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『血の通わぬ糸』  作者: 久遠 睦


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第一部 二人のための世界     第一章 満ち足りた日々のリズム

週末の朝、由美は二つ目のマグカップを棚から出す前に、ほんの一秒だけ手を止めた。

 白い磁器のカップは四客揃いで買ったものだった。結婚十五年目の冬、金沢を旅したとき、細い金色の縁取りが気に入って選んだ。二客は普段使いにし、残りは来客用として食器棚の上段へ置いた。けれど、ここ数年は人を家へ招くことが減り、上段の二客には薄く埃が積もっている。

 由美はいつもの二客だけを取り出した。コーヒーミルのスイッチを押すと、豆の砕ける乾いた音がキッチンに広がった。

 目黒区の外れにあるマンションは、十五階建ての十二階だった。南東向きの窓から朝日が入り、オーク材の床に長い四角形を作っている。遠くに見える高層ビルの輪郭は、春霞の向こうで少しぼやけていた。

 三年前に全面改装したリビングは、由美が時間をかけて整えた場所だ。壁は白、ソファは薄い灰色、ダイニングテーブルは賢司が気に入ったウォールナット。テレビの横には、旅先で買った小さなガラスの鳥が二羽だけ並んでいる。

 余計なものを置かないのは、掃除が楽だからでもあり、何かを増やせば、その分だけ失くしたときに困ると知っているからでもあった。

「起きてたのか」

 背後で扉が開き、賢司が書斎から出てきた。紺色のTシャツの裾が片側だけ部屋着のパンツに入り、短い髪は寝癖で後ろへ跳ねている。四十五歳になっても、休日の朝だけは二十年前とあまり変わらない。

「いつから仕事してたの?」

「六時半くらい。昨日の会議の数字が一か所気になって」

「土曜日なのに」

「十五分で終えるつもりだった」

 由美は時計を見た。八時十二分だった。

「賢司の十五分は、だいたい一時間半ね」

 責めるつもりで言ったのではない。長く一緒に暮らしていれば、相手の欠点も季節の癖のようなものになる。梅雨になれば窓が曇り、冬になれば賢司が加湿器の水を切らす。由美はそのたびに小言を言い、賢司は謝りながら同じことを繰り返す。

「面目ない」

 賢司は両手を合わせてから、由美の肩越しにドリッパーをのぞき込んだ。

「いい匂いだな」

「顔、洗ってきたら?」

「コーヒーが先」

 そう言ってカウンターに肘をつく。由美は笑い、湯を細く回しかけた。膨らんだ豆から湯気が立ち上り、賢司の眼鏡を白く曇らせた。

 二人で暮らす朝は、こうして始まる。

 由美は四十三歳で、出版社の販売企画部に勤めている。文芸書ではなく、実用書や児童書を扱う部署だ。書店向けの販促物を考え、著者のイベントを組み、売れ行きが鈍ければ営業部と対策を練る。好きな本だけを作っていればよい仕事ではないが、数字の向こうに読者の顔を想像できるところが気に入っていた。

 賢司は医療機器メーカーの経営企画室にいる。計画を立て、数字を確認し、問題が起こる前にその芽を見つけるのが仕事だった。旅行へ出るときも、渋滞予測から食事の予約まで調べておく。由美が予定を変えたがるたび、口では困ったと言いながら、結局は付き合ってくれる。

 結婚して十九年になる。

 二人の間に子どもはいない。

 その事実を、由美は以前より平らな声で言えるようになった。職場で新しい人に家族構成を聞かれても、「夫と二人です」と答える。

 相手が一瞬だけ見せる、次に何を尋ねるべきか迷う表情にも慣れた。子どもは、と続ける人もいれば、そうなんですね、と話題を変える人もいる。どちらが正しいとも思わない。知らない人の気遣いまで採点し始めたら、自分が疲れるだけだった。

 治療を終えたのは七年前だ。

 最後に通ったクリニックは、駅前の細いビルの六階にあった。待合室には季節を問わず同じ造花が飾られ、壁掛け時計の秒針だけが妙に大きな音を立てていた。

 診察室で医師が次の方法を説明し始めたとき、由美は自分の膝に置いた両手を見つめていた。爪の横に、小さなささくれがあった。

 もうやめたい、と言ったのは由美だった。

 賢司はすぐには答えなかった。帰りの電車でも、家に着いても、いつものように結論を急がなかった。夕食の冷凍うどんを半分ほど食べたところで箸を置き、「分かった」と言った。

 その二文字が、由美には救いでもあり、残酷でもあった。

 引き止めてほしかったわけではない。もう一度だけ頑張ろうと言われても、きっと拒んだ。それでも、二人で抱えていたはずの願いが、あまりに静かに終わったことが寂しかった。

 その夜、賢司は食器を洗った。由美が浴室から出ると、キッチンの明かりの下で、彼は一枚の小皿を長いあいだ拭いていた。

 翌朝、その皿は食器棚の奥へしまわれていた。

 幼児用の、黄色い縁のついた小さな皿。知人から出産祝いのお返しにもらい、いつか使えるかもしれないと由美が取っておいたものだった。

 二人はその皿について話さなかった。

 しばらくして、由美はクリニックの診察券を鋏で切った。賢司は残っていた薬を病院へ返し、治療費を記録したファイルを処分した。空いた引き出しには、旅行会社のパンフレットを入れた。

 そうやって二人は、子どもを持たない人生へ移った。

 最初の一年は、何をしても言い訳のように思えた。平日に評判の店で食事をすることも、急に旅行へ出ることも、静かな部屋で眠ることも、「子どもがいないからできる」と自分に言い聞かせているようだった。

 けれど年月がたつにつれ、それは言い訳ではなく暮らしになった。

 由美は仕事で担当した児童書が賞を取り、初めて大きな企画を任された。賢司は海外部門から経営企画へ移り、忙しくなった。二人は年に二度は遠くへ旅をし、月に一度は知らない街を歩いた。

 喧嘩もした。賢司が仕事を優先しすぎること、由美が相談せずに高い椅子を買ったこと、互いの親の介護をどうするか。子どもがいないから夫婦の問題が少ないわけではない。ただ、二人は問題が起きるたび、相手を説得するより先に、同じ家にいたいかを確かめた。

 答えはいつも、いたい、だった。

 コーヒーをテーブルへ運ぶと、賢司がスマートフォンの天気予報を見せた。

「伊豆、晴れるみたいだ」

「本当に行くの?」

「昨日、行こうって言ったのは由美だろ」

 金曜の夜、由美は仕事で遅くなった。帰宅して冷蔵庫にあった白ワインを開け、録画していた旅番組を二人で見た。画面に伊豆高原の新緑と小さな美術館が映り、由美が「行きたい」と言うと、賢司はその場で宿を探し始めた。

「言ったけど、今週は疲れてない?」

「だから行くんだよ。温泉に入って、魚を食べて、明日の午後には帰る。月曜の資料はできてる」

「さっきまで仕事していた人の台詞とは思えない」

「確認と仕事は違う」

「同じです」

 由美はトーストにバターを塗った。賢司の分には、冷蔵庫から出したばかりの固いバターを薄く削ってのせる。自分の分には何ものせず、蜂蜜を少しだけ垂らした。

「美術館、十時からだって」

「そこまで調べたの?」

「近くに評判の蕎麦屋もある。十一時半に入れば並ばない」

「旅先でも予定表どおりに動くつもり?」

「予定は、外すためにも必要なんだ」

 賢司は得意そうに言い、トーストをかじった。直後、上にのっていたバターがシャツへ落ちた。

 由美は声を上げて笑った。

「四十五歳にもなって」

「今のはパンが悪い」

「パンに謝って」

「すまなかった」

 賢司が皿の上のトーストへ頭を下げる。由美は笑いながら布巾を濡らした。

 こういう朝を、由美は好きだった。

 誰かに見せるほど特別ではない。写真に撮っても、曇った眼鏡と、バターの染みと、食べかけのパンが写るだけだ。

 それでも由美にとっては、長い時間をかけて二人が作った生活だった。失ったものの代用品ではない。二人で選び、手入れをしてきた、二人のための暮らしだった。

 朝食の後、由美は寝室で小さなボストンバッグを開いた。一泊分の着替え、化粧品、文庫本。賢司は充電器を忘れるくせに、救急用品だけはやたらと多く持ちたがる。

 由美が絆創膏の箱を一つ減らすと、背後から手が伸び、元へ戻された。

「何があるか分からないだろ」

「一泊よ」

「一泊でも怪我はする」

「絆創膏、二十枚もいる?」

「余って困るものじゃない」

「荷物が増えて困ります」

 賢司は箱を見つめ、三秒考えてから、半分だけ別の袋へ移した。

「十枚」

「交渉成立」

 由美がバッグのファスナーを閉めようとしたとき、内側の布が噛んだ。何度か引いても動かない。賢司が手を出しかけたが、由美は「大丈夫」と言い、裁縫箱を取りに隣の部屋へ向かった。

 その部屋は、間取り図では洋室三と記されている。

 賢司の書斎より少し広く、窓は東を向いている。今は季節外れの布団、由美の仕事の資料、使わなくなったスーツケースが置かれていた。壁際には低い棚が一つあり、その上に木製の裁縫箱がある。

 以前、この部屋にはほとんど何も置いていなかった。

 いつか必要になるかもしれないから。

 二人とも口にはしなかったが、同じ理由で空けていた。治療を終えた後、賢司が書斎に使おうかと尋ねたことがある。由美は、日当たりがいいから客間にしたいと答えた。

 けれど、ベッドを買うこともカーテンを替えることもせず、物置のようになった。

 由美は窓を少し開けた。外から車の音が上がってきた。棚の下段に、見覚えのない紙袋が押し込まれている。

 取り出すと、子ども向けの絵本が三冊入っていた。由美が数年前に仕事でもらった見本だった。表紙の角が少し曲がっている。処分したつもりだったのに、ここへ移しただけらしい。

 一冊を開く。

 迷子になった狐が、森の動物たちに道を尋ねながら家へ帰る話だった。見返しに、編集者の走り書きがある。

 ――帰る場所は、最初からあるとは限らない。

 企画会議で出た宣伝文句の候補だ。結局は別の言葉が採用された。

 由美は本を閉じた。

「あった?」

 廊下から賢司の声がした。

「今、探してる」

 裁縫箱の蓋を開ける。糸切り鋏、針山、白と黒の糸、母から譲られた指ぬき。その端に、赤い糸巻きがあった。

 由美の母は、服の裏側こそ丁寧に縫いなさい、とよく言った。表から見えなくても、縫い目が乱れていれば着る人には分かる。

 由美は裁縫が苦手で、母のようにはできない。それでもボタンが取れたり、裾がほつれたりすると、この箱を開いた。

 バッグの裂けかけた布を裏返し、赤い糸を針に通した。内側だから色は見えない。三針進んで、二針戻る。布と布の間を糸が渡り、離れていた端が少しずつ寄っていく。

「赤で縫うのか?」

 いつの間にか、賢司が扉にもたれていた。

「内側だからいいの」

「白もあるだろ」

「見えないところまで正しくなくていいのよ」

 言いながら、由美は自分でも妙なことを言ったと思った。

 賢司は部屋を見回した。視線が紙袋の絵本で止まり、それから何も言わずに由美の手元へ戻った。

「この部屋、そろそろ片づけるか」

「帰ってきたらね」

「客間にする?」

「客なんて来ないでしょう」

「じゃあ、由美の仕事部屋」

「会社の資料を家でも見ろって?」

「趣味の部屋でもいい」

「私、趣味らしい趣味ないもの」

「旅行は?」

「部屋で旅行はできないわ」

 答えながら、由美は糸を結んだ。結び目が大きくなりすぎ、やり直そうとして爪で引く。固く締まって解けなかった。

「そのままでいいんじゃないか」

 賢司が言った。

「内側で見えないんだろ」

 由美は少し笑い、糸を切った。

 家を出たのは九時を少し過ぎてからだった。地下駐車場には洗剤のような匂いが残り、車の屋根に蛍光灯の白い光が滑っていた。

 賢司が荷物を積むあいだ、由美は助手席のドアを開け、シートに置かれていた道路地図を後部座席へ移した。

「地図なんて使うの?」

「ナビが壊れたときのため」

「スマホもあるでしょう」

「スマホの電池が切れるかもしれない」

「充電器を忘れる人が言うと説得力があるわね」

 賢司の動きが止まった。

「充電器」

「入れたわよ。バッグの外ポケット」

「さすが」

「絆創膏十枚との交換です」

 車が駐車場を出ると、朝の街はもう動き始めていた。犬を連れた人、ベビーカーを押す夫婦、コンビニの前でスポーツ新聞を広げる男性。

 信号待ちで、隣の車の後部座席から小さな手が見えた。窓に指で何かを描いている。

 由美は前を向いた。

 子どもを見るたび胸が痛む時期は、もう過ぎていた。正確には、痛みがなくなったのではなく、どこに置けば日常の邪魔をしないか分かるようになった。

 古い傷のように、天気によって思い出す。そんな日は、無理に前向きにならない。賢司も励まさない。ただ夕食を作り、風呂を沸かし、隣で眠る。

 高速道路へ入ると、建物の間隔が少しずつ開き、空が広くなった。

 賢司は運転中、話し続ける人ではない。ラジオから流れる音楽に合わせてハンドルを指で叩く。由美は窓の外を見ながら、鞄から文庫本を出した。

「読むと酔うぞ」

「眠るよりいいでしょう」

「話し相手になってくれてもいい」

「何の話?」

「さっきの部屋」

 由美は本を開く手を止めた。

「片づけるって話?」

「うん」

「帰ったら片づけるわ」

「そうじゃなくて」

 賢司は前を見たまま、言葉を選んでいた。

「あの部屋を空けたままにしておく理由は、もうないと思う」

「分かってる」

「責めてるわけじゃない」

「分かってるってば」

 声が少し強くなった。

 賢司は黙った。車線変更の合図が規則正しく鳴る。由美は文庫本を閉じ、表紙を下にして膝へ置いた。

「ごめん」

「いや」

「私、あの部屋に何かを待たせてるつもりはないの」

「うん」

「本当に今の生活が好き。仕事も、旅行も、あなたと二人で朝ごはんを食べることも。負け惜しみじゃなくて」

「知ってる」

「でも、片づけてしまったら、なかったことにするみたいで嫌なのかもしれない」

 言葉にしてから、由美は初めてその気持ちに気づいた。

 望んでいた子どもが来なかったこと。名前を考えた夜があったこと。小さな靴を店先で手に取り、賢司に笑われたこと。治療の帰り、二人で何度も遠回りをしたこと。

 それらを悲しい記憶だけにはしたくなかった。

「なかったことにはならないよ」

 賢司の声は、エンジン音に混じるほど低かった。

「部屋をどう使っても、あったことは消えない」

「そうね」

「それに、急がなくていい」

 由美は窓の外を見た。防音壁の切れ目から、青い空が一瞬のぞいた。

「帰ったら、絵本だけ会社へ持っていく」

「あとは?」

「考える」

「了解」

「あなたの書斎を広げる案はなしね」

「まだ何も言ってない」

「顔に書いてある」

「運転中に顔を見るな」

 二人は笑った。会話はそこで終わったが、由美の胸にあった硬いものは、少しだけ形を変えた。

 海老名を過ぎたあたりで渋滞が始まった。賢司の立てた予定は早くも崩れ、美術館の開館時刻には間に合わなくなった。

「予定は、外すためにも必要なんでしょう?」

 由美が言うと、賢司は苦い顔で時計を見た。

「外し方にも程度がある」

「蕎麦屋は?」

「十一時半は無理だな」

「じゃあ、途中で見つけた店に入ろう」

「評判を調べずに?」

「旅なんだから」

「腹を壊したら?」

「絆創膏を貼る」

「効かない」

 賢司は笑い、ナビの案内を切った。

 渋滞を抜け、小田原から海沿いへ出たころには、光の色が変わっていた。水面が細かく砕け、銀色に瞬いている。窓を少し開けると、潮の匂いが入ってきた。

 由美は深く息を吸った。

 旅に出るたび、人生には選ばなかった道が無数にあるのだと思う。右へ曲がっていれば見たはずの景色。一本早い電車に乗っていれば隣り合わせた人。続けていれば得たかもしれないもの、やめたから守れたもの。

 すべての道を確かめることはできない。選んだ道を正しかったことにするため、歩きながら手入れをしていくしかない。

「由美」

 賢司が前方を指した。

 海沿いの道路の先に、工事中を示す黄色い看板が立っていた。ナビは右折を指示しているが、仮設の案内板は左の細い道へ車を誘導している。

「どっち?」

「案内板でしょう」

「ナビは右だ」

「工事中なんだから左」

「この案内、いつのだ?」

「考えているうちに通り過ぎるわよ」

 賢司は迷った末、左へハンドルを切った。

 道はすぐに狭くなった。海は見えなくなり、低い家と畑の間を縫うように続いている。ナビは何度も転回を促したが、戻れる場所はなかった。

「ほら、迷った」

 賢司が言った。

「まだ分からないでしょう」

「道幅が車一台分しかない」

「景色はいいわよ」

 畑の向こうに、濃い緑の山が見えた。軒先には洗濯物が揺れ、石垣の隙間から紫色の花が伸びている。

 予定していた美術館も蕎麦屋も、いったん遠ざかった。

 由美は不思議と焦らなかった。

 道はやがて二つに分かれた。標識はない。賢司が車を止め、ナビの地図を拡大する。どちらも細い灰色の線で、少し先で途切れているように見えた。

「右かな」

「左じゃない?」

「根拠は?」

「光が明るい」

「それは根拠なのか」

「私の十五分よりは信用できる」

「それは僕の十五分だ」

 二人が言い合っていると、左の道の奥から、自転車を押した少女が歩いてきた。白いエプロンをつけ、肩までの髪を後ろで一つに結んでいる。高校生くらいに見えた。

 賢司が窓を下げた。

「すみません。海沿いの県道へ戻りたいんですが」

 少女は一度、車のナンバーと二人の顔を見た。ほんの短い視線だったが、由美には、相手が安全かどうかを測ったように見えた。

「この先は行き止まりです」

 少女は車から少し距離を取ったまま答えた。

「ここで曲がるより、少し戻ったところに青い自動販売機があります。その角を右です。坂を下りたら、古い郵便局の前を左。県道に出ます」

 迷いのない説明だった。

「助かります」

 賢司が礼を言うと、少女は軽く頭を下げた。エプロンの胸元には、「海辺食堂」と紺色の糸で刺繍されている。

 右のポケットがほつれ、青い糸で粗く縫い直されていた。

「食堂、近いの?」

 由美は思わず尋ねた。

 少女は左の道を指した。

「すぐそこです。十一時からなので、まだ開いてませんけど」

 時刻は十時五十分だった。

 賢司と由美は顔を見合わせた。

 予定していた蕎麦屋には、もう間に合わない。

「十分なら待てるわね」

 由美が言うと、賢司は肩をすくめた。

「予定を外すにも、ちょうどいい程度だ」

 少女は二人のやり取りを聞き、わずかに口元を緩めた。けれど笑顔になる前に、すぐ表情を整えた。

「店の前に二台停められます。道、狭いので気をつけてください」

 そう言って、自転車を押しながら二人の横を通り過ぎた。

 由美はサイドミラーでその後ろ姿を見た。白いエプロンの紐が、歩くたび背中で揺れている。結び目から一本だけ、青い糸が長く伸びていた。

「行ってみる?」

 賢司が聞いた。

 由美は頷いた。

 そのときの二人は、昼食を取る場所を変えただけだと思っていた。

 右へ行くはずだった道を左へ曲がり、予定表にない店で魚を食べる。それだけの、小さな回り道。

 けれど後になって振り返れば、二人の人生は、あの細い分かれ道ですでに別の方角へ動き始めていた。


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