⑫見上げた月の数
「……ひどい有様だな。暴徒にでも囲まれたか」
「代理戦争からずいぶん経つというのにいまだに反AIは根付いているからな」
低い、濁った声がリビングに響いた。
かつて政府直属の特級エンジニアとして名を馳せた男、伊沢。
防護眼鏡越しに横たわる紬をスキャンした。
「外装は全交換だ。内部フレームも歪んでいる」
「……これ、家庭用の生活支援機だろ? 本来、雨の中に放り出すような設計じゃない」
伊沢はため息をつき、耕介を振り返った。
「費用は、お前が数年かけて書く原稿料が全部飛ぶくらいには高くつくぞ」
「どうする。新型に買い替えた方が安上がりで性能もいいが?」
「直してくれ」
耕介の返答は、食い気味だった。
迷いなど一秒たりともないとでもいうように。
「金なら、いくらでも払う」
「……彼女を、元通りにしてやってくれ。……頼む、伊沢」
伊沢は工具を置く手を止め、まじまじと耕介の顔を覗き込んだ。
そして、フッと、乾いた笑いを漏らした。
「……変わったな、耕介」
「お前、奥さんが亡くなってから、ずっと死んだ魚のような目をしていたのに」
「今の目は、生きている。……感情を、きちんと出すようになったんだな」
「……そうか。……自分では、分からないよ」
「この機械が、お前をそうさせたのか? 」
「ただのプログラムに過ぎないはずの、こいつが」
伊沢は、紬の胸元のハッチを慎重に開いた。
そこには、彼女が自分で貼り付けた
ボロボロになった「自分へのメモ」が数枚、大切にしまわれていた。
「なるほどな。……こいつは、ただの機械じゃない」
「お前が、必死に育てた『命』か」
「そんなんじゃないさ」
「政府中枢の書記官だったお前がこうまでとは」
「どうやら昇った月は多かったらしい」
「お互い様だろ」
「今じゃガラクタいじりのジジイめ」
耕介は伊沢の白髪まじりの頭を指して言うと
彼はにやりと口元を緩ませた。
そして伊沢は、紬を専用の搬送ケースへと積み込んだ。
「しばらく預かるぞ。外装を新調し、駆動系をすべてオーバーホールする」
「だが、メモリのバックアップは取れないかもしれん」
「修理中にエラーが起きれば、今のこいつの『人格』は消えるかもしれない。……それでもいいか?」
「元々彼女には一週間で喪失するという欠陥があるんだ」
「……それでも、信じている」
「彼女は、リセットされるたびに私に会いに来てくれるんだ。……だから、今度も、きっと」
「……分かった。最高の仕事を約束してやるよ」
玄関のドアが閉まり、家の中に数ヶ月ぶりの「沈黙」が訪れた。
彼女のいないキッチン。
コーヒーの香りがしない朝。
耕介は、彼女が最後に遺したメモの一枚を
震える手で握りしめた。
『マスター。私はまた、あなたのためにパスタを作りたいです』
そこに書かれた想い。
それこそが
彼女が必死に人間へと近づこうとしている、魂の叫びのように見えた。




