第四章 不在の輪郭
月曜日の朝、由美は目覚まし時計が鳴る前に目を覚ました。
窓の外はまだ薄暗く、カーテンの隙間から見える空には、夜の色が残っている。隣では賢司が仰向けに眠っていた。枕元に置いたスマートフォンの充電ランプが、小さく点滅している。
旅行から戻った翌朝だった。
身体には車に長く乗っていた疲れが残っていたが、休むわけにはいかない。由美は音を立てないように布団を抜け、寝室を出た。
リビングには、前日の夕方に取り込んだ洗濯物が畳まれたまま置かれている。旅行鞄は空にしたものの、まだクローゼットへ戻していなかった。
由美はキッチンの照明をつけた。
食器棚から、いつものマグカップを二つ取り出す。
コーヒー豆を量っていると、旅館の朝食で賢司が口にした言葉を思い出した。
それを言ったのは空さんだ。
特別な言葉ではない。
それなのに、水瀬空という名前が、東京の自宅へ戻ってからも二人の会話の中に残っていた。
コーヒーミルのスイッチを押す。豆の砕ける音が、まだ眠っている部屋へ広がった。
「早いな」
背後から声がした。
賢司が寝癖のついた髪のまま、書斎から出てきた。起きてすぐにメールを確認していたらしい。片手にはスマートフォンを持っている。
「旅行の翌日くらい、仕事のメールを見ないでいられないの?」
「土日に来たものを確認しただけだ」
「会社は、あなたがいなくても二日くらい動くでしょう」
「動くからこそ、何が動いたかを知っておく必要がある」
由美は一つ目のカップへコーヒーを注いだ。
「変わらないわね」
「旅行へ行ったくらいで変わらないよ」
賢司はテーブルへ座った。
由美は二つ目のカップを自分の前へ置き、冷蔵庫からヨーグルトを取り出した。
「今日は何時に帰る?」
「七時くらい。会議が長引けば、もう少し遅いかもしれない」
「夕食、家で食べる?」
「そのつもり」
「分かった」
会話は、旅行前の朝と何も変わらなかった。
由美はヨーグルトへ蜂蜜を垂らし、スプーンで混ぜた。
「昨日の話だけど」
賢司がカップを持ち上げたまま、由美を見る。
「施設のこと?」
「うん」
「今日は帰ったら遅いでしょう。急がなくてもいいわ」
「そうだな」
賢司はコーヒーを飲んだ。
二人とも、空の名前を口にしなかった。
名前を出せば、旅行の続きを始めてしまうように感じられた。
午前八時前、由美は家を出た。
駅へ向かう道には、通勤する人たちが途切れなく続いている。制服姿の中学生が、自転車で由美の横を通り過ぎた。
駅のホームには、私立高校の制服を着た少女たちが並んでいた。同じバッグに、それぞれ違うマスコットをつけている。誰かがスマートフォンの画面を見せると、三人が同時に笑った。
由美は少し離れた場所に立ち、電車を待った。
少女たちを見たからといって、空と比べるべきではない。
空にも学校の友人がいるかもしれない。制服にマスコットをつけ、休み時間に笑っているかもしれない。二日間のわずかな時間しか知らない由美には、何も分からない。
電車が到着し、ホームに風が吹いた。
由美は混雑した車内へ乗り込んだ。
出版社の販売企画部は、月曜日の朝から慌ただしかった。
週末に開催された著者イベントの報告、書店から届いた追加注文、今月刊行される実用書の販促会議。由美の机には確認を待つ書類が重ねられ、パソコンには未読のメールが四十件近く届いている。
コートを椅子の背に掛けると、隣の席の真帆が顔を出した。
「おはようございます。伊豆、どうでした?」
真帆は入社六年目で、由美と同じ児童書の販促を担当している。結婚したばかりで、先週も新居の家具について相談された。
「よかったわよ。海もきれいだったし、温泉にも入れた」
「写真あります?」
「海の写真ばかりだけど」
由美はスマートフォンを取り出した。
旅館の窓から撮った水平線。美術館の庭に咲いていた白い薔薇。海辺食堂で食べた、あじのたたき丼。
真帆が画面を見て声を上げた。
「おいしそう。これ、どこのお店ですか?」
「道に迷って、偶然見つけたの」
「そういうお店が一番いいんですよね」
「高校生くらいの女の子が道を教えてくれて」
空のことを話しかけ、由美は言葉を止めた。
施設で暮らしていることも、昼と夜に働いていたことも、由美が人へ話してよいことではない。
「その子が働いている食堂だったの」
「すごい偶然」
「夜に入った居酒屋でも、その子が働いていたのよ」
「一日に二回も? 余程縁があるんですね」
真帆は笑いながら言った。
縁。
その言葉が、由美の胸へ小さく引っかかった。
「偶然が重なっただけよ」
由美はスマートフォンを伏せた。
「そういえば、お土産を買ってきたから、後で休憩室に置くわね」
「ありがとうございます」
真帆は自分の席へ戻った。
由美もパソコンへ向き直り、届いているメールを上から確認した。
午前中は会議が二つ続いた。
新刊の表紙案について営業部と意見が合わず、予定していた時間を二十分超えた。続く会議では、春休みに実施する児童書フェアの対象作品を決めた。
由美が担当するのは、家族を題材にした絵本だった。
父親と母親、二人の子ども、犬が一匹。
表紙には、四人と一匹が手をつないで歩く姿が描かれている。
「親子で読んでもらえる内容ですから、家族層の多い郊外店を中心に展開しましょう」
営業担当者が言った。
「母の日まで継続して置けるデザインにした方がいいと思います」
別の担当者が続ける。
由美は絵本の表紙を見た。
家族層。親子。母の日。
仕事で何度も使ってきた言葉だった。
子どもがいないことを人に尋ねられたときほどの痛みは、もう感じない。それでも、ときどき自分が家族という輪の外側に立っているような気分になる。
賢司と二人で暮らす自分たちも家族だ。
そう言い切れるようになるまで、由美には時間が必要だった。
「朝倉さん?」
名前を呼ばれ、由美は顔を上げた。
「すみません。どこまで決まりました?」
「展開店舗の話です。郊外店だけでなく、駅前の小型店にも置けないかという案が出ています」
「そうですね。子どもと暮らしていない人が手に取ることもありますから、家族向けと限定しすぎない方がいいと思います」
由美は表紙へ指を置いた。
「贈り物として選ぶ人もいます。祖父母や親戚だけでなく、学校や施設の方が購入することもあるので」
会議室にいた何人かが頷いた。
発言した後になって、施設という言葉を口にしたことへ気づいた。
空を意識して選んだ言葉なのか、自分でも分からなかった。
昼休み、由美は一人で会社近くのカフェへ入った。
普段なら同僚と食べることが多いが、会議が長引き、時間がずれてしまった。
窓際の席へ座り、サンドイッチとコーヒーをテーブルへ置く。
スマートフォンを開くと、検索履歴の上に「児童養護施設」という予測が表示された。前夜、入力しかけたまま消した言葉が残っていたらしい。
由美はしばらく画面を見ていた。
それから検索欄に、「児童養護施設 高校卒業後」と入力した。
表示された記事を、上から順に開いた。
施設を出た後の住まい。進学費用。就職。生活費。保証人。相談相手。
公的な説明もあれば、支援団体の活動報告や、施設を出た経験を持つ人のインタビューもあった。
すべてが空に当てはまるわけではない。
そのことを忘れないようにしながら、由美は画面を読み進めた。
高校卒業後も一定の条件で支援を受けられる場合がある。大学へ進学する人もいる。奨学金や給付金、家賃を補助する制度もある。
由美が昨夜想像したほど、何もないわけではなかった。
同時に、制度があるから不安がなくなるわけでもなかった。
申請の時期や条件を知り、自分で手続きを進めなければ利用できないものも多い。保証人を求められる場合もある。生活の中で困ったとき、気軽に連絡できる相手がいないという経験談もあった。
サンドイッチを持ったまま、由美の手が止まった。
空は、どこまで知っているのだろう。
施設の職員から説明を受けているかもしれない。すでに進路について相談しているかもしれない。
それでも空は、進学には借金が必要で、働く方がいいと話していた。
由美は記事を閉じた。
次のページを開きかけ、スマートフォンを伏せる。
調べるだけと言いながら、空の人生を画面の中へ探しているような気持ちになった。
目の前のサンドイッチは、まだ半分以上残っていた。
「無理に食べて具合が悪くなる方が困りますから」
昼間の食堂で聞いた空の声が戻ってきた。
由美は一口ずつ、ゆっくり食べた。
仕事を終えたのは午後七時半だった。
会社を出ると、細かな雨が降っていた。傘を持っていなかったため、駅まで小走りで向かう。
電車の中から賢司へ連絡すると、彼も会議が長引き、まだ会社にいると返事が来た。
由美は最寄り駅前のスーパーへ寄り、夕食の材料を買った。
鶏肉、長葱、豆腐、白菜。
帰宅して鍋の用意を始める。
野菜を切っていると、玄関の鍵が開く音がした。
「ただいま」
「お帰りなさい」
賢司は濡れたコートを玄関で脱ぎ、ハンガーへ掛けた。
「雨、降ってたのか」
「会社を出たときから」
「傘、持っていかなかったのか?」
「朝は晴れてたでしょう」
「天気予報では夜から雨だった」
「昨日まで旅行していた人が、月曜日の天気まで確認する?」
「普通はする」
「賢司の普通は、世間の普通より細かいのよ」
賢司は手を洗い、キッチンをのぞいた。
「鍋?」
「簡単だから」
「手伝う」
「じゃあ、豆腐を切って」
二人で食事の準備をした。
賢司が豆腐を切り、由美が鍋へだしを張る。切った野菜を皿へ盛り、卓上コンロを出した。
旅行前と変わらない手順だった。
食べ始めてしばらくしてから、賢司が口を開いた。
「調べた?」
由美は白菜を取り皿へ移す手を止めた。
「どうして分かったの?」
「僕も調べたから」
「いつ?」
「昼休み」
二人は顔を見合わせた。
「何を見た?」
由美が尋ねる。
「児童養護施設の仕組みと、退所後の支援。自治体や支援団体のページを少し」
「私も同じ」
賢司は鶏肉を口へ運んだ。
「僕らが思っていたより、支援制度はある」
「でも、利用できる条件が複雑なものもあるわね」
「進学する人もいる」
「空さんは、そういうことを知っているのかしら」
「施設で説明を受けていると思う」
「受けていても、お金がかかるから進学しないって決めていた」
「本人が働く道を選んでいる可能性もある」
「本当は進学したいのに、諦めている可能性だってあるでしょう?」
由美の声が少し強くなった。
賢司は箸を置いた。
「どちらも可能性だ。僕らには分からない」
「分からないで終わらせるの?」
「終わらせるとは言ってない」
「でも、賢司は朝からずっと、分からない、決めつけるなって」
「決めつけるなとは言ってる」
「じゃあ、どうすればいいの?」
「今は知ることから始めると、昨日決めただろう」
「調べたわ。それで、空さんが一人で東京へ出るのは大変だって、前より分かった」
「それは一般的な情報だ。空さん自身の状況とは別だ」
「一般的な情報でも、十六歳の子が一人で生活を始めるのは大変でしょう」
「だからといって、僕らが何かを申し出れば解決する話じゃない」
鍋の中で、だしが小さく沸騰していた。
由美は火力を弱めた。
「私、そんなこと言ってない」
「顔に書いてある」
「何が?」
「空さんを助けたいと思ってる」
由美は賢司を見た。
「思ったらいけない?」
「いけないとは言ってない。ただ、その気持ちがどこから来るのかを考える必要がある」
「どういう意味?」
賢司はすぐには答えなかった。
問い返されたことで、言葉を選び直しているようだった。
「空さんに会ったのは二日前だ」
「分かってる」
「二日で、そこまで他人のことを考えるのは普通なのかと思ってる」
「普通かどうかなんて関係ないでしょう」
「僕らに子どもがいなかったことと、空さんへの関心が重なっていないか」
由美は何も言えなかった。
賢司は鍋を見たまま続けた。
「空さんが、僕らの持てなかった子どもの代わりになっていないかということだ」
「そんなこと」
否定しかけ、声が続かなかった。
由美の中に、旅館から帰る車の中で浮かんだ光景があった。
空がマンションのダイニングテーブルへ座っている。
学校であったことを話し、由美が作った夕食を食べる。
隣の部屋を使い、朝になれば三人で食卓を囲む。
それを賢司には話していない。
「私は、空さんを誰かの代わりだなんて思ってない」
「由美がそう思っていなくても、心の奥では分からない」
「じゃあ、空さんのことを忘れればいいの?」
「そうは言ってない」
「私が何を言っても、賢司は早いとか、分からないとか、そればかり」
「慎重になるのは当然だろう」
「慎重に考えているうちに、何もしない理由を探しているんじゃないの?」
賢司の表情が硬くなった。
「僕は、間違ったことをしたくないだけだ」
「間違わないことばかり考えていたら、何も選べないわ」
「感情だけで選べば、傷つくのは空さんだ」
賢司の声が低くなった。
「僕らは、善意で近づいて、思っていたのと違ったから離れることもできる。でも、空さんはどうなる? また大人がいなくなる経験をさせるかもしれない」
由美は黙った。
店主の言葉が浮かんだ。
頼った後で、いなくなられるのが嫌なのではないか。
「僕らがその責任を負えるのか、今の段階では分からない」
賢司は続けた。
「だから、急ぐべきじゃない」
「分かった」
由美は箸を置いた。
「もう、この話はやめる」
「由美」
「冷める前に食べましょう」
鍋の中では、煮えすぎた白菜が透き通っていた。
食事を終えるまで、二人は仕事の話だけをした。
賢司の会社で会議が長引いたこと。由美の担当する絵本の販促案。週末に旅行へ出た分、次の土日は家で過ごすこと。
どの話も、食卓の上に残った別の話題を覆い隠すことはできなかった。
食後、由美は一人で食器を洗った。
賢司が手伝おうとしたが、「大丈夫」と断った。
皿を洗いながら、目の奥が熱くなる。
賢司の言葉に傷ついた。
同時に、図星だったからこそ腹が立ったのだと分かっていた。
空があの部屋を使ったら。
由美は確かに、そう考えた。
子どもを持てなかった過去と、空への関心を完全に切り離すことはできない。
だからといって、空を代わりにしようとしているわけでもなかった。
その二つを、賢司は同じものとして扱った。
最後の皿を水切り籠へ置き、由美はキッチンの照明を消した。
リビングへ戻ると、賢司はいなかった。
書斎の扉が閉まっている。
由美はソファへ座らず、廊下の奥にある洋室の扉を開けた。
旅行前にバッグを繕った部屋だった。
窓は閉じられ、空気がこもっている。使わなくなったスーツケースと、季節外れの布団。壁際の棚には、木製の裁縫箱が置かれていた。
由美は照明をつけた。
棚の下段から、児童書の入った紙袋を取り出す。
迷子になった狐が森の動物たちに道を尋ねながら、帰る場所を探す絵本。
表紙を開くと、見返しに走り書きが残っている。
帰る場所は、最初からあるとは限らない。
由美は床へ座り、絵本を膝に置いた。
もし空と出会っていなければ、この本を読み返すことはなかった。
部屋の片づけも、また先延ばしにしていただろう。
空がこの部屋へ来ることを想像した。
机を置くなら窓際がいい。制服を掛けるためのクローゼットも必要になる。今のカーテンは薄いため、外から室内の影が見えるかもしれない。
そこまで考え、由美は目を閉じた。
自分は何をしているのだろう。
空は、由美たちの家へ来たいなどと一度も言っていない。
東京へ行きたいとは言った。
それだけだ。
由美は、空が望んでもいない生活を勝手に作り上げている。
賢司の言葉が、胸の奥へ沈んだ。
空さんが、僕らの持てなかった子どもの代わりになっていないか。
「違う」
誰もいない部屋で、由美はつぶやいた。
けれど、何が違うのかを説明できなかった。
棚の奥に、黄色い縁のついた小皿が見えた。
由美は手を伸ばし、取り出した。
幼児用の小さな皿だった。
治療を終えた夜、賢司が黙って食器棚の奥へしまったものだ。引っ越しのとき、由美が捨てられず、この部屋の棚へ移した。
皿の表面には、白い兎が描かれている。
いつか使えるかもしれない。
そう思って取っておいた。
使う相手は現れなかった。
由美は皿を両手で持った。
空が使うには幼すぎる。
高校生の少女へ出すようなものではない。それでも由美は、空が朝食を食べる姿を想像したとき、この皿も食卓へ置かれているような気がしていた。
それは空ではない。
由美が会いたかった、別の子どもの姿だ。
認めた瞬間、涙が落ちた。
小皿の白い兎が滲んで見える。
空への関心がすべて偽物だとは思わない。
しかし、その中には、失ったものを取り戻したい気持ちも混じっている。
由美自身にも、どこからどこまでが空を思う気持ちなのか、区別できなかった。
扉が開く音がした。
賢司が入口に立っていた。
由美の手にある小皿を見て、足を止める。
「ここにいたのか」
由美は涙を拭わなかった。
「捨てたと思ってた?」
「いや」
「私がここへ持ってきたの、知ってた?」
「引っ越しのときに見た」
「どうして何も言わなかったの?」
「由美が持っていたかったんだと思ったから」
賢司は部屋へ入り、由美から少し離れたところへ座った。
「さっきは、言い方が悪かった」
「本当のことでしょう」
「一部は、そうかもしれない」
「一部?」
「僕も空さんがこの家にいるところを考えた」
由美は顔を上げた。
賢司は窓の方を見ていた。
「いつ?」
「最初に食堂で会った日の夜」
「そんなに早く?」
「一瞬だけだ。由美が空さんと話しているのを見て、あの子がうちの食卓にいたら、どんな感じだろうと思った」
「私には、早いって言ったのに」
「だからこそ、怖くなった」
賢司は膝の上で両手を組んだ。
「何も知らない相手を、自分たちの都合のいい形でこの家へ置いた。由美だけじゃない。僕も同じだ」
由美は小皿を見た。
「私は、空さんをこのお皿を使うような子どもにしていた」
「空さんは高校生だ」
「分かってる」
「自分の考えを持ってる。東京で働きたいと言っていた。僕らに保護してほしいとも、親になってほしいとも言ってない」
「分かってる」
由美は同じ言葉を繰り返した。
今度は、賢司の言葉を拒むためではなかった。
「でも、気になるの」
「うん」
「子どもを持てなかったこととは関係なく、とは言い切れない。それでも、空さんが誰かの代わりだから気になるわけじゃない」
「僕もそう思う」
「だったら、どうすればいいの?」
賢司はすぐには答えなかった。
「空さんへは、まだ何もしない」
由美は黙って聞いた。
「連絡もしない。食堂へ電話もしない。施設を訪ねることもしない」
「うん」
「その前に、自分たちの気持ちを整理する。制度についても、もっと正確に知る」
「調べるだけ?」
「今は、それでいいと思う」
「何もしないことと同じじゃない?」
「違う」
賢司は由美を見た。
「何もしないために時間を置くんじゃない。途中で投げ出さないために、時間を置く」
由美はその言葉を考えた。
一時的な感傷なら、何日かたてば薄れる。
子どもを持てなかった喪失だけが動かしているなら、空という一人の少女から離れ、自分たちの問題として考え直す必要がある。
それでも気持ちが残るなら、次に何をすべきかを考えればいい。
「どれくらい?」
由美が尋ねた。
「期間を決めるのか?」
「賢司は、決めないと永遠に考え続けるでしょう」
賢司は少し笑った。
「一か月」
「長い」
「二週間」
「まだ長い」
「由美」
「分かった。二週間」
由美は小皿を棚へ戻した。
「この部屋も、今は片づけない」
「空さんのために空けておくという意味じゃないよな」
「違う。私たちが、この部屋に何を置いてきたのか考えるため」
「うん」
「それから決める」
由美は立ち上がった。
部屋を出ようとすると、賢司が床に落ちていた絵本を拾った。
「これは?」
「会社へ持っていくつもりだった本」
「寄贈できないのか?」
「会社で、学校や施設へ本を送る活動があるわ」
「そうか」
「でも、若葉ホームへ送るつもりはない」
由美は先に言った。
「空さんに気づいてほしくて送ったら、今連絡するのと同じだから」
賢司は頷いた。
「そうだな」
「必要としているところへ、会社を通して送る」
「それならいいと思う」
由美は三冊の絵本を紙袋へ戻した。
翌朝、紙袋を持って会社へ向かった。
総務部が管理する寄贈用の棚には、社員が持ち寄った新刊や見本本が積まれている。
由美は三冊をその上へ置いた。
送り先を指定することはできない。どの学校や施設へ届くのかも分からない。
それでよかった。
自分ができることと、空のためにしたいことを、今は分けておく必要があった。
日々は、変わらずに過ぎた。
由美は仕事をし、賢司は会議に追われ、二人で夕食を食べた。
空の名前を毎日口にすることはなかった。
テレビで伊豆の景色が映れば、由美は海辺食堂を思い出した。駅で高校生の少女が求人情報を見ていれば、空も仕事を探しているのだろうかと考えた。
スーパーで鯵が並んでいるのを見て、賢司が「しばらく魚はいい」と言った夜を思い出した。
空の存在は大きくなるのではなく、二人の生活の小さな隙間へ入り込んでいた。
二週間後の日曜日、由美は朝食を終えた後、透明なファイルをテーブルへ置いた。
中には、児童養護施設について調べた資料が入っている。
施設を出た後の支援。学習支援や就職支援。里親制度。施設の子どもと交流するボランティア。自治体が開催する説明会。
賢司も、自分で印刷した資料を持ってきた。
二人分を並べると、同じ内容のページが何枚も重なった。
「同じところを見てたのね」
由美が言う。
「情報源が限られているからな」
「二週間たったけど」
「うん」
「まだ、気になってる?」
賢司は資料から顔を上げた。
「気になってる」
由美は息を吐いた。
自分だけではなかったことに、安堵していた。
「私も」
二人は、空へ連絡する方法を話し合わなかった。
その代わり、翌月に開かれる社会的養護についての公開説明会へ参加することを決めた。
空に会うためではない。
自分たちが何も知らないまま、善意だけで近づかないためだった。
由美は申込画面へ二人分の名前を入力した。
送信ボタンを押す前に、賢司を見る。
「いい?」
「うん」
由美はボタンを押した。
受付完了の文字が画面に表示された。
それだけで、何かが変わったわけではない。
空は遠い海辺の町で、これまでと同じ生活を続けている。由美たちが説明会へ参加することも知らない。
二人の家にも、三つ目の椅子が増えたわけではなかった。
それでも、閉めたままだった洋室の扉は、あの日から少し開けておくようになった。
由美は部屋を空けて、誰かを待っているのではない。
そこに置いてきた自分たちの過去を、もう一度きちんと見るためだった。




