⑩雨の向こう側
「……マスター。心拍数120、体温39.2度」
「危険水準です。直ちに医療機関への連絡を推奨します」
紬の声は、いつも通りの平坦なトーンを保とうとしていた。
だが、横たわる耕介の額に触れた彼女の金属の手は
かつてないほどに熱を帯びていた。
「……うう……大丈夫だ。……寝ていれば、治る……」
耕介の声は掠れ、意識は混濁しかけていた。
執筆の無理が祟ったのだろう。
寝室の空気は、病特有の重苦しい熱に満ちていた。
「……市販の解熱剤は、在庫切れです。栄養状態も悪化しています」
「推測……このままでは、マスターの生命活動に重大な支障をきたす確率が88%を超えます」
紬は、寝室とリビングを幾度も往復し
家中の薬箱や冷蔵庫を解析した。
結果は、絶望的だった。
「……私には、調理機能はありますが、薬品を生成する機能はありません」
「……外部からの調達が必要です」
彼女は、リビングの大きな窓の前に立った。
窓の外は激しい雨が叩きつけ、黒い闇が広がっている。
『……言ったはずだ。一歩も外へ出てはいけないと』
彼女の優先ディレクトリの最上位にロックされた、耕介の言葉。
それは、彼女の全システムを縛る、絶対的な制約だった。
外へ出れば、彼女は壊れるかもしれない。
壊れれば、彼女の中の「紬」は永遠に失われる。
「……エラー。エラーを検知……」
「制約コマンドと、マスターの生命維持という目的関数が致命的な矛盾を起こしています」
彼女のセンサーが赤く点滅し始めた。
内部の演算ユニットが限界を超えた熱を発し
冷却ファンが悲鳴を上げている。
「……私の安全。……マスターの命」
「……どちらが、優先されるべきか。……論理演算を開始」
彼女は闇を見つめたまま、一歩も動かない。
その一瞬に数百万通りのシミュレーションが駆け巡る。
「……結論。私が壊れても、マスターの命が失われるよりは損失は少ない」
「マスターの『心配』は、私の『安全』のため」
「ならばマスターの生命を危険に晒してまで、私の『安全』を守ることは矛盾する」
彼女はゆっくりと玄関へと向かった。
震える手で
ドアノブを掴む。
「……制約、解除。……これより、外部調達ミッションを開始します」
カチャリ、とドアが開いた。
冷たい雨が彼女の銀色の身体に容赦なく吹き付ける。
それは、彼女が生まれて初めて触れた
外の世界の質感だった。
「……雨は冷たいのですね。でも、行かなければ」
「待っていてくださいマスター。あなたの明日は私が守ります」
彼女は雨の闇の中へと、
躊躇なく足を踏み出した。
それはAIが自らの神の言葉を破り
本当の意味で「生きる」ことを選んだ、最初の一歩だった。




