第五章 もう一つの日常
空が若葉ホームへ戻ったのは、午後九時二十分を過ぎた頃だった。
迎えのワゴン車が門を入ると、玄関前の照明が自動で点いた。二階建ての建物は、道路から見れば少し大きな民家に見える。薄いクリーム色の外壁に、焦げ茶色の屋根。正面玄関の脇には、子どもたちが世話をしている花壇があった。
春先に植えたパンジーは、いくつか花びらが落ちている。空は車を降りる前に、明日の朝、水をやらなければと思った。
「お疲れさま」
運転していた長谷川恵が声をかけた。
恵は四十二歳で、若葉ホームの児童指導員として働いている。夜勤の日以外は、髪を後ろで一つに束ね、動きやすい服を着ていた。今夜も灰色のパーカーに紺色のパンツを合わせている。
「ありがとうございました」
空はシートベルトを外した。
「疲れたでしょう?」
「少しだけ」
「少しだけ、ね」
恵は空の横顔を見た。
「夕食は?」
「お店で食べました」
「何を食べたの?」
「焼き魚定食です」
「昼も魚だったんじゃない?」
「お昼はカレーです」
「浜田さんのところでカレーを選ぶの、空くらいでしょうね」
恵が笑う。
空も少しだけ笑った。
「明日は何時から?」
「十時半です」
「宿題は終わってる?」
「昨日、やりました」
「それなら、帰ったらお風呂に入って寝なさい。今夜は勉強しなくていいから」
「大丈夫です」
「大丈夫かどうかは、私が決めます」
「どうしてですか」
「今日は迎えに行くまで、あなたの働く姿を見ていたから」
「店の外にいたんですか?」
「車を停める場所がなくて、少し離れたところで待ってたの。裏口から出てくる前も、まだテーブルを拭いてたでしょう?」
空は答えなかった。
九時で仕事は終わったが、ほかの従業員が忙しそうにしていたため、着替える前に空いたテーブルを片づけた。誰かに頼まれたわけではない。
「空」
「はい」
「働くことは悪くない。でも、働ける時間を全部働く時間にしなくていいのよ」
「分かってます」
「本当に?」
「分かってます」
空はワゴン車を降りた。
恵も運転席から降り、車の鍵を閉めた。
玄関の引き戸を開けると、廊下にカレーの匂いが残っていた。夕食はすでに終わっているが、食堂の明かりはまだついている。
中学生の莉子がテーブルに英語の教科書を広げ、その隣で小学四年生の芽衣が色鉛筆を並べていた。
二人とも、空が入ってくると顔を上げた。
「お帰り」
莉子が言った。
「ただいま」
「空ちゃん、遅い」
芽衣が椅子から立ち上がった。
「今日は九時まで仕事だったの」
「お土産は?」
「仕事に行ったのに、どうしてお土産があると思うの?」
「お店にいっぱい食べ物あるでしょう」
「売り物を勝手に持って帰ったら、泥棒になるの」
空が答えると、芽衣は口を尖らせた。
「お魚、余らなかった?」
「余っても持って帰れないよ」
「けち」
「空に言っても仕方ないでしょう」
莉子が教科書から顔を上げた。
中学二年生の莉子は、空と同じ二階の女子居室で暮らしている。髪を短く切り、普段は口数が少ないが、芽衣には姉のような態度を取る。
「芽衣、お風呂は?」
恵が尋ねた。
「入った」
「歯磨きは?」
「まだ」
「九時半になったら歯を磨いて、部屋へ行くこと」
「明日、学校ないもん」
「学校が休みでも、寝る時間は同じです」
芽衣は不満そうに空を見た。
助けを求めているらしい。
「恵さんの言うとおり」
空が答えると、芽衣はさらに頬を膨らませた。
「空ちゃんまで、恵さんみたいになってる」
「明日、起きられなくても知らないからね」
「起きられるもん」
「じゃあ、歯磨きしておいで」
芽衣は色鉛筆を箱へ戻し、椅子を引いた。
廊下へ出る直前、空を振り返る。
「寝る前に、部屋に来て」
「何かあるの?」
「絵、見せる」
「分かった。お風呂から出たら行く」
芽衣は満足そうに頷き、洗面所へ走った。
「走らない!」
恵の声が廊下へ響いた。
空は自分のリュックを持ち直した。
「先にお風呂へ入ってきます」
「そうしなさい。洗濯物は籠へ入れておいてね」
「はい」
階段を上がると、二階の廊下には消毒液と洗濯洗剤の匂いが漂っていた。
若葉ホームには、今、二歳から十七歳までの子どもが二十二人暮らしている。建物の中は年齢と性別によって三つの生活単位に分けられ、空がいる女子の区画では六人が生活していた。
空の部屋は、廊下の一番奥にある。
一人部屋ではない。二段ベッドを挟んで、莉子と同室だった。
それでも、乳児院から移ってきたばかりの頃に暮らした六人部屋と比べれば、自分の場所と呼べるものがある。
学習机が一つ。鍵のかかる小さな引き出し。ベッド脇の棚。衣類を入れる三段の収納ケース。
空はリュックを机の横へ置き、作務衣を脱いだ。
右の肩が少し痛んだ。
一日中、料理や食器を運んでいたせいだろう。腕を上げると、背中まで筋が引かれる。
鏡の前で髪をほどく。
結び目の跡が残り、肩までの髪が不揃いに広がった。
昼間に会った夫婦の顔が浮かんだ。
道を尋ねてきたときは、ただの観光客だと思った。
夫の方は運転席から道を尋ね、妻の方は助手席から何度も礼を言った。食堂へ来たことには少し驚いたが、道を教えたのだから不自然ではない。
夜の居酒屋で再び顔を合わせたときは、さすがに警戒した。
自分を捜して来たのかもしれない。
最初にそう考えた自分が、空は少し嫌だった。
由美と名乗った女性は、本当に驚いた顔をしていた。旅館で勧められた店へ来ただけだと聞き、空も偶然だと納得した。
それでも、施設のことを知られた後は、居心地が悪かった。
かわいそうと言われることには慣れている。
大変だったね。
偉いね。
頑張っているね。
言う人たちに悪意がないことも知っていた。
けれど空には、何を大変だと思われているのか分からない。
施設で暮らしていることなのか。親の顔を知らないことなのか。高校生で働いていることなのか。
空にとって、それらは特別な出来事ではなく、毎日続いている生活だった。
由美は、かわいそうとは言わなかった。
賢司も、無理に励まさなかった。
そのことが、かえって空の心に残っていた。
空は着替えを持ち、浴室へ向かった。
脱衣所には、先に入った芽衣のものらしい水滴が床に残っている。空は足拭きマットを直し、濡れた場所を小さなタオルで拭いた。
浴室の鏡は曇り、まだ温かい湯気が残っていた。
シャワーを浴びると、肩の痛みが少しやわらいだ。
髪を洗いながら、空は賢司に尋ねられたことを思い出した。
大学や専門学校は考えていないのか。
進学について聞かれることは珍しくない。
担任にも、若葉ホームの職員にも、同じことを尋ねられた。
空はそのたび、働くと答えている。
理由も決まっていた。
進学にはお金がかかる。
奨学金は借金になる。
施設を出た後は、自分で家賃と生活費を払わなければならない。
誰に聞かれても同じように答えられる。
それなのに、今夜は少しだけ言葉が詰まった。
東京で働きたいと話すと、賢司は具体的に何がしたいのかと尋ねた。
空には答えられなかった。
東京へ行きたい。
事務か販売の仕事をしたい。
それは嘘ではない。
ただ、なぜ東京なのかと聞かれたら、うまく説明できなかった。
この町から離れたいわけではない。
海辺食堂の浜田夫妻も、居酒屋の店主も、若葉ホームの職員も、自分に親切にしてくれる。
学校にも、話をする友人はいる。
それでも空は、この町にいる限り、「若葉の子」であり続ける気がしていた。
どこの誰の子なのか。
なぜ施設にいるのか。
何歳でここへ来たのか。
空が話す前から、知っている人がいる。
東京なら、誰も自分を知らない。
親のいない子ではなく、水瀬空として始められる。
そう思っていた。
浴室を出ると、廊下の時計は九時四十五分を示していた。
空は髪を乾かし、芽衣の部屋へ向かった。
ドアを軽く叩く。
「入っていい?」
「いいよ」
部屋には芽衣と、小学六年生の花音がいた。
二人部屋の床いっぱいに画用紙が広げられている。芽衣はベッドの上に座り、空が来るのを待っていた。
「これ」
芽衣が一枚の絵を差し出した。
青い海と、赤い屋根の家が描かれている。家の前には、大小七人ほどの人が立っていた。
「上手に描けたね」
空は画用紙を受け取った。
「これが恵さん。こっちが園長先生」
芽衣が一人ずつ説明する。
「これ、私?」
空は端に描かれた、髪の長い人物を指した。
「そう。空ちゃん」
「どうして私だけ、みんなから離れてるの?」
「仕事に行くところだから」
人物の隣には、籠のついた自転車も描かれていた。
「よく見てるね」
「空ちゃん、いつも仕事に行くもん」
芽衣は画用紙をのぞき込んだ。
「高校を卒業したら、東京に行くの?」
突然の質問だった。
「誰に聞いたの?」
「恵さんと園長先生が話してた」
「大人の話を勝手に聞いちゃだめでしょう」
「聞こえたんだもん」
芽衣は唇を尖らせた。
「東京へ行ったら、ここに帰ってこない?」
「まだ決まってないよ」
「さっき、行くって言った」
「行けたらいいなって思ってるだけ」
「帰ってこないの?」
同じ質問を繰り返した。
空はすぐに答えられなかった。
施設を出た人の中には、祭りや年末に顔を見せる人もいる。職員へ相談するため、何度も訪ねてくる人もいる。
一度も戻ってこない人もいた。
空は、自分がどうなるのか想像できなかった。
東京で仕事を見つけ、生活を続けられれば、この町へ戻る理由はなくなるかもしれない。
それでも芽衣に、そのまま伝えることはできなかった。
「夏祭りには帰ってくるよ」
空は言った。
「絶対?」
「仕事が休みだったら」
「絶対がいい」
「まだ二年も先の話でしょう」
「二年って、すぐだよ」
芽衣の目に涙が浮かんだ。
空は困って、画用紙を花音へ渡した。
「花音、何とか言って」
「空ちゃんが約束すればいいじゃん」
花音は自分のベッドで漫画を読みながら答えた。
「できない約束はしない方がいいの」
「大人みたい」
「私はもう高校生だから」
空が言うと、芽衣は鼻をすすった。
「大人になったら、みんないなくなる」
その言葉が、空の胸へ刺さった。
若葉ホームでは、職員も入れ替わる。
結婚や出産、転職、体調。理由はそれぞれ違う。
ずっと一緒にいると話していた職員が、次の春にはいなくなることもあった。
空も、何度も見送ってきた。
最初のうちは、手紙を書くと約束した。住所を聞き、休みの日には遊びに来てほしいと頼んだ。
何通か届いた後、手紙は少しずつ減った。
新しい勤務先が忙しいのだと聞かされた。
新しい生活が始まったのだから仕方ないと、自分に言い聞かせた。
やがて空は、去る人へ約束を求めなくなった。
今、芽衣も同じ不安を抱えている。
「いなくなっても、芽衣のことを忘れるわけじゃないよ」
空はベッドの端へ座った。
「見えないのに?」
「見えなくても」
「電話する?」
「するよ」
「毎日?」
「毎日は無理」
芽衣の眉が下がった。
「でも、誕生日には電話する。夏祭りにも、できるだけ帰ってくる」
「絶対?」
空はしばらく考えた。
「夏祭りは約束できない。でも、誕生日の電話は約束する」
芽衣は空の顔を見た。
「本当?」
「本当」
「忘れたら?」
「恵さんに電話してもらって。空が忘れてますって」
ようやく芽衣が笑った。
空は芽衣の頭を撫で、立ち上がった。
「もう寝なさい」
「空ちゃんも?」
「私も寝る」
「おやすみ」
「おやすみ」
部屋を出ると、廊下に恵が立っていた。
どこまで聞いていたのか分からない。
「覗き聞き?」
空が尋ねる。
「廊下にいただけ」
「同じでしょう」
「芽衣、泣いてた?」
「少し」
恵は閉じられたドアを見た。
「あの子、最近、職員が辞めたときのことを思い出すみたいで」
「私が東京へ行くって話したから」
「空のせいじゃないわ」
「でも、園長先生と話してたのを聞いたって」
「ごめん。食堂で話すべきじゃなかった」
恵は素直に謝った。
「空の進路については、また時間を取って話しましょう」
「働くって決めてます」
「決めているのは知ってる。でも、ほかの選択肢を見ないまま決める必要はない」
「大学へ行けってことですか?」
「大学でも、専門学校でも、就職でもいい。全部を知った上で、空が選べばいいと言ってるの」
空は廊下の窓へ目を向けた。
外は暗く、室内の照明がガラスに反射している。空の隣に、恵の姿も映っていた。
「大学へ行ったら、施設に長く置いてもらえるんですか?」
「条件によっては、支援を延長できることもある」
「絶対じゃないでしょう」
「絶対ではないわね」
「学費も必要です」
「給付金や奨学金もある」
「借りる奨学金なら、返さないといけません」
「返さなくていいものもある」
「全員がもらえるわけじゃない」
「そうね」
恵は、空の言葉を簡単に否定しなかった。
「でも、調べる前に諦めるのは違うと思う」
「諦めてません」
「本当に?」
「私は働きたいんです」
「何の仕事をしたいの?」
居酒屋で賢司にも尋ねられた質問だった。
空は答えられなかった。
恵は返事を急かさなかった。
「仕事をすること自体が目的になってない?」
「お金が必要だから」
「生活するには必要ね」
「だったら」
「生活するためだけに働くのは、思っているより大変よ」
恵は窓ガラスに映る空を見た。
「仕事の中に、少しでも好きなことや得意なことがあった方が続けやすい。空が何をしたいのか、まだ考える時間はある」
「二年しかありません」
「二年もあるの」
空は何も答えなかった。
「今日は寝なさい」
恵が言った。
「はい」
「明日の午後、進路資料を一緒に見ましょう」
「仕事があります」
「仕事へ行く前。一時間だけ」
「分かりました」
空は自分の部屋へ戻った。
莉子はすでに二段ベッドの下へ入り、スマートフォンを見ていた。若葉ホームでは、スマートフォンを使える時間が決められている。消灯前には、一階の職員室へ預けなければならない。
「遅かったね」
莉子が言った。
「芽衣の部屋にいた」
「泣かれた?」
「どうして知ってるの?」
「芽衣、最近ずっと、空ちゃんが卒業したらどうするのって聞いてくるから」
「莉子には聞かないの?」
「私はまだ中二だもん」
「すぐ高校生になるよ」
「空ちゃんみたいに働かない」
莉子はスマートフォンを置いた。
「部活するから」
「何部?」
「まだ決めてないけど」
「決めてないんだ」
「いいの。時間あるから」
恵と同じことを言われ、空は苦笑した。
「空ちゃん、今日の昼、変な人に会ったんでしょう?」
「誰から聞いたの?」
「浜田さんが恵さんに電話してた」
「変な人じゃない。道を聞かれただけ」
「夜の店にも来たんでしょ?」
「偶然」
「男の人?」
「夫婦」
「何歳?」
「四十代くらい」
「何話したの?」
「注文を聞いた」
「それだけ?」
「施設にいることも話した」
莉子が身体を起こした。
「どうして?」
「大沢さんが言ったから」
「あのおじさん、すぐ喋るよね」
莉子も大沢を知っているらしい。
「かわいそうって言われた?」
「言われてない」
「じゃあ、偉いね?」
「それも言われてない」
「珍しい」
「普通に話しただけ」
空は机の引き出しからドライヤーを出した。
「女の人の方は、よく喋るけど」
「どんな人?」
「分からない」
「また会いたい?」
空は答える前に考えた。
もう会うことはないだろう。
東京から来た旅行客だ。この町へ再び来るとしても、いつになるか分からない。
「別に」
空は答えた。
「会わなくても困らない」
ドライヤーのスイッチを入れる。
温かい風が音を立て、莉子との会話はそこで終わった。
翌朝、空は六時半のアラームで目を覚ました。
莉子は布団の中で眠っている。
空は音を立てないように着替え、髪をまとめた。
日曜日でも、若葉ホームの起床時間は平日と大きく変わらない。朝食は七時半。自分の担当箇所の掃除を終えてから食堂へ集まる。
空の今週の当番は玄関と花壇だった。
外へ出ると、朝の空気には潮の匂いが混じっている。門の向こうには、静かな道路が続いていた。
空はホースを伸ばし、花壇へ水をやった。
パンジーの葉に水滴がつき、朝の光を反射する。
「空ちゃん、おはよう」
背後から声がした。
振り返ると、芽衣がパジャマのまま玄関から出てきている。
「まだ着替えてないの?」
「お花に水あげたい」
「先に顔を洗って、着替えてきなさい」
「少しだけ」
芽衣は空からホースを受け取ろうとした。
「服が濡れるよ」
「濡れない」
「昨日も大丈夫って言って、お水こぼしたでしょう」
「それ、私じゃない」
「そうだっけ?」
「お店の子でしょ?」
空は少し驚いた。
居酒屋から戻って、食堂で男の子が水をこぼした話をしたらしい。自分では覚えていなかった。
「よく覚えてるね」
「空ちゃん、何でも話すもん」
空はホースの水を止めた。
自分では、施設の子どもたちへ仕事の話を詳しくしているつもりはなかった。
それでも、家へ帰れば、誰かが「今日はどうだった」と尋ねる。
食堂で失敗したこと。常連客に言われたこと。まかないがおいしかったこと。
気づけば、空は話している。
東京へ行けば、仕事から帰っても、今日の出来事を聞く人はいないかもしれない。
その考えが浮かび、空はすぐに打ち消した。
一人で暮らすとは、そういうことだ。
自由に使える時間と、自分だけの部屋がある。何時に食事をするかも、何を買うかも、自分で決められる。
空はずっと、その自由を望んでいた。
「顔を洗っておいで。着替えたら、残りをお願いするから」
「本当?」
「本当」
芽衣は走って玄関へ戻った。
「走らない!」
空が声をかける。
芽衣は急に歩きへ変わり、大げさにゆっくり進んだ。
朝食の後、空は部屋で学校の課題を開いた。
数学の問題集を三ページ進め、英単語を覚える。
勉強が特別好きなわけではない。
ただ、成績が悪ければ、就職先の選択肢が減ると聞いていた。遅刻や欠席も、推薦を受けるときに影響する。
空にとって、学校の成績は将来へ持っていける数少ないものだった。
十時になると、恵が部屋を訪ねてきた。
手には何冊かの資料を持っている。
「一階の相談室へ来られる?」
「今、行きます」
相談室は、玄関に近い小さな部屋だった。
子どもと職員が一対一で話すときや、学校の教師、児童相談所の担当者が来たときに使われる。
机の上には、大学や専門学校の案内、奨学金に関する冊子、就職支援の資料が並べられていた。
「全部見るんですか?」
空が尋ねる。
「今日は見るだけ。決めなくていい」
「仕事へ行く時間があります」
「一時間で終わります」
恵は最初に、卒業後の生活について説明した。
進学した場合の住まい。給付金。奨学金。生活費を補うためのアルバイト。施設を出た人が利用できる相談窓口。
空がすでに知っている内容もあった。
初めて聞くものもあった。
「これは返さなくてもいいんですか?」
空は一冊の資料を指した。
「条件を満たして採用されればね」
「何人くらい?」
「年度によって違うわ。成績や生活状況、進学先も関係する」
「採用されなかったら?」
「ほかの制度と組み合わせることもできる」
「絶対じゃない」
「絶対ではない」
恵は同じ答えを繰り返した。
空は資料を閉じた。
「だったら、最初から就職した方が確実です」
「確実という意味では、就職だって同じよ」
「学校から推薦があります」
「入社した会社が、ずっと続くとは限らない。仕事が空に合わないこともある」
「それは、誰でも同じでしょう」
「そのとおり」
恵は頷いた。
「だからこそ、どちらにも不確実さがある。進学だけを不確実だからと外す必要はないと言ってるの」
空は答えなかった。
恵は大学の案内を一冊、空の前へ置いた。
県内の私立大学だった。
経営学部、文学部、社会福祉学部。ページをめくると、明るい教室や図書館、芝生の広場の写真が並んでいる。
学生たちは笑い、同じ色の大学案内を胸の前へ持っていた。
「きれいすぎる」
空は言った。
「何が?」
「写真が。こんなに楽しそうな人ばかりじゃないでしょう」
「宣伝用だからね」
恵は笑った。
「仕事の求人票だって、いいことしか書いてないわ」
「だったら、信じられません」
「信じるためじゃなく、選択肢を知るために見るの」
空は次のページを開いた。
学費の欄に書かれた数字を見て、手が止まる。
入学金。授業料。施設費。
給付金を受けられたとしても、それだけで足りるとは思えなかった。
「やっぱり無理です」
「今、決めない」
「数字を見れば分かります」
「数字だけで全部は決まらない」
「お金がなければ、学校には行けません」
空は案内を閉じた。
恵はしばらく何も言わなかった。
「空は、進学したくないの?」
静かな声で尋ねた。
「したいかどうか、考えたことがありません」
「どうして?」
「できないことを考えても仕方ないから」
恵の目がわずかに揺れた。
空は視線を逸らした。
「もう時間です」
腕時計を見ると、十時四十分だった。アルバイトの開始は十時半だが、浜田夫妻には少し遅れると連絡してある。
「この資料、部屋へ持っていっていい?」
恵が尋ねた。
「いりません」
「捨てるわけじゃない。机の上に置いておくだけ」
「見ません」
「それでもいい」
恵は大学案内と奨学金の冊子を重ねた。
「邪魔になったら、返して」
空は返事をしなかった。
着替えて玄関へ向かうと、芽衣が自転車の近くに立っていた。
「仕事?」
「うん」
「今日も遅い?」
「今日は三時まで」
「帰ってきたら、一緒にテレビ見て」
「宿題が終わっていたらね」
「終わらせる」
「じゃあ、約束」
空は自転車の鍵を外した。
門を出ると、海からの風が頬へ当たった。
昨日と同じ道を進む。
青い自動販売機。古い郵便局。赤いポスト。
昨日、賢司と由美へ描いた地図と同じ順番で、景色が後ろへ流れていった。
二人はもう東京へ帰っただろうか。
そんな考えが浮かんだ。
空はペダルを踏む足へ力を入れた。
旅行先で会っただけの人たちだ。
もう会うことはない。
食堂へ着くと、浜田が店の前を掃いていた。
「おはよう。昨日はお疲れさま」
「おはようございます。遅くなってすみません」
「まだ開店前だから大丈夫。昨日のお客さん、いい人たちだったね」
「どのお客さんですか?」
「東京から来た夫婦。夜も会ったんでしょう?」
空は自転車のスタンドを立てた。
「偶然です」
「奥さんの方、あんたのことを気にしてたよ」
「そうですか」
「エプロンの糸の話をしてたって」
浜田は空の右ポケットを見た。
「新しいのを買おうか?」
「まだ使えます」
「布が薄くなってるでしょう」
「もう一回縫えば大丈夫です」
「何でも使えなくなるまで使うんだから」
浜田は呆れたように言い、店の中へ戻った。
空はエプロンを身につけた。
右ポケットの青い糸が、昨日より少し長く伸びていた。
指で引くと、縫い目の一つがほどけた。
空は裏口近くの小さな棚から裁縫箱を出した。白、黒、赤、青。何色かの糸が入っている。
昨日までは青い糸しかないと思っていた。
よく見れば、底に赤い糸巻きがあった。
空は少し迷い、それを手に取った。
白いエプロンへ赤い糸を使えば、表からも目立つ。
由美は、内側だから赤でもいいと言っていた。
見えないところまで正しくなくていい。
空はその言葉を思い出した。
結局、赤い糸を箱へ戻し、青い糸を針に通した。
同じ場所を三針進み、二針戻る。
縫い目は相変わらず曲がったが、離れた布同士はもう一度つながった。
空は糸の端を結び、鋏で切った。
それから店の窓を開け、営業中の札を外へ出した。




