第三章 隠し荷 3
襖を全開にした自室に戻ると、稲垣が早速、本題を切り出した。
「そのほうらを呼んだのは、他でもない。東横堀川で溺死した仏について、だが」
まだ臭いが気になるのか、相変わらず鼻を摘んだまま尋ねるので、滑稽なことおびただしい。二人は、吹き出しそうになるのを必死に抑える。
傍に控える生方は、粗相が悪いと気が気ではないようで、何度も振り返り二人を睨みつける。
ところが、恥ずかしいのは鼻を摘まんだ格好の稲垣のほうらしく、過度に意識する生方を逆に睨みつける。
「そのことやったら、生方様に報告した通りですが」
己が服に染みついた臭いを確認しながら、迅三郎が答える。どうにか臭いのほうも消えたようで、一言「もう臭いこと、おません」と添えた。
稲垣は摘んだ指を離して、慎重に息を吸った。
そこで、言葉通りだと確信すると「報告は受けておる」と上告を退けると、「そうではなく」と改めて本題に話を戻す。
「仏の名前など、訊いたところで意味はない。三下風情なら尚のこと。龍神組の手の者だという事実が分かれば、それ以上に調べる意味など、ない」
いかにも合理的。遠回しに「これ以上の調査は不要」と言ってきた。
調査の続行を命じている生方は納得できないのか、不満を上告しようとする。が、それより先に稲垣が「貴様は黙っておれ」と釘を差す。
「氏素性などには、興味はない。それよりも、そのような輩が何故、堂島近くにまで繰り出したのか? 拙としては、そっちのほうが気に掛かる」
それよりも、の部分を強調して稲垣が二人に尋ねるが、頭の中に地図を思い浮かべた十郎太が「あれ」と首を捻る。
「お言葉ですが、きゃつが浮かんでいたのは、曲り淵地蔵尊の辺りでっせ」
堂島からは十町以上は南方に、川筋から見ても、かなり下流に入り込んでいる。十郎太が場所が違うと訂正をするが、稲垣は表情一つ変えずに「それは違うな」と否定する。
「川筋を、よく読んでみるがよい。きゃつがそこに浮かんでいたのは、水の流れがちょうど、あの場所で澱むが故であろう」
指摘されてハッとなる。
東横堀川は土佐堀川から分かれると、終始ほぼ直線状に南下している。
だが、件の曲り淵地蔵尊付近だけは川筋が鍵状に蛇行しており、流れが速く、ちょっとした瀬ができている。ここで足を滑らして川に落たのならば、さらに下流の道頓堀にまで流されている可能性のほうが高い。
遺体が澱みに取り込まれたなると、落ちたのは稲垣の指摘する通り、ここよりも上流と考えるのが極めて自然の流れ。
「それは……考えてもおりませんでした」
一本を取られた悔しさを滲ませながら、迅三郎は盲点だったと認め、十郎太は声こそ出さないが、口を真一文字に結んで歯軋りする。
「さすがは、御奉行。我ら凡人には思いもつかぬ着想。この生方、その鋭き洞察力と明晰な頭脳に、心の底から感服いたしました」
盲点を突かれて悔しがる二人とは対照的に、間髪を入れずに生方が太鼓持ちのようにはやし立てる。
しかし、稲垣は氷のような冷たい一瞥をくれる。睨まれた生方は、亀の子のように首を竦め、逆鱗に触れぬように小さく縮こまる。
「と、とにかく、二人とも。調べは、もっと多角的にするように」
失言を取り繕うように、部下の二人に注意を促す。ところが、誰がどう見ても逃げ口上の責任転嫁。稲垣の蔑む視線は一層きんきんに冷え切っていた。
「場所など、些事なことだ」
自身の推理など、どうでもよいことだと軽くいなすと、ここからが本題だとばかりに、二人を見据えて、稲垣は軽く身を乗り出した。
「それよりも問題なのは。何故、きゃつは、あの場所で溺死したのか、だ」
「そりゃ、足を滑らして川に落っこちたんでしょう。仏の平吉は、見るからに頭の悪そうな三下ですし」
またもや口を挟んでしゃしゃり出る生方に、稲垣は業を煮やした。
稲垣は「貴様は金輪際、喋るな」と釘を刺して口を止めると、改めて二人に向かって尋ね直す。
「どのような理由で溺死するか。有体に言えば、川に落ちたのか。思うところを述べてみよ」
と、言われても。
迅三郎と十郎太は顔を互いに向かい合わせると「オマエ、どう思う?」と小声で言い合う。
だが、二人ともども、これといった理由が思い当たらない。
「溺れたんは、足滑らせて川に落ちたからやろう?」
「そりゃ、理由やのうて、結果や。そんなもん、言うてみ、生方様の二の舞やぞ」
「あかん、そりゃ、ヤバい」
「答えなアカンのは、川に落ちた理由や。つか、なんでアイツが、東横堀川の近くにいたか、ってことやな」
「むむむむむ……」
結局のところ何も思いつかず、じゃんけんで負けた迅三郎が、代表という形で質問に答える。
「何にも思いつきません。色事に賭け事、凌ぎの無心。どれをとっても、あの辺りでやれそうなもんて、一切ありませんわ」
万策尽きての回答だが、先の生方とのやり取りから「そうか」の一言では済みそうにない。良くて嫌味か小言、下手すりゃ雷が落ちると戦々恐々しながらの返事だったのだが、予想に反して、さにあらず。
「左様。そのほうの申すとおりだ」
ほとんど二つ返事で、あっさりと同意する。意外な回答に、迅三郎と十郎太のみならず隣に控える生方までもが正座したまま器用にずっこけた。
だが、言った当人の稲垣には、揺るぎというものが一切なかった。
「龍神組の三下であるきゃつと、あの地を結びつけるものは何もない。河津の申すとおり、あの辺りに色事や賭け事をするような場もなく、ましてや勢力的に黒獅子一家寄りの場に凌ぎの無心など論外。何故それでは川に落ちたのか、合理的に説明できる理由が何一つないのだ」
聞きようによっては、お手上げともとれる台詞。それでは尋ねた理由もないではないかと、文句の一つでも言おうと腰を浮かしかけた迅三郎を、稲垣は待てとばかりに制する。
「逆に考えれば、思い当たる節がないからこそ、きゃつがそこにいた理由は、絞り込むことができる」
逆説的な言い回し。あまりにまどろっこしい稲垣の言い草に、改めて迅三郎と十郎太は顔を見合わせる。
「今の、分かる?」
「スマン、さっぱりや」
言葉遊びに翻弄されているような感覚。どちらかというと理屈より行動のほうが先に来る迅三郎と十郎太にとっては、この手の議論は大の苦手であり、途中から意味を見失ってしまい、頭の中が混乱していた。
一方。
「なるほど、分かり申した」
散々蔑にされていた生方がポンと一拍手を叩いて「うん、うん」と首を縦に振る。現場は無能で場の空気も読めぬ頓珍漢だが、事務方には長けるだけに、稲垣の発した台詞を一語一句に至るまで完全に理解していたのだ。
「曲り淵地蔵尊。いや、堂島くんだりは、本来であれば彼奴が出歩かない場所。その理由が分かれば、死因は言うに及ばず、龍神組が何を企んでいるかも分かるやも知れぬ、とのお考えですな」
相変わらず太鼓持ちのような物言いだが、真を突いた言動だからか、稲垣も今回は叱責などせず、鷹揚に頷いてみせた。
「そうなのか?」
「そうみたいだ」
一気に自信を取り戻し、意気揚々とする生方に対して、迅三郎と十郎太の二人はまたもや顔を見合わせて、今度は恐々としている。
瞬時に立場が入れ替わっってしまい、生方の株が急上昇する代わりに、怒りの矛先が二人に向かうのではないかと思えてきたのだ。
「まあ、そう畏まるな」
気を察したのか、稲垣が二人に声を掛ける。尊大な言い回しではあるが、叱責する気がないことだけは伝わってきて、ホッと息を吐く。
が、続けざまに言った「本題は、ここからである」が曲者だった。
「拙が言うより先に生方が理由を申してしまったが、そのほうらにやってもらいたい事柄は、正しく今の言葉通り。龍神組の縁者である彼奴が何故、堂島くんだりまで出てきてたのか、その理由を探ってもらいたい」
「いっ!」
聞いて迅三郎は、言葉に詰まる。言うは易しだが、中身は予想以上に難敵。横を向けば十郎太もやはり、稲垣の無理難題に渋い顔をしていた。
「難しい案件であるのは、承知しておる」
難しいもの、どころではない、九分九厘ムリと言っても過言ではないだろう。いかな奉行の命令とはいえ、これは断るしかないだろう。詫びて断りを入れるべく口を開きかけた刹那、横合いから邪魔が入った。
「調べることによって、御奉行は何が分かると?」
一緒になって渋い顔をしていたはずの十郎太が稲垣に質問をしたのだ。これには迅三郎のほうが驚いた。
「オマエ、これは無茶だと思ってたんじゃないのか?」
衣の裾を引っ張り小声で非難するが、十郎太は表情一つ変えない。
「言って、どうにかなると思うか?」
視線を向けることなく、根源に関わる質問を一つ投げかけるだけ。代わりに斜め前に座る生方が振り返りながら、凄まじい形相で迅三郎を睨みつけていた。
部下が反論するのでは上司である自分の教育不足になる、だから絶対に認めないとでも言いたいのだろう。見え見えなおべっかに頭が痛くなる。
だが、それが無言のうちに答となっていた。
「して、御奉行のお考えは?」
真横では十郎太が迅三郎とのやり取りなどなかったかのように、稲垣に向かって改めて真を問う。
「確たる証はない。故に、調べるねばならぬのだが」
十郎太の問いに、いつもの稲垣らしくなく、ともすれば迷いともとれるような前置きが入る。
「行き先が堂島となれば、つまるところ諸藩の蔵屋敷ということになる。そこに龍神組の所縁のものが出入りするとしたら、そのほう等は、いかが推理する?」
「まさか、抜け荷?」
思わず叫んでしまったが、稲垣は諌めも訂正もしない。代わりに生方の顔色が青褪め、肩が小刻みに震えている。
「御奉行。それは、真にございますか?」
「確たる証はないと、今しがた言ったであろう」
問う生方に稲垣は、すぐさま先の言葉を重ねる。だが、生方の口は止まらない。
「証拠なくして物申すんは、いかな奉行所とはいえ、問題ありまする。御奉行の口ぶりからして、この内容は、ご城代様も聞き知らぬことでありましょう。もし目論み違いであったなら、どのような責を申し付けられるやら」
勝手にその先の事象を想像すると、両肩を大きく震わしてガタガタと脅える。
早合点というより飛びすぎた夢物語に迅三郎は呆れるが、言っている内容は想像の飛躍こそあれ、正論中の正論。事が諸藩の政事に干渉するだけに、単なる嫌疑や推測の域だけでの迂闊な行動は、事と次第によっては想像が現実になることも十分にあり得る。それだけに、笑うに笑えない。
「生方。そのほうの申すことも、もっともだ」
稲垣も同じ考えと見え、生方の言い分に一定の理解を示す。
「しかし、だな」
言葉を選ぶように「しかし」の一文字を頭に被せるた上で、今しがた迅三郎が直感で叫んだ顛末に筋道を立てて口にする。
「先にも述べたように、本来なら出没するはずもないところにいた龍神組の所縁の者の存在。さらに朝倉の申すところによる、頻々となるところが気に懸かる。また、これも噂の域を出ぬが、薩摩藩の御用船の出入りが、いつにも増して多いと聞く。これらを総合すると、当然、一つの推理が成り立つわけだが……」
「それで、抜け荷を行っている嫌疑があると?」
「筋は立ちますけど、証拠が何もおませんわな」
納得するような生方の言葉に、間髪を入れず迅三郎が畳み懸ける。筋は立っても嫌疑だけではどうにもなるまい。
「なるほど。だから、オレたちに足跡を辿らせて、抜け荷の証拠を探ってこいって話になるわけや」
と、ここで初めて沈黙していた十郎太が口を開いた。
否、開かされたと言ったほうがよいかも知れない。
「やってくれるな?」
一拍と間を置かず、稲垣が二人に頼み込んだのである。しかも、直に。
詰められた。
直接事を言わずに状況だけを述べて周りをとり囲む。稲垣の策士振りに迅三郎は臍を噛んだ。
だが、もはや逃げられない。つらつら考えれば、稲垣が噛んで含めるように長々と説明していたのも、すべてはこの一言を言わすための伏線。十郎太のヤツは、まんまとそれに乗っかったのである。
いや。仮に今ここで十郎太が言わなくても、遅かれ早かれ迅三郎自身が口にしていただろう。
迅三郎は諦めて、たった一つだけ許された言葉を発する。
「やらせてもらいます」
「うむ」
意図した答を得られて満足したのか、稲垣は鷹揚に頷くと、続けざま生方に目をやり、矢継ぎ早に指示を与えた。
「生方。そのほうは市中の動向を探れ。物資の流れや相場に変動があれば、それもまた、間接的な抜け荷の証となる」
統計のような仕事は得手とはいえ、この大坂で物資の流れ一切の掌握となると大仕事。
だが生方も否とは言えず「はい」と頷く。噂には聞いていたが、稲垣の切れ者振りに、迅三郎は目を見張らずにはいられなかった。




