第10回 止まる荷、動く帳簿
「箱まで足りなくなったのかい!」
ノアが腹を抱えた。
広場のあちこちでも笑いが起きる。
だが、白狼の爪の職員たちは誰も笑っていなかった。
笑う余裕がない顔だ。
先頭の職員が肩で息をしながら言う。
「笑いごとじゃないんです!」
「でしょうね」
私が答えると、職員は半泣きでうなずいた。
「はい!」
「箱が足りないのは、かなり終わっています」
「はい!」
「今、何箱目ですか」
「三箱目に入りました!」
広場がまた静かになった。
そのあとで、ロッドが小さく言う。
「三箱目って何だよ」
ダンが低く返す。
「苦情の収穫祭だな」
「嫌すぎる祭りだろ」
本当にそうだ。
私は白狼の爪の職員たちを見る。
一人は書類束。
一人は空箱。
一人は薬品札を首から下げている。
なぜ首から下げたのか。
理由を聞くのも少し怖い。
「お名前」
「えっ」
「あなたたちです」
「あ、俺は資料係のハンスです!」
「会計補助のマーナです……」
「薬品棚担当のルノです!」
ルノだけちょっと元気だった。
いや、元気というか、壊れかけの元気だ。
あまりよくない。
「どうして首から札を」
私が聞くと、ルノは泣きそうな顔で言った。
「置くと混ざるので!」
それはよくない。
でも、理屈は通っていた。
「なるほど」
「なるほどじゃないですよ!」
「かなりよくないですね」
「はい!」
ルノは元気だった。
壊れた方向に。
セレナが横で小さく言う。
「白狼の爪、順調に崩れていますね」
「ええ」
「かなり大きく」
「はい」
少しだけ空が明るく見えた。
気のせいかもしれない。
たぶん気のせいではない。
「で」
ノアが箱を叩く。
「向こうが三箱目だろうが何だろうが、こっちの苦情は減らないんだけど」
「はい」
私は第三机へ戻る。
目の前には、苦情票の束。
そして第二机には、薬草樽案件。
仮置き場確認済み。
崩落一。
腐敗疑い一。
荷受け調整中。
さらに、その下には東の木橋案件。
通行情報不在。
木材搬入停滞。
未払い。
嫌な札が揃っている。
でも、揃っているならまだいい。
揃っていないのが一番困る。
「今日は順番を増やします」
私が言うと、みんなが少しだけ静かになった。
良い。
順番の前の静けさは好きだ。
かなり好きだ。
「第三机」
私は苦情票を叩く。
「苦情そのものではなく、物流を止めているものから抜きます」
ノアが腕を組む。
「それが何になるの?」
「全部に効きます」
「大きく出たね」
「はい」
「根拠は?」
「影響の大きさです。苦情のほぼ全部、荷の遅れか通行の乱れに関連してます。あるべき時に、あるべき場所に、あるべきものがないと、みんな困る」
サナがうなずく。
「そうだね」
後ろの男も言う。
「納品遅延はそうだ」
別の女も言う。
「うちは木材待ち」
私は一枚ずつ紙を持ち上げる。
「納品遅延」
「木材搬入待ち」
「荷受け時間のずれ」
「待機の日当請求」
「橋通行の不統一」
第三机の上で、束が一つに寄っていく。
ノアがそれを見て、少しだけ目を細めた。
「……本当にそこか」
「はい」
「全部、荷の流れに戻る」
「はい」
「嫌なくらいそうだね」
「嫌ですね」
「でも早い」
私は第二机へ向き直る。
「ケベルさん」
「おう!」
「薬草樽案件、今一番止まっているのは何ですか」
「荷受け側が“いつ来るかわからんなら明日でいい”って後回しにされてる」
「そうですね」
「だったら荷受け側を動かせよ!」
その通りだ。
私はすぐに紙へ書く。
薬草樽案件の停止点。
荷受け時間不明。
「バルトさん」
「何だ」
「荷受け側が知りたいのは、正確な時刻ですか」
「正確じゃなくていい」
「では何ですか」
「今日来るのか、明日なのか。来るならどの順で来るのか」
私は少しだけ、うれしくなった。
求められているのは“完全”ではない。
やはり“見える順番”だ。
それは窓口が作れる。
かなり作れる。
「わかりました」
私は新しい札を出した。
搬送待ち。
その下に、墨で書き足す。
本日夕方見込み。
ケベルが目を丸くする。
「それでいいのか」
「かなりよくなります」
「かなり?」
「少なくとも、“いつかわからん”よりずっと」
バルトがうなずいた。
「それなら受け口は作れる」
よし。
そこだ。
私はさらに書き足す。
二樽先行。
一樽検品後。
腐敗疑いは別。
「何だそれ」
ロッドが聞く。
「順番です」
「便利だな」
「はい」
「認めるんだな」
「かなり前から」
もう隠しても仕方ない。
便利な順番は好きだ。
札も好きだ。
おそらく私はかなりどうかしている。
だが、仕事が動くならそれでいい。
「東の木橋案件も同じです」
私は第三机から木橋票を抜いた。
「橋板そのものではなく」
次。
「何が通れて、何が通れないか」
次。
「木材がいつ動くか」
次。
「支払がどこで止まっているか」
ヘイムが腕を組んだ。
「橋板を直す前に、橋の周りを直すわけか」
「そうです」
「面倒だな」
「かなり」
「でも、それで荷が通るなら文句はない」
良い言葉だ。
かなり良い。
そこへ、白狼の爪のハンスが口を挟んだ。
「リゼさん」
「はい」
「うち、今まさにそれで死んでます」
「でしょうね」
「荷受けが全部“わからないから明日”って言い始めて」
「はい」
「前金も苦情も薬品も全部“あとで”に」
「はい」
「何でわかるんですか」
「そうなるので」
ハンスは頭を抱えた。
マーナはもうだいぶ青い。
ルノだけが、札を首から下げたまま言う。
「……こっち、ちゃんと回ってますね」
「回っています」
「何でですか」
「順番が見えているからです」
「うわあ……」
ルノは空を見た。
気持ちはわかる。
今日はみんな空を見がちだ。
青いからだろうか。
それとも現実がつらいからだろうか。
「受付」
ノアが言う。
「じゃあ苦情票も、“今日見る”“荷が止まる”“明日でも死なない”に分ければいいんじゃないかい」
それは良い。
「採用です。すぐ始めます」
「早いね」
「皆が納得できます。反対も抵抗もない」
ノアが笑う。
「やっぱり好きだね、そういうの」
「便利なので」
セレナが、すでに新しい札を書いていた。
今日見る。
流れ停止。
明日処理。
本当にこの人は早い。
怖いくらいに。
だが、今はありがたい。
「第三机、札を変えます」
私は宣言した。
「苦情そのものの重さではなく、流れを止める順で見ましょう」
「何だそれ?」
サナが聞く。
「うちの苦情、後回しになるのかい?」
「内容次第です」
私は一枚、二枚と抜く。
「納品遅延」
「これは流れ停止」
「受領印押し間違い」
「今日見る」
「待機日当」
「明日処理」
サナが少しだけ目を細める。
「うちのは?」
「染め布の納品遅延なので流れ停止です」
「ならいい」
「良くはないですが、先です」
「言い方!」
広場のあちこちで、また笑いが起きた。
いい。
笑っているうちは流れる。
流れるうちは、まだ勝てる。
「ハンスさん」
私は白狼の爪の資料係を見た。
「はい!」
「今、そちらのギルドで一番止まっているのは何ですか」
「苦情箱が足りないことです!」
「その前です」
「えっ」
「箱が足りなくなる前に、何が止まったんですか」
ハンスは一瞬止まった。
それから、ゆっくり顔を上げる。
「あ……」
「はい」
「荷受け時間の返事が、誰もできてない」
「でしょうね」
「だから苦情が増えたのか……」
「はい」
「あっ……」
もう一度、あっ、と言った。
たぶん今、一本つながったのだろう。
よかった。
少なくとも、この人はまだ学べる。
マーナまで顔を上げた。
「……だから木材費も止まったの……?」
「そうです」
私は言う。
「荷受けも搬入も支払も、全部“あとで”にしたからです」
ルノが首から札を下げたまま、ぽつりと言った。
「あとで、って便利だと思ってました」
「便利です」
「えっ」
「止める側にとっては」
広場が静かになる。
その沈黙は悪くなかった。
少し痛いが、必要な痛さだ。
「でも」
私は続ける。
「止められた側は、いつ来るかわからない」
「何を待てばいいかもわからない」
「だから怒ります」
「だから箱が増えます」
ルノが、自分の首から下がった薬品札を見た。
それから、ちょっとだけうつむく。
「……うわあ」
「はい。うわあ、ですね」
「はい……」
かわいそうだが、必要なうわあである。
私は第二机と第三机の札を並べ直した。
薬草樽。
搬送待ち。
本日夕方見込み。
東の木橋。
通行情報板待ち。
木材支払確認。
苦情票。
流れ停止。
今日見る。
明日処理。
机の上で、順番が形になる。
良い。
かなり良い。
「受付」
ダンが第二机から言う。
「これ、荷の順番が見えたら、待機所の連中も少し静かになる」
「それは助かります」
「じゃあ、待機所用の札も今度いるな」
「いりますね」
「また顔が変わったぞ」
「気のせいです」
「便利札の話になるとすぐそうだ」
「違います」
半分くらいは。
その時だった。
広場の端がざわついた。
今度は笑いではない。
妙に尖ったざわつきだ。
見る。
見覚えのある鎧。
黒銀。
肩幅。
斧。
ドグラスだ。
その後ろに、ボルドもいる。
今日も赤い。
しかも今日は、朝から機嫌まで悪そうだ。
最悪だなと思った。
ドグラスは広場の机を見た。
第二机。
第三机。
札。
紙。
列。
全部を順に見て、それから低く言った。
「……何だお前ら」
一拍置く。
そして、かなり嫌そうな声で続けた。
「本当にギルドを作り始めてやがる」




