第3話 帳簿の魔女、始動
「ゼロです」
そう言われて、私はしばらく黙った。
白狼の爪のほうを見る。
悲鳴が聞こえる。
荷車のほうを見る。
未来の悲鳴が見える。
どちらも嫌だ。
でも、嫌さの質が違う。
片方は、私を追い出したあとで泣いている。
もう片方は、まだ泣く前だ。
それなら。
泣く前のほうが、まだましだった。
「セレナさん」
「はい」
「ひとつ確認です」
「どうぞ」
「ノースライン新設冒険者ギルドは、私を受付として雇うつもりですか」
「はい」
「雑用込みですか」
「かなり込みです。うちは今いろいろと足りないので」
正直でよろしい。
私は荷車の箱を見上げた。
帳票箱。
木札。
印泥。
案内板。
全部足りない。
足りないが、何が足りないかは見える。
見える不足は、まだ救える。
見えない不足のほうが怖い。
「お受けします」
セレナが一度だけ瞬きをした。
あ、この人でも驚くんだ。
少し面白い。
「ただし、条件があります」
「どうぞ」
「窓口の裁量をください」
「出します」
「補助人員もください」
「出します」
「『笑って判子を押していればいい』とか、言わないでください」
「言いません」
「よかった」
本当によかった。
そこが一番大事だ。
セレナが小さく息を吐く。
たぶん、あの人なりの安堵だろう。
「ありがとうございます」
「こちらこそ」
「では、正式にお願いしたいのですが」
「その前に」
私は白狼の爪の扉を指した。
「古巣に一言だけ言ってきます」
「必要ですか」
「必要です」
「感傷で?」
「保留札の置き場だけ」
セレナがほんの少しだけ目を細めた。
「優しいですね」
「優しくはありません。あれが全部床に散ると、街ひとつ分うるさいので」
戻ると、やはり床に散っていた。
ああ、もう。
想像より早い。
「だから言ったのに!」
「俺は聞いてねえ!」
「そこに置くなって何だよ!」
「置かないでって意味だよ!」
受付前は、もはや列ではなく群れだった。
サラが泣きそうな顔で木札を抱えている。
ルノは赤札と白札を逆に持っていた。
マーナは青印を持ったまま固まっている。
地獄にも段階があるなら、今はちょうど中級だ。
「ルノ」
「は、はいっ!」
声をかけると、彼は犬みたいな勢いで振り向いた。
「保留札の箱、左下です」
「左下!」
「赤札は苦情、白札は依頼主。逆にすると依頼主が怒ります」
「もう怒ってます!」
「でしたらこれ以上増やさないでください」
「はい!」
サラが半泣きで手を挙げる。
「達成報告、受けるだけって言われたけど、皆さんお金も今ほしいって!」
「当然です」
「どうしたら!?」
「当然なので、当然無理です」
「当然無理!」
「証明書確認だけして、支払は後列へ回してください」
「後列がないです!」
「今作ります」
私は机の端の木札をひったくった。
報酬支払。
前金確認。
苦情相談。
三枚並べ、机を軽く叩く。
「並び直してください!」
声を張る。
全員が一瞬だけ止まった。
止まるんだ。
偉い。
「達成報告は左!」
「前金は中央!」
「怒りたい方は右!」
「俺は全部だ!」
ガザムだった。
「では右です」
「なんでだよ!」
「一番その気持ちが強そうなので」
笑いが起きた。
こういう時、笑いは便利だ。
列がほんの少しだけ整う。
ほんの少しでいい。
冒険者という生き物は、整列だけで少し賢くなる。
たぶん。
奥からギルド長ボルドが転がるように出てきた。
「リゼ!」
「はい」
「やっぱり戻れ!」
「嫌です」
「条件を聞こう!」
「聞いても無理です」
「なんでだ!」
「もう再就職が決まりました」
静まり返った。
見事なくらい静まった。
後ろでルノが、うわあ、という顔をしている。
サラはぽかんとしている。
マーナは今にも座り込みそうだ。
ボルドだけが、口を開けたまま止まっていた。
「……は?」
「ノースライン新設冒険者ギルドです」
セレナが後ろで軽く会釈した。
それを見て、ボルドの顔が引きつる。
「し、新設だと?」
「はい」
「お前みたいな、受付ごときを?」
「よくわかっていますね」
私は荷車のほうを指した。
「窓口担当がゼロだそうです」
ルノが口を押さえた。
サラが肩を震わせた。
笑うな。
でも、少し面白い。
ボルドは青くなったり赤くなったり忙しい。
「そ、そんなとこ行ってどうする!」
「受付をします」
「そんなのどこでも同じだろ!」
「そうですね」
私は周囲を見た。
混ざった保留札。
逆の印。
怒っている冒険者。
泣きそうな職員。
「でも、少なくとも追放はされていません」
数人が吹き出した。
ドグラスまで肩を揺らしている。
ボルドはとうとう何も言えなくなった。
私はそれ以上相手をせず、ルノに向き直る。
「保留札、ここに仕切り箱を置いて。縦に差す」
「た、縦ですか」
「横だと見えません」
「なるほど!」
「なるほどって顔をしてる場合じゃないです。急いで」
「はい!」
サラには三枚の札を渡す。
「支払待ち、確認待ち、帰ってください」
「最後の札あるんですか!?」
「今作ります」
「作るんだ……」
依頼主の列から、年配の男が手を挙げた。
「あの」
「はい」
「苦情は右でいいのか」
「内容によります」
「うちの荷運び依頼、昨日から誰も来ん」
私は眉を寄せた。
「担当票はありますか」
「ある」
受け取る。
見た瞬間、原因がわかった。
「ああ」
「何かわかったのか」
「受付印だけ押されて、受注印がありません」
「何だそれ」
「途中で止まっています」
「止めるなよ!」
「私もそう思います」
周囲がまたざわつく。
こういう未処理が一番厄介だ。
怒るのは当然だし、原因が事務なので余計に刺さる。
私はサラに票を渡した。
「依頼主相談は白札。別机を作って」
「机が足りません!」
「箱を裏返してください」
「雑!」
「今は勝てばいいんです」
その時、ドグラスが腕を組んで近づいてきた。
「おい」
「はい」
「お前、本当に行くのか」
「はい」
「ノースラインへ?」
「はい」
「ふうん」
彼は少しだけ、妙な顔をした。
怒っていない。
見下してもいない。
ただ、珍しいものを見る顔だ。
「じゃあ、あっちで俺たちみたいなのも相手するのか」
「受付ですので」
「大変だな」
「今さらですか」
「今気づいた」
遅い。
でも、ちょっとだけ面白かった。
私は最後に、ルノたちを見渡した。
まだ危うい。
でも、さっきよりはましだ。
窓口は回り始めれば、あとは勢いで何とかなることもある。
ならない時もあるが、それは今日の夜に判明する。
私は外套を整えた。
「では、行きます」
「り、リゼさん……」
ルノが今にも泣きそうな顔で言う。
「本当に?」
「本当にです」
「俺たち、明日からどうしたら……」
「まず、印を逆に押さないでください」
「そこから!?」
「そこが大事です」
「そ、そうだけどぉ……」
サラが小さく頭を下げた。
「今まで、ありがとうございました」
私は少しだけ困った。
そういう真面目な言葉に弱い。
「どういたしまして」
「また……会えますか」
「しばらくは。この街は狭いので」
「それ、会いたい人の返事じゃないですよ」
「会いたいですよ」
本心で言うと、サラは少しだけ笑った。
よかった。
最後がボルドの顔だけで終わるのは後味が悪い。
私は扉へ向かう。
その背中に、またギルド長の声が飛んだ。
「お、おい待て!」
嫌な予感しかしない。
振り向くと、案の定だった。
ボルドが妙に取り繕った顔をしている。
「その……再就職するなら、こっちの帳簿の持ち出しは困るぞ」
空気が、少しだけ変わった。
私は目を細める。
「持ち出していませんが」
「そ、そうじゃない! 念のためだ!」
「提出用も業務用も置いてあります」
「照合用は!」
「会議で必要なものだけ置いていけと」
「だ、だからそれは必要だと!」
「今言いましたね」
ボルドが止まる。
しまった、という顔だった。
そこへ、セレナが一歩前へ出た。
「確認します」
とても静かな声だった。
でも、さっきまでの喧騒が嘘みたいに止まる。
「照合用帳簿の存在を、先ほどまで管理者は把握していなかった」
「そ、それは……」
「しかし今、必要だと明言した」
「いや、その」
「つまり、存在は知っている」
ボルドの顔に、汗が浮いた。
セレナは続ける。
「どこに保管しているのですか」
「そ、それはうちの内部情報だ!」
「そうですか」
セレナは頷いた。
それだけだ。
でも、その頷き方は少し怖かった。
「では、紛失した時に困るのですね」
「は?」
「存在を知っていて、必要性も知っている。なのに保管場所を共有していない」
セレナが淡々と言う。
「ずいぶん危うい管理です」
周囲の職員たちが、ぎくりとした。
ルノがはっとして私を見る。
サラも同じ顔だ。
たぶん今、みんな同じことを考えた。
照合用帳簿って、どこだっけ。
私は何も言わない。
まだこの回で出す話ではない。
でも、ボルドだけは明らかに動揺していた。
なぜなら。
照合用帳簿の置き場を、彼が一度もまともに把握したことがないからだ。
私は扉へ向き直る。
「行きましょう、セレナさん」
「はい」
荷車のほうへ歩き出す。
白狼の爪の喧騒が背中で遠ざかる。
けれど、完全には遠ざからない。
あのギルドは、たぶんしばらく私を放っておかない。
そんな予感がした。
荷車の横まで来たところで、セレナが小さく言う。
「今の最後の反応」
「はい」
「妙でしたね」
「ええ」
「照合用帳簿、問題がありますか」
私は荷車の箱を見ながら答えた。
「あります」
「どの程度」
「白狼の爪が、明日まで静かではいられない程度に」
セレナが少しだけ目を細めた。
「それは」
「ええ」
私は荷車の一番上の帳票箱に手を置く。
この先、忙しくなる。
たぶん、かなり。
でも、もう決めた。
追放された受付嬢は終わった。
これからは、新しい窓口を作る側だ。
その時だった。
後ろから、ルノの声ではない叫びが上がった。
振り向く。
白狼の爪の二階窓が勢いよく開いていた。
そこから顔を出した資料係のハンスが、真っ青な顔で叫んでいる。
「ギルド長!」
ハンスは半ば悲鳴のように続けた。
「金庫棚の下から、見たことない帳簿がもう一冊出てきました!」




