第7回 赤線を越える者
次の日。
新設ギルドの朝はもう、全然静かではなかった。
机は三つに増えた。
いや、正確には。
机一つ。
箱一つ。
裏返した板一つ。
人類は追い詰められると、だいたい平らなものを机と呼び始める。
良くない傾向だ。
でも、今は助かる。
「増えましたね」
私は第三机を見て言った。
「増えました」
セレナが答える。
「しかも全部机とは言いがたいですね」
「はい」
「でも机です」
「今はそういうことにしています」
朝の広場には、すでに列が三本できていた。
仮登録。
危険案件。
苦情票。
そして、その全部を見ている野次馬が少し。
よくない。
とてもよくない。
だが、野次馬は列ではないので、まだましだ。
「受付!」
ノアが苦情票の箱をどんと叩く。
「今日も増えた!」
「でしょうね」
「何でわかる!」
「昨日、箱が半分も減っていないので」
「腹立つほど正しい!」
ノアは今日も元気だった。
怒っている人間は、元気に見えることがある。
窓口にとっては助かる。
倒れられるよりずっといい。
「仮登録の方は左へ」
私は声を上げる。
「苦情票は右。危険案件は中央。なお、中央は今からさらに危なくなります」
ロッドが列の中から言う。
「何だそれ」
「予告です」
「嫌な予告だな!」
それはそうだ。
だが、隠しても列は短くならない。
そこはもう学んだ。
かなり学んだ。
「昨日の薬草樽案件の続きから始めます」
私は第二机の票を引いた。
青札。
進行中。
その横に太い赤線。
危険継続。
「北門坂で崩れた一樽は回収不能」
「仮置き場の二樽は確認済み」
「腐敗疑い一樽は隔離」
「よし」
ケベルが腕を組む。
「今日は話が早いな」
「昨日遅かったので」
「そこを認めるなよ!」
「事実です」
その時、ロッドが急に顔を上げた。
「おい」
「はい」
「中央列の後ろ」
見る。
いた。
昨日、最後尾送りになった大男。
ジュルグだ。
今日は最初から中央列にいる。
えらい。
少しだけ。
ただし、顔が良くない。
とても良くない。
並んではいる。
だが、並びながら“納得していない”顔だ。
窓口はああいう顔を覚えておくべきである。
あとで何かするからだ。
かなり高確率で。
私は呼んだ。
「ジュルグさん」
「何だよ」
「今日は最初から並んでいますね」
「昨日学んだ」
「よかったです」
「でも納得はしてねえ」
「そうでしょうね」
ジュルグは腕を組んだまま、第二机を見た。
「薬草樽の件、まだ終わってねえんだろ」
「終わっていません」
「だったら、俺が入ったほうが早え」
はい来た。
やはり来た。
私は少しだけ息を吐く。
「いいえ」
「何でだよ」
「赤線案件なので」
「またそれか」
「またです」
「俺は湿地にも慣れてる」
「記録がありません」
「昨日言った!」
「昨日の発言は覚えてます。ただ記録がない以上、窓口では事実として扱えません」
後ろでガザムが吹き出した。
「そういうこった。お前も慣れろ」
「黙ってろ」
「俺はもう書類側なんでな」
「何なんだよその派閥!」
ロッドが腹を押さえて笑っている。
だめだ。
この列、少しずつ育ち方がおかしい。
私はジュルグの前に立った。
「確認します」
「何をだ?」
「昨日の時点で」
指を折る。
「護衛再編未了」
「分割搬送記録なし」
「荷札番号重複」
「一樽崩落済み」
「腐敗疑い一」
「そして本日」
私は紙を叩く。
「仮置き場確認済み、現地再搬送待ち」
ジュルグはむっとした顔で聞いていた。
「だから何だ」
「昨日より条件は増えました」
「減ってねえのかよ!」
「減っていません」
「何でだ!」
「危険案件だからです」
「お前、それで全部通す気だろ!」
「かなり通ります」
「便利すぎる!」
たしかに。
だが事実だ。
「つまり」
私は言う。
「今ここで、単独で入れる人はいません」
空気が、少しだけ締まった。
中央列の何人かが顔を見合わせる。
若手はだいたい、単独で入れないと言われるのが嫌いだ。
でも、嫌いと現実は別である。
「俺は入れる」
ジュルグが言う。
「入れません」
「入れる!」
「入れません」
「何でだ!」
「今のあなたは、危険案件に勝手に入りたがる人だからです」
沈黙。
それから、ロッドが小さく吹いた。
ダンが口元を押さえた。
セレナはもう手帳を構えている。
怖い。
味方なのに怖い。
「それ、関係あるか?」
ジュルグが低く言う。
「かなりあります」
私は即答した。
「赤線案件は、手順を飛ばした瞬間に、現場も記録も壊れるからです」
「そんな大げさな」
「大げさではありません。昨日、一樽崩れました」
「うっ」
「番号も重複していました」
「うっ」
「そして今なお責任者が曖昧です」
「それは……」
「そこで、勝手に入る人が増えると」
私は一拍置いた。
そして、なるべくはっきり言う。
「あとで誰が何を壊したのか、わからなくなります」
ジュルグの顔が止まった。
ああ。
そこか、と思う。
命の危険とか、金の損とかは想像していたのだろう。
でも、“誰が何を壊したかわからなくなる”は、予想していなかった顔だ。
窓口では、そこがかなり大事である。
とても。
「だから」
私は続ける。
「今、無断で入るのはだめです」
「無断って」
「はい」
「許可があればいいのか」
「条件が揃えばです」
「じゃあ揃えろよ!」
「だから今揃えています」
「遅え!」
「今まさにその“遅れた分”を拾っているので」
ロッドがもうだめだった。
「ぎゃはは」
「笑うな!」
「いやでも!」
「笑うなって言ってんだろ!」
だめだ。
今日は受ける日らしい。
本当に困る。
ジュルグは机を指で叩いた。
脚が一本短いのでやめてほしい。
「じゃあ見てろ!」
来る。
嫌な流れが来る。
「俺は勝手に行く!」
はい。
やはり来た。
私は紙を置いた。
「今、無断受注宣言をしましたか」
「宣言でも何でもいい!」
「よくありません」
「知るか!」
「知ってください」
私は第二机を、ばん、と叩いた。
みんなが止まる。
ジュルグも止まる。
少し痛かったが、必要経費だ。
「赤線案件への無断介入は……」
私ははっきり言う。
「新設ギルドでは受注停止の処分となります」
「はあ!?」
「仮登録でも止めます」
「そんな権限あるのかよ!」
「今、作ります」
広場が一瞬、しんとした。
ノアまで口を開けている。
ケベルが、うわ、と小さく言った。
セレナが、すっと前に出る。
「記録します」
「早えよ!」
ジュルグが叫ぶ。
「昨日も思ったけどお前ら早えよ!」
「窓口なので」
「何でもそれで済むと思うなよ!」
「済まないものは紙が増えます」
「怖ええ!」
いい反応だ。
私は新しい紙を取る。
見出しを書く。
受注停止処分。
横でロッドが言う。
「本当に書くんだ……」
「書きます」
「見本にされるぞお前」
ガザムがうなずく。
「最初の一人って重いからな」
「お前、何でそういう時だけ先輩風なんだよ!」
「損耗申請を三回書いた」
「それもう聞いたわ!」
そこへ、アーヴィンが来た。
今日も足音が少ない。
責任者なのに静かだ。
かなりえらい。
「何があった」
「ジュルグさんが赤線案件への無断介入を宣言しました」
私は即答した。
「本人は?」
「俺だ」
ジュルグが胸を張る。
「行ける」
「止めた理由は」
「受付が細けえ」
「その通りです」
私は答える。
「受付なので」
「そういう意味じゃねえ!」
「でしょうね」
アーヴィンは紙を一枚で読んだ。
目線が早い。
本当に助かる。
「理由をここで言え」
「承知しました」
私は指を折る。
「護衛人数未確定」
「分割搬送記録なし」
「荷札番号重複」
「崩落済み一」
「腐敗疑い一」
「責任者不明」
「現地導線未確定」
「以上です」
アーヴィンがジュルグを見る。
「まだ行けると言うか」
ジュルグは少しだけ詰まった。
そこへダンが低く言う。
「今の状態で突っ込むのは、早いんじゃなくて雑だ」
ロッドも頷く。
「うん」
ガザムまで腕を組む。
「まあ、赤線案件だしな」
「お前ら急に同じ側に立つなよ!」
ジュルグが吠えた。
でも、空気はもう変わっていた。
最初の時より、列の方が“受付の側”に立っている。
それは大きい。
かなり大きい。
アーヴィンが言う。
「新設ギルドとして決める」
広場がまた静かになる。
こういう瞬間は嫌いじゃない。
少し重いが、必要な重さだ。
「赤線案件への無断介入は、受注停止」
「期間は三日」
「仮登録も停止」
ジュルグが目を剥いた。
「三日!?」
「短いです」
私が言う。
「本来ならもっと長くてもいい」
「お前厳しくない!?」
「最初の一人なので」
「やっぱり見本じゃねえか!」
かなりその通りである。
でも、ここで曖昧にすると次が崩れる。
それは困る。
かなり困る。
「なお」
私は新しい紙を指した。
「規約として貼ります」
「貼るな!」
「もう書いています」
「早えよ!」
「昨日も同じことを言われました」
後ろでノアが吹き出した。
「本当に貼るんだねえ」
「今日起きたことなので、今日貼ります」
「理屈は通ってるのが腹立つね」
「ありがとうございます」
「褒めてないよ!」
その間にセレナはもう掲示板の方へ向かっていた。
本当に早い。
怖い。
だが非常に助かる。
「ジュルグさん」
私は向き直る。
「処分です」
「……くそ」
「なお、三日後」
「おう」
「記録が揃っていて、護衛も組めていて、勝手に動かないなら」
「なら?」
「臨時補助候補に戻します」
ジュルグはしばらく黙っていた。
たぶん、怒っている。
でも、怒るだけではなかった。
少しだけ考えている顔だった。
それは良い。
かなり良い。
「……わかったよ」
「本当に?」
ロッドが言う。
「黙ってろ」
「はいはい」
「三日後だな」
ジュルグが言う。
「はい」
「その時、まだ人が足りねえなら、今度は順番で入れろ」
「条件が揃えばです」
「細かい!」
「受付なので」
ついに、広場のあちこちから笑いが漏れた。
ジュルグまで、少しだけ口元が引きつっていた。
怒っているのか、呆れているのか、少し笑っているのか。
だいぶ複雑な顔だ。
でも、最初よりずっとましだ。
セレナが戻ってくる。
「貼りました」
「ありがとうございます」
「ついでに“勝手に現場へ行かないこと”も足しました」
「助かります」
「気が合いますね」
「そこはあまり嬉しくないです」
でも助かる。
かなり。
その時だった。
橋板修繕のヘイムが、第三机の前から言った。
「受付」
「はい」
「こっちも一人、勝手に見に行こうとしてる」
ああ。
やっぱりか。
見ると、見覚えのない若手が、工具箱のマクスを連れて通りの角へ行こうとしていた。
今日は本当に、処分札を一枚で済ませてくれない日だ。




