それでも窓の近くには、折り畳み式のベッドが置かれていた。
「泊まる場所、残してる」
後ろから来た航平が言う。
「仕事部屋にしていいって言ったのに」
「泊まれる仕事部屋なんだろ」
机の端には、高校時代に描いた銀色の鍵の絵が立、高てかけてあった。
「これ、私が持っていったと思ってた」
「置いていったみたいだな」
「忘れてた」
「取りに来られるからって言ったんじゃない?」
「そうだった」
空は絵を手に取った。
銀色の鍵。背景には、描きかけの玄関と、窓から入る細い光がある。
高校生の自分は、鍵の先に何があるのか、まだ知らなかった。
扉を開けたら、いつまでそこにいてよいのかも分からなかった。
今の空は、二つの家の鍵を持っている。
そのどちらにも、帰ると言える。
「持って帰る?」
航平が尋ねる。
「ここに置いておく」
「いいの?」
「この家の鍵を描いたものだから」
空は絵を元の場所へ戻した。
机の上には、由美の裁縫箱もあった。
蓋が少し開いており、中に赤い糸が見える。隣には青い糸、その下に茶色の糸も入っていた。
「増えてる」
空が笑う。
「何が?」
「糸」
そのとき、居間から澪の泣き声が聞こえた。
空と航平は同時に振り返る。
「起きた」
「行こう」
二人で居間へ戻ると、由美が澪を揺らしていた。
「ごめん。起きちゃった」
「謝らなくていいよ」
空は澪を受け取った。
「お腹かな」
「前に飲んでから、二時間くらい」
航平が時計を見る。
「じゃあ、飲ませる」
「何か手伝う?」
由美が尋ねる。
「ガーゼを取って」
「赤い糸の?」
「うん」
由美が鞄からガーゼを出した。
縁を縫った赤い糸は、何度も洗われ、少し柔らかくなっている。
空はそれを肩へ載せ、澪を抱き直した。
「賢司さん」
「何だ」
「澪が飲み終わったら、抱いていて」
「いいのか」
「うん。私が食事をする間」
「分かった」
「首は支えてね」
「分かってる」
「力を入れすぎない」
「前にも言われた」
「覚えてるなら大丈夫」
澪が泣きながら、空の服を握った。
小さな指。
空と血のつながった手。
由美も賢司も、その手と血はつながっていない。
それでも澪は、二人の孫だった。
由美の腕で眠り、賢司の指を握る。
いつか歩けるようになれば、玄関に自分の靴を置くだろう。言葉を覚えれば、二人を自分の選んだ呼び方で呼ぶ。
そこに血の流れはなかった。
代わりに、空が二人へ渡した時間があった。
二人が空を待った時間。
間違えたあとに謝り、言葉を選び直した時間。
一緒に食事を作り、帰宅を知らせ、何度も扉を開けた時間。
赤い糸で繕った鞄。
青い糸で縫った筆箱。
茶色い線を加えた婚礼の地図。
澪の口元を拭く、赤い糸のガーゼ。
どの糸にも、血は通っていない。
それでも、触れれば誰かの手のぬくもりが残っている。
切れそうになれば、誰かが結び直す。縫い目が曲がれば、次の針で向きを変える。一人では届かない場所を、別の手が引き受ける。
「空?」
由美に呼ばれ、空は顔を上げた。
「どうしたの?」
「何でもない」
「何でもない顔じゃない」
「少し、嬉しいだけ」
「それなら言って」
「うん」
空は澪を抱いたまま、三人を見た。
「帰ってきてよかった」
由美が笑う。
「いつでも帰ってきて」
賢司も頷いた。
「でも、来る前には連絡を」
「まだ言うの?」
「予定が分かれば、食事を用意できる」
「それなら連絡する」
「次は餃子にしよう」
航平が言う。
「自分が上手くなったことを見せたいだけでしょ」
「今度は俺が全部包む」
「それだと、四人で作れないよ」
「澪にも、いつか教える」
「まだ食べることもできないのに」
「そのうち」
「先回りしすぎ」
「由美さんに似てきたんじゃない?」
由美が笑い、賢司も笑った。
澪の泣き声が少しずつ弱くなる。
空は赤い糸のガーゼで、澪の口元を拭いた。
窓の外には、かつて毎日見ていた街が広がっている。
三人で暮らした家に、今は五人がいる。
空はもう、この家の子どもであるだけではない。航平の妻であり、澪の母親だった。それでも、賢司と由美の前では、娘でいることができる。
役割は一つずつ入れ替わるのではなく、重なって増えていく。
そのすべてを結ぶ糸は、目には見えない。
血は通わない。
けれど、冷たくはなかった。
「澪」
空が呼ぶと、赤ん坊が目を開けた。
その目が誰に似ているのか、まだ分からない。
分からなくてもよかった。
これから澪が何を好きになり、どこへ行き、誰を選ぶのかも分からない。
空は、それを先に決めようとは思わなかった。
ただ、この子が自分の道を選ぶまで、そばにいる。
離れて歩き始めたら、帰ってきたときに扉を開ける。
自分が二人にしてもらったように。
「ただいま」
空はもう一度、小さく言った。
「おかえり」
賢司と由美の声が重なる。
航平も笑い、澪がその声に応えるように指を動かした。
血の通わぬ糸は、五人の間をほどけることなく結んでいた。
『血の通わぬ糸』を最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
この物語は、「家族は血のつながりだけで決まるものではない」という、ごく単純な問いから始まりました。旅先で道に迷い、偶然出会った少女との会話。そこから、由美と賢司という夫婦が、子どもを迎えるとはどういうことかを一つずつ学び直していく姿を書きたいと思いました。
書きながら気づいたのは、変わっていくのは空だけではなく、由美と賢司も同じだけ問われ続けていたということです。制度の壁にぶつかり、自分たちの動機を疑い、何度も言葉を選び直す。里親という関係は、迎える側にも迎えられる側にも、答えのない宿題を渡し続けるのだと感じながら書いていました。
赤い糸、青い糸、茶色い糸。血は通わなくても、結び目はちゃんと残ります。そのことが、読んでくださった方に少しでも伝わっていたら嬉しいです。
長い物語にお付き合いいただき、本当にありがとうございました。またどこかで、別の物語でお会いできますように。




