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『血の通わぬ糸』  作者: 久遠 睦


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第二章 回り道

少女の案内どおりに左の道を進むと、家々の屋根越しに海が見えた。

 県道から眺めたときとは違い、山の間へ細く入り込んだ小さな入り江だった。水面には数隻の漁船が浮かび、防波堤の先で白い波が砕けている。潮風に混じって、魚を焼く匂いが流れてきた。

 道の突き当たりに、平屋の建物があった。

 白かったはずの外壁は潮風にさらされ、ところどころ灰色にくすんでいる。軒先には畳まれた紺色の暖簾が掛かり、入口の脇に「海辺食堂」と書かれた木の看板が立てられていた。

 駐車場と呼べるほどの広さはない。建物と石垣の間に、白い線で二台分の区画が引かれているだけだった。

「ここへ入れるのか」

 賢司が車を止め、眉間に皺を寄せた。

「一台も停まってないんだから大丈夫でしょう」

「出るときのことも考えないと」

「まだ入ってもいないのに?」

「入れた後で出せなかったら困るだろ」

「後ろを見てあげるから」

 由美が助手席から降りると、賢司は渋々ハンドルを切った。

 何度か車を前後させ、ゆっくりと白線の内側へ収める。

「右、もう少し」

「どれくらい」

「三十センチ」

「それ以上寄せたら、左のドアが開かない」

「私が先に降りたから大丈夫」

「僕は?」

「運転席側から降りればいいでしょう」

「僕の車なのに」

 賢司は不満そうに言いながらも、最後まできれいに車を停めた。

 由美が親指を立てると、賢司は大げさに息を吐いてエンジンを切った。

 先ほどの少女は、自転車を建物の裏手へ運んでいるところだった。

 白いエプロンの下には黒いパンツと、色の褪せたスニーカーを履いている。自転車の前籠には、折り畳まれた紺色の上着が入っていた。

 こちらに気づいた少女は、スタンドを立ててから頭を下げた。

「もう少しだけ待ってください。すぐ開けます」

「急がなくていいのよ。私たちが早く来てしまっただけだから」

 由美が答える。

 少女は「ありがとうございます」と言い、裏口へ駆けていった。

 賢司が腕時計を見た。

「あと七分だな」

「本当に時間どおりじゃないと気が済まないのね」

「早く開けろと言っているわけじゃない」

「顔が言ってる」

「今日の僕の顔は、ずいぶんよく喋るな」

 二人が話している間に、建物の中から窓を開ける音が続けて聞こえた。閉じられていたブラインドが上がり、薄暗かった店内へ日の光が差し込む。

 やがて、白い割烹着を着た女性が出てきた。

 六十代半ばほどだろうか。短い髪には白いものが多く混じり、日に焼けた頬に細かな皺が刻まれている。

 女性は暖簾を広げながら、駐車場にいる二人へ目を向けた。

「お待たせしてすみませんね。もう入っていただいて大丈夫ですよ」

「こちらこそ、開店前に来てしまって」

 由美が頭を下げると、女性は笑って手を振った。

「十分前なら、開店したようなものです。あの子が連れてきたんでしょう?」

「道を教えてもらったんです」

「ああ、やっぱり。空は、この辺の道をよく知ってますからね」

 女性が当然のように口にした名前を、由美は心の中で繰り返した。

 空。

「どうぞ。今日は海がよく見えますよ」

 店内には四人掛けのテーブルが三つと、窓に面したカウンター席が六つあった。

 壁には手書きの献立表が貼られ、焼き魚定食、刺身定食、あじのたたき丼などが並んでいる。窓際には小さな水槽があり、二匹の伊勢海老が重なるようにして動かずにいた。

 天井の扇風機が、低い音を立てながらゆっくり回っている。

 由美と賢司は、一番奥の窓際の席へ案内された。

 窓の向こうには、先ほど見えた入り江が広がっていた。古いガラスを通すためか、水平線の輪郭がわずかに揺れて見える。

「いいところね」

 由美が言うと、賢司も海を眺めた。

「予定していた蕎麦屋より、景色はよさそうだ」

「迷うのも悪くないでしょう?」

「料理を食べてから判断する」

「慎重ね」

「昼食選びは重要だ」

 間もなく、少女が水の入ったコップを運んできた。

 髪はきれいに結び直され、前髪もピンで留められている。白いエプロンの左胸には、小さな名札がついていた。

 水瀬空。

 由美が声に出さず読んでいると、空が献立表を示した。

「本日の焼き魚は、鯵の開きです。刺身は鯛と鰤と鯵になります。おすすめは、あじのたたき丼です」

 説明はよどみなく、聞き取りやすかった。

「さっきはありがとう。おかげで助かったわ」

「いえ」

「こんな素敵なお店も見つけられたし」

「料理がお口に合うかまでは、私には分かりませんけど」

 それまでの丁寧な受け答えとは少し違う、年齢相応の言い方だった。

 由美は思わず笑った。

「そこまでは責任を負えないわよね」

 空の口元にも小さな笑みが浮かんだ。

「由美、何にする?」

 賢司が献立表を指した。

「せっかくだから、おすすめのたたき丼」

「僕は刺身定食にしよう」

 空は伝票へ注文を書き込んだ。

「たたき丼が一つ、刺身定食が一つですね。ご飯は普通でよろしいですか?」

「私は少なめでお願いします」

「分かりました」

 空は伝票の隅へ印をつけ、厨房へ向かった。

 歩くたび、エプロンの右ポケットから伸びた青い糸が揺れた。

 バッグの内側を赤い糸で繕ったばかりだったこともあり、由美の目は自然にその縫い目へ向いた。

 ポケットの端を青い糸が何度も行き来している。縫い目は少し曲がっていたが、小さなメモ帳とボールペンを入れるには十分らしい。

 厨房から魚を焼く音が聞こえ始めた。

 店主らしい女性は味噌汁の鍋を見ながら、空に何かを指示している。空は短く返事をし、漬物の小鉢を並べた。

 醤油差しの残量を確認し、布巾を替え、入口の外に「営業中」の札を出す。開店準備には慣れているようだった。

「よく働く子だな」

 賢司が言った。

「名前、空さんですって」

「名札を見たよ」

「きれいな名前ね」

「水瀬という名字にも合ってるな」

 由美は頷き、窓の外へ目を向けた。

 入り江へ一隻の小舟が戻ってくる。船尾で揺れる旗が、遠くからでも見えた。

 店の引き戸が開き、作業着姿の男性が二人入ってきた。

 常連なのだろう。席へ着く前から「今日は鯵ある?」と厨房へ声をかけている。

「ありますよ。焼きとたたき、どちらにします?」

 空がすぐに答えた。

「俺は焼き。飯、大盛り」

「僕も同じで」

「田島さんは普通盛りにした方がいいんじゃないですか。昨日も奥さんに怒られたって言ってたでしょう」

「余計なこと覚えてるなあ」

「覚えておかないと、また私が奥さんに言われますから」

 店内に笑い声が広がった。

 空は二人の注文を取り、空いている席へ水を置いた。

 賢司もそのやり取りを聞きながら、わずかに笑っていた。

「この辺の人と親しいのね」

 由美が言う。

「働いていれば、常連の好みくらい覚えるだろう」

「あなたは部下の好みを覚えてる?」

「コーヒーを飲むかどうかくらいは」

「それだけ?」

「仕事をするのに、昼食の好みまで知る必要はない」

「部下の人、少しかわいそう」

「なぜそうなる」

 空が刺身定食を運んできたため、賢司は口を閉じた。

 鯛と鰤と鯵が白い皿に盛られ、大葉と細く切った大根が添えられている。味噌汁からは湯気が上がり、小鉢にはひじきの煮物が入っていた。

 続いて、あじのたたき丼が置かれた。細かく切った鯵の上に、生姜、葱、大葉がたっぷりのっている。

「お好みで、こちらのたれをかけてください」

「おいしそう」

「魚は今朝入ったものです」

「空さんも食べるの?」

 由美が尋ねると、空は一度厨房を見た。

「お昼に、まかないをいただきます」

「今日は鯵?」

「私はカレーをお願いしました」

 空の言葉を聞いた店主が、厨房から顔を出した。

「魚屋の食堂で、わざわざカレーを選ぶんですよ、この子は」

「魚は、いつでも食べられますから」

「店の魚がおいしくないみたいに聞こえるでしょう」

「そんなこと言ってません」

 空は少し困ったように笑った。

「ごゆっくりどうぞ」

 それだけ言い、厨房へ戻っていった。

 由美はたれを少しずつ丼へかけた。

 鯵は弾力があり、生姜の香りがよく合った。ご飯には刻み海苔と白胡麻が混ぜられている。

「おいしい」

 賢司も刺身を口へ運び、黙って頷いた。

 彼は本当に気に入った料理を食べると、最初の一口だけ何も言わなくなる。

「当たりね」

 由美が言う。

「予定を外す価値はあった」

「それ、空さんに聞かせてあげたら?」

「なぜ僕が礼を言うんだ。左を選んだのは由美だろ」

「都合のいいときだけ私の責任になるのね」

「功績は正しく評価するべきだ」

「失敗したら共同責任で、成功したら私の功績?」

「君がそう言ったんだ」

「言ってません」

 賢司は笑いながら刺身を食べた。

 店には次々と客が入ってきた。近所の人らしい老夫婦、三人の子どもを連れた家族、作業の途中らしい若い男性。開店から十五分もたたないうちに、ほとんどの席が埋まった。

 空は一人で注文を取り、水を運び、料理を下げている。

 店主の女性は厨房から離れられず、奥にいる男性へ何度も声をかけていた。鍋や皿が触れ合う音が続き、焼き魚の香りが店内へ流れてくる。

 小さな子どもが、水の入ったコップを倒した。

 母親が慌てて立ち上がるより早く、空が布巾を持ってきた。

「大丈夫ですよ。服、濡れなかった?」

 四歳くらいの男の子は、泣きそうな顔で首を横に振った。

「じゃあ、何も問題なし」

 空は濡れたテーブルを拭き、新しい水を持ってきた。今度は倒れにくい背の低いコップを選び、子どもの前へ置く。

「ここに置いておくね」

 男の子は小さく頷いた。

「ごめんなさい、本当に」

 母親が何度も頭を下げる。

「よくありますから」

 空は笑った。

 男の子の姉らしい少女が、空の名札を見て言った。

「そらちゃん?」

「そう。空って書いて、そら」

「私、みく」

「みくちゃんは、お水こぼさなかったね」

「私、お姉ちゃんだから」

 胸を張る少女に、空は「偉いね」と答えた。

 言われた少女は満足そうに座り直した。

「子どもの扱いが上手ね」

 由美が言うと、賢司は味噌汁を飲んだ。

「慣れてるんだろう」

「私だったら、慌てて布巾を探している間に、全部床へ落としていそう」

「容易に想像できる」

「否定してくれてもいいでしょう」

 由美はもう一度、たたき丼へ箸を入れた。

 半分ほど食べたところで、量の多さに気づいた。

 少なめにしてもらったはずなのに、普段の昼食よりずっと多い。

「食べきれないかも」

「無理するなよ」

「でも、残すのは悪いでしょう」

「注文するときに少なめと言ったんだから、由美の責任じゃない」

「食べ物を残すのに、責任の話をしなくても」

「無理に食べて体調を崩す方がよくない」

 由美が箸を止めていると、空が近づいてきた。

「お口に合いませんでしたか?」

「ううん、とてもおいしいの。ただ、思ったより量が多くて」

「あ、ご飯、少なめでしたよね」

 空は伝票を確かめた。

「厨房には伝えました。たぶん、父さんがいつもの量で盛ったんだと思います」

「お父さん?」

 由美が反射的に聞き返すと、空は厨房を指した。

「店長です。みんな、父さんって呼んでいるので」

「ああ、そうなのね」

「残して大丈夫ですよ。父さんには私から言っておきます」

「せっかく作ってもらったのに、ごめんなさい」

「無理に食べて具合が悪くなる方が困りますから」

 空はそう言い、別の客に呼ばれて離れていった。

 由美はたたきだけを小皿へ移し、賢司の前へ置いた。

「食べる?」

「いいのか?」

「ご飯は無理だけど、鯵は残したくないから」

「任せろ」

「刺身定食を食べた人が、まだ食べるの?」

「たたきは別だ」

「同じ鯵でしょう」

「調理法が違う」

 賢司は小皿を受け取り、嬉しそうに食べ始めた。

 食事を終える頃には、入口に二組の客が待っていた。

 賢司は伝票を持って立ち上がった。

「そろそろ出よう」

「そうね。待っている人もいるし」

 会計台は入口の脇にあった。

 空が料理を運んでいたため、店主の女性が厨房から出てきた。

「どうでした?」

「とてもおいしかったです。偶然見つけられてよかった」

 由美が答えると、女性は目元を細めた。

「それはよかった。空のおかげですね」

「道を詳しく教えてもらいました」

「あの子、この辺の細い道までよく知ってるんです。自転車でどこへでも行きますから」

 店主はレジを打ち、釣り銭を渡した。

「また近くへいらしたら寄ってください」

「はい。ごちそうさまでした」

 二人が店を出ようとすると、空が後ろから声をかけてきた。

「県道に戻る道、分かりますか?」

「青い自動販売機の角を右、坂を下りて、古い郵便局の前を左」

 賢司が復唱した。

 空は少し驚いた顔をした。

「覚えてたんですね」

「記憶力には自信がある」

「ナビを信じて迷ったのに?」

 由美が言うと、空は吹き出した。

 すぐに口元を押さえる。

「すみません」

「謝ることないわ。私も同じことを思っていたから」

 賢司は苦い顔をした。

「二対一は卑怯だろう」

「でも、郵便局の前が分かりにくいんです」

 空は伝票の裏へボールペンで地図を描き始めた。

 一本の太い線が県道で、細い線が店の前の道らしい。青い自動販売機には四角、古い郵便局には小さな屋根を描いた。

「ここです。郵便局はもう使われていないので、看板が外れています。赤いポストだけ残っています」

「ずいぶん詳しいんだね」

 賢司が言った。

「よく通るので」

 空は地図を仕上げ、伝票を賢司へ差し出した。

「これなら迷わないと思います」

 賢司は受け取った紙を眺めた。

「分かりやすい。ありがとう」

「いえ」

 由美は空のポケットから伸びた青い糸を見た。

「それ、自分で直したの?」

 空が視線を下げる。

「ポケットですか?」

「ええ。私も今朝、バッグの内側を縫ったところなの。私の方は赤い糸だけど」

 空は自分の縫い目を指でなぞった。

「施設……」

 言いかけ、わずかに間を置いた。

「家に青い糸しかなかったので」

 由美は、その言い直しを気に留めなかった。

「私も裁縫は苦手よ。糸が絡まって、結び目が大きくなってしまった」

「私もです。裏は見せられません」

「表から見えなければ大丈夫」

「ですよね」

 空が笑った。

「それじゃあ、今度こそ迷わないようにね」

 由美が言うと、空は賢司を見た。

「青い自動販売機を忘れなければ大丈夫です」

「忘れないよ」

「お気をつけて」

 外へ出ると、昼の光が海面へ強く反射していた。

 店の前には、空のものらしい自転車が置かれている。前籠の片側が針金で留められ、サドルには小さな裂け目があった。

 賢司は受け取った地図を財布へ入れた。

「車を出すから、左を見ていてくれ」

「今度は私の指示を信用するの?」

「ほかに人がいない」

「ずいぶんな言い方ね」

 由美は笑いながら、車の後ろへ回った。

 賢司が何度か切り返し、慎重に駐車場から出る。

 車が店の前を通ると、窓越しに空の姿が見えた。

 空は次の客へ料理を運んでいるところだった。二人の車には気づいていない。

 由美も声をかけず、助手席へ座った。

 青い自動販売機は、すぐに見つかった。

 賢司が右へ曲がると、道は緩やかな下り坂になった。

「赤いポスト」

 由美が前を指す。

 看板の外された古い建物の前に、丸い郵便ポストが立っていた。

 賢司はその角を左へ曲がった。

 間もなく、見慣れた県道へ出た。ナビの画面にも、宿へ続く経路が表示されている。

「本当に戻れた」

 由美が言う。

「説明が正確だった」

「十六歳くらいかしら」

「それくらいだろうな」

「しっかりした子ね」

「由美が同じ年の頃よりは」

「私の高校時代を知らないでしょう」

「聞いた話から想像した」

「それなら、賢司よりもずっと行動力があったわ」

「授業を抜けて映画を見に行くことを、行動力とは言わない」

「友達の誕生日だったの」

「誕生日と授業に、何の関係がある」

「そういうところ、高校生の頃から変わっていなさそう」

「規則を守るのは悪いことじゃない」

 二人はいつものように話しながら、海岸線を走った。

 予定していた美術館へ着いたのは、午後一時を過ぎてからだった。

 古い洋館を改装した小さな美術館で、庭には白い薔薇が咲いていた。

 受付で入場券を買い、展示室へ入る。

 壁には風景画や静物画が並び、床は歩くたびに小さく軋んだ。

 賢司は一枚ずつ足を止め、解説まで丁寧に読む。由美は気に入った作品だけを長く眺め、興味のないものは早足で通り過ぎた。

 それぞれの見方をしているうちに、二人の間は少しずつ離れた。

 由美は、港に停泊する小舟を描いた絵の前で足を止めた。

 灰色の海と雲の間に、一か所だけ青空がのぞいている。

 水瀬空という名前が、ふと頭に浮かんだ。

 海辺の町で働く少女にはよく似合っている。

 そう思っただけで、由美は次の絵へ移った。

 展示室を一周したところで、賢司と合流した。

「早いな」

「賢司が遅いのよ」

「絵より解説を読んでいる時間の方が長いでしょう」

「背景を知った方が、見え方が変わる」

「何も知らずに見るのも楽しいわよ」

「昼の店も、何も知らずに入って成功したと言いたいのか?」

「少しは認めてるじゃない」

「昼食については認める」

「美術館は?」

「来てよかった」

「だったら、今日は全部よかったでしょう?」

 賢司はしばらく考えた。

「駐車には苦労した」

「まだ言ってる」

 美術館を出ると、庭のベンチでコーヒーを飲んだ。

 潮風は届かず、木々の葉がかすかな音を立てている。午前中に道へ迷ったことが、もうずいぶん前のことのように感じられた。

 午後三時を過ぎ、二人は宿へ向かった。

 賢司が予約したのは、海に面した小さな旅館だった。新しくはないが、部屋から海が見え、温泉がある。

 受付を済ませると、仲居が二人を二階の客室へ案内した。

 畳の部屋には低い机と二脚の座椅子が置かれ、窓を開ければ波の音が直接聞こえた。

「やっと予定どおりになった」

 賢司が座椅子へ腰を下ろす。

「予定どおりじゃなくても、楽しかったでしょう?」

「結果としては」

「素直じゃないわね」

「昼食はよかった」

「美術館は?」

「よかった」

「だったら、全部よかったじゃない」

 由美は窓際の椅子に座り、海を眺めた。

 水平線の近くに白い船が見える。昼の強い光はやわらぎ、水面は淡い青灰色へ変わり始めていた。

 賢司はポケットから財布を取り出し、宿の領収書を入れようとした。

 その拍子に、折り畳まれた紙が畳へ落ちた。

「何か落としたわよ」

 由美が拾う。

 空が描いた地図だった。

 青い自動販売機、坂道、古い郵便局、赤いポスト。迷いのない線で描かれている。

「もう使わないわね」

 由美が言う。

「帰りに同じ道を通るかもしれない」

「県道から帰ればいいでしょう?」

「通行止めが続いていたら必要になる」

「取っておくの?」

「旅行が終わるまでは」

 賢司は地図を受け取り、旅館の案内冊子へ挟んだ。

 由美は、紙の端に書かれた小さな丸印を思い出した。古い郵便局を示すため、空が描いたものだった。

 ただの道案内だった。

 それ以上の意味はない。

「夕食、どうする?」

 賢司が案内冊子を開いた。

「お昼、たくさん食べたから、軽いものでいいわ」

「近くに居酒屋が何軒かあるらしい」

「また調べるの?」

「調べずに入って、失敗しても知らないぞ」

「今日は一度、調べずに成功したでしょう」

「成功は再現できるとは限らない」

 賢司はスマートフォンを手に取った。

 由美は笑いながら、浴衣とタオルを用意した。

「先にお風呂へ行ってくる」

「ここが評判よさそうだ」

 賢司が画面を見せる。

 旅館から歩いて十分ほどの場所にある居酒屋だった。地元の魚料理が中心で、観光客だけでなく近所の人も訪れると書かれている。

「何時にする?」

「七時なら、風呂に入ってからでも間に合う」

「じゃあ、七時」

「席だけ予約しておく」

 賢司が電話番号を押した。

 由美は襖を開け、振り返った。

「今度は迷わないでね」

「歩いて十分だ」

「十分でも、賢司なら予定表が必要でしょう?」

「予約を取るだけだ」

 賢司が電話を始める。

 由美は笑いながら廊下へ出た。

 昼間の食堂で働いていた少女と、その夜、別の店でもう一度顔を合わせるとは考えていなかった。

 由美にとって水瀬空は、旅先で道を教えてくれた、少ししっかりした高校生にすぎなかった。


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