第2話 新設ギルド始動
「提出用の帳簿だけで十分だと思ってたみたいです!」
ルノは半泣きで叫んだ。
私は思わず空を見た。
青い。
とても青い。
どうしてこう、空だけは何も知らない顔をしていられるのだろう。
「でしょうね」
「でしょうね、じゃないです!」
ルノが石段の上でばたばたしている。
足音まで慌てていた。
「前金台帳が合わなくて、保留札は混ざって、ガザムさんが損耗申請って何だって怒ってて、ドグラス様は赤線を消せって言ってて、ギルド長は照合用って何だって!」
「元気そうで何よりです」
「全員元気すぎて地獄なんです!」
背後で、ノースライン新設冒険者ギルドの事務官が静かに立っていた。
さっきまで涼しい顔だったのに、今はほんの少しだけ目を丸くしている。
驚くよね。
わかる。
私も自分の職場を外から見たのは初めてだ。
「その方は……」
事務官が尋ねた。
「同僚ですか?」
「元です」
「現です!」
ルノが叫ぶ。
「まだ今日が終わってません!」
「終業前に追放されたので、事務上は面倒な境界線ですね」
「境界線の話をしてる場合じゃないです!」
ルノは私の前まで来て、はっと気づいたように事務官を見た。
「え、誰ですか」
「ノースライン新設冒険者ギルド、開設準備室の方です」
「しんせつ……」
「新設です。新しく設ける」
「えっ」
ルノの目が丸くなる。
次の瞬間、ものすごくわかりやすく青くなった。
「ひ、引き抜き……」
「まだ面談です」
「面談!」
「そこを強く言わないでください」
ルノは口をぱくぱくさせた。
たぶん、頭の中で古巣崩壊と私の転職が綺麗に一本につながってしまったのだろう。
だいたい合っている。
「ご紹介が遅れました」
事務官が軽く会釈する。
「ノースライン新設冒険者ギルド開設準備室、監査補佐のセレナです」
「か、監査」
ルノがさらに縮む。
この街の職員はその言葉に弱い。
私も好きな言葉ではない。
好きではないが、必要なのはよくわかる。
「リゼさんをお迎えに来ました」
セレナは淡々と言った。
「ですが、今の状況を見る限り、少し予定を変える必要がありそうですね」
「変える?」
私が聞き返すと、セレナは白狼の爪の正面扉へ視線を向けた。
中からまた悲鳴が聞こえる。
「前金を払ったのに帳簿にない!」
「払ってません、受領印が!」
「だからその受領印って何だよ!」
「知らねえよ!」
よく通る地獄だ。
セレナは少しだけ黙ってから言った。
「面談の前に、現場を見せていただけますか」
「古巣の崩壊現場をですか」
「はい」
「趣味が悪いですね」
「情報収集です」
即答だった。
好きだな、この人。
たぶん友達になるには少し怖い。
でも仕事相手としてはかなり頼もしい。
私はルノを見る。
「今、誰が受付を?」
「俺と、二番のサラさんと、会計補佐のマーナさんです」
「ギルド長は」
「怒鳴ってます」
「ドグラス様は」
「怒鳴ってます」
「ガザムさんは」
「書類台で怒鳴ってます」
「では、いつも通りですね」
「いつもよりひどいです!」
ごもっとも。
私は少しだけ考えた。
戻る義理はない。
でも、このまま行けば、たぶん私が帳簿を持ち逃げしたとか、保留札を隠したとか、そういう雑な話が生まれる。
雑な話は嫌いだ。
後で数字が汚れるから。
「五分だけ戻ります」
「助かります!」
「ただし、手伝いません」
「えっ」
「見るだけです」
ルノがものすごく困った顔をした。
でも、そこで助けると次も呼ばれる。
それは労働契約上よろしくない。
セレナが頷く。
「同行します」
「監査補佐としてですか」
「それと、ただの見学者として」
「たぶんその肩書き、見学者として一番怖いです」
白狼の爪に戻ると、想像以上にひどかった。
ひどい、というのは便利な言葉だ。
だが今日は本当にひどい。
受付前の列は三つに割れていた。
本来一列のはずなのに、なぜか途中で二列になり、その横に文句用の列らしきものが自然発生している。
自然発生するな。
机の上では帳票が風にあおられていた。
屋内なのに。
誰かがさっき扉を乱暴に開けたのだろう。
ルノが青い顔で窓口へ走る。
私は一歩遅れて中へ入った。
その瞬間。
「あっ!」
全員がこちらを見た。
嫌な注目のされ方だ。
依頼達成報告を持った冒険者。
前金待ちの若手。
苦情顔の依頼主。
そして、受付内で紙束に埋もれているサラとマーナ。
全員の目が同時にきらっとした。
やめてほしい。
そういう、救世主でも見たみたいな顔は。
私はただの元受付だ。
「リゼぇぇ!」
ギルド長のボルドが奥から飛び出してきた。
「やっぱりお前が必要だ!」
早い。
驚くほど早い。
昼前に追放して、昼過ぎには必要宣言とか。
せめて日暮れまで粘ってほしかった。
「そうですか」
「そうだ!」
「私はそうでもありません」
即答した。
周囲で小さく笑いが漏れる。
ボルドの顔がぴくりと引きつった。
「い、いや、言い方が悪かった!」
「そうですね」
「受付に戻れ!」
「嫌です」
「なんでだ!」
「追放されたので」
これ以上ないくらい単純な理由である。
私としては非常にわかりやすい理屈だ。
ボルドは両手を広げた。
「そこを何とか!」
「そこが無理です」
「恩知らず!」
「今の流れでその語彙が出ます?」
さすがに何人かが吹き出した。
ドグラスまで鼻で笑っている。
ボルドは真っ赤になったが、今はそれどころではないらしい。
「だったら助言だけでいい! この列をどうにかしろ!」
私は列を見た。
うん。
ひどい。
でも、原因はわかる。
一番左は達成報告。
真ん中は前金。
右は苦情だ。
問題は、その全部が同じ窓口で止まっていること。
「サラさん」
私が呼ぶと、二番窓口のサラが涙目で手を上げた。
「は、はい!」
「今、何件抱えていますか」
「わかりません!」
「数えてください」
「はい!」
元気がよろしい。
混乱している人は、とりあえず数えさせると少し落ち着く。
「マーナさん」
「は、はい……」
「前金記録の黒印と青印、まだ逆ですか」
「さ、さっき気づいて直してます……」
「どこまで」
「三件……」
「少ないですね」
「ご、ごめんなさい……」
「謝罪は後でまとめて受けます。今は窓口を分けてください」
私は受付台の上の木札を拾った。
依頼受付。
報酬支払。
苦情相談。
本来なら最初から分かれているべきなのに、今日は全部ひっくり返っていた。
「ルノ、赤札を持ってきて」
「はい!」
「サラさん、達成報告だけ受けて。お金は払わない」
「え」
「払うな、です。受けるだけ。証明書確認だけして保留札をつける」
「は、はい!」
「マーナさん、前金だけに集中。受領印のないものは全部後回し」
「で、でも怒られます……」
「怒鳴る人は後で怒鳴ります。今は列を動かすほうが先です」
「は、はいぃ……」
ボルドが目をぱちぱちさせていた。
「お、お前、何をしてる」
「見学です」
「見学で窓口を立て直すな!」
「止まっているので」
「じゃあそのまま続けろ!」
「嫌です」
「何なんだお前は!」
「追放された元受付です」
その言葉、便利だなと思った。
しばらく使えそうだ。
セレナが後ろで小さく咳払いした。
見ると、彼女は列を観察している。
人の流れ。
窓口の詰まり。
依頼主と冒険者の比率。
たぶん全部見ている。
怖い。
でも、プロだ。
「リゼさん」
「はい」
「白狼の爪は、いつもこの規模ですか」
「朝は大体こんなものです」
「毎日?」
「毎日です」
「これを何人で」
「私を含めて三人か四人」
セレナは一瞬だけ黙った。
それから、心底納得した顔で言った。
「なるほど」
何がなるほどなのかは聞かないでおいた。
聞くとだいたいろくでもない褒められ方をされる。
その時、ガザムが書類台から怒鳴った。
「おいリゼ! 損耗申請ってこれで合ってんのか!」
「落ちた場所と時間を書いてください」
「だいたい昼!」
「雑です」
「崖の途中!」
「もっと雑です」
周囲が笑う。
ガザムは悔しそうな顔をしたが、ちゃんと書き直した。
こういう人は、正面から相手をすると意外と素直だ。
正面からしか聞かないだけで。
その横で、ドグラスが受付台を指で叩いた。
「俺の赤線は消えたのか」
「消えません」
「何でだ」
「危険度再判定はまだ有効です」
「予定が狂う」
「誰かが死ぬよりはましです」
「縁起でもねえこと言うな」
「討伐依頼ですので」
「お前なあ」
ドグラスが唸る。
でも、引かない。
この人は強いが、記録には弱い。
そして何より、自分が死にかける話は嫌う。
それを知っているから、窓口で勝てる。
「ドグラス様の件は後回しです」
私が言うと、ボルドが飛び上がった。
「後回しにするな!」
「今いちばん後回しでいいです」
「Sランクだぞ!」
「だからです」
「は?」
「他の人は、放っておくと暴れます」
列のあちこちで頷きが起きた。
本人たちも頷くな。
でも事実なので仕方ない。
「ドグラス様はまだ待てます。自分で待てる人を先に処理する必要はありません」
ドグラスが妙な顔をした。
たぶん、窓口で待てる人扱いされたのが初めてなのだろう。
「……俺を待てる人に分類するな」
「では暴れますか」
「今日はやめとく」
「助かります」
その瞬間、列の空気が少しだけ緩んだ。
こういうのは大事だ。
一人が止まると、他も止まる。
窓口は流れだ。
川みたいなもので、詰まると一気に腐る。
だから先に、変な岩をどかす。
たまにSランク冒険者の形をしているだけで。
「リゼさん」
セレナが静かに呼んだ。
「見せたいものがあります」
「今ですか」
「今です」
その言い方でわかる。
仕事の話だ。
しかも急ぎ。
私は受付の様子を見た。
さっきよりはましだ。
まし、というのはこの場合、悲鳴が半分になった程度の意味である。
十分だ。
「五分だけ席を外します」
「ええっ!」
ルノが叫ぶ。
「またですか!」
「またです」
「せっかく列が動いたのに!」
「だから今なら外せます」
「理屈はわかるけど心が追いつきません!」
「心は後で追いつきます」
追いつかなかったことは、今まで大体ない。
たぶん。
セレナに案内されて、私はギルドの外へ出た。
正面から少し離れた路地。
そこに、荷車が一台止まっていた。
いや、止まっていたというより、無理やり停められていた感じだ。
箱が積まれている。
しかも雑だ。
縄のかけ方が悪い。
下手をすると角で崩れる。
私は一目見て顔をしかめた。
「これ、誰が積んだんですか」
「うちの仮設倉庫係です」
「下手ですね」
「ええ。下手です」
セレナは認めた。
そこがいい。
言い訳しない人は仕事が早い。
箱のひとつには紙が貼られていた。
ノースライン新設冒険者ギルド。
開設物資。
受付備品一式。
私は嫌な予感がした。
「まさか」
「はい」
セレナが頷く。
「これが、うちの受付備品です」
私は箱を見た。
荷車を見た。
セレナを見た。
もう一度、箱を見た。
「足りませんね」
「はい」
「全然足りませんね」
「はい」
「しかも積み方が危ない」
「はい」
「帳票箱の向きも逆です」
「はい」
「印泥、日向に置いてます?」
「置いてます」
「溶けますよ」
「やはりそうですか」
セレナが真顔で言う。
その瞬間、私は理解した。
ああ。
これはだめだ。
この人たち、本気で私を迎えに来ていたのだ。
ただの口説きではない。
本当に、必要としている。
しかも、かなり切実に。
「……ちなみに」
私は恐る恐る聞いた。
「仮登録窓口は、もう始めてますか」
セレナは少しだけ目をそらした。
その沈黙でわかる。
始めている。
始めてしまっている。
「どのくらい来ていますか」
「朝は十名ほどでした」
「今は」
「三十を超えました」
私は荷車の箱を見た。
白狼の爪の中からは、まだ悲鳴が聞こえている。
古巣は崩れかけ。
新天地は始まる前から足りていない。
なんて景気の悪い板挟みだろう。
「リゼさん」
セレナがまっすぐ私を見る。
「面談を正式な相談に切り替えます」
「はい」
「白狼の爪は、あなたを『愛想のない不要な雑用』として追い出しました」
「ええ」
「でも、うちは違います」
風が吹いた。
荷車の上の紙がぱたぱた鳴る。
遠くで、また白狼の爪から悲鳴が上がった。
もはや環境音である。
セレナはその声を無視して言った。
「ノースライン新設冒険者ギルドに、来てください」
私は返事をしなかった。
できなかった。
代わりに見ていた。
荷車の上の備品箱。
足りない札。
雑な帳票。
溶けかけの印泥。
そして、その箱の一番上に、申し訳程度に乗っている小さな札。
受付窓口用。
たった一枚だけ。
私は思わず聞いてしまった。
「これ、一窓口分しかないんですか」
セレナは静かに頷いた。
「はい」
私は白狼の爪を振り返った。
次に荷車を見た。
最後に、セレナを見た。
どちらも地獄だ。
ただし片方は、これから作る地獄だった。
そして作る前の地獄は、たまに救える。
「……確認です」
私は言った。
「そちらの新設ギルド、今の受付担当は何人ですか」
セレナは少しだけ申し訳なさそうな顔をした。
「ゼロです」




