第七章 制度の壁
基礎研修の初日、由美と賢司は開始時刻の三十分前に会場へ着いた。
受付はまだ準備の途中だった。職員が机へ名札を並べ、別の職員がスクリーンへ資料を映している。
「早すぎたんじゃない?」
由美が壁の時計を見上げた。
午前九時半。研修は十時からだった。
「電車が遅れる可能性も考えた」
「日曜日の朝よ」
「日曜日でも遅れるときは遅れる」
「近くでコーヒーでも飲んでくればよかった」
「受付が始まってる」
賢司は迷わず、入口の机へ向かった。
由美も後に続いた。
受付で名前を告げると、胸元へつける名札と、前回より厚い研修資料を渡された。資料の表紙には、「子どもの権利を中心に考える里親養育」と書かれている。
会議室には四人ずつ座る机が八つ並んでいた。
二人が中央の席へ座ると、ほどなく参加者が入ってきた。
公開説明会で見かけた人もいる。
由美たちより少し若い夫婦。五十代ほどの女性。母親と娘に見えた二人連れ。単身で参加している男性もいた。
席は自由だった。
由美と賢司の向かいには、三十代後半ほどの夫婦が座った。
「よろしくお願いします」
妻の方が先に頭を下げた。
柔らかく巻いた髪を肩へ下ろし、薄い水色のブラウスを着ている。名札には「藤原美紀」とあった。
隣の男性は、藤原隆志。黒縁の眼鏡をかけ、緊張した様子で資料をめくっている。
「朝倉です。よろしくお願いします」
賢司が答えた。
由美も頭を下げた。
「説明会にもいらっしゃいましたよね?」
美紀が尋ねる。
「はい」
「私たちもです。会場の後ろの方に座っていました」
「そうでしたか」
「こういう場、少し緊張しますね」
美紀は笑った。
「何を聞かれるのか分からなくて」
由美は賢司を見た。
説明会へ来たとき、賢司も同じことを言っていた。
「私たちも緊張しています」
由美が答えると、賢司が小さく咳払いをした。
「僕はしてないと言いたいの?」
「それほどではない」
「昨日、持ち物を三回確認してたでしょう」
「忘れ物をしないためだ」
美紀が笑い、隆志もようやく表情を緩めた。
開始時刻になると、相沢奈緒が前へ立った。
「本日から三日間、里親制度と子どもの養育について学んでいただきます」
相沢は参加者全員を見回した。
「この研修を受けたからといって、必ず里親登録を申請しなければならないわけではありません。学んだ結果、自分たちには難しいと判断することも、大切な選択です」
資料の最初には、一日の予定が記されていた。
午前は子どもの権利と社会的養護。午後は、子どもが家庭を離れるまでの背景と、心身への影響について学ぶ。
二日目は、里親家庭での生活と実親との関係。
三日目には、養育経験者と施設を退所した若者の話を聞き、最後に夫婦面談がある。
「最初に、簡単な自己紹介をお願いします」
相沢が言った。
「お名前と、今日ここへ来た理由を、話せる範囲で結構です」
前方の席から順番に、参加者が立った。
子どもを育てた経験を、別の子どものために生かしたいと話す人。
親族の子どもを一時的に預かったことがきっかけになった人。
自分自身が里親家庭で育ち、今度は支える側になりたいと話す人。
不妊治療を終え、夫婦で家族の形を考え直した人。
事情はそれぞれ違っていた。
藤原夫妻の順番になると、美紀が先に立った。
「結婚して九年になります。子どもを持つことを望んでいましたが、治療を終えました」
美紀の声は少し震えていた。
「その後、特別養子縁組や里親制度について調べ始めました。私たちにできることがあるのか知りたいと思い、参加しました」
隆志も立ち上がった。
「妻と一緒に、きちんと学んでから考えたいと思っています。よろしくお願いします」
由美は二人の言葉を聞き、自分たちと似ていると思った。
やがて、賢司と由美の番が来た。
賢司が立とうとしたが、由美が先に腰を上げた。
「朝倉由美です。夫と二人で参加しました」
用意してきた言葉はなかった。
公開説明会の後に提出した申込書へは、子どもの望む人生を支えるとは何か学びたいと書いた。
それだけを繰り返すこともできた。
由美は机の上の資料を見た。
「私たちには子どもがいません。不妊治療をしていましたが、七年前に終えました」
言葉にすると、向かいにいる藤原夫妻の表情がわずかに動いた。
「二人だけの生活を受け入れ、幸せに暮らしているつもりでした。少し前、旅先で児童養護施設にいる高校生と出会いました。その子と話したことがきっかけで、私たちは制度について何も知らないと気づきました」
空の名前は出さなかった。
「その子に何かをしてあげたいという気持ちだけで動いてはいけないと、説明会で教えていただきました。まず、自分たちがどのような大人なのかを考えたいと思っています」
由美は頭を下げ、席へ戻った。
賢司が立ち上がる。
「朝倉賢司です。妻と同じ理由で参加しています」
それだけ言い、一度言葉を切った。
「私は、制度や条件を調べれば、自分たちができることを判断できると思っていました。しかし、前回の説明会で、判断するのは大人の側だけではないと知りました。子どもの生活へ関わる責任について学びたいと思います」
賢司も頭を下げた。
全員の自己紹介が終わると、研修が始まった。
最初のテーマは、子どもの権利だった。
安全に生活すること。教育を受けること。自分の意見を表明すること。自分に関する事柄について説明を受けること。家族との関係を不当に断たれないこと。
里親家庭で暮らすかどうかについても、子どもの年齢や状況に応じて意見を聞く必要がある。
「子どもの最善の利益という言葉が、制度の中ではよく使われます」
講師を務める弁護士が言った。
「ただし、大人が考える最善と、子どもが望んでいることは同じとは限りません」
スクリーンへ事例が表示された。
中学三年生の少女。母親の養育が難しくなり、施設で生活している。高校進学を機に里親家庭への委託が検討された。しかし本人は、施設から通学することを希望している。
「皆さんなら、どのように考えますか」
四人ずつのグループで話し合うよう指示された。
向かいの藤原隆志が最初に口を開いた。
「里親家庭の方が、勉強に集中できるんじゃないでしょうか」
「施設だと、ほかの子どももいるでしょうし」
美紀が続けた。
「本人が遠慮している可能性もありますよね。家庭で暮らせるなら、本当はそちらの方がいいのでは」
由美は事例の文章を読み直した。
少女は施設から通いたいと、はっきり希望している。
「施設に友達や、信頼している職員がいるのかもしれません」
由美は言った。
「高校進学と同時に住む場所まで変わったら、負担が大きいと思います」
「でも、家庭で暮らす経験も必要では?」
美紀が尋ねた。
「家庭を知らないまま大人になるより、誰かと生活した方が」
美紀はそこで言葉を止めた。
自分の発言に、何か引っかかったらしい。
賢司が資料へ目を落としたまま言った。
「家庭で暮らした経験がある方がいいと考えるのも、大人の価値観かもしれません」
「施設より家庭の方がいいというのは、制度の考え方ではないんですか?」
隆志が尋ねる。
「基本的にはそう書いてあります。でも、目の前の本人が望んでいないなら、移すことがその子のためになるとは限らない」
賢司の言葉を聞きながら、由美は空のことを考えた。
空は若葉ホームを出なければならないと話していた。
だからといって、今すぐ施設から離れたいとは一度も言っていない。
芽衣や莉子の存在を、由美は知らない。恵のことも、浜田夫妻のことも知らない。
空にとって大切な人が、海辺の町に何人いるのかも分からない。
東京のマンションに一部屋が空いているからといって、そこが空にとって望ましい場所になるとは限らなかった。
グループで出した意見を発表した後、講師が説明した。
少女は施設での生活を希望しており、その理由は、長く関わってきた職員や友人と離れたくなかったからだった。
その一方で、施設を出た後に頼れる大人がほしいとも話していた。
結果として、少女は施設で生活を続けながら、週末や長期休暇に特定の家庭と交流することになったという。
「家庭へ移るか、施設に残るか。その二つだけが選択肢ではありません」
講師が言った。
「本人が必要としている関係を、本人と一緒に考えることが重要です」
由美は資料の余白へ書き込んだ。
家へ迎えることだけが、関わることではない。
午前の講義が終わり、昼休みになった。
研修会場には弁当を食べる場所が用意されていた。由美と賢司は、近くの店で買ってきたサンドイッチを広げた。
向かいの藤原夫妻も、そのまま同じ席へ残った。
「さっきは、家で暮らす方がいいって決めつけてしまいました」
美紀がペットボトルのお茶を持ちながら言った。
「私も、少し前なら同じように考えたと思います」
由美が答える。
「施設より、うちへ来た方がいいって」
「私たちは、特別養子縁組も考えていたんです」
美紀は声を落とした。
「赤ちゃんの頃から育てて、本当の親子になりたいと思っていました。でも説明会で、子どものための制度だと言われて」
「本当の親子」という言葉に、由美は小さな痛みを感じた。
美紀に悪意はない。
それでも、血のつながらない親子を本当ではないように聞こえさせる言葉だった。
「本当というのは」
隆志が妻を見た。
「言い方が悪かったね」
「ごめんなさい。戸籍上も実子と同じになるという意味で」
美紀は慌てて訂正した。
「私も、同じ言葉を使ったことがあります」
由美が言った。
「気持ちは分かります」
美紀は少し安心したように息を吐いた。
「朝倉さんたちは、高校生のお子さんと会ったんですよね」
「はい」
「その子を里子として迎えたいんですか?」
由美はすぐに答えられなかった。
「まだ、そこまでは」
賢司が代わりに言った。
「本人が望んでいるかも分かりません。僕らが登録したとしても、その子と関われるとは限らないと説明されています」
「それでも研修を?」
隆志が尋ねる。
「だからこそです」
賢司はサンドイッチの包みを畳んだ。
「特定の子どもに会うためではなく、自分たちが何をしようとしているのか知る必要があると思いました」
午後は、子どもが実の家庭を離れるまでの経験について学んだ。
虐待、養育放棄、親の病気、経済的な事情、家族の死。
すべての子どもが同じ経験をしているわけではない。親を嫌っているとも限らない。傷つけられてもなお、親へ会いたいと願う子どももいる。
「里親は、実親の代わりに勝つ人ではありません」
講師が言った。
「子どもの中にある実親への思いを否定しないことが求められます」
由美は、空が親の顔を知らないと話したときの表情を思い出した。
悲しそうには見えなかった。
何も感じていないようにも見えた。
けれど、本当に何も感じていないかは分からない。
空自身にも、言葉にできないものがあるかもしれない。
研修の最後には、二人一組の演習があった。
一人が子どもの役、もう一人が養育者の役を担当する。
由美の相手は美紀だった。
配られた紙には、由美が演じる養育者の設定が書かれている。
高校一年生の少女が、夕食の時間になっても部屋から出てこない。声をかけても「食べたくない」と答える。昼食もほとんど取っていない。
「どう声をかけますか」
講師が全員へ問いかける。
美紀は子どもの役として、机に顔を伏せた。
由美は少し考え、声をかけた。
「具合が悪いの?」
美紀は首を横に振る。
「お昼も食べてないんでしょう?」
返事はない。
「少しだけでも食べた方がいいわ。せっかく作ったんだから」
口にしてから、由美は違和感を覚えた。
美紀が顔を上げる。
「いらないって言ってるでしょう」
子どもの役とは思えないほど強い声だった。
「でも、何も食べなかったら身体に悪いわ」
「私の身体でしょう」
「心配してるのよ」
「心配してるなら、放っておいて」
由美は言葉を失った。
「そこで止めましょう」
講師が声をかけた。
「朝倉さん、どのように感じましたか?」
「拒絶されたように感じました」
由美は正直に答えた。
「心配しているのに、分かってもらえないと」
「子どもの側は、どうでしたか」
美紀が答える。
「食べたくない理由を聞かれる前に、食べるよう説得された感じがしました。作った人へ感謝することまで求められたような」
由美は胸の奥が痛んだ。
せっかく作ったのだから。
家庭で何度も使ってきた言葉だった。
賢司が食事を残せば、由美も言うことがある。相手が大人なら、言い返すこともできる。
子どもに対しては、料理を作った自分の気持ちを受け取るよう求める言葉になる。
「食べない理由には、いろいろあります」
講師が説明した。
「嫌いな食べ物である。食欲がない。体調が悪い。以前の経験を思い出す。食事を取ることで、大人との関係が深まるのが怖い。あるいは、自分で決められることが食べるかどうかしかない場合もあります」
由美は海辺食堂で、空に言われたことを思い出した。
無理に食べて具合が悪くなる方が困りますから。
空は由美が丼を残すことを責めなかった。
本人の身体のことを、本人に決めさせた。
自分より十六歳の少女の方が、その距離を知っていた。
初日の研修が終わると、由美は身体より頭の方に疲れを感じた。
駅へ向かう途中、賢司もほとんど話さなかった。
「どうだった?」
由美が尋ねる。
「思ったより厳しい」
「何が?」
「考え方を変えないといけないところが多い」
「私も」
由美は歩道の端へ寄り、後ろから来た自転車を避けた。
「演習で、せっかく作ったんだからって言ってしまった」
「由美は言いそうだな」
「賢司にも言ってるでしょう」
「僕は食べるよ」
「おいしくないときは、黙って醤油をかける」
「味を調整してるだけだ」
「作った人に失礼でしょう?」
そこまで言って、由美は足を止めた。
「また言ってる」
賢司も立ち止まった。
「急に全部変えるのは無理だろ」
「そうね」
「気づいたなら、次から考えればいい」
賢司の言葉に、由美は少し救われた。
二日目の研修は、翌週の日曜日に行われた。
テーマは、里親家庭での生活と実親との関係だった。
子どもが実親と面会するときの支援。学校や地域へどこまで事情を伝えるか。里親と実親の間で揺れる子どもの気持ち。
講義の途中、講師が一つの質問をした。
「子どもから、お母さん、お父さんと呼ばれたいですか」
会場が静かになった。
由美は、考えたことがなかった。
空が自分をお母さんと呼ぶ姿。
想像した瞬間、胸の奥が動いた。
望んでいる。
そう気づいてしまった。
隣を見ると、賢司は資料を見たまま動いていない。
「呼び方は、子どもが決めます」
講師が続けた。
「里親を名字で呼ぶ子どももいます。おじさん、おばさんと呼ぶ子もいます。呼び捨てにすることもあります。実親がいる子どもにとって、お母さん、お父さんという言葉は、里親が思う以上に重いものです」
由美は膝の上で手を握った。
空の親について、何も知らない。
顔を知らないと言っていたからといって、母親という存在を求めていないとは限らない。
自分が呼ばれたいという気持ちを、空へ背負わせてはいけない。
昼休み、由美は賢司と建物の屋上へ出た。
小さなベンチと自動販売機があり、研修参加者が何人か昼食を取っている。
「さっきの質問、どう思った?」
由美が尋ねる。
「呼び方のこと?」
「うん」
「本人が決めるものだろう」
「それは分かってる。賢司は呼ばれたいと思わなかった?」
賢司は缶コーヒーを開けた。
「少しは」
「やっぱり」
「由美も?」
「思った」
由美は正直に答えた。
「空さんに、お母さんって呼ばれるところを考えた」
「まだ、何の関係もないのに?」
賢司の声が硬くなった。
由美は顔を上げた。
「考えただけでしょう」
「その考えを、本人へ求めなければいい」
「求めるつもりなんてない」
「分かってる」
「だったら、その言い方は何?」
「由美が先へ進みすぎるのが心配なんだ」
由美の胸に苛立ちが広がった。
「賢司は、いつも私だけが先走っているみたいに言うけど、自分だって空さんが家にいるところを考えたでしょう?」
「だから、僕自身にも言ってる」
「私には、そう聞こえない」
賢司は缶コーヒーへ口をつけた。
由美は弁当の蓋を閉じた。
「もう一つ聞いていい?」
「何?」
「もし、本当に子どもを家庭へ迎えることになったら、仕事はどうするの?」
「今と同じようにはできないだろうな」
「具体的には?」
「状況を見て考える」
「それじゃ分からない」
「まだ迎えると決まったわけじゃない」
「決まってから考えるのでは遅いでしょう?」
賢司は黙った。
由美は続けた。
「研修の資料には、学校との連絡、通院、児童相談所との面談、実親との交流支援があるって書いてある。平日の昼間に動かなければならないこともある」
「そのときは、有給休暇を使う」
「毎回?」
「由美も使えるだろ」
その言葉に、由美は身体が冷えるような感覚を覚えた。
「やっぱり、私が中心になると思ってるのね」
「そんなことは言ってない」
「私も使える、って言ったでしょう?」
「二人とも使えばいいという意味だ」
「順番が違う。自分が休むと言った後に、私も使えるって」
「言葉尻を取るなよ」
賢司の声が低くなった。
周囲にいた参加者が、こちらを見た。
由美は声を落とした。
「言葉尻じゃない。家事もそうでしょう。私が予定を調整して、できないときに賢司が手伝う」
「僕だって家事はしてる」
「頼めばね」
「頼まれなくても、ごみは出すし、食器も洗う」
「ごみ袋をまとめるのは誰? 洗剤がなくなる前に買うのは誰? 旅行の荷物を出した後、片づけるのは誰?」
「今、その話をするのか?」
「子どもを迎える話をするなら、今でしょう」
賢司は答えなかった。
由美はこれ以上続ければ、周囲へ聞こえると思い、弁当を片づけた。
「午後の研修が始まるから、戻る」
「由美」
「今は話したくない」
由美は一人で階段へ向かった。
午後の講義では、養育者の疲労と支援の必要性について説明された。
一人で抱え込まないこと。夫婦の一方へ負担を集中させないこと。相談先を持つこと。休息を取ること。
由美には、午前中から自分たちの会話を聞かれていたように感じられた。
資料には、家庭内の役割分担を事前に話し合うための表があった。
食事。洗濯。掃除。学校との連絡。通院。面談。緊急時の対応。休日の付き添い。
由美は、自分たちの名前を書き込むことができなかった。
研修が終わり、二人は別々に駅まで歩いた。
同じ電車へ乗り、隣同士の席へ座ったが、ほとんど会話はなかった。
帰宅後、賢司は書斎へ入り、由美はキッチンへ立った。
夕食を作る気になれず、冷凍庫からご飯を出し、レトルトのカレーを温めた。
食卓へ二人分を並べる。
賢司は何も言わずに座った。
「今日は、作る気になれなかった」
由美が言う。
「これでいい」
賢司はカレーを一口食べた。
途中で調味料へ手を伸ばし、止めた。
由美はそれに気づいたが、何も言わなかった。
食事が半分ほど進んだところで、賢司が口を開いた。
「昼の話だけど」
由美は黙って待った。
「僕は、自分が仕事を休むことを先に考えているつもりだった」
「うん」
「でも、心のどこかで、由美の方が対応しやすいと思っていた」
賢司はスプーンを置いた。
「由美の会社の方が休みやすいと、勝手に考えていた」
「出版社だから?」
「僕の仕事は、会議や出張が多いから」
「私にも会議も出張もある」
「分かってるつもりだった」
「つもりだったのね」
「うん」
賢司は否定しなかった。
「僕は父親になったことがない。それなのに、父親は仕事を続け、母親が子どものことをする家庭を、どこかで普通だと思っていた」
由美は賢司を見た。
「お義父さんとお義母さんが、そうだったから?」
「たぶん」
「私の家も同じだったわ」
由美の母は、由美が小学生になるまで仕事を辞めていた。父は朝早く家を出て、夜遅く帰ってくる。
学校の行事へ来るのも、病院へ連れていくのも、母だった。
「でも、私たちまで同じにする必要はない」
「分かってる」
賢司は資料に挟まれていた役割分担表を持ってきた。
「決まってからじゃなく、今考えよう」
食卓の上へ表を広げる。
「学校との連絡は?」
由美が尋ねる。
「二人とも受け取れるようにする」
「面談は?」
「交代で行く。重要なものは二人で」
「通院」
「休みを取れる方。ただし、由美ばかりにならないよう記録する」
「記録するの?」
「曖昧にすると偏る」
賢司らしい答えに、由美は少し笑った。
「食事は?」
「僕も作る」
「何が作れる?」
「カレー」
「レトルトじゃなくて?」
「材料から」
「ほかは?」
賢司は考えた。
「炒飯」
「二品ね」
「増やす」
「いつ?」
「来週から」
二人は、表の項目を一つずつ話し合った。
現実には、書いたとおりにいかないこともあるだろう。それでも、最初から由美が中心になる形は避けられる。
二日目の研修から一週間後、最終日を迎えた。
午前中は、里親として子どもを養育している家庭の話を聞いた。
午後には、児童養護施設と里親家庭で生活した経験を持つ、麻生奈月という二十四歳の女性が登壇した。
奈月は大学を卒業し、現在は福祉関係の会社で働いている。
「私は十歳から施設で暮らし、十四歳のときに里親家庭へ移りました」
奈月は落ち着いた声で話した。
「里親さんは、とても親切な人たちでした。部屋を用意してくれて、服を買ってくれて、大学へ行くことも応援してくれました」
由美は前方を見た。
「でも、最初の一年は、施設へ戻りたいと思っていました」
会場の空気が変わった。
「施設には友達がいました。小さい頃から知っている職員もいました。里親家庭へ行けば幸せになれると言われましたが、私には、知らない家へ一人で移されることでした」
奈月は自分の手元へ視線を落とした。
「里親さんを、お父さん、お母さんと呼べませんでした。名字にさんをつけて呼んでいました。それを申し訳ないと思っていました」
「里親さんは、呼ぶよう求めたのですか?」
相沢が尋ねる。
「いいえ。好きに呼んでいいと言ってくれました。でも、周りの人が、こんなによくしてもらっているんだからと言いました」
奈月は少し笑った。
「感謝することと、親だと思うことは別でした。それが分かるまで、時間がかかりました」
由美の胸へ、二日目の講義が戻ってきた。
空に、お母さんと呼ばれるところを想像した自分。
「高校を卒業した後、私は大学の寮へ入りました。里親家庭を出るとき、また捨てられるような気持ちになりました。自分で家を出ると決めたのに、里親さんが引き止めなかったことへ腹を立てました」
奈月は言葉を選びながら続けた。
「あとで、引き止めないことも、私の選択を尊重することだったと分かりました。それでも、当時は分かりませんでした」
由美は隣の賢司を見た。
賢司も前を向いたまま、聞いている。
「今は、里親さんと月に一度くらい会います。お父さん、お母さんとは呼んでいません。それでも、何かあったときに帰れる家です」
奈月は最後に言った。
「子どもが求めている関係は、皆さんが想像している家族と同じ形ではないかもしれません。決まった呼び方や、決まった距離にしようとしないでほしいです」
講演の後、夫婦ごとの面談が行われた。
由美と賢司の担当は、説明会から関わっている相沢だった。
小さな相談室へ入り、丸いテーブルを囲む。
「三日間、お疲れさまでした」
相沢が言った。
「率直に、どのように感じましたか?」
「難しいと思いました」
由美が答えた。
「説明会のときよりも?」
「はい。制度が難しいというより、自分の気持ちを相手へ押しつけないことが」
「朝倉さんはいかがですか?」
相沢が賢司へ尋ねる。
「家庭の中の役割分担も、十分に話していなかったと気づきました」
「研修中に話し合われたのですね」
「喧嘩になりました」
由美が言うと、相沢はわずかに笑った。
「喧嘩できたことも、大切かもしれません」
「そうなんですか?」
「表面上は同じ意見でも、実際に生活が始まってから違いが出る場合があります。事前に考えが違うと分かった方が、話し合うことができます」
相沢は二人の提出した課題を確認した。
「お二人は、今後どのようにしたいと考えていますか?」
由美は賢司を見た。
昨夜、二人で話し合っていた。
里親登録の申請を続けるか。
空との関係を望むのか。
その二つを分けて考えると決めた。
「登録については、もう少し考えたいです」
賢司が答えた。
「研修を受けて、自分たちがすぐ子どもを迎えられる状態ではないと思いました」
「住居や収入の問題ですか?」
「いいえ。私たち自身の問題です。仕事のことも、夫婦の役割も、子どもへ何を求めているかも、まだ整理できていません」
相沢は頷いた。
「急いで申請する必要はありません」
由美が口を開いた。
「空さんのことを、一度だけ確認したいと思っています」
「確認とは?」
「私たちと話したことを、空さんがどう感じているかです。施設で暮らしていると知った後、嫌な思いをさせていなかったか」
由美は手を膝の上で組んだ。
「それから、もう一度会うことを望んでいないなら、私たちは連絡しません」
「ご本人の意思を確認したいのですね」
「はい」
「直接、施設へ連絡するのではなく?」
「第三者を通してくださいと言われたので」
相沢は少し考えた。
「お二人が会った施設が、どこにあるかは分かっていますか?」
「若葉ホームという名前です。海辺の町にあります」
賢司が答えた。
「空さんが働いている食堂の店主から聞いたわけではありません。迎えの車に名前が書かれていました」
「名字と名前は?」
「水瀬空さん」
相沢はメモを取らず、二人を見た。
「この情報だけで施設へ問い合わせることはできません。まず、施設のある地域を担当する児童相談所や支援機関へ相談し、安全面を確認する必要があります」
「どれくらい時間がかかりますか?」
由美が尋ねる。
「分かりません。施設側が連絡を取り次がないと判断する場合もあります。ご本人が会いたくないと答える可能性もあります」
「分かっています」
「また、ご本人が会いたいと言ったとしても、すぐに個人的な交流が始まるわけではありません。施設職員の同席、面会場所、連絡方法などを調整する必要があります」
「それでも構いません」
由美は答えた。
「こちらから何かを申し出る前に、空さんがどう感じているのか聞きたいだけです」
相沢は賢司へ目を向けた。
「朝倉さんも同じ考えですか?」
「はい」
賢司は答えた。
「私たちの希望を伝えるためではありません。本人が望んでいないなら、ここで終わりにします」
相沢はゆっくり頷いた。
「では、こちらで相談先を確認します。ただし、お約束はできません」
「お願いします」
由美は頭を下げた。
面談を終え、建物を出ると、空には薄い雲が広がっていた。
駅へ向かう道で、由美は何度もバッグの中のスマートフォンを確かめた。
まだ連絡が来るはずはない。
分かっていても、落ち着かなかった。
「今日中には何もないよ」
賢司が言った。
「分かってる」
「数週間かかるかもしれない」
「それも分かってる」
「会いたくないと言われるかもしれない」
由美は足を止めた。
「何度も言わないで」
「覚悟しておいた方がいい」
「してるつもり」
「つもりじゃ」
「賢司」
由美は正面から夫を見た。
「会いたくないと言われたら、私は傷つくと思う」
賢司は黙った。
「でも、傷つくからといって、空さんに会うよう求めることはしない。それでいいでしょう?」
「うん」
「平気なふりまでしなくていいと思う」
賢司は少し間を置いて頷いた。
「そうだな」
二人は再び歩き始めた。
制度は、二人の善意を歓迎して、すぐに扉を開いてはくれなかった。
子どもの生活を守るため、何度も立ち止まらせ、問いを投げかけ、本人の意思を確かめる。
その壁を、由美は以前ほど冷たいものとは感じなかった。
自分たちが空の前へ立つ資格を得るための壁でもない。
空が望まない大人を、自分の生活へ入れずに済むようにする壁だった。
それから三週間、連絡はなかった。
由美と賢司は、普段の生活を続けた。
仕事へ行き、夕食を食べ、週末には部屋を掃除した。二人で役割分担表を見直し、賢司は日曜日の昼食を作るようになった。
最初の炒飯は塩辛く、二度目は米が柔らかすぎた。
三度目に作ったものは、ようやく由美が何も足さずに食べられる味になった。
「どう?」
賢司が尋ねる。
「普通」
「普通というのは?」
「また食べてもいい味」
「褒め方が厳しくないか?」
「せっかく作ったんだから、おいしいと言えとは言わないんでしょう?」
由美が返すと、賢司は苦笑した。
研修が終わって二週間ほどが過ぎた、平日の夜だった。
夕食を終え、賢司が食器を洗っているとき、由美の携帯電話が鳴った。
登録していない番号だった。
「里親支援センターの相沢と申します」
名乗られただけで、由美は背筋を伸ばした。
「先日提出していただいた申込書について、確認のご連絡です」
相沢の声には、それ以上の感情が乗っていなかった。事務的な確認なのか、それとも別の話なのか、由美には判断がつかなかった。
「関係機関を通じて、若葉ホーム側と調整を進めています」
「はい」
「水瀬空さんご本人にも、お二人からご相談があったことをお伝えしました」
由美は、洗い物の手を止めた賢司と目を合わせた。
「本人の意思を最優先にしていますので、断られる可能性もあるとお伝えしていました」
「それは分かっています」
「今回は、会ってみてもよいという返事でした」
由美は一度、言葉に詰まった。
「ただし」
相沢は続けた。
「これは交際でも、家族探しでもありません。最初は、担当職員の同席のもとで、短い時間だけお会いいただく形になります。場所も日時も、施設側の都合に合わせていただきます」
「もちろんです」
「連絡先の交換や、個人的な贈り物なども、この段階では控えてください。子どもの気持ちを、大人の都合で急がせないための決まりです」
由美は手帳を開き、聞き漏らさないよう要点を書きとめた。
「候補日をいくつかいただいています。来月の第二土曜日、もしくはその翌週の日曜日で、ご都合はいかがでしょうか」
「賢司」
由美が声をかけると、賢司はタオルで手を拭きながら頷いた。
「どちらでも合わせます」
「それでは、施設側と再調整の上、改めてご連絡します」
電話は、そこで切れた。
由美は携帯電話を握ったまま、しばらく動けなかった。
「決まったのか」
賢司が尋ねる。
「うん。会ってもいいって」
「よかったな」
その一言は短かったが、賢司の声にも、いつもとは違う硬さがあった。
由美はソファに座り、手帳のページを見返した。
日時も場所も、まだ何も確定していない。決まっているのは、空が「会ってもよい」と答えたという、その一点だけだった。
十分だと思った。
会うまでに、何をどう変えられるわけでもない。ただ、その日が来るのを、二人で静かに待つしかなかった。




