第八章 最初の面会
面会の話を聞いたのは、夕食の片づけが終わったあとだった。
「空、少し時間ある?」
廊下ですれ違った長谷川恵に声をかけられ、空は抱えていた洗濯物の籠を持ち直した。浴室から運んできたタオルは、まだわずかに温かい。
「これ、先に畳んでからでもいいですか」
「急がなくていいよ。終わったら職員室に来て」
恵はそれだけ言って、理由を説明しなかった。
叱られるようなことをした覚えはない。門限にも遅れていないし、海辺食堂の勤務時間も届けてある。学校から何か連絡があったのかもしれないと考えながら、空は談話室の長机でタオルを畳んだ。
端を揃え、二つに折り、もう一度折る。大きさの違うものを分け、棚ごとに重ねていく。
テレビでは、芽衣と花音が音楽番組を見ていた。莉子はソファの端に寝転がり、英単語帳を顔の前に掲げている。覚える気があるのか眠る気なのか、空には判断できなかった。
「空ちゃん、これって誰の歌?」
芽衣が画面を指した。
「知らない」
「高校生なのに?」
「高校生が全部の歌を知ってると思わないで」
「じゃあ、莉子ちゃんは?」
「私に聞かないで。今、勉強中」
英単語帳の陰から、くぐもった声が返ってくる。
いつもと変わらない夜だった。職員室へ呼ばれていることも、タオルを畳み終えるころには忘れかけていた。
最後の一枚を棚へ運び、空は職員室の扉を二度叩いた。
「どうぞ」
中にいたのは恵だけだった。ほかの職員は入浴介助や低学年の就寝準備に出ているらしい。机の上には一枚の紙と、空が進路面談で何度も見た青いファイルが置かれていた。
「座って」
空は来客用の椅子に腰を下ろした。
恵はすぐには話し出さなかった。言葉を選んでいるときの顔だった。その慎重さが、かえって空を身構えさせた。
「この前、潮路で会ったご夫婦のこと、覚えてる?」
空は返事をするまでに少し時間がかかった。
思い浮かんだのは、窓際の席に並んで座っていた二人だった。昼間、道を尋ねてきた夫婦。海辺食堂にも来て、夜には潮路で顔を合わせた。
由美と賢司。
名前まで覚えていたことを悟られたくなくて、空は曖昧にうなずいた。
「道を聞いてきた人たちですよね」
「そう。その二人から、正式な窓口を通して連絡があったの」
「連絡?」
「空と、もう一度話す機会を持てないかって」
蛍光灯の音が急に大きくなった気がした。
「どうしてですか」
「それを説明するために、一度会いたいそうよ」
「そうじゃなくて、どうして私に連絡してきたんですか」
「そこも含めて、本人たちの言葉で話したいって」
恵は机上の紙を空へ差し出さなかった。紙の内容を勝手に読ませる前に、まず口頭で伝えようとしているらしかった。
「私の住所、教えたんですか」
「教えてない。学校も、働いている場所も、詳しい事情も伝えてないよ」
「じゃあ、どうやって」
「二人が県の相談窓口に問い合わせたの。そこで説明や研修を受けて、それから担当者を通して連絡が来た。空に会った場所と、空の名字、それから若葉ホームという名前を知っていたから、こちらに確認が入ったの」
潮路で大沢が口にした言葉を、空は思い出した。
――若葉の子なのに、本当によく働くな。
大沢に悪気がなかったことは分かっている。褒めたつもりだったのだろう。それでも、施設の名前が自分より先に歩き出す感覚は好きではなかった。
「私のこと、調べたってことですか」
「個人的に調べた形跡はないって聞いてる。少なくとも、学校や食堂に問い合わせたことはないそうよ。私たちも確認した」
「形跡はないって、絶対じゃないんですね」
「絶対と言い切るには、本人たちにも聞く必要がある。ただ、制度の外で接触しないことは守っているし、こちらから渡した情報は何もない」
空は紙を見つめた。
用紙の上部に、面会希望について、と印字されている。離れた位置から読めたのはそこまでだった。
「会わないって言ってもいいですか」
「もちろん」
恵は即答した。
「断っても、空に不利なことは何もない。理由も説明しなくていい。今は会わない、という返事でもいいし、考える時間が欲しいと言ってもいい」
「会ったら、何か決めなきゃいけないんですか」
「何も決めなくていい。一回話して、それで終わりにしてもいい。途中で帰りたくなったら、私に言ってくれれば終わりにする」
「長谷川さんも一緒ですか」
「空が望むなら、最初から最後まで同席するよ。二人きりにはしない」
空は両手を膝の間に挟んだ。
指先が冷えていた。怖いわけではない、と自分に言い聞かせた。相手は一度言葉を交わしただけの夫婦だ。嫌なら断ればいい。恵もそう言っている。
それなのに胸の奥では、警戒とは少し違うものが動いていた。
あの夜、賢司は東京で働くという空の話を、笑わずに聞いた。由美は「立派だね」とも「かわいそう」とも言わなかった。ただ、どうして東京なのかと尋ねた。
答えたあと、空は自分が思っていた以上に多くを話したことに気づいた。
「いつまでに返事すればいいですか」
「一週間くらいを目安にしてほしい。でも、もっと必要なら延ばせるよ」
「二人は、私が断るかもしれないって知ってますか」
「知ってる。その可能性も含めて、空に決めてもらいたいと言ってる」
「そうですか」
空は立ち上がりかけ、もう一度座り直した。
「子どもがいない人たちなんですか」
恵の表情がわずかに動いた。
「そのことは、私から話していい内容か分からない。気になるなら、会ったときに空から聞いていいと思う」
「聞いていいんですか、そういうこと」
「相手が答えたくなければ答えないだろうし、空も聞かれたくないことには答えなくていい。同じことだよ」
同じこと、という言葉がすぐには腑に落ちなかった。
大人は子どもに質問する。子どもは答える。それが普通だと、空は長いあいだ思っていた。生い立ちも、親のことも、これから何をしたいかも、何に困っているかも、何度も説明させられる。説明を受ける側と、説明する側は、最初から決まっている。
けれど恵は、相手にも答えない自由があり、空にもあると言った。
「考えます」
「うん」
「今日はもう戻っていいですか」
「もちろん。空」
扉へ向かった空は振り返った。
「誰かに喜ばせるための返事はしなくていいからね。私にも、相手の二人にも」
「分かってます」
そう答えたものの、自分の返事で誰が喜び、誰が困るのかを、空はもう考え始めていた。
*
その夜、莉子が眠ったあとも、空はなかなか目を閉じられなかった。
二段ベッドの下段からは、カーテンの隙間を通して窓が見えた。海に近い町の夜空は、晴れていても薄く霞んでいる。街灯の明かりが窓ガラスに映り、自分の部屋なのに外から覗いているように見えることがあった。
上段で莉子が寝返りを打った。
「起きてる?」
空は答えなかった。
「起きてるでしょ」
「寝ようとしてる」
「じゃあ起きてるじゃん」
布団から莉子の顔が逆さに現れた。髪が垂れ、薄闇の中で黒い刷毛のように揺れている。
「職員室で何言われたの?」
「大したことじゃない」
「大したことじゃない人は、そんなに天井見ないよ」
「見てないでしょ、上にいるんだから」
「気配で分かる」
「うるさい」
莉子の顔が引っ込んだ。
これで寝るかと思ったが、しばらくして声だけが落ちてきた。
「言いたくないなら、いいけど」
「前に話した、旅行で来てた夫婦、覚えてる?」
「道を聞かれたっていう?」
「もう一回会いたいって連絡が来た」
上段の布団が大きく動いた。
「何それ。空ちゃん、ナンパされたの?」
「夫婦に?」
「夫婦でやる人もいるかもしれない」
「そういうのじゃない。ちゃんと相談するところを通して、長谷川さんのところに連絡が来たの」
「養子とか?」
「知らない」
「里親?」
「知らないってば」
口に出された言葉が、暗い室内に残った。
養子。里親。
空はどちらについても、まったく知らないわけではなかった。若葉ホームにも、週末だけ家庭で過ごす子がいた。里親家庭へ移った子もいる。小さい子が多かったが、高校生になってから交流を始める場合もあると聞いたことはある。
ただ、それが自分と結びついたことはなかった。
「会うの?」
「まだ決めてない」
「会ってみればいいじゃん」
「簡単に言わないでよ」
「だって、断るのは会ってからでもできるんでしょ」
空は黙った。
同じことを自分でも考えていた。だからこそ腹が立った。
「もし嫌な人だったら?」
「長谷川さんも一緒なんでしょ」
「一緒だけど」
「じゃあ、空ちゃんが怒る前に止めてくれるよ。空ちゃん、怒ると声が低くなるから怖いもん」
「怒ってない」
「今、低かった」
莉子は小さく笑った。
「でも、変だね」
「何が」
「その人たち。空ちゃんに一回会っただけなのに」
空は枕元に置いた布のペンケースに触れた。中学の家庭科で縫ったもので、角がほつれたところを青い糸で直してある。暗闇でも、指先で縫い目の位置が分かった。
「だから嫌なんだよ」
「嫌なら断れば?」
「断るって決めたわけじゃない」
「じゃあ、気になってるんじゃん」
返す言葉がなく、空は布団を頭まで引き上げた。
「もう寝る」
「おやすみ」
莉子はあっさり会話を終えた。
空は布団の中で目を開けていた。
会わなければ、何も起こらない。これまでの暮らしが続く。高校へ行き、週末は食堂で働き、卒業後の就職先を探す。知らない人の期待も、善意も、失望も背負わずに済む。
それでも、なぜ自分だったのかは分からないままだ。
空は昔から、分からないままにされることが嫌いだった。
母親がいつ迎えに来るのか。次の電話はいつか。どうして約束の日に来なかったのか。いつまで施設にいるのか。大人たちは、分からないことを「今はまだ」と包み、答えのないまま棚に置いた。
空が何度尋ねても、答えのないものは答えのないままだった。
だが今度は、尋ねれば答える人がいる。
答えが気に入らなければ、その場で終わりにすればいい。
翌朝、空は恵に会うと、挨拶より先に言った。
「一回だけなら会います」
恵は驚いた顔も、嬉しそうな顔もしなかった。
「分かった。空の希望する条件を確認しようか」
「長谷川さんはいてください」
「うん」
「ここには来てほしくないです。小さい子たちもいるから」
「別の場所を用意してもらう」
「電話番号は教えません」
「もちろん」
「学校とバイト先も」
「伝えない」
「一時間くらいで終わりにしたいです」
「先方に伝えるよ。当日、もっと早く終わらせてもいい」
空は少し考えた。
「あと、何か持ってきても受け取りません」
「それも伝える」
恵は一つずつメモを取った。その手元を見ながら、空はようやく、自分が会うと決めたのだと実感した。
*
面会は、二週間後の日曜日に決まった。
会場は若葉ホームから車で二十分ほど離れた、県の子ども家庭支援センターだった。平日は相談や研修に使われている建物で、日曜日には一部の部屋だけが開いている。
当日の朝、空は制服を着るか迷った。
学校の面接ではない。けれど普段着では、何を選べばいいのか分からなかった。鏡の前で白いシャツと紺色のカーディガンを合わせ、地味すぎる気がして脱ぎ、今度は薄い水色のブラウスを着た。結局、その上から紺色のカーディガンを羽織った。
おしゃれをしたと思われるのも嫌だったし、どうでもいいと思っているように見られるのも嫌だった。
「デートみたい」
洗面所の扉にもたれた莉子が言った。
「違う」
「知ってる。髪、後ろ跳ねてるよ」
空は鏡を覗き込んだ。右の襟足が、確かに少し跳ねている。
「水つければ」
「濡らすと余計変になる」
「じゃあ結べば?」
「結ぶほど長くない」
莉子は背後に回り、空の髪を指で整えた。
「これでいいんじゃない」
「何も変わってない」
「気持ちの問題」
「役に立たないね」
「人にやってもらったっていう事実が大事なんだよ」
空は鏡越しに莉子を見た。莉子はすでに興味を失ったように欠伸をしている。
「行ってくる」
「うん。お土産はいらないから」
「もらわないって言ってある」
「じゃあ、面白い話があったら聞かせて」
「期待しないで」
玄関では恵が車の鍵を持って待っていた。
車内で、恵は面会の流れをもう一度説明した。最初に担当者が条件を確認し、そのあと二人が入室する。空の許可なく写真を撮ったり、連絡先を交換したりはしない。二人から何か提案があっても、その場で返事をする必要はない。
「途中で止めたいときは、どうする?」
「長谷川さんに言う」
「言いにくかったら、机の上のハンカチを触って。それを合図にしてもいい」
「そんなに危ない人たちなんですか」
「危ないと決まっているからじゃないよ。大丈夫そうに見える人と会うときにも、逃げ道はあったほうがいいから」
空は窓の外へ目を向けた。
道路の左側に海が見えた。風は弱く、水面は銀色の板のようだった。夏の名残を含んだ光が眩しく、遠くの船が黒い点になっている。
夫婦と初めて会った日も、海はよく晴れていた。
あの日、空が道を教えなければ、二人は自分を知らなかった。二人が道を間違えなければ、海辺食堂に来ることもなかったかもしれない。
偶然というものは、起きたあとで振り返ると、誰かが意図して並べたように見える。
けれど空は、偶然に意味を持たせるのが嫌いだった。意味を持たせれば、その先まで従わなければならない気がする。
「長谷川さん」
「何?」
「私、会うって決めたけど、嬉しいわけじゃないですから」
「うん」
「嫌って決めたわけでもないです」
「うん」
「どっちか分からないだけです」
「分からないまま会っていいんだよ」
その返事を聞き、空は少しだけ肩の力を抜いた。
支援センターは、低い灰色の建物だった。入口の脇には象と兎の描かれた看板があり、植え込みには色褪せた風車が立っている。
面会室には、四角い机と六脚の椅子があった。壁際に小さな流し台があり、棚には絵本や積み木が並んでいる。乳幼児を連れた家族が使うこともあるらしく、床の一部には柔らかいマットが敷かれていた。
机にはペットボトルの水が人数分置かれていた。
恵は空の隣に座り、約束どおり白いハンカチを机の端に置いた。
「二人はもう着いてるって。入ってもらっていい?」
センターの担当者に尋ねられ、空はうなずいた。
扉が開いた。
先に入ってきたのは由美だった。薄いベージュのジャケットに黒いパンツを合わせ、肩に掛けた鞄を両手で抱えるように持っている。後ろから賢司が続いた。襟のついた青いシャツを着ていて、旅行中に見たときよりも固い表情をしていた。
二人とも手ぶらだった。
それを確認し、空は自分でも気づかないほど小さく息を吐いた。
「こんにちは」
由美が頭を下げた。
「今日は会ってくれて、ありがとうございます」
「こんにちは」
空は椅子から立ち上がらずに答えた。立つべきだったかと思ったが、恵も座ったままだったので、そのままにした。
二人が向かいに腰を下ろす。
机は広くも狭くもなかった。手を伸ばしても届かないが、表情を見ないふりはできない距離だった。
センターの担当者が、今日の約束を読み上げた。
面会は一時間以内。空が希望すればいつでも終了する。個人的な連絡先は交換しない。今後の連絡はすべて支援センターと若葉ホームを通す。今日の場で、空に決断を求めない。
賢司と由美は、一つずつ確認するようにうなずいた。
担当者が退室すると、部屋は急に静かになった。
由美が口を開きかけたとき、空は先に尋ねた。
「どうして私なんですか」
由美の唇が閉じた。
隣の賢司と顔を見合わせる。答えを譲り合っているようにも、確認しているようにも見えた。
「空さんに初めて会ったあと、なぜかずっと気になっていました」
由美が言った。
「なぜかって、理由になってないと思います」
「そうだね」
由美は否定しなかった。
「道を教えてもらったとき、きちんとした子だと思いました。食堂で働く姿を見たときも。でも、それだけなら、旅先で会った感じのいい人として記憶に残るだけだったと思う。夜にもう一度会って、東京で働きたいと聞いてから、帰ったあとも何度も思い出しました」
「東京で働きたい子なら、ほかにもいます」
「いると思う」
「施設にいる子も、私だけじゃありません」
「うん」
「じゃあ、やっぱりどうして私なんですか」
由美はすぐに答えなかった。
賢司が両手を机の上で組んだ。
「はっきりした理由を作って説明したら、嘘になると思う」
空は賢司を見た。
「私たちは、空さんのことをほとんど知らない。知っているのは、道を丁寧に教えてくれたことと、二つの店で働いていたこと、東京へ行きたいと話していたことくらいです。それなのに気になった。だから、その気持ちだけで何かをしてはいけないと思って、まず制度について学びました」
「私が施設にいるって聞いたからですか」
「それは大きかったです」
賢司は答えた。
「もし、ご家族と暮らしている高校生だと思っていたら、連絡する方法を探そうとはしなかったと思う」
「かわいそうだと思ったんですか」
「心配はしました」
「同じじゃないですか」
「同じ部分もあると思います。でも、空さんの暮らしを見てもいないのに、不幸だと決めつけるのは違うと教わりました」
「教わるまで分からなかったんですか」
言葉が尖った。
恵は止めなかった。由美も賢司も、困った顔はしたが、目を逸らさなかった。
「分かっていなかったと思う」
由美が言った。
「私は最初、空さんが施設で暮らしていると聞いて、勝手にいろいろ想像しました。寂しいんじゃないかとか、困っているんじゃないかとか。でも私は、若葉ホームがどんな場所かも、空さんが誰とどう暮らしているかも知らない。その想像で近づくのは、空さんを見ていることにならないと分かりました」
「今は分かってるんですか」
「分かっていないことが分かっただけ」
由美の声は静かだった。
空は机上の水に触れた。冷たさはもうなく、室温に馴染んでいる。
「二人には、子どもがいないんですか」
由美の表情が少し強張った。
「いません」
「だから私なんですか」
「そのことは、関係がないとは言えません」
由美の答えに、空は眉を寄せた。
もっときれいな言葉が返ってくると思っていた。関係ない、あなたはあなただ、と言われたら、嘘だと責めるつもりだった。
「私たちは長いあいだ、子どもを持つことを望んでいました。でも、持てなかった。治療をやめてからも、そのことをきちんと話さずに暮らしてきました」
由美は鞄の持ち手を握り直した。
「空さんに会ったあと、昔の気持ちが動いたのは事実です。だから最初は、自分でも疑いました。空さんを、いなかった子どもの代わりにしようとしているんじゃないかって」
「違うんですか」
「違うと言い切るだけでは足りないと思っています。自分では違うつもりでも、そういう期待を空さんに背負わせるかもしれない。だから研修を受けて、何度も二人で話しました」
「それで、もう大丈夫になったんですか」
「完全に大丈夫だとは言えない。だから、周りの人に確認してもらう必要があると思っています。私たちだけで判断しないように」
空は由美の顔を見た。
由美は泣きそうには見えなかった。悲しい話をして同情を得ようとしているようにも見えない。けれど声の底に、触れればまだ痛むものがあることは分かった。
「私は、二人の子どもにはなりません」
「うん」
由美はすぐにうなずいた。
「私のことを、お母さんと呼んでほしいとは思っていない。家族だと思ってほしいとも、今は言えない。私がそうなりたいと思うだけでは、空さんにとっての家族にはなれないから」
「今は、ってことは、いつかは思ってほしいんですか」
「そうなれたら嬉しいと感じる可能性はある。でも、空さんが望まないなら、それを求めてはいけないと思ってる」
由美は慎重に言葉を区切った。
「ただ、そんな先のことを、今日決めるつもりはないです」
空は視線を賢司に移した。
「あなたも同じですか」
「同じだと思っていました。ただ、研修で聞かれて、由美とは少し違うことにも気づきました」
「何が違うんですか」
「僕は、問題を見つけると解決方法を考える癖があります。仕事でもそうです。東京で暮らすにはいくらかかるか、進学するならどんな制度があるか、就職なら何を調べるべきか。空さんに頼まれてもいないのに、頭の中で計画を立てました」
空の肩に力が入った。
「私のことを調べたんですか」
「調べていません」
「本当に?」
「学校にも、食堂にも、若葉ホームにも、直接連絡していません。名前を検索したこともありません。施設の名前から、空さんの情報を探したこともないです」
「名字は知ってたんですよね」
「潮路で聞きました。でも、それ以上は調べなかった。連絡を取るなら、公的な窓口を通すべきだと言われました。実際、その通りにしました」
「私の将来については調べたんですよね」
「一般的な制度や費用は調べました。でも、空さん個人の成績や家庭の事情は知りません。知ろうともしていません」
「それで勝手に計画したんですか」
「しました。頭の中で」
賢司は認めた。
「それがよくなかったと分かりました。計画を立てる前に、空さんが何を望んでいるか聞かなければならない。そもそも、僕が関わることを望んでいるのかも知らないままでした」
「今、聞こうとしてるんですか」
「今日は、僕たちが関わっていいかを決めてもらう日でもないと思っています。空さんが僕たちを知って、もう一度会ってもいいか、それとも会いたくないかを考えるための時間です」
「じゃあ、何をしてほしいんですか」
賢司と由美は、また顔を見合わせた。
今度は由美ではなく、賢司が答えた。
「何かをしてほしくて来たわけではありません」
「そんなことありますか」
「会ってもらえたら嬉しいとは思っていました。実際、来てもらって嬉しいです。でも、お礼を言ってほしいとか、信用してほしいとか、そういう返事を求めるつもりはありません」
「じゃあ、二人は何をしたいんですか」
「話したいです」
由美が言った。
「空さんが嫌でなければ、もう少し知りたい。私たちのことも知ってもらって、それでも関わりたくないと思ったら、そう言ってほしい」
「断られたら傷つきませんか」
「傷つくと思う」
由美は小さく息を吸った。
「でも、傷つくから受け入れてほしいと言うのは違う。私の気持ちは私が引き受けることだから」
空は返事をしなかった。
胸のどこかに用意していた反論が、行き先を失った。
大人は、自分が傷ついたとき、その理由を子どもへ渡すことがある。
あなたが来なかったから。あなたが言うことを聞かなかったから。あなたのためにしたのに。
空はそういう言葉を知っていた。
由美が本当に自分で引き受けられるのかは、まだ分からない。今はそう言っているだけかもしれない。それでも、少なくとも由美は、空に責任を負わせない言い方をした。
「私、大学に行くつもりはありません」
空は二人の反応を見た。
「高校を出たら働きます。東京に行けるかは分からないけど、就職先を探すつもりです」
「うん」
由美が答えた。
「大学に行ったほうがいいって言わないんですか」
「空さんが行きたいのに、お金や暮らしのことで諦めているなら、利用できる制度を一緒に調べることはできるかもしれない。でも、行きたくない人に行くべきだとは言わない」
「東京に来いとも言わない?」
「言わない」
「家に来いって言うために、今日来たんじゃないんですか」
「違うよ」
由美の声が初めて少し揺れた。
「少なくとも、今日そんな話をするつもりはない。空さんに住む場所を変えてほしいなんて、私たちだけで決められることじゃないし、出会ってすぐに言えることでもない」
「研修では、里親の話を聞いたんですよね」
「聞いた」
「だったら、そのつもりじゃないんですか」
由美は黙った。
賢司も口を挟まなかった。
空は、机の端に置かれた白いハンカチへ目をやった。手を伸ばせば、恵が面会を止めてくれる。
けれど、今はまだ止めたくなかった。
「正直に言うと」
由美がゆっくり話し始めた。
「最初に制度を調べたときは、そういう形で何かできないかと考えました。でも、制度は私たちの願いを叶えるためにあるんじゃないと教わりました。空さんの生活や気持ちを守るためにあるものだって」
「それで諦めたんですか」
「諦めた、とは少し違うかな。形を先に決めるのをやめたの。空さんが私たちと会いたくないなら、そこで終わり。会ってもいいと思ってくれるなら、まず話す。それ以上のことは、空さんと、長谷川さんたちと、担当の方に相談しながら考える。私たちだけで名前をつけないようにしたいと思っています」
「名前?」
「里親とか、家族とか、支援する側とか。そういう名前を先につけると、空さんにも、その役をさせることになる気がしたから」
空は水の蓋を開け、一口飲んだ。
喉が渇いていたことに、飲んでから気づいた。
「私は、かわいそうだと思われるのが嫌です」
「うん」
「施設にいるって言っただけで、急に優しくなる人も嫌いです。学校の先生も、事情を知ると、無理しなくていいって言います。無理しなかったら困るのは私なのに」
自分でも、なぜこんなことを話しているのか分からなかった。
「施設は家じゃないって言う人もいるけど、私にはずっと暮らしてきた場所です。嫌なこともあるけど、莉子も芽衣もいるし、職員の人もいる。何も知らない人に、早く出たほうがいいみたいに言われたくありません」
「言わない」
「約束できますか」
由美はすぐに答えず、考えてから言った。
「空さんの気持ちを聞かずに、出たほうがいいとは言わない。それは約束する。でも、空さんが困っているときに、何も聞かずに黙っていることまで約束したら、たぶん嘘になる。心配したら、困っていることはないか聞くと思う」
「心配してるって言えば、何を聞いてもいいんですか」
「よくない。聞かれたくないと言われたら、それ以上は聞かない」
「本当に?」
「守れなかったら、長谷川さんや担当の人に言ってください」
空は隣の恵を見た。
恵は口を挟まず、ただうなずいた。
「あと、途中でいなくなる人も嫌です」
空は言った。
口にしてから、胸の奥に硬いものが刺さった。
「最初だけ親切にして、忙しくなったとか、思ってたのと違ったとか言って、来なくなる人。そうなるなら、最初から来ないでほしいです」
由美の視線が下がった。
賢司の組んだ指に力が入った。
空は、二人が何を答えるか待った。絶対にいなくならない。何があっても見捨てない。そんな言葉が返ってくれば、信用しないと決めていた。
「いなくならないと、今ここで約束することはできません」
賢司が言った。
予想していなかった答えに、空は顔を上げた。
「どうしてですか」
「約束しても、事故や病気で守れなくなることはある。気持ちが変わらないと言い切ることも、今の僕にはできません。僕は空さんのことを、まだほとんど知らないから」
「じゃあ、来なくなるかもしれないんですね」
「可能性がないとは言えない。ただ、やめたくなったから黙って消えることはしない。関わると決めるなら、僕たちだけの気分で始めたり終わらせたりしない。支援センターや若葉ホームの人に相談して、空さんにきちんと説明する。それは約束できます」
「説明されたら、いなくなってもいいんですか」
「よくはないです」
賢司は眉間に皺を寄せた。
「でも、できない約束で空さんを安心させたくありません」
「安心させるのも下手ですね」
「そうだと思う」
空は思わず賢司の顔を見た。
賢司は冗談を言った様子ではなかった。真面目に、自分が下手だと認めている。
空の口元が動きそうになった。笑えば負けたような気がして、唇を結ぶ。
「二人は、喧嘩しますか」
今度は二人が同時に空を見た。
「します」
由美が答えた。
「今回のことでも?」
「何度か」
「どんなことで」
「私が、空さんのために何かしたいと急ぎすぎたこと。賢司が、調べて考えるばかりで、自分の気持ちを話さなかったこと。研修のあとには、もし誰かと関わることになったら、実際の世話や連絡を私ばかりがすることになるんじゃないかって、私が怒りました」
「実際、そうなりそうだったんですか」
「なりそうでした」
由美が即答すると、賢司が苦い顔でうなずいた。
「僕は仕事を理由にして、予定の調整や連絡は由美のほうが得意だと思っていました」
「今は違うんですか」
「得意かどうかと、任せていいかどうかは別だと分かりました。もし今後も会うなら、連絡や面談の予定は僕も同じように把握します。急な呼び出しがあった場合に、どちらが動けるかも話し合いました」
「呼び出すつもりはないです」
「もちろん、そういう意味では」
「分かってます」
空が遮ると、賢司は口を閉じた。
少しだけ、部屋の空気が緩んだ。
由美は水を一口飲み、空に尋ねた。
「私たちからも、質問していい?」
「内容によります」
「海辺食堂のこと。あそこで働き始めて、長いの?」
「中学三年の終わりからです」
「仕事は好き?」
「好きな日もあります。忙しい日は嫌です」
「浜田さんご夫婦とは?」
「質問、多くないですか」
「あ、ごめんなさい」
由美が本気で慌てたので、空は肩をすくめた。
「別にいいです。浜田さんたちはいい人です。失敗すると怒るけど、失敗してないときは怒りません」
「それは大事だね」
「普通だと思いますけど」
「普通のことができない大人もいるから」
由美の言葉に、空は少し驚いた。由美の周りには、きちんとした人ばかりがいるように見えていた。
「出版社で働いてるって言ってましたよね」
「覚えてたの?」
「聞いたことは、わりと覚えてます」
由美の顔が明るくなったが、すぐに表情を抑えた。
「販売促進の仕事をしています。本を作る編集とは少し違って、できあがった本を書店に置いてもらうための企画を考えたり、広告を作ったりする仕事」
「本を読むだけじゃ仕事にならないんですか」
「残念ながら」
「どんな本でも売るんですか」
「担当になれば。でも、自分がいいと思っていない本を紹介するのは難しい。著者や編集者が大切にしているところと、読者が知りたいところをつなぐ仕事だと思っています」
「売れなかったら?」
「理由を考える。時期が悪かったのか、宣伝の方法が合っていなかったのか、そもそも届けたい相手が違ったのか。考えても分からないままのことも多いけど」
「面白いですか」
「面白いよ。悔しいことも多いけど」
由美が仕事について話すときは、先ほどまでより言葉が速かった。指先も動き、机の上に見えない本を並べているようだった。
空は、東京の会社で働く人は、もっと曖昧な話し方をするものだと思っていた。忙しい、責任がある、やりがいがある。学校に来る講師は、よくそういう言葉を使った。
由美の話には、売れない本や、届かない広告が出てくる。うまくいかなかったことを隠さないので、かえって仕事の形が見えた。
「賢司さんは、何をしてるんですか」
「医療機器を扱う会社で、事業の計画を立てる仕事です」
「機械を作るんじゃなくて?」
「作る人たちが、何をどれだけ作るか。どの病院にどう届けるか。費用がいくら必要で、会社として続けられるか。そういうことを考えます」
「だから計画する癖があるんですね」
「そうかもしれない」
「人のことまで計画したら嫌われますよ」
「気をつけます」
賢司は素直に答えた。
「東京で働いて、楽しいですか」
「楽しいだけではないです。通勤は混むし、家賃は高い。朝早く出ても電車が止まれば遅れるし、会社がたくさんある分、自分の代わりもたくさんいるように感じることがある」
「じゃあ、どうして東京にいるんですか」
「僕は大学から東京に来たから、そのまま仕事を見つけて、暮らしができた。積極的に選び続けたというより、変えなかった結果です」
「そんなものなんですか」
「少なくとも僕は」
賢司は少し考え、空を見た。
「空さんは、どうして東京で働きたいんですか」
尋ねられると思っていた質問だった。
前に潮路で答えたときは、仕事が多いから、と言った。
「ここを出たいからです」
今日は、別の言葉が出た。
隣にいる恵の気配がわずかに変わったが、空の言葉を止めはしなかった。
「若葉ホームが嫌だからではなくて?」
「嫌なこともあります。でも、それだけじゃないです。ここにいると、ずっと水瀬空より先に、若葉ホームの子って見られるから。東京なら、私がどこから来たか知らない人のほうが多いと思う」
「そうだね」
「誰も知らないところで、自分だけでやってみたいんです」
「一人で暮らすのは、不安じゃない?」
由美の問いに、空は少し苛立った。
「不安だからやめろって言うんですか」
「違う。私も一人暮らしを始めたとき、不安だったから聞いただけ」
「由美さんも?」
「大学を出て就職したとき。東京ではなかったけれど、実家から離れました。最初の月に生活費を使いすぎて、給料日前は毎日うどんを食べてた」
「出版社で働く人でも、そうなるんですか」
「出版社で働く前だったから」
「関係ないでしょ」
空が言うと、由美が笑った。
その笑い方につられ、空も小さく笑った。
笑ってから、急に不安になった。これで相手を期待させたのではないか。親しくなりたいと思っているように見えたのではないか。
空は表情を戻し、ペットボトルの蓋を閉めた。
壁の時計を見ると、面会が始まってから四十分ほど経っていた。もっと長く話していたようにも、まだ十分しか経っていないようにも感じられた。
「もし、また会うとしたら」
空は時計を見たまま言った。
「二人は、何をするつもりですか」
「空さんが嫌でなければ、話をする」
由美が答えた。
「今日みたいに?」
「最初は。そのあとは、支援センターと若葉ホームに相談して決めることになると思う。外で食事をするにしても、空さんが望んで、許可が出てから」
「家に連れていくつもりは?」
「今すぐにはない」
「部屋を用意してるとか?」
由美と賢司が同時に息を止めた。
空はその反応を見逃さなかった。
「あるんですか」
「空さんのために用意した部屋はない」
賢司が言った。
「使っていない部屋はあります。でも、空さんが来ることを想定して家具を買ったり、何かを準備したりはしていません」
「子ども部屋だったんですか」
「そうしようと考えた時期はありました」
由美の声が低くなった。
「でも、実際に使われたことはない。今も物置に近い部屋です」
「そこに私を入れようと思ったんですか」
「考えたことはある」
空の胸の内に、冷たいものが広がった。
やっぱりそうなのだと思った。知らない夫婦の家にある、使われなかった子ども部屋。そこへ、施設で暮らす自分を置く。空が誰であるかより、空いている場所に入る者が必要だったのではないか。
「でも、その部屋を先に空さんの場所にするのは違うと話しました」
由美が続けた。
「今は何も変えていない。空さんに見せるつもりも、来てもらうつもりもない」
「私が行きたいって言ったら?」
「そのときは、長谷川さんたちと相談する。でも、行きたいと言われたからすぐに来てもらうこともしないと思う。私たちの家が安全か、空さんが無理をしていないか、確認してもらう必要があるから」
「自分の家なのに、自分たちで決められないんですか」
「空さんに関わることだから」
賢司が答えた。
「私たちの家に誰を招くかは決められます。でも、空さんをどんな立場で招くのか、そこで何を期待するのかは、僕たちだけで決めてはいけないと思っています」
空は白いハンカチから手を離した。
いつの間にか、端をつまんでいた。
恵が空の横顔を見た。
「少し休憩する?」
「大丈夫です」
「水、もう一本もらおうか」
「まだあります」
空は首を振った。
胸に広がった冷たさは消えていない。それでも、二人の答えを最後まで聞きたいと思った。
「私が会いたくないって言ったら、本当にもう来ませんか」
「直接会いに来ることはしない」
賢司が言った。
「食堂にも?」
「行かない。偶然近くを通っても、空さんの勤務先には行きません」
「潮路にも?」
「行きません」
「若葉ホームの前で待ったりも?」
「しない」
「手紙は?」
「支援センターに確認して、空さんが受け取りたくないなら送らない」
「何も残らないんですね」
口にしたあと、空は自分の言葉に戸惑った。
会いたくないと伝えれば、二人はいなくなる。それを望んでいたはずなのに、何も残らないという響きは、思ったより寂しかった。
由美は空の顔をじっと見たが、その隙間へ希望を差し込むようなことはしなかった。
「空さんが望まない形では、残さないようにする」
そう答えただけだった。
壁の時計の長針が、数字の十を越えた。
残り時間は十分もない。
最初に聞こうと決めていたことは、ほとんど聞いた。答えのすべてを信じたわけではない。むしろ、会う前より分からないことが増えた。
二人は空を助けると言わなかった。家へ来いとも、大学へ行けとも言わなかった。見捨てないと誓うことさえしなかった。
それなのに、適当なことを言われたとは感じなかった。
「私から連絡したくなった場合は、どうすればいいですか」
「若葉ホームか、支援センターの担当者に伝えてください」
由美の顔が明るくなりかけ、また慎重な表情へ戻った。
「私たちの連絡先を直接渡すことは、今日はしないほうがいいと言われています」
「言われたから守ってるんですか」
「言われたことが納得できたから」
「もし私が今、電話番号を教えてって言っても?」
「今日は渡さない」
「私が頼んでるのに?」
「うん。空さんが本当に連絡したいのか、この場の雰囲気で言っているのか、私たちには判断できないから。間にいる人を通したほうが、空さんも後から断りやすいと思う」
「面倒ですね」
「面倒だと思う」
由美が少し笑った。
「でも、急いで簡単にするより、そのほうがいいと思っています」
空は椅子の背にもたれた。
会う前は、二人から何かを求められると考えていた。お礼、信頼、笑顔、親しさ。あるいは、夫婦の家へ入ること。
実際には、二人は何も持ってこず、何も渡さず、何も決めさせなかった。
その代わり、空が質問するたびに、立ち止まって答えた。答えられないことは、答えられないと言った。
「時間です」
恵が時計を見て告げた。
由美と賢司が姿勢を正した。
「今日は本当に、ありがとうございました」
由美が頭を下げた。
「もう会いたくないと思ったら、そう伝えてください。理由はいりません」
「今日聞いたことを、二人で話すんですか」
「話します」
「私の悪口も?」
「悪口は言わない」
「面倒な子だったとは思ってるでしょ」
由美は首を横に振った。
「考えてきたことを、きちんと聞いてくれたと思ってる」
「それ、いい子だって言ってるのと同じじゃないですか」
「そう聞こえたなら、ごめんなさい」
「すぐ謝りますね」
「仕事でも言われる」
空はまた笑いそうになった。
賢司と由美は立ち上がった。空も今度は椅子から腰を上げた。
握手を求められるかと思ったが、二人は一定の距離を保ったまま頭を下げた。
「さようなら」
賢司が言った。
また会おう、とは言わなかった。
「さようなら」
空が答えると、二人は担当者とともに部屋を出た。
扉が閉まった。
部屋に残ったのは、空と恵だけになった。
空は椅子に座り直し、長く息を吐いた。背中に汗をかいている。カーディガンを脱ぐと、腕に冷たい空気が触れた。
「疲れた」
「お疲れさま」
「長谷川さん、ほとんど何も言わなかったですね」
「空が自分で聞けてたから」
「言いすぎましたか」
「何を?」
「部屋のこととか、子どものこととか」
「空が知りたいことだったんでしょ」
「そうですけど」
「なら、聞いてよかったと思うよ」
恵は白いハンカチを畳み、鞄へしまった。
「二人の答えを、信じられそう?」
「分かりません」
「うん」
「信じてもいいと思いますか」
「私に決めてほしい?」
空は恵を睨んだ。
「そうやって質問で返すの、ずるいです」
「ごめん。でも、大事なところだから」
恵は椅子を少し空のほうへ向けた。
「今の段階では、二人が約束を守って正式な手続きを踏んでいることは確認できてる。研修にもきちんと参加してるし、空の情報を勝手に集めた様子もない。今日の話し方を見ても、空の意思を無視しようとはしていなかったと思う」
「じゃあ、大丈夫なんですか」
「大丈夫かどうかは、これからも確認し続ける。人は最初から全部分かるものじゃないし、良い人か悪い人かだけで分けられるものでもないから」
「私が間違えたら?」
「会うと決めたことを?」
「会い続けるか、やめるか。どっちを選んでも」
「一回の返事で全部が決まるわけじゃないよ。次に会うと決めても、その次は断っていい。断ったあとで、やっぱり話したいと思ったら、そのとき相談していい」
空は空になりかけたペットボトルを両手で挟んだ。
「二人、変な人でした」
「そう?」
「普通、もっといいこと言いませんか。何があっても守るとか、夢を応援するとか」
「言ってほしかった?」
「言われたら、嘘だと思います」
「じゃあ、あの二人なりに考えてきたんじゃないかな」
「賢司さん、安心させるの下手だし」
「緊張してたね」
「由美さんはすぐ謝るし」
「それも緊張してたのかも」
「でも、嫌じゃなかったです」
口にした途端、恵に顔を見られた。
「今のは、二人には言わないでください」
「言わないよ」
「絶対ですよ」
「空の許可なく、面会での詳しい発言を伝えることはしない。次も会いたいかどうかだけ確認する」
「次」
空はその言葉を繰り返した。
もう一度会えば、二人は少し近い人になる。
近くなれば、相手の嫌なところも見える。自分の嫌なところも見られる。期待され、期待してしまうかもしれない。失うものが増えるかもしれない。
けれど一度だけでは、何も分からなかった。
空は分からないままにされるのが嫌いだった。
「もう一回くらいなら、会ってもいいです」
「分かった」
「まだ伝えないでください」
「いつまで待つ?」
「明日まで。今日決めたと思われたくないから」
「二人に?」
「自分にも」
恵はうなずいた。
「じゃあ、明日の夕方にもう一度聞くね」
*
帰りの車では、空はほとんど話さなかった。
海沿いの道を進むうちに、肩の力が抜け、眠気が押し寄せてきた。恵は音量を落としてラジオを流していた。窓の外では、釣り竿を持った親子が防波堤を歩いている。
親子なのかは、見ただけでは分からない。
叔父と姪かもしれない。近所の知り合いかもしれない。血のつながりがあるように見える二人にも、実際にはないかもしれない。
人と人の関係は、外から見ただけでは分からない。
だから名前が必要なのだろうか。それとも、名前をつけるから分かったつもりになるのだろうか。
若葉ホームへ戻ると、莉子が玄関まで出てきた。
「どうだった?」
「疲れた」
「それだけ?」
「変な人たちだった」
「嫌な人?」
「そこまでは言ってない」
「じゃあ、いい人?」
「それも言ってない」
空は靴を脱ぎ、自分の部屋へ向かった。莉子が後ろをついてくる。
「また会うの?」
「まだ決めてない」
「顔が、会う人の顔してる」
「どんな顔」
「ちょっと面倒そうな顔」
「いつもでしょ」
「いつもより面倒そう」
部屋へ入ると、机の上に学校から持ち帰った進路資料が積まれていた。一番下には、以前の進路説明会でもらった大学案内の冊子がある。
捨てるつもりで持ち帰り、そのまま置いていたものだった。
空はカーディガンを脱ぎ、椅子の背に掛けた。
「莉子、食堂行かないの?」
「空ちゃんの話を聞いてから」
「話すことない」
「東京の人だった?」
「東京の人だった」
「お金持ち?」
「知らない」
「家、大きい?」
「行ってないから知らない」
「何しに行ったの?」
空は莉子を振り返った。
「私が質問するため」
「空ちゃんが?」
「そう」
「向こうは何を聞いたの?」
「食堂の仕事とか、東京に行きたい理由とか」
「それだけ?」
「それだけじゃないけど」
莉子は不思議そうな顔をした。
「何かくれなかったの?」
「何も」
「お菓子も?」
「持ってこないでって言ったから」
「本当に持ってこなかったんだ」
「うん」
「真面目な人だね」
それは空も感じていた。
真面目すぎて、気の利いたことができない人たち。相手を安心させる言葉より、守れそうな約束を選ぶ人たち。
「次に会ったら、東京のこと聞いてみようかな」
空は独り言のように言った。
「会うんじゃん」
「まだ決めてない」
「今、次に会ったらって言った」
「うるさい」
莉子が笑いながら部屋を出ていく。
一人になった空は、鞄からペンケースを取り出した。角を直した青い糸が、一本だけ長く飛び出していた。
鋏を使えば簡単に切れる。
空はしばらく指先で糸を撫で、引っ張らないように結び目を確かめた。それから裁縫箱を出し、針に糸を通した。
ほつれた場所へ針を刺す。
一度。二度。三度。
表から見れば、不揃いな縫い目だった。裏側には小さな結び目がいくつも残っている。それでも、ほどけたままよりは長く使える。
修理を終えると、空は机の下から大学案内を引き出した。
表紙には、都内の校舎と、芝生に座る学生たちの写真が載っている。明るすぎる笑顔が嘘っぽく見えて、以前はすぐに閉じた。
今日は、最初のページを開いた。
学部の紹介、入試の日程、奨学金、学生寮。知らない言葉ばかりが並んでいる。金額を見ると、やはり自分には関係のない世界だと思った。
それでも空は、冊子を閉じなかった。
由美に大学へ行けと言われたからではない。
賢司に制度を調べてもらいたいからでもない。
行かないと決めるにしても、何を諦めるのかくらいは自分で知っておきたかった。
窓の外から、夕食を知らせる芽衣の声が聞こえた。
「空ちゃーん、ごはんだって!」
「今行く!」
空は大学案内にペンケースを挟み、机の引き出しへ入れた。
明日、恵にもう一度会うと伝える。
その次のことは、まだ決めない。
一度会う。話を聞く。嫌なら止める。分からなければ、もう一度考える。
誰かに選ばれたからではなく、自分が確かめたいと思ったから会う。
空は引き出しを閉め、食堂へ向かった。




