第8回 苦情票の行列 前編
今日は本当に、処分札を一枚で済ませてくれない日だ。
私は通りの角を見た。
見覚えのない若手冒険者が一人。
その横に、工具箱を抱えたマクス。
そして二人とも、ものすごく見つかりたくない顔をしている。
でも、歩き方が見つかる人のそれだった。
「ヘイムさん」
「何だ?」
「橋板案件の人ですか」
「片方だけな」
「片方」
「若いのは知らん」
私は少しだけ息を吐いた。
つまり知らない若手が勝手に現場へ行こうとしている。
よくない。
とてもよくない。
今日二件目だ。
また処分札が必要になりそう。
「受付」
ロッドが言う。
「お前、今ちょっと嬉しそうだぞ」
「違います」
「いや、顔が“また処分できる”って」
「そういう顔ではありません」
「半分くらいはそうだろ」
「半分もありません」
たぶん三割くらいだ。
そこは認めたくない。
私は第三机から離れた。
ノアが箱を抱えたまま言う。
「あ、そっち先?」
「勝手に現場へ行かれると苦情票も仕事もわっと増えるので」
「なるほど」
ノアがうなずいた。
良い理解だ。
苦情票を抱える人は、そのへんの因果に敏い。
「そこの二人」
私が声をかけると、若手冒険者がびくっと止まった。
マクスまで止まる。
えらい。
勝手に行こうとしていたが、止まれるだけまだましだ。
「何をしていますか」
若手は口を開いた。
閉じた。
また開いた。
「えっと、その……」
「橋板案件なら二番目です」
「知ってる」
「ではなぜ、今マクスさんと一緒に通りを曲がろうとしていたんですか」
「下見」
「無断で?」
「……下見」
「無断で、ですね」
若手は顔をしかめた。
「名前は?」
「ハルト」
「経験職」
「護衛と雑務」
「怪我歴」
「ない」
「本当に?」
「たぶん」
「ありますね」
後ろで、ロッドがもう笑っていた。
ガザムまで深くうなずいている。
「流れが同じだな」
「貴方は静かにしていてください」
「はいよ」
この人、最近ちょっと素直で腹が立つ。
でも助かる。
「怪我歴は?」
私はもう一度聞く。
「左足首を一回だけだ!」
「今も捻りやすいですか」
「少しだけ!」
「ありますね」
「そこそんなに大事か!?」
「橋板の現場なので、かなり」
ハルトが詰まる。
そこへマクスが気まずそうに言った。
「俺は止めたんだぞ」
「本当ですか」
「本当だ」
「どのくらい」
「二回」
「三回ではなく」
「二回だ!」
「足りませんね」
「何がだよ!」
列のあちこちで笑いが漏れた。
マクスは少しだけ不満そうだったが、反論はしなかった。
良い人だ。
たぶん苦労人でもある。
そういう人は声に出る。
「ハルトさん」
私は向き直る。
「橋板案件に今行って、何をするつもりでしたか」
「様子を見る」
「それだけですか」
「悪いか」
「橋板案件は、様子だけ見ても終わりません」
「またそれか」
「またです」
私は指を折る。
「板の状態」
「荷の重さ」
「通行順」
「修繕材の搬入」
「通行止め告知」
「未払いの確認」
「現場責任者」
「これらすべて、現場を見だけでは終わりません」
ハルトは一つ目まではふてくされた顔だった。
三つ目あたりで少し弱り。
五つ目で嫌そうな顔になり。
最後には、少しだけ黙った。
「……橋を見るだけじゃねえのか」
「橋を見るだけなら観光です」
「観光じゃねえよ!」
「でしょうね」
「……直したかっただけだ」
そこで少しだけ、私は声を落とした。
怒っているのではない。
ただ順番が違うのだ。
「わかっています」
「じゃあ」
「でも、今はだめです」
「何でだよ」
「勝手に現場に入る人が二人になるからです」
ハルトが一瞬止まる。
後ろでジュルグが低く言った。
「わかるぞ、その気持ち」
「お前、急に先輩ぶるなよ」
ロッドが言う。
「俺は三日の停止をくらった男だ」
「すげえ嫌な肩書きだな!」
それは本当にそうだ。
しかし今は助かる。
処分経験者の自覚が、列の教育に役立っている。
非常に不本意だが。
アーヴィンが低い声で聞いた。
「リゼ」
「はい」
「無断受注ではない」
「はい」
「無断下見だ」
「はい」
「処分するか」
ハルトが顔色を変えた。
「え、おい、待て!」
マクスも慌てて言う。
「俺は巻き込まれただけだぞ!」
セレナがもう手帳を構えている。
怖い。
やっぱりこの人の記録姿勢は怖い。
私は少しだけ考えた。
無断受注ではない。
だが、無断で現場へ行けば、橋板案件はさらに混乱する。
混乱すれば苦情票が増える。仕事も増える。
そこが問題だ。
「処分はしません」
ハルトが露骨に安心した顔をした。
安心するのが早い。
もちろん、それだけでは終わらない。
「ただし」
やはり来ると思ったのか、ハルトの顔がまた曇る。
「橋板案件への単独下見は禁止にします」
「禁止」
「はい。今日から禁止です」
「今日から!?」
「今日起きたことへの対処なので」
「何でも今日決まるなこのギルド!」
「作っている途中なので」
セレナがもう紙を出していた。
本当に早い。
私は見出しを書く。
橋板案件への無断下見禁止。
マクスが覗き込む。
「それも貼るのか」
「貼ります」
「早いな」
「橋は、勝手に見に行く人がいると早く壊れます」
「そういうもんか」
「だいたいそうです」
ヘイムが低くうなる。
「そういうもんだ」
やはり現場の人が言うと重い。
ハルトは頭を抱えた。
「何だよこのギルド……」
「話が早いギルドです」
「早すぎるんだよ!」
「遅いよりましです」
「でもちょっとは悩め!」
「かなり悩んでいます」
「見えねえ!」
「窓口では見せません」
ロッドがもうだめだった。
「ぎゃはは」
「笑うな!」
「でもお前!」
「笑うなって言ってんだろ!」
だめだ。
今日は本当に何を言ってもウケる。
でも、笑っているほうが列は荒れにくい。
そこは助かる。
「ハルトさん」
私は紙を押さえた。
「現場へ行きたい気持ちはわかります」
「だったら」
「だから、先に順番を整えます」
「順番?」
「はい」
私は橋板案件票の端に、新しく線を足した。
一、現場責任者確認。
二、通行情報板両側設置。
三、木材搬入の支払確認。
四、仮止め修繕。
五、軽荷通行再開判断。
「ここまで確認して判断してからです」
ハルトが、その紙をじっと見た。
「……俺、どこで入る?」
「今は現場責任者が足りません」
「なのに今じゃねえのか」
「今は、勝手に動く人を増やしたくありません」
「うっ」
「ただし」
私は続ける。
「通行情報板を立てる人手なら、今、必要です」
ハルトの顔が少し動く。
「板を立てる?」
「はい」
「橋を直すんじゃなくて」
「順番を整える仕事です」
「……地味だな」
「地味です」
「でも要るのか」
「かなり大切です。理由はもう分かりますね?」
マクスが、ふっと笑った。
「それなら、こいつでも橋を壊さなくて済む」
「おい」
「褒めてる」
「褒めてねえだろ」
列からまた笑いが起きる。
いい。
かなりいい。
私はハルトに紙を渡した。
臨時補助申請。
用途、通行板設置補助。
「書いてください」
「……それでいいなら」
「はい」
「やる」
「助かります」
ハルトは少しだけ不満そうだったが、ちゃんと紙を受け取った。
えらい。
かなりえらい。
無断受注男より一段ましである。
そこは明確に違う。
ジュルグが腕を組んで言う。
「俺との差は何だ?」
「宣言の重さです」
「まだそこか」
「かなりそこです」
「くそ……」
「三日後です」
「覚えてるよ!」
覚えていてほしい。
忘れられるとまた紙が増える。
それは困る。
セレナが掲示板から戻ってきた。
「貼りました」
「ありがとうございます」
「ついでに、通行情報板設置補助も一番下に追加しました」
「助かります」
「もう何でも増えますね」
「嫌ですね」
「でも少し楽しそうです」
「気のせいです」
半分くらいは。
そこへノアが、箱を抱えたまま叫ぶ。
「受付!」
「はい」
「苦情票、東の木橋の分だけでも十枚ある!」
多い。
かなり多い。
ヘイムが顔をしかめた。
「十もあるのか」
「あるよ」
ノアが箱を叩く。
「しかも、未払い、転倒、通行遅延、木材待ちで綺麗に分かれてる!」
「綺麗に分かれてるの、嫌ですね」
「嫌だよ!」
「でも整理しやすいです」
「そこなんだよ!」
私は第三机へ戻った。
箱を覗く。
本当だ。
分かれている。
未払い。
通行情報不在。
転倒苦情。
木材搬入待ち。
嫌なくらい整っている。
つまり、繰り返しているのだ。
同じ失敗を。
私は一枚ずつ抜いていく。
「この四つです」
「四つ?」
ヘイムが聞く。
「橋板案件の主な争点」
私は並べた。
「未払い」
「通行情報」
「現場導線」
「搬入遅延」
「全部か」
「全部です」
ヘイムが頭をかいた。
「橋板だけ見てても無理だな」
「はい」
「受付の言う通りか」
「はい」
「腹立つが」
「そういう仕事なので」
ノアが腕を組む。
「で、どこから潰す」
「通行情報です」
私は即答した。
ヘイムが少し驚いた顔をする。
「支払いじゃなくてか」
「支払いは今日中に出ないかもしれません」
「そうだな」
「でも、通行情報は今日出せます」
「うむ」
「そこが止まると、荷も人も怒りも全部混ざります」
「混ざるね」
ノアがうなずく。
「だから、まず札です」
ハルトが急に顔を上げた。
「俺の出番か」
「はい」
「そういうことか」
「そういうことです」
少しだけ嬉しそうだった。
よかった。
行き場のない前のめりは扱いにくい。
行き場が決まると、人は少しだけ使いやすくなる。
それは窓口の基本である。
たぶん。
「受付」
ダンが第二机から声を飛ばした。
「薬草樽の現地確認、今から行くぞ」
「はい」
「護衛は?」
「ガザムさん」
「おう」
「まず守るほうで」
「まだ言うか!」
「経験則です」
ガザムは不満そうだが、否定しなかった。
そこは偉い。
少しだけ。
アーヴィンが全体を見渡した。
「薬草樽は現地確認」
「東の木橋は通行情報板の設置から」
「苦情票は第三机で分類継続」
「新設ギルドとして、そう動く」
低い声だった。
でも、三つに割れた広場によく通る。
責任を持つ声だ。
そこが大事。
とても大事だ。
「はい」
私は答えた。
第二机。
第三机。
中央列。
それぞれが少しずつ形を持ち始める。
まだぐらぐらしている。
でも、朝よりはましだ。
その時だった。
通りの向こうで、わっと声が上がった。
見る。
また人が来る。
しかも今度は荷車ではない。
依頼主の群れだ。
紙束を持っている。
顔が怒っている。
かなり怒っている。
先頭の女が、遠くからでもわかる勢いで叫んだ。
「白狼の爪で箱送りにされた苦情、まだまだあるんだけど!」




