第二部 壁の向こうへ 第六章 調べられる側
開説明会の前夜、賢司は書斎の机に資料を広げていた。
児童養護施設、里親制度、退所後支援、奨学金、住宅支援、就職支援。
二週間かけて集めた情報を項目ごとに分け、表計算ソフトへ入力している。制度の対象年齢、申請時期、実施する自治体や団体、問い合わせ先。確認できていないところには黄色をつけ、情報が古い可能性のあるものには赤い印を入れた。
仕事で新しい事業を検討するときと、ほとんど同じ方法だった。
事実を集め、条件を整理し、分からない点を明らかにする。
感情だけで判断しないためには、それが最も確実だと賢司は考えていた。
画面の右下には、現在時刻が表示されている。
午後十一時四十七分。
説明会の開始は、翌朝の十時だった。
「まだやってるの?」
書斎の扉が開き、由美が顔を出した。
髪を後ろでまとめ、紺色のパジャマを着ている。
「もう少しで終わる」
「一時間前にも同じことを言ってた」
「確認したいところが残ってるんだ」
由美は机へ近づき、画面をのぞき込んだ。
「何、これ」
「制度を整理した」
「こんな表まで作ったの?」
「説明会で聞くことを絞るためだ」
「仕事みたい」
「情報を整理するのに、仕事も私生活も関係ないだろ」
由美は画面を指した。
「ここに書いてある『実現性』って何?」
表の一番右に、賢司が追加した項目だった。
「僕らが利用したり、参加したりできる制度かどうか」
「利用するって、誰のために?」
「一般的な意味だ」
「空さんの名前は一度も書いてないのね」
賢司は画面から目を離した。
表の中には、確かに空の名前がなかった。
施設で暮らす子ども。
高校生。
退所後に一人で生活を始める若者。
すべて一般的な言葉へ置き換えている。
空の名前を入れれば、自分たちが特定の少女について調べていることになる。それを避けたかった。
同時に、名前を外したことで、自分たちが何を知りたいのかが見えにくくなっていた。
「空さんの個人情報を調べているわけじゃない」
「分かってる」
「だったら、書く必要はないだろ」
「怒ってないわよ」
由美は机の端へ手を置いた。
「ただ、空さんのことを考えて始めたのに、途中から制度の比較になってるなと思って」
「制度を知らないままでは、何も判断できない」
「何を判断するの?」
賢司は答えに詰まった。
何ができるか。
何をしてはいけないか。
その二つを知りたいと思っていた。
しかし、由美に尋ねられると、もっと別の答えを求められている気がした。
「明日、聞けば分かる」
賢司は答えた。
「そうね」
由美は机から離れた。
「でも、今夜は寝ましょう。寝不足で話を聞いても、頭に入らないわよ」
「あと十分」
「本当に?」
「本当に」
「十二時になったら、パソコンを閉じてね」
由美は書斎を出た。
賢司は表へ視線を戻した。
実現性という項目を削除しようかと思ったが、そのまま残した。
代わりに、一番下へ新しい行を追加した。
本人の希望。
入力した後、自分で違和感を覚えた。
そこへ何を書けばよいのか、賢司には分からなかった。
空は東京で働きたいと言っていた。
進学については、金がかかるから考えていないと答えた。
それが本人の希望のすべてなのか。
空自身にも、まだ分からないのかもしれない。
賢司は何も入力せず、空欄のままファイルを保存した。
翌朝、二人は九時前に家を出た。
説明会の会場は、都内にある里親支援センターだった。自治体から委託を受けた民間団体が運営し、里親制度の普及や研修、子どもと養育家庭への支援を行っている。
駅から歩いて十分ほどの、五階建ての建物だった。
一階には保育施設があり、色とりどりの紙で作られた花が窓に貼られている。説明会は三階の会議室で開かれる。
受付で名前を伝えると、職員から資料の入った封筒を渡された。
「お二人で参加ですね」
「はい」
由美が答えた。
「お帰りの前に、アンケートへのご協力をお願いします。個別相談を希望される場合は、最後の欄へ印をつけてください」
「分かりました」
会議室には、すでに十人ほどが座っていた。
若い夫婦。由美たちと同じくらいの年齢に見える女性。五十代ほどの男性。母親と娘らしい二人連れもいる。
机は四人ずつ座れるよう並べられていた。
賢司と由美は、後ろから二列目の席へ座った。
正面のスクリーンには、「社会的養護と里親制度を知るための公開説明会」と表示されている。
由美が封筒から資料を取り出した。
「思っていたより人が多いわね」
「定員は三十人と書いてあった」
「そういう意味じゃなくて」
「何?」
「みんな、それぞれ事情があるのよね」
賢司は会場を見回した。
参加者が何を考えて来たのかは分からない。
子どもを養育したい人。制度を知りたい人。仕事や研究のために参加した人。身近な子どものことで悩んでいる人。
自分たちも、その中の二人だった。
「緊張してる?」
由美が尋ねる。
「少し」
「珍しい」
「初めての場所だからな」
「会社の役員会でも緊張しないのに?」
「役員会は、何を聞かれるか予想できる」
「今日は分からない?」
「説明を聞きに来ただけだ。僕らが質問されるわけじゃない」
賢司が答えたところで、前方の扉が閉められた。
午前十時、説明会が始まった。
進行を担当するのは、相沢奈緒という女性だった。五十歳前後で、黒いジャケットの下に白いシャツを着ている。里親支援専門相談員として、長く子どもと養育家庭の支援に関わってきたという。
「本日は、里親制度に関心をお持ちいただき、ありがとうございます」
相沢は参加者一人一人を見るように、ゆっくり話し始めた。
「最初にお伝えしたいことがあります。里親制度は、子どものいないご夫婦のために子どもを紹介する制度ではありません。事情によって実の親と暮らせない子どもが、家庭に近い環境で生活するための制度です」
会場が少し静かになった。
賢司は資料の最初のページへ目を落とした。
同じ内容が、太い文字で記されている。
「里親になりたい大人の希望と、子どもの必要としている生活が一致するとは限りません。年齢、きょうだい関係、健康、実親との交流、学校、地域とのつながりなど、子ども一人一人に異なる事情があります」
相沢の声は穏やかだったが、言葉は明確だった。
「大人が子どもを選ぶのではありません。子どもの生活を守るために、どのような家庭や支援が必要かを考えます」
賢司は、前夜に作った表を思い出した。
対象年齢。条件。実現性。
自分は制度を比較し、どれが自分たちに使えるかを考えていた。
相沢の説明では、出発点が逆だった。
自分たちが何をしたいかではない。
子どもに何が必要か。
「子どもは、家庭へ迎えられればすぐに安心し、大人を信頼するわけではありません。むしろ、安全な場所だと確かめるため、あえて大人を困らせるような行動を取ることもあります」
相沢は続けた。
「食べ物を隠す。嘘をつく。物を壊す。約束を守らない。急に黙り込む。何度も同じことを尋ねる。大人が本当に自分を見捨てないか、意識せず確かめている場合があります」
由美が資料を持つ指へ力を入れた。
賢司にも、空が何度も「大丈夫です」と答えた姿が浮かんだ。
「子どもの行動を試験だと思わないでください」
相沢が言った。
「その子が生きるために身につけた方法です。大人にとって理解しにくくても、本人には必要だった時期があります。それをすぐにやめさせるのではなく、もうその方法を使わなくても大丈夫だと、時間をかけて伝える必要があります」
説明は、里親の種類、登録までの研修、家庭訪問、子どもとの交流、委託後の支援へ進んだ。
賢司は資料へ書き込みを続けた。
事前研修。家庭訪問。健康状態。経済状況。住居環境。家族の同意。支援機関との協力。
自分たちの生活について確認される項目が多いことに驚いた。
一定の収入と部屋があれば、条件としては足りると思っていた。
実際には、夫婦の関係、仕事の時間、親族や友人から得られる協力、ストレスへの対処、子どもを迎えたい理由まで確認される。
「審査されるみたいね」
由美が小声で言った。
「審査だろう」
賢司は答えた。
「当然だ」
口ではそう言ったが、胸の中には落ち着かないものがあった。
午前十一時を過ぎると、里親経験者の話が始まった。
話し手は、鈴木久美子という五十代の女性だった。夫とともに養育里親として登録し、これまで三人の子どもを家庭へ迎えた経験がある。
「最初の子を迎えた頃の私は、自分なら愛情を注げると思っていました」
鈴木は少し笑った。
「温かい食事と、清潔な部屋と、安心できる大人がいれば、子どもは幸せになれる。今思えば、とても一方的な考えでした」
会場にいる人たちが、静かに耳を傾けている。
「その子には、その子がそれまで生きてきた時間がありました。施設の職員、学校の友達、きょうだい、実の親。私たちの家へ来ることは、何かを得るだけではなく、それまでの生活から離れることでもあります」
空が若葉ホームの子どもたちと暮らす姿を、賢司は知らない。
空にとって、施設は出なければならない場所であると同時に、長く生活してきた場所でもある。
自分たちが東京の部屋を与えれば、それでよいわけではない。
「うちへ来れば幸せになれると言うのは、その子の過去を否定することにもなります」
鈴木の言葉が、賢司の胸へ残った。
「私は何度も失敗しました。食べ物を残されて腹を立てたこともあります。学校の連絡を隠され、信じてもらえていないと落ち込んだこともありました。でも、子どもが私を信じられないことと、私が信頼できる大人であるかどうかは、別の問題でした」
鈴木は一度、息を整えた。
「信じてもらうことを求める前に、自分が信頼される行動を続ける。それしかありませんでした」
由美は前方を見たまま、目元を指で押さえた。
賢司は声をかけなかった。
話が終わると、質疑応答の時間になった。
参加者から、仕事と養育の両立、子どもの年齢、実親との関係、住居の広さなどについて質問が出た。
前方に座っていた男性が手を挙げた。
「十代の子どもを里親家庭で受け入れることもあるのでしょうか」
相沢が頷いた。
「あります。ただ、年齢が高くなるほど本人の意思が重要になります。学校や友人関係、地域とのつながりもありますから、大人の都合で生活環境を変えることはできません」
「高校生の場合、卒業までの短い期間しかありませんよね」
「十八歳になったら関係が終わるわけではありません」
相沢は答えた。
「法的な支援の区切りと、人と人との関係の区切りは同じではありません。むしろ、進学、就職、一人暮らしなど、若者が家庭を必要とする場面は十八歳以降にもあります」
賢司はペンを止めた。
「ただし、支えるとは、人生を代わりに決めることではありません。本人が何を望むのかを聞き、一緒に考え、失敗しても戻ってこられる場所でいることです」
空は、自分の生活を自分で決めようとしていた。
東京で働くという計画も、進学しないという判断も、自分で考えたものだ。
二人が経済的な援助を申し出れば、空の選択肢は増えるかもしれない。
一方で、空が自分で決めようとしている人生へ、知らない大人の希望を持ち込むことにもなる。
賢司は資料の余白へ、一つだけ書いた。
決めるのは本人。
説明会は正午に終わった。
参加者がアンケートを記入し、席を立ち始める。
由美は最後の「個別相談を希望しますか」という項目に、丸をつけた。
「相談するのか?」
賢司が尋ねる。
「ここまで来たんだもの」
「何を聞く?」
「空さんの名前は出さない方がいいわよね」
「特定できる情報は話さない方がいい」
「旅先で施設の子に会ったことだけ伝える?」
賢司は少し考えた。
「それでいいと思う」
アンケートを受付へ渡すと、十五分ほど待つよう案内された。
ほかの参加者が帰り、会議室には数人だけが残った。
賢司は封筒から資料を出し入れしながら、何を話すべきか整理した。
自分たちは子どもがいない。
旅先で高校生の少女と出会った。
児童養護施設で暮らし、卒業後は一人で東京へ出るつもりだと聞いた。
何かできることがあるのか知りたい。
短くまとめれば、それだけだった。
相沢が会議室へ戻ってきた。
「お待たせしました。隣の相談室へどうぞ」
案内された部屋には、小さな丸テーブルと三脚の椅子が置かれていた。
相沢が二人の向かいへ座る。
「今日は、どのようなことをお聞きになりたいですか?」
賢司は準備していた順番で話し始めた。
二週間前、旅行先で道に迷ったこと。
食堂で働く高校生に道を教えてもらったこと。
夜の店で偶然再会し、児童養護施設で暮らしていると知ったこと。
「その方は、高校卒業後に東京へ出て働くと話していました」
賢司は続けた。
「進学は費用がかかるため考えていないそうです。知っている人もいないと言っていました」
相沢は途中で口を挟まず、最後まで聞いた。
「それで、私たちに何かできることがあるのかと思って」
由美が言った。
相沢は、すぐには答えなかった。
「そのお子さんから、助けてほしいと言われましたか?」
最初の質問だった。
「いいえ」
由美が答えた。
「何かに困っていると、ご本人が話しましたか?」
「東京へ一人で行くのが怖いとは言いました。でも、困っているとは」
由美の声が小さくなった。
「言っていません」
「お二人は、その方へどのようなことをしてあげたいと思っていますか?」
「それが分からないので、相談に来ました」
賢司が答えた。
相沢は頷いた。
「分からないと認めて、立ち止まったことは大切だと思います」
責められているわけではない。
それでも賢司には、胸の内を見透かされているような居心地の悪さがあった。
「経済的な支援なら可能です」
賢司は言った。
「大学や専門学校へ行きたいのであれば、学費を援助することも考えられます。東京で暮らすための住居や、就職先を探す手助けも」
「それを申し出た場合、その方は断れるでしょうか」
相沢が尋ねた。
「断ることはできると思います」
「本当に?」
賢司は言葉を止めた。
「大人から学費を出すと言われた十代の子どもが、何の負担も感じずに断れるでしょうか。受け取った後で、期待に応えなければならないと思わないでしょうか」
「見返りを求めるつもりはありません」
「求めていなくても、子どもがそう感じることがあります」
相沢の声は穏やかなままだった。
「これまで大人との関係で傷ついた経験がある子どもほど、親切の後に何を求められるのかを考えます。感謝し続けなければならないのか。言うことを聞かなければ見捨てられるのか。大人の機嫌を損ねてはいけないのか」
空が、何度も「大丈夫です」と答えた姿を思い出した。
賢司は自分の提案が、空にとって単純な援助にはならないことを初めて具体的に感じた。
相沢は由美へ目を向けた。
「お二人にお子さんはいらっしゃいますか?」
「いません」
由美が答えた。
「失礼でなければ、子どもを持たないことを選ばれたのか、持つことを望んでいたのか、お聞きしてもよいですか?」
由美の指が、膝の上で動いた。
賢司も身体を硬くした。
初対面の人へ話すことではない。
そう思った。
けれど、相沢は自分たちの好奇心で尋ねているのではない。
「治療をしていました」
由美が答えた。
「七年前に終えました」
「そうでしたか」
相沢は同情を口にしなかった。
「その経験について、お二人でどの程度話し合っていますか?」
「治療を終えるときには話しました」
賢司が言った。
「その後は?」
「必要があれば」
「必要があると、どちらが判断しますか?」
賢司は答えられなかった。
相沢の質問は、制度についてのものではなかった。
収入や住居の広さを確認されると思っていた。
実際に尋ねられているのは、二人が長く避けてきたことだった。
「その少女と出会ってから、昔のことを話しました」
由美が答えた。
「使わなかった子ども用の食器を、まだ取っておいたことも」
賢司は由美を見た。
そのことまで話すとは思わなかった。
「空さんがうちにいるところも想像しました」
由美は続けた。
「まだ一度しか会っていなかったのに」
相沢は静かに聞いている。
「だから、自分たちが持てなかった子どもの代わりにしようとしているのではないかと、二人で話しました」
「どのような結論になりましたか?」
「分かりません」
由美は正直に答えた。
「過去と関係がないとは言い切れません。でも、その子を誰かの代わりにしたいわけでもありません」
「朝倉さんは、どうですか?」
相沢が賢司へ尋ねた。
「私も同じです」
「その方が、お二人の思い描く子どもではなかった場合も、関わり続けられると思いますか?」
「思い描く子どもというのは?」
「素直でない。感謝を示さない。成績がよくない。家の中で問題を起こす。嘘をつく。実親を求める。お二人より施設の職員を頼る。進学費用を援助しても、学校を辞める。そういう可能性もあります」
一つ一つの言葉が、賢司の胸へ落ちた。
空は礼儀正しく、働き者で、落ち着いていた。
二人が関心を持ったのは、その姿を見たからだ。
もし空が店で不機嫌な態度を取り、注文を間違え、働くことも学校へ行くことも嫌だと言っていたら、自分たちは同じように気にかけただろうか。
「すぐには答えられません」
賢司は言った。
「それでいいと思います」
相沢は頷いた。
「すぐに、何があっても大丈夫ですと答える方が危ういこともあります。実際には、何が起きるか分からないからです」
由美が手を挙げるように、わずかに右手を動かした。
「私たちは、その子がいる施設へ連絡しない方がいいのでしょうか」
「今の段階では、個人的な連絡は控えてください」
相沢ははっきり答えた。
「施設で暮らしている子どもの情報や人間関係は、慎重に扱う必要があります。施設や児童相談所には、子どもの生活を守る責任があります。善意のある方であっても、旅行先で会った大人から突然連絡が来れば、まず安全を確認しなければなりません」
「食堂へ連絡するのも?」
「その方と再会する目的であれば、お勧めしません」
由美の表情に落胆が浮かんだ。
「ただ、関心を持ってくださったこと自体が悪いわけではありません」
相沢は続けた。
「社会的養護に関わる方法は、里親だけではありません。学習支援、就労支援、施設の行事を手伝うボランティア、退所後の若者を支える活動もあります。まずは、特定のお子さんではなく、制度や支援全体を知るところから始めることができます」
「里親の登録を考えるのは、まだ早いでしょうか」
賢司が尋ねた。
「早いかどうかは、私が決めることではありません。研修を受けながら考える方もいますし、説明を聞いて、自分には難しいと判断する方もいます」
「登録したら、空さんと関われる可能性はありますか?」
由美が尋ねた。
賢司はその質問に驚いた。
相沢は少し間を置いてから答えた。
「特定のお子さんとの関係を目的に登録する制度ではありません」
由美の頬が赤くなった。
「すみません」
「謝る必要はありません。ただ、大人の希望と、子どもの生活に必要なことは分けて考える必要があります」
相沢は机の上へ、一枚の案内を置いた。
「来月から、里親制度の基礎研修が始まります。受講したからといって、登録しなければならないわけではありません。ご夫婦で参加し、考えを深めることもできます」
賢司は案内を受け取った。
日程は三日間。
土曜日と日曜日に設定されているが、最終日には個別面談も予定されている。
「今日、申し込む必要はありません」
相沢が言う。
「一度持ち帰って、お二人で話してください」
「分かりました」
相談は三十分ほどで終わった。
部屋を出る前、相沢が二人へ声をかけた。
「最後に、一つだけ」
賢司と由美は振り返った。
「そのお子さんの強さを、助けを必要としない証拠にしないでください。同時に、そのお子さんの境遇を、助けを求めている証拠にもしないでください」
由美がゆっくり頷いた。
「本人の言葉を聞くまでは、分からないということですね」
「はい」
二人はセンターを出た。
正午を過ぎ、通りには人が増えている。一階の保育施設から、子どもたちの声が聞こえた。
賢司は基礎研修の案内を封筒へ入れた。
「昼、どうする?」
由美が尋ねる。
「どこかで食べよう」
「何がいい?」
「魚以外」
由美が少し笑った。
「駅前に洋食屋があったわ」
二人は並んで歩き始めた。
しばらく進んでから、由美が言った。
「怖かった」
「何が?」
「聞かれたこと」
「治療のこと?」
「それも。空さんが、私たちの思いどおりの子じゃなかったらどうするかって聞かれたことも」
賢司にも、同じ質問が残っていた。
「私は、空さんのことを何も知らないのね」
由美が続けた。
「働いていて、礼儀正しくて、子どもに優しかった。それだけを見て、勝手に分かった気になっていた」
「僕もだ」
「もし空さんが、私たちの前で見せたのとは全然違う人だったら?」
「それを知ってから考えるしかない」
「まだ会えるかどうかも分からないのに?」
「そうだな」
由美は足を止めた。
「今日来たこと、無駄だった?」
賢司は封筒を見た。
前夜まで、制度を知れば、次に取るべき行動が分かると思っていた。
実際には、分からないことが増えた。
自分たちの動機。夫婦の関係。空が何を望んでいるか。どこまで責任を負えるのか。
「無駄じゃない」
賢司は答えた。
「少なくとも、空さんへ直接連絡する前に来てよかった」
「うん」
「僕らが考えていたより、ずっと簡単な話じゃない」
「それでも、研修を受ける?」
由美が尋ねた。
賢司はすぐに答えなかった。
駅前の横断歩道で、信号が赤に変わった。
向こう側には、学校帰りらしい中学生が何人か立っている。休日の部活動を終えたのか、全員が大きなスポーツバッグを持っていた。
信号が青になる。
賢司と由美は人の流れに混じり、道路を渡った。
洋食屋へ入り、窓際の席へ座った。
由美はオムライス、賢司はハンバーグを注文した。
料理を待つ間、賢司は封筒から研修の案内を取り出した。
「三日間か」
「仕事は?」
「土日だから問題ない」
「最終日の面談では、またいろいろ聞かれるのよね」
「たぶん」
「嫌?」
「嫌というより、慣れてない」
賢司は案内の文字を追った。
自分は、質問する側にいることが多かった。
会議でも、採用面接でも、部下との面談でも、相手の説明を聞き、足りない情報を尋ねる。
今日は、聞かれる側だった。
なぜ子どもに関わりたいのか。
夫婦で何を話してきたのか。
思いどおりにならない相手と暮らし続けられるのか。
収入や部屋の数よりも、その答えの方が重要だった。
「受けよう」
賢司は言った。
由美が顔を上げる。
「研修を?」
「うん」
「登録するかどうかは?」
「受けてから考える」
「空さんのため?」
賢司は少し考えた。
「空さんと出会わなければ、ここには来なかった」
「そうね」
「でも、研修は空さんに会うために受けるものじゃない。僕らが誰かの生活に関わることができる人間なのか、考えるために受けたい」
由美は案内へ目を落とした。
「途中で、無理だと思ったら?」
「そのときは、無理だと認める」
「空さんのことも?」
「空さんに関わることと、研修を受けることは分けて考える」
由美は少し寂しそうに見えた。
それでも、ゆっくり頷いた。
「分かった」
料理が運ばれてきた。
賢司はハンバーグへナイフを入れた。
肉汁が皿へ流れ、湯気が立つ。
「久しぶりに魚じゃないな」
由美が言う。
「三食続いたからな」
「空さんは、今日も食堂で働いているのかしら」
「たぶん」
「また、カレーを食べてる?」
「分からない」
由美はオムライスを一口食べた。
「分からないことばかりね」
「今日、それを知った」
賢司が答えると、由美は小さく笑った。
帰宅後、賢司は書斎で前夜の表を開いた。
情報は整然と並んでいる。
対象年齢。申請時期。制度の種類。連絡先。
一番下には、「本人の希望」という行が残っていた。
その右側は空欄のままだ。
賢司は表を閉じた。
新しい文書を開き、今日聞いた言葉を書き出した。
大人が子どもを選ぶのではない。
これまでの生活を否定しない。
信じてもらう前に、信頼される行動を続ける。
十八歳で関係を終わらせない。
決めるのは本人。
思いどおりの子どもでなくても関わり続けられるか。
最後に、相沢の言葉を記した。
強さを、助けが必要ない証拠にしない。
境遇を、助けを求めている証拠にしない。
賢司はしばらく画面を見た。
それから、研修申込用紙を机の上へ置いた。
氏名、住所、年齢、職業。
記入できるところから書き始める。
途中に、「研修を希望する理由」という欄があった。
賢司はペンを止めた。
旅先で一人の少女と出会ったため。
それだけでは足りない。
子どもを持てなかったため。
それだけでもない。
何かしてあげたいと思ったため。
その言葉も、今は簡単に書けなかった。
何度か書き直した末、賢司は一行だけ記した。
子どもの生活に関わる大人が負う責任を、夫婦で学びたい。
由美の分の用紙を持ってリビングへ行くと、由美はソファで説明会の資料を読んでいた。
「書いた?」
賢司が尋ねる。
「途中まで」
「理由のところは?」
「まだ」
「僕は、こう書いた」
賢司は自分の用紙を見せた。
由美は一行を読み、少し考えた。
「あなたらしいわね」
「堅すぎる?」
「ううん」
由美は自分の用紙へ向かった。
しばらくして、同じ欄へ文章を書いた。
賢司が横からのぞく。
子どもを自分たちの望む形へ変えるのではなく、その子の望む人生を支えるとはどういうことか学びたい。
「由美らしいな」
賢司が言うと、由美は用紙を手で隠した。
「見ないで」
「もう見た」
「勝手に見ないでよ」
「僕のは見せただろ」
「見せるのと、覗くのは違います」
二人は久しぶりに笑った。
申込用紙を封筒へ入れる。
空は、二人が説明会へ参加したことも、研修へ申し込もうとしていることも知らない。
今はそれでよかった。
二人が最初に向き合わなければならないのは、空の過去ではなく、自分たち自身だった。




