第5回 窓口一つの開戦
新設ギルドの朝は、始まる前から足りていなかった。
机が一つ。
札が一枚。
印泥が一つ。
補助職員はゼロ。
なのに列だけは、もうできている。
「増えてますね」
私は荷車の横で言った。
「増えています」
セレナが静かに答える。
「さっき二十人でした」
「今は?」
「三十三人です」
「ずいぶん景気がいいですね」
「受付担当が一人なのに、ですね」
「その一人が私ですか」
「はい」
「嫌な情報です」
「でも事実です」
この人は、嫌な事実を嫌な顔をせずに言う。
そこは好きだが、油断すると心が削られる。
私は荷車の上の箱を見た。
帳票束。
木札。
紐。
安い紙。
予備のペン。
そして、たった一つの印泥。
あまりにも未来が細い。
「セレナさん」
「はい」
「これ、本当に受付備品一式ですか」
「はい」
「一窓口分ですか」
「はい」
「最低限ですね」
「最低限です」
「最低限すぎませんか」
「かなり」
よかった。
この人でもそこは自覚があるらしい。
私は箱を開けた。
札を取り出す。
受付窓口用。
たった一枚。
それを見ていると、少しだけ笑えてくる。
追放された翌日に、新設ギルドで一窓口だけの受付を立ち上げる。
人生、どう転ぶかわからない。
だが転んだ先で机が足りないのは、少し納得がいかない。
「始めますか」
セレナが言う。
「始めないと列が育ちます」
「嫌な言い方ですね」
「事実です」
列を見る。
たしかに育っていた。
先頭には昨日見た若い採取師の少女。
その後ろに荷運びらしい男。
さらにその後ろに、腕だけは立派そうな若手冒険者。
もっと後ろには、なぜかガザムまでいた。
「おい」
「はい」
「俺、ここでも損耗申請いるのか」
「いります」
「だよな」
なぜ納得顔なんだ。
君はもう少し反省したほうがいい。
でも、順番を守って並んでいるので偉い。
前よりずっと偉い。
不本意だが。
私は札を机に立てた。
机が少し傾いた。
脚が一本短い。
初日からやめてほしい。
「机、曲がってますよ」
荷車係の青年が言った。
「見ればわかります」
「直しますか」
「今やると列が怒ります」
青年は列を見た。
列はもう、少しだけ怒っていた。
「始めたほうがよさそうですね」
「はい。そういうことです」
私は札をひっくり返して、裏に墨で書いた。
仮登録受付。
その下に小さく、相談も可。
セレナがそれを見て言う。
「相談も受けるんですか」
「列の顔がそう言っています」
「顔で読むんですね」
「窓口なので」
「便利な言葉ですね」
「かなり便利です」
受付の前に立つ。
少しだけ息を吸う。
白狼の爪の窓口とは違う。
後ろに苦情箱もない。
横に怒鳴るギルド長もいない。
今のところ。
それはだいぶ大きい。
「新設冒険者ギルド、仮登録窓口です」
声を出す。
広場に、よく通った。
よし。
声は死んでいない。
「本日は仮登録のみ受けます。受ける項目は四つです」
ざわっとする。
わかる。
少ないよね、と思った顔だ。
「名前」
指を折る。
「経験職」
次。
「前所属」
次。
「怪我歴」
そこで、若い冒険者が手を挙げた。
早いな。
「それだけか」
「今日はそれだけです」
「武器は?」
「後日です」
「実績は?」
「後日です」
「得意戦法は?」
「後日です」
「雑じゃねえ?」
「今は勝てばいいので」
列が少し笑う。
よし。
笑う列は崩れにくい。
大事だ。
「まず、並び直しはありません」
私は続けた。
「順番に聞いて、順番に通します。ただし、怪我歴を隠した方は後で私が怒ります」
ざわつきが一瞬で締まった。
これも大事だ。
緩めるだけではだめだ。
窓口は塩加減である。
たぶん。
先頭の少女が前に出た。
「名前」
「ミナです」
「経験職」
「薬草採取です」
「前所属」
「なしです」
「怪我歴」
「足首を一回だけ」
「いつですか」
「去年の秋です」
「今は」
「大丈夫です」
私は紙に線を引く。
必要なことだけを書く。
必要なことしか聞かない。
それだけで列は前に進む。
「仮登録完了です」
ミナが目を丸くした。
「え、もうですか」
「もうです」
「早い……」
「今は速さが大事なので」
その後ろの荷運び男がぼそっと言う。
「前のとこよりよっぽどいいな」
聞こえている。
だが、今は流す。
「次の方」
「ダンだ」
「経験職」
「荷運びと護衛補助」
「前所属」
「なし」
「怪我歴」
「腰を二回」
「二回」
「昔の話だ」
「腰は昔の話で済まないことがあります」
ダンは嫌そうな顔をした。
「受付ってそういうこと言うのか」
「受付なので」
「便利だな」
だんだん定着していくのを感じる。
あまりよくはない。
でも便利だから仕方ない。
三人目は若手冒険者だった。
肩に立派な剣。
でも手元は少し落ち着かない。
こういう人はたいてい、紙より剣のほうが得意だ。
「名前」
「ロッド」
「経験職」
「討伐補助と護衛」
「前所属」
「なし」
「怪我歴」
「ない」
「本当に?」
「たぶん」
「ありますね」
後ろで笑いが起きる。
ロッドが耳を赤くした。
「肩を一回だけだ!」
「右ですか左ですか」
「右」
「今も上がりにくいですか」
「少しだけ」
「ありますね」
「細かいな!」
「そういう窓口です」
ガザムが後ろからうなずく。
「慣れろ」
「お前、何なんだよ?」
「損耗申請の先輩だ」
「嫌すぎる」
いい感じだ。
列が少しずつ、新設ギルドの空気に染まってきている。
その時だった。
「おい!」
はい来た。
こういう声は大体そうだ。
列の中ではなく、列の横から来る。
見ると、やはりそうだった。
大柄な男。
斧。
無精ひげ。
並ばない顔。並ばないことを許されてきた顔だ。
「登録だ」
「列の最後尾へ」
「は?」
「仮登録は順番です」
「俺は急ぎだ」
「皆さんそうです」
「俺は特にだ!」
「そうおっしゃる方が七名ほどいます」
列の中から手が挙がった。
正直でよろしい。
男は顔をしかめる。
「俺を知らねえのか」
「今から知ります」
「は?」
「順番に」
列の後ろでガザムが吹き出した。
「うわ、もう始まった」
「何だてめえ」
「並べよ。面倒が長引くぞ」
「お前まで何なんだよ!?」
本当に何なんだろうな、君は。
でも助かる。
列の先輩みたいになっている。
すごく嫌な先輩だが。みんな真似しないように。
「ジュルグだ!」
聞いてないのに話し出した。
「経験は、討伐、護衛、荷運び、何でも!」
「怪我歴は」
「ない!」
「本当に?」
「……たぶん」
「ありますね」
列が笑う。
ジュルグは眉間にしわを寄せた。
「左肩を一回だけだ!」
「今も上がりにくいですか」
「少しだけ!」
「ありますね」
「いちいち拾うな!」
「窓口なので」
「うるせえ!」
うるさいのはそっちだ。
だが、それは言わない。
言うと長引く。
窓口の基本である。
「では最後尾へ」
「行かねえよ!」
「では帰ってください」
空気が止まる。
列が、じっとこちらを見る。
ジュルグも見る。
こういう時、人はだいたい二択に弱い。
並ぶか、帰るか。
途中のぐずぐずが許されないと急に困るのだ。
わかる。
「……ちっ」
舌打ち。
一回。
二回。
三回。
そして、最後尾へ向かう。
よし。
最初の勝ちだ。
いや、勝ち負けではない。
窓口が回った。
それだけで十分だ。
「次の方」
列を戻す。
セレナが横で小さく言う。
「通用しますね」
「通用しないと困ります」
「少し安心しました」
「私もです」
これが初日で通じないと、だいぶ先が暗い。
かなり暗い。
二十人ほど処理したところで、荷車係の青年が青い顔で寄ってきた。
「リゼさん」
「はい」
「紙、のこり半分です」
「早いですね」
「減るのがですか」
「列がです」
「減ってません!」
見る。
本当に減っていない。
むしろ少し増えている。
人は並んでいる列を見ると、安心して並ぶ。
不思議だ。
とても不思議だ。
「紙を切ります」
「今ですか」
「今です」
「雑では」
「なくなるよりましです」
私は白紙を折る。
半分。
さらに半分。
即席仮登録票の完成である。
ひどい。
でも使える。
使えるなら今は正義だ。
「手慣れてますね」
セレナが言う。
「窓口はきれいな紙から死ぬので」
「名言みたいに言わないでください」
「経験談です」
その時だった。
遠くから、どたどたと足音がした。
早い。
必死。
嫌な予感しかしない。
振り向くと、白狼の爪の職員がこっちへ走ってきていた。
ルノではない。
もう少し年上の、資料係の男だ。
顔色がとても悪い。
良くない知らせの色だ。
かなり。
「リゼさん!」
「はい」
「た、大変です!」
「でしょうね」
「何でわかるんですか!?」
「顔です」
男は肩で息をしながら叫んだ。
「白狼の爪、金庫が合いません!」
列がざわつく。
ガザムが顔を上げる。
ロッドが口を開ける。
ジュルグまで最後尾で止まった。
わかる。
金庫という言葉は重い。
誰にでもわかる破綻だからだ。
「そうですか」
「そうですかじゃないです!」
資料係は半泣きだった。
「提出用の帳簿しか見てなくて、前金と完了報酬がぐちゃぐちゃで、苦情票はどこにあるかわからないし、薬品棚の札も誰も読めなくて!」
「でしょうね」
「またそれ!」
「事実確認です」
「確認してる場合じゃないんですよ!」
「もう遅いです」
資料係が固まる。
列も少し静かになる。
私はその空気ごと受け取って、言った。
「私はもう白狼の爪の職員ではありません」
「そ、それは……」
「ですので、戻りません」
資料係は青ざめた。
いや、元から青いが、さらに青くなった。
新しい色が出るものなんだなと思う。
少し感心した。
「でも!」
「でも、ではなく」
私は仮登録票を持ち上げる。
「今ここで窓口を作っています」
列の全員が、それを見ていた。
一つだけの窓口。
足りない紙。
足りない札。
足りない印泥。
それでも、ちゃんと動いている。
その現実を、白狼の爪の職員も見たのだろう。
男は少しだけ、呆然とした顔になった。
「……回ってる」
「回っています」
「本当に?」
「はい」
「白狼の爪より……」
「今はそうですね」
誰かが吹き出した。
ロッドだ。
ガザムも笑いをこらえている。
ジュルグは、何だそれという顔をしていた。
資料係はその場で頭を抱えた。
「何でだよ……!?」
「順番があるからです」
私は答える。
「あと、色分けと保留札と怪我歴確認です」
「怪我歴!?」
「大事です」
「何でだよ!?」
「ないと困るからです」
「それで回るの!?」
「列ができると皆、少しだけ賢くなりますよ」
列から、何人かが真面目にうなずいた。
やめてほしい。
でも助かる。
かなり助かる。
資料係はしばらく何か言おうとして、結局言えなかった。
その代わり、がくりと肩を落とす。
「あっち、終わってます……」
「でしょうね」
「だから!」
「確認です」
「確認がつらい!」
わかる。
だが、大抵の場合、事実は優しくない。
私は少しだけ声音を変えた。
「では一つだけ」
資料係が顔を上げる。
「は、はい……」
「前金と完了報酬を同じ机に積まないでください」
「は?」
「死にますよ」
「物騒だな!」
後ろで笑いが起きた。
けれど資料係は、なぜかものすごく真剣にうなずいた。
「……はい」
「苦情票は箱に」
「はい」
「薬品札は色ごとに分けて」
「はい」
「できなければ、明日また泣きます」
「もう泣いてます!」
本当にその通りだった。
秩序がないと全てが止まる。皆が困る。
そして誰かに何かが押し付けられる。
受け止めることができても、できなくても。
資料係の目の端が少し赤い。
かわいそうだが、戻る気はない。
それは別会計だ。
「では」
私は仮登録票を次の人へ渡した。
「次の方」
列が、すっと動く。
仮登録希望者が前へ来る。
資料係はその様子を見て、完全に言葉を失っていた。
ギルド「白狼の爪」では窓口が止まり。
新設ギルドの窓口は動いている。
その差が、ここに出ている。
誰も見える形で。
その時、通りの向こうから今度は荷車の音がした。
重い。
数も多い。
私は顔を上げる。
セレナも見る。
資料係も、列の人たちもみんな見る。
荷車が二台。
その後ろに、さらに紙束を抱えた人影が見えた。
嫌な予感がした。
かなりした。
先頭の商人風の男が、遠くからでもわかる勢いで怒鳴る。
「ここか! 白狼の爪で止められた案件を聞く受付ってのは!」




