第三章 夜の残響
午後六時四十分、賢司と由美は旅館を出た。
日中の暖かさはすでに薄れ、海から吹く風には冷たさが混じっている。風呂上がりの髪を後ろでまとめた由美は、薄いベージュのカーディガンの前を両手で押さえた。
「上着を持ってくればよかった」
「部屋へ戻るか?」
「歩いて十分でしょう?」
「帰りはもっと冷えるかもしれない」
「大丈夫。歩いていれば温まるから」
由美はそう言って先に歩き始めた。
賢司は一度、旅館の玄関を振り返ったが、そのまま由美を追った。由美が大丈夫と言うときには、本当に問題がない場合と、引き返すのが面倒なだけの場合がある。今夜は後者に見えた。
海沿いの道には街灯が少なかった。
左手には黒く沈んだ海があり、波の音だけが規則的に届いている。右手には古い旅館や民家が並び、閉められた雨戸の隙間から明かりが漏れていた。
日中は観光客の車が行き交っていたが、今は時折、地元の人らしい軽自動車が通り過ぎるだけだった。
「道、合ってる?」
由美が尋ねた。
「次の角を右。その先の酒屋の隣」
「スマホばかり見ていると転ぶわよ」
「昼間みたいに迷いたくないんだ」
「迷ったおかげで、おいしいお昼を食べられたでしょう?」
「あれは結果がよかっただけだ」
「結果がよければ十分じゃない」
「毎回うまくいくとは限らない」
「賢司と旅行すると、どこへ行っても仕事の会議みたいになるわね」
賢司は返事をせず、スマートフォンの地図を確かめた。
少し進むと、道の向こうに赤い提灯が二つ見えた。木の看板には「潮路」と書かれている。格子戸の向こうから、人の話し声と食器の触れ合う音が聞こえてきた。
「ここだ」
賢司は腕時計を見た。
予約の五分前だった。
「予定どおりね」
「当然だ」
「少し残念そう」
「そんなことはない」
「また道に迷ったら、別のおいしい店が見つかったかもしれないのに」
「予約した店へ行く」
賢司が格子戸を開けると、魚を焼く匂いと酒の香りが流れてきた。
店内は昼間の食堂より広かった。板張りの床に四人掛けのテーブルが五つ並び、奥には長いカウンターがある。壁には色の褪せた大漁旗と、古い漁船の写真が飾られていた。
入口に近い席では、三人の男性が声を上げて笑っている。カウンターには一人で酒を飲む老人が座り、店主らしい男性と釣りの話をしていた。
「いらっしゃいませ」
店の奥から、若い声がした。
紺色の作務衣に黒い前掛けをつけた少女が、空になった徳利を手に立っている。
空だった。
賢司の足が止まった。
空も二人に気づき、目を見開いた。
「昼間の……」
先に声を出したのは空だった。
由美が賢司を見た。
「空さん?」
「はい。どうして、ここに」
空は驚きを隠せない様子で、二人を交互に見ている。
「泊まっている旅館で、このお店を教えてもらったの」
由美が説明した。
「あなたがいるとは知らなかったのよ。本当に偶然」
「そうですよね」
空は照れたように笑った。
「私もびっくりしました」
賢司は自分の胸にも、思いがけない喜びが生まれていることに気づいた。
昼間に一度会っただけの少女だ。それでも、知っている顔を見つけたことで、初めて入る店への緊張が少しほどけた。
「七時に二名で予約した朝倉です」
賢司が告げると、空は入口脇の台に置かれた帳面を開いた。
「朝倉様ですね。お待ちしていました」
空はすぐに店員の顔へ戻り、窓際の二人掛け席へ案内した。
「こちらへどうぞ」
由美が椅子へ座りながら尋ねる。
「昼間のお店だけじゃなくて、こちらでも働いているの?」
「今日は、こちらの人が急に休んだので手伝いに来ています」
「お昼から続けて?」
「途中で休憩しました。夜は九時までです」
返答はよどみなかった。
尋ねられることを予想していたようにも聞こえた。
「大変ね」
由美が言うと、空は首を横に振った。
「今日だけですから」
空は二人の前へおしぼりと献立表を置いた。
「本日のおすすめは、金目鯛の煮つけと、地鯵のなめろうです。お刺身は鯛、鰤、鯵、烏賊になります」
「昼も鯵を食べたな」
賢司が言う。
「この辺では、どこへ行っても鯵が出ます」
「じゃあ、今夜も鯵にしようか」
由美が献立表を開いた。
「私は、なめろうを食べてみたい」
「金目鯛も頼もう」
「二人で食べきれる?」
「煮つけは一尾じゃないだろう」
「お昼も私の分を食べたでしょう」
「たたきと煮つけは違う」
空が注文票へ顔を向けたまま、口元を緩めた。
賢司はその表情に気づいた。
「笑ったな」
「笑ってません」
「昼間も同じような話をしたから、呆れたんだろう」
「そういうわけでは」
空は否定したが、笑みは残っていた。
由美が注文を続ける。
「なめろうと、金目鯛の煮つけ。それから海藻サラダをお願いします」
「お飲み物は?」
賢司は生ビール、由美は梅酒のソーダ割りを頼んだ。
空は注文を繰り返してから、厨房へ向かった。
昼間の白いエプロンはつけていない。黒い前掛けにもほつれはなく、足元も色の褪せたスニーカーではなく、滑りにくそうな黒い靴に替わっていた。
「すごい偶然ね」
由美が声を落とした。
「この辺で働いているなら、あり得ないことではない」
「でも、お店がいくつもある中で、同じところに来るなんて」
「旅館が近い店を紹介したんだろう」
「そうだけど」
由美は空が消えた厨房の方を見た。
「昼間と雰囲気が違うわね」
「制服が違うからだろ」
「そういう意味じゃなくて」
由美は言葉を探した。
「少し疲れて見えない?」
賢司も空の様子を思い返した。
疲れているようには見えた。昼間より動きがわずかに遅く、ときどき右手首を左手で押さえている。
ただ、朝から働いていれば疲れるのは当然だった。
「一日働いた後だからな」
「高校生でしょう?」
「本人が今日だけだと言った」
「うん」
由美はそれ以上言わず、梅酒が運ばれてくるのを待った。
店内は次第に混み始めた。
空は飲み物を運び、注文を取り、空いた皿を下げている。厨房には店主ともう一人、白い調理着を着た男性がいた。客席を担当する女性従業員もいたが、空と二人で動いても手が足りていないようだった。
入口近くの席から「生ビール二つ」と声が飛ぶ。
別の席では醤油差しが空になり、カウンターの客が店主を呼んでいる。
空は返事をしながら、注文を一つずつ片づけた。
忙しいときほど、表情が落ち着いて見えた。急ぐあまり走ったり、食器を乱暴に置いたりすることもない。
賢司は仕事で、忙しさが増すほど周囲へ苛立ちをぶつける人間を何人も見てきた。
自分にも、そういうところがないとは言えない。
予想外の問題が起きれば、声は硬くなる。部下の説明が要領を得なければ、結論から話すよう求める。怒鳴ることはないが、相手を萎縮させたと後から気づくことがある。
空は、自分よりも感情の扱いが上手に見えた。
「お待たせしました」
空が飲み物を運んできた。
生ビールのグラスを賢司の前へ、梅酒を由美の前へ置く。
「料理はもう少しお待ちください」
「ありがとう」
由美が答える。
空が離れようとしたとき、入口近くの席から声が飛んだ。
「空ちゃん、こっち、焼酎もう一本!」
「はい、ただいま」
声をかけたのは五十代ほどの男性だった。日に焼けた顔で、首に白いタオルを巻いている。隣の二人も作業着姿だった。
常連なのだろう。空のことをよく知っているようだった。
「高校生を働かせすぎじゃないか」
男性が厨房へ向かって言った。
「若いから平気だろうけど、昼も浜田さんのところにいたんだろ?」
「今日は人が足りなかったので、手伝ってもらっているだけですよ」
カウンターの中から店主が答えた。
四十代後半で、がっしりした身体に白い調理着を着ている。
「九時には上がらせます」
「真面目だよなあ。俺が高校生のときなんか、働くことなんて考えもしなかったよ」
男性は笑いながら焼酎を受け取った。
空は何も言わず、空いた皿を重ねた。
「若葉の子は、みんなしっかりしてるな」
その言葉が聞こえた瞬間、空の手が止まった。
重ねていた皿同士が触れ、小さく硬い音がした。
店主が男性を見た。
「大沢さん」
低い声だった。
男性は店主の表情を見て、何かに気づいたらしい。
「いや、褒めてるんだよ。立派だって」
「空、そっちはいいから、料理をお願い」
店主が言った。
空は「はい」と答え、重ねた皿を持って厨房へ入った。
店内のざわめきは途切れなかった。
ほかの客は気に留めていないようだった。男性もすぐに仲間との話へ戻り、焼酎をグラスへ注いでいる。
由美が賢司を見た。
「若葉って」
「分からない」
賢司は声を落として答えた。
「学校の名前かもしれない」
「でも、今の言い方」
「推測で話すのはやめよう」
由美は梅酒のグラスへ視線を落とした。
賢司も気にならないわけではなかった。
昼間、空は自分の服を指して「家に青い糸しかなかった」と言った。その前に、別の言葉を口にしかけていた。
若葉という名と、途中で言い直した言葉が、賢司の中でつながりかけた。
しかし、それだけだった。
金目鯛の煮つけと、なめろうが運ばれてきた。
料理を持ってきたのは、空ではなく別の女性従業員だった。
「お待たせしました。海藻サラダもすぐにお持ちします」
「ありがとうございます」
由美が答えた。
なめろうは、小さな器に山形に盛られていた。細かく叩いた鯵に味噌、生姜、葱が混ぜられ、上には大葉が添えられている。
金目鯛の煮つけからは甘辛い香りが立ち、煮汁の染みた牛蒡と生姜が添えられていた。
「食べよう」
賢司が箸を取った。
由美は店の奥を気にしていたが、やがて自分の箸を持った。
なめろうは味噌の味が濃く、酒によく合った。
「おいしい」
由美が言う。
「昼のたたきとは違うだろう」
「違うけど、やっぱり鯵ね」
「違う料理なら問題ない」
「誰も問題だとは言ってないでしょう」
二人はいつものように話しながら食事を続けた。
賢司は自分が少し不自然に明るく振る舞っていることに気づいていた。由美も同じなのかもしれない。
空が何者であっても、二人の食事とは関係がない。
そう思おうとしていること自体、すでに気になっている証拠だった。
店の混雑が落ち着いたのは、八時半を過ぎてからだった。
入口近くにいた男性たちは、まだ焼酎を飲んでいる。ほかの客が帰り始め、空いたテーブルが増えていた。
空はカウンターの端で水を飲み、右手首をゆっくり回した。
それから二人の席へ来て、空になった皿を下げた。
「お料理、いかがでしたか?」
「とてもおいしかったわ」
由美が答えた。
「お昼も夜も、魚ばかり食べてしまったけど」
「この辺へ来たら、そうなります」
空は笑った。
賢司は湯呑みを置いた。
「今日は朝から働いていたの?」
「お昼のお店は十時半から三時までです。ここは六時からなので、間に休んでいます」
「学校が休みの日は、いつも?」
「毎週ではありません。こっちは人が足りないときだけです」
空は、また説明を先回りしている。
「若葉というのは、学校の名前?」
由美が慎重に尋ねた。
空の手が止まった。
賢司は由美を止めようとしたが、空は皿を持ったまま答えた。
「児童養護施設の名前です。若葉ホーム」
声は落ち着いていた。
「私は、そこで暮らしています」
「そうだったの」
由美はそれだけ言った。
かわいそうとも、大変ねとも言わなかった。
空の表情は変わらなかった。
「昼間、エプロンの話をしたとき、家に青い糸しかなかったって言ったでしょう?」
由美が続けた。
「施設にあった糸です。途中で言い直して、すみません」
「謝ることじゃないわ」
「初めて会った人に話すことでもないので」
「そうよね。こちらこそ、ごめんなさい」
由美は素直に頭を下げた。
空は少し困ったように笑った。
「私、施設にいることを隠しているわけではないです。でも、言うと気を遣われることが多いので」
「さっきの人みたいに?」
賢司が尋ねると、空は入口近くの席を見た。
「大沢さんは悪い人じゃないです。何でも口に出してしまうだけで」
「気にしていないの?」
「気にしても、仕方ないので」
空は重ねた皿を持ち直した。
「ご両親は?」
由美が口にしかけ、途中で止めた。
空は、その先を理解したらしい。
「いません」
短く答えた。
「顔も知りません。小さい頃から、ずっと施設です」
「ごめんなさい」
「大丈夫です」
空はすぐに答えた。
早すぎるほどの返事だった。
「本当に、大丈夫ですから」
空はそう付け加えた。
賢司は、自分たちが何を言っても、空に「大丈夫」と答えさせてしまう気がした。
知らない大人から同情されれば、困るのは空の方だ。
「高校を卒業したら、どうするつもりなの?」
賢司は尋ねた。
家庭のことより、本人が昼間から働いている理由を知りたかった。
「働きます」
「この辺で?」
「できれば、東京へ行きたいです」
「東京で何をするか、決めているの?」
「まだです。事務か、販売の仕事ができれば」
「進学は考えていないの?」
空の表情が少し硬くなった。
「大学は、お金がかかるので」
「奨学金もあるでしょう?」
由美が言う。
空は由美を見た。
「借りたら、返さないといけません」
「そうだけど」
「卒業したら、自分の生活費は自分で払います。家賃も食費も必要です。借金を抱えて学校へ行くより、働いた方がいいと思っています」
言葉に迷いはなかった。
高校一年生が思いつきで話しているのではない。何度も計算し、同じ結論へ戻ってきたのだろう。
「東京に、知っている人はいるの?」
賢司が尋ねる。
空は首を横に振った。
「いません」
「一人で行くの?」
「はい」
「怖くない?」
由美が尋ねた。
空は少し考えた。
「怖いです」
初めて、声が揺れた。
「でも、ずっと施設にいることはできないので」
空は皿の端へ視線を落とした。
「先のことばかり考えても仕方ないから、今できることをやっています」
厨房から店主が顔を出した。
「空、もう九時だぞ。上がっていい」
「はい」
空は返事をした。
「すみません。失礼します」
二人へ頭を下げ、皿を持って厨房へ入った。
由美は呼び止めなかった。
テーブルの上には、食べ終えた煮つけの皿と、半分ほど残った梅酒があった。
賢司は水を口へ運んだ。
空がいなくなった後も、彼女の言葉が耳に残っている。
東京には、知っている人はいない。
それでも一人で行く。
「帰ろうか」
由美が言った。
「そうだな」
二人は会計を済ませ、店の外へ出た。
夜風は来たときより強くなっていた。由美が身体を縮めたため、賢司はジャケットを脱いだ。
「着ろよ」
「賢司が寒くなるわ」
「旅館まで十分だ」
「本当に大丈夫?」
「君の大丈夫よりは信用できる」
由美は何も言わず、差し出されたジャケットを羽織った。
店の裏手からドアの開く音がした。
振り返ると、着替えを終えた空が出てきた。灰色のパーカーに黒いパンツを合わせ、小さなリュックを背負っている。
道路脇に白いワゴン車が停まり、運転席から四十代ほどの女性が降りてきた。
「空、お疲れさま」
「お待たせしました」
「今日は忙しかった?」
「八時くらいまで」
二人は短く話し、空が助手席へ乗り込んだ。
車体の横には、緑色の文字で「若葉ホーム」と書かれていた。
女性は賢司たちに気づくと、軽く頭を下げた。
二人も会釈を返した。
ワゴン車が走り去る。
空はこちらを見なかった。
赤い尾灯が角を曲がって消えるまで、由美はその場に立っていた。
「帰ろう」
賢司が言った。
二人は旅館へ向かって歩き始めた。
由美はしばらく何も言わなかった。
波の音が、暗い海から繰り返し届く。
「高校一年生よね」
やがて由美が言った。
「名札以外は確認してないけど、それくらいだろうな」
「あと二年で、一人で東京へ行くのね」
「そう言っていた」
「誰も知らないところへ」
賢司は答えなかった。
それ以上話せば、空の人生を勝手に想像することになる。
けれど、考えないようにすることもできなかった。
旅館へ戻ると、客室には布団が二組敷かれていた。
由美は借りていたジャケットをハンガーへ掛け、窓際の椅子へ座った。
賢司は冷蔵庫から水を出し、二つのコップへ注いだ。
「飲む?」
「ありがとう」
由美はコップを受け取った。
海は窓の外で黒く沈み、波頭だけが時折白く見える。
「偶然って、重なるものなのね」
由美が言った。
「昼間と夜の二回か」
「昼間だけだったら、道を教えてくれた親切な子で終わっていたと思う」
「うん」
「夜に会って、あの子のことを少し知ってしまった」
賢司は自分のコップを机へ置いた。
「知ったのは少しだけだ」
「分かってる」
「施設にいることと、卒業後に東京で働くつもりだということ。それだけだ」
「それだけでも、頭から離れないの」
由美は両手でコップを包んだ。
「昼間に笑っていた顔と、夜に怖いって言ったときの顔が、別の人みたいで」
賢司にも同じ表情が残っていた。
怖いです。
そう答えたときだけ、空は自分の年齢へ戻ったように見えた。
「今夜は考えるのをやめよう」
賢司は言った。
「どうして?」
「旅先で気持ちが高ぶっているときに考えても、冷静な答えは出ない」
「答えを出そうとしてるわけじゃない」
「分かってる。でも、僕らは空さんのことを何も知らない」
由美は窓の外へ目を向けた。
「そうね」
「東京へ帰って、日常へ戻ってからも気になるなら、そのとき話そう」
由美はしばらく黙り、やがて小さく頷いた。
「分かった」
その夜、二人はそれ以上、空について話さなかった。
布団へ入ってからも、賢司はなかなか眠れなかった。
隣では由美が規則正しい呼吸をしている。
耳を澄ませば波の音が聞こえた。
賢司は目を閉じた。
空が注文を取る声。皿の触れ合う音。施設にいることを告げたときの、平らな表情。
東京には知っている人がいない。
その言葉が、波の音と重なって戻ってきた。
翌朝、賢司は六時前に目を覚ました。
窓の外はまだ薄暗かった。由美を起こさないよう布団を抜け、カーテンを少し開ける。
水平線の上が淡い橙色に染まり始めている。
海を見ながら、賢司は昨夜の会話を思い返した。
何かを決めるつもりはなかった。
ただ、空の話を聞いてから、自分の中に生まれたものが消えているか確かめたかった。
一晩眠れば、旅先での感傷だったと思えるかもしれない。
しかし、空の声は朝になっても残っていた。
「何時?」
背後から由美の声がした。
「六時少し前」
「もう起きたの?」
「目が覚めた」
由美は布団の上で身体を起こし、窓の方を見た。
「きれいね」
「日の出まで、もう少しだ」
由美は賢司の隣へ立った。
二人で黙って海を眺めた。
太陽が水平線から顔を出すと、水面に一本の光の道ができた。
「空さんも、もう起きているのかしら」
由美がつぶやいた。
賢司は答えなかった。
昨夜は考えるのをやめようと伝えた。由美も了承した。
それでも、朝になって最初に浮かんだのは、やはり空のことだった。
朝食は一階の食事処で用意された。
焼き魚、卵焼き、海苔、味噌汁。昨夜に続いて魚だったため、由美は膳を見て笑った。
「賢司の言ったとおりね」
「何が?」
「この辺では、どこへ行っても鯵が出るって」
「それを言ったのは空さんだ」
賢司が答えると、二人の間に短い沈黙が落ちた。
由美は焼き魚をほぐしながら言った。
「二人とも、考えてるじゃない」
「名前を出しただけだ」
「同じよ」
賢司は否定しなかった。
十時に旅館を出た。
車を駐車場から出すと、昨夜歩いた道が見えた。居酒屋はまだ閉まっており、赤い提灯も片づけられている。
由美は店の前を通り過ぎるまで、窓の外を見ていた。
海辺食堂へ続く道には入らず、県道をそのまま東京方面へ進んだ。
前日とは違い、ナビの案内どおりの経路だった。
「今日は迷わないのね」
由美が言う。
「通行止めは解除されている」
「またあのお店でお昼を食べてもよかったのに」
「朝食を食べたばかりだろ」
「今すぐじゃなくて、お昼に」
賢司は由美の横顔を見た。
「空さんに会いたいのか?」
由美は少し考えた。
「会いたいというより、もう一度会ったら、何か分かるような気がして」
「何が?」
「分からない」
「分からないものを確かめに行くのか?」
「だから、行こうとは言ってないでしょう」
由美は窓の外へ顔を向けた。
海岸線がゆるやかに曲がり、入り江が後ろへ遠ざかっていく。
賢司は海辺食堂へ向かわなかった。
もう一度会うために店を訪ねれば、それは偶然ではなくなる。
空がどう受け止めるか分からない以上、今は近づくべきではないと思った。
車内ではラジオが流れていた。
日曜日の午前中らしい軽い音楽と、観光地の情報が続く。
しばらくして由美が尋ねた。
「児童養護施設って、何歳までいられるの?」
「分からない」
「高校を卒業したら、必ず出ないといけないのかしら」
「僕に聞かれても」
「そうよね」
由美はスマートフォンを手に取った。
検索しようとしているのだと分かった。
「今、調べるのか?」
「気になっただけ」
「車に酔うぞ」
「そういう問題?」
「帰ってからでいいだろう」
由美は画面を消し、スマートフォンをバッグへ戻した。
「賢司は、気にならないの?」
「気になってる」
初めて、はっきり認めた。
由美がこちらを見る。
「だから、帰ってから考えたい」
「うん」
「今は、僕らが知らないことが多すぎる」
「そうね」
「空さんが困っていると決めつけるのも違う。施設の職員や、店の人たちもいる。僕らが思っているより、きちんと支援を受けているかもしれない」
「でも、怖いって言った」
「怖くない人はいないだろう」
賢司は前を向いたまま答えた。
「高校を卒業して、知らない土地へ一人で行くなら、誰だって怖い」
「それでも、あの子は一人で行くつもりなのよ」
「うん」
会話はそこで途切れた。
高速道路へ入る前、二人は道の駅へ立ち寄った。
由美は土産売り場で会社に配る菓子を選び、賢司は干物の詰め合わせを見ていた。
レジの近くで、高校生くらいの少女たちが三人、ソフトクリームを食べながら笑っている。色違いのバッグを持ち、誰かのスマートフォンを一緒にのぞき込んでいた。
その姿を見て、昨夜の空を思い出した。
同じ年頃でも、日曜日の過ごし方は違う。
だからといって、目の前の少女たちが悩みのない生活を送っているとは限らない。空が働いているから不幸だと決めつけることもできない。
賢司は干物を棚へ戻した。
「買わないの?」
由美が尋ねる。
「昨夜から魚ばかりだから、しばらくいい」
「さっきまで真剣に見てたのに」
「見ただけだ」
「珍しい。賢司が検討して、何も買わないなんて」
「必要がないと判断した」
由美は土産の袋を持ち直した。
「帰ろうか」
高速道路に入ると、交通量が増えた。
途中で短い渋滞に巻き込まれたが、二人は急いでいなかった。
由美は助手席で眠り、賢司は一人で運転を続けた。
ラジオの音量を少し下げる。
由美の寝息の合間に、昨夜の空の声が戻ってくる。
先のことばかり考えても仕方ないから、今できることをやっています。
賢司はその考え方を理解できる気がした。
自分も、不妊治療を続けていた頃は同じだった。
検査の結果が悪ければ、次にできることを調べた。治療法、通院日、費用、成功率。感情を整理する代わりに、行動へ置き換えた。
数字を並べ、手順を決めている間は、うまくいかない未来を考えずに済んだ。
空も、怖さを働くことへ置き換えているのだろうか。
賢司はすぐに、その考えを打ち消した。
何も知らない。
自分の経験を重ねることも、事情を決めつけることと変わらない。
午後四時前、車は目黒のマンションへ着いた。
地下駐車場へ車を入れ、二人で荷物を降ろした。
エレベーターの鏡には、少し疲れた二人の姿が映っている。由美は土産の紙袋を両手に持ち、賢司はボストンバッグを肩へ掛けていた。
「楽しかった?」
由美が尋ねた。
「うん」
「また行きたい?」
「次は別の場所がいい」
「伊豆が嫌だった?」
「嫌じゃない。まだ行ったことがない場所がある」
「相変わらずね」
エレベーターが十二階に着いた。
玄関の鍵を開けると、閉め切っていた部屋の空気が二人を迎えた。
賢司が窓を開け、由美は荷物を寝室へ運ぶ。
旅行へ出る前と何も変わっていない。
ダイニングテーブルには二枚のランチョンマットが置かれ、食器棚には二つのマグカップが並んでいる。
壁際に置かれたガラスの鳥も、二羽のままだった。
由美は洗濯物を分け、洗濯機を回した。
賢司は旅館でもらった案内冊子や領収書を整理する。
冊子を開くと、空が描いた地図が床へ落ちた。
青い自動販売機。坂道。古い郵便局。赤いポスト。
もう使うことのない地図だった。
賢司は捨てようとして、手を止めた。
「それ、取っておいたの?」
洗濯物を抱えた由美が尋ねた。
「旅館の冊子に挟んだままだった」
「もう必要ないでしょう?」
「そうだな」
賢司は地図を二つに折った。
それでも、ごみ箱へ入れることはできなかった。
「旅行の領収書と一緒にしておく」
「どうして?」
「別に意味はない。記念だ」
由美は何も言わず、洗面所へ向かった。
夕食は簡単に済ませることにした。
冷凍してあったご飯を温め、旅行前に作った味噌汁へ豆腐を足す。由美は道の駅で買った蒲鉾を切り、皿へ並べた。
二人で向かい合って食べ始める。
「やっぱり、家の味噌汁が落ち着く」
由美が言う。
「旅館の朝食もおいしかっただろ」
「おいしかったけど、二日続けて魚だったから」
「蒲鉾も魚だ」
由美は箸を止めた。
「買ったの、賢司でしょう?」
「試食がおいしかった」
「干物はやめたのに」
「蒲鉾は別だ」
「なめろうとたたきが別だったみたいに?」
賢司は笑った。
「その話、空さんも笑ってたわね」
由美の言葉で、食卓が静かになった。
空の名前を出さずに帰宅後の時間を過ごしていたが、二人とも忘れていたわけではない。
賢司は味噌汁の椀を置いた。
「気になってる?」
由美が尋ねた。
「うん」
「帰ってきても?」
「由美は?」
「気になってる」
由美は蒲鉾を一切れ取り、皿の上へ戻した。
「昨日の夜より、今の方が気になるかもしれない」
「どうして?」
「家に帰ってきたから」
由美は部屋を見回した。
「私たちは、帰ってくる場所があるでしょう。何日留守にしても、自分の鍵で入れて、自分の食器があって、明日からまたいつもの生活へ戻れる」
「うん」
「空さんは、施設が嫌だとは一度も言わなかった。でも、ずっとはいられないって言った」
賢司は黙って聞いていた。
「高校を卒業したら、この先の生活を全部自分で決めないといけない。家賃も、仕事も、住む場所も」
「本人がそう決めている」
「決めたいから決めているのか、ほかに選べないと思っているのか、分からない」
「そこは僕らには判断できない」
「分かってる」
由美は少し強い声で答えた。
すぐに息を吐き、声を落とす。
「分かってるけど、何も知らないままでいるのも嫌なの」
「何を知りたい?」
「児童養護施設で暮らす子たちが、高校を卒業した後、どうするのか。どんな支援があるのか。進学したいと思ったら、本当にできないのか」
由美の言葉は、昨日の夜より具体的になっていた。
それでも、空へ何かをしようと言っているわけではない。
「調べるだけならできる」
賢司は答えた。
「空さんへ連絡するという意味じゃないぞ」
「分かってる」
「海辺食堂へ電話するのも、若葉ホームを訪ねるのも、今はしない」
「うん」
「本人が僕らとの関わりを望んでいるか分からないから」
由美は頷いた。
「まず、制度を知りたいだけ」
「そうだな」
賢司は空の描いた地図を思い出した。
「僕らは何も知らない。施設のことも、退所後の支援も、養育に関わる仕組みも」
「養育?」
由美が聞き返した。
「一般的な話だ。里親とか、そういう制度があるだろう」
「空さんを里子にしようっていう話?」
「違う」
賢司はすぐに否定した。
「今、そんなことを決めるのは早すぎる。僕らには、その言葉を口にする資格すらない」
「そうね」
「ただ、施設の外にいる大人が、どんな形で子どもを支えられるのか。寄付や学習支援、就職支援もあるかもしれない。何があるのかを知っておくことはできる」
由美はしばらく考えた。
「それなら、私も調べたい」
「明日からにしよう」
「どうして?」
「今日は疲れてる」
「少しくらいなら」
「由美は調べ始めると止まらなくなる」
「賢司に言われたくない」
「僕も同じだから、明日にしようと言ってるんだ」
由美はようやく笑った。
「分かった。今日はやめておく」
夕食の後、二人で食器を洗った。
由美が洗い、賢司が布巾で拭く。
賢司が食器棚を開けると、普段使いのマグカップが二つ並んでいた。その上段には、同じ柄の来客用のカップが二つ置かれている。
賢司は洗った皿を元の位置へ戻した。
隣の部屋では、洗濯機が終了を知らせる音を鳴らしている。
日常が再び動き始めていた。
旅行へ出る前と同じ家。同じ食器。同じ二人。
それでも、旅先で聞いた名前と声が、この部屋までついてきた。
賢司は空の描いた地図を、旅行の領収書と一緒に透明なファイルへ入れた。
捨てなかった理由を、自分でもうまく説明できなかった。
由美も尋ねなかった。
その夜、二人は空のために何をするかを決めなかった。
ただ、知らないまま通り過ぎないことだけを、二人の間で確かめた。




