第九話 勇者レオン
『討伐に失敗』
何度読んでも、そこにはそう書いてある。
俺は歴史書を机の上に置いたまま、しばらく動けなかった。
レオン・ヴァルグレイヴ。
七十年ほど前に存在した勇者。
王国北部で勢力を広げていた魔王を討つため、仲間たちと討伐へ向かった。
そして、失敗した。
「……あいつが?」
白い場所で会った男を思い出す。
口が悪くて適当で、知らないことはすぐ「知らん」と言う。でも危ない時には止めてくれたし、トーマたちにも慕われているように見えた。
強いのかどうかは、まだ知らない。
ただ、勇者だったと言われれば不思議と納得できる気もする。
「レオン・ヴァルグレイヴ……」
もう一度、名前を読む。
あいつが名字を教えたがらなかった理由は、これなのか。
ページをめくる。
討伐隊の出発、各地での戦闘、魔王領への侵攻。そして最深部への到達。
『勇者レオン・ヴァルグレイヴ率いる討伐隊は魔王との決戦に敗北』
『生還者は確認されず』
『魔王はその後も北方に甚大な被害をもたらした』
指が止まる。
「……生還者なし」
それなら、レオンは死んだことになっている。
本人が言っていた通りだ。
白い場所にいる人間は、向こうでは死んだことになっているか、最初から存在しなかったことになっている。
「でも……」
引っかかる。
魔王討伐に失敗し、多くの仲間を死なせた勇者。
歴史書に書かれたレオンは、俺が知っているあいつとは少し違って見えた。
もちろん、俺はレオンと何度か話しただけだ。
本当に失敗したのかもしれない。そのせいで仲間を失い、白い場所へ来た。だから昔のことを話したがらない。
そう考えれば辻褄は合う。
それなのに、なぜか気になった。
『最初から世界全部背負う奴なんざ、ろくな死に方しねえ』
あの言葉は、ただの冗談だったのか。
◇
その日から、レオンについて調べた。
思っていたより簡単だった。
有名人だったからだ。
勇者レオン。
七十年前の魔王討伐。
歴史書や戦記だけじゃなく、子供向けの英雄譚まで残っている。
ただ、英雄として称えられているわけではなかった。
「戒め……?」
古い本の前書きを読む。
『勇気だけでは、人は救えない』
『己の力を過信した勇者は、仲間と共に滅びた』
別の本には、王国の制止を振り切って魔王領へ進軍したとある。
別の戦記では、焦燥に駆られた判断が討伐隊を死地へ導いたと書かれていた。
どれも大体同じだ。
レオンが焦り、無謀な戦いを挑み、失敗して仲間を死なせた。
「……あいつなら、やりそう」
ちょっとだけ思った。
「いやいや」
駄目だ。
知り合って数日の人間を、勝手に歴史上の人物と重ねるな。
それに、七十年前の出来事について複数の本に同じことが書かれている。
普通なら、そっちを信じる。
ただ、一つだけ妙だった。
「魔王は……?」
討伐失敗後、北方に被害を出した。
そこまでは書いてある。
でも、その先がない。
別の本を開いても、戦記を調べても同じだった。
数年後には、魔王についての記述そのものがほとんどなくなっている。
「その後、どうなったんだ?」
倒されていないなら、どこへ行った?
誰かが後で倒したのか。寿命なのか。封印されたのか。
何か残っていてもよさそうなのに、見つからない。
「まただ」
四十七年前の馬車事故も、トーマも、ルナもそうだった。
最初は小さな違和感だった。それから、少しずつ辻褄が合わなくなっていく。
俺はノートに書いた。
『レオン・ヴァルグレイヴ』
『魔王討伐――失敗』
『魔王はその後どうなった?』
そこでペンを止める。
「本人に聞くか」
◇
その夜、髪飾りを握る。
「ルナ」
何もない。
「ルナ・アステリア」
――ぽちゃん。
「……来た」
最近、少しだけ分かってきた。
ただ名前を呼べばいいわけじゃない。繋がらない日もあるし、理由はまだ分からない。
――パキ。
黒い線が走り、裂け目が開いた。
「レオン!」
「お前、本当に毎回それやるのな」
「ちょうどよかった」
「何が」
「聞きたいことある」
「嫌な予感しかしねえ」
「レオン・ヴァルグレイヴ」
男の表情が止まった。
「……」
「やっぱり」
「何がやっぱりだ」
「名字」
「誰に聞いた」
「歴史書」
レオンが露骨に嫌そうな顔をして、頭を掻いた。
「あー……見つけたのか」
「見つけた」
「そうか」
「もっと驚かないの?」
「俺が向こうにいたのは事実だからな」
「有名人じゃん」
「昔の話だ」
「勇者」
「やめろ」
即答だった。
「何で?」
「嫌いなんだよ、その呼ばれ方」
「本にも書いてあった」
「本は殴れねえからな」
「俺は?」
「場合による」
「怖えよ」
レオンが小さく笑う。
いつも通りに見える。でも、名字を出してから少しだけ空気が違う。
「なあ。七十年前って書いてあった」
「七十?」
「ああ」
「……そうか」
「お前、七年って言ってたよな」
「俺の感覚じゃな」
「十倍じゃん」
「ここじゃ時間なんて当てにならねえ」
「それ、先に言えよ」
「聞かれなかった」
「何でもそれで済ませるな」
「便利だぞ」
レオンは笑う。
でも、俺は笑えなかった。
七年と七十年。
トーマも、自分が消えてからどれくらい経ったのか分かっていなかった。
白い場所とこっちでは、時間の流れが違う。
それも気になる。
でも今は――。
「レオン。魔王討伐に行ったんだよな」
「……ああ」
「仲間と?」
「ああ」
「何人?」
「取り調べか?」
「違う。知りたいんだよ、お前のこと」
言ってから少し恥ずかしくなった。
「いや、変な意味じゃなくて」
「分かってる」
「ならその顔やめろ」
「どんな顔だよ」
「面白がってる顔」
「よく分かったな」
「……」
こいつ。
レオンは少し笑ってから、白の奥へ目を向けた。
「最初は五人だ」
「お前含めて?」
「ああ」
「どんな人?」
「剣士、魔術師、神官、弓使い。それと俺」
「名前は?」
返事がない。
「レオン?」
「必要ない」
「何で」
「昔の話だからだ」
「でも」
「カイ」
いつもより低い声だった。
「そこは聞くな」
初めて、はっきり拒絶された。
「……分かった」
「悪いな」
「いや」
何があったのかは聞きたい。
でも、今じゃない。
「じゃあ別のこと」
「まだあんのか」
「本には、お前が王国の制止を振り切って無謀に魔王へ挑んだって書いてあった」
「へえ」
「違うの?」
「さあな」
「何だよそれ」
「昔すぎて忘れた」
「七年だろ、お前の中では」
「細けえな」
「絶対覚えてるじゃん」
レオンは答えない。
俺は少し迷って、一番聞きたかったことを口にした。
「……失敗したんだろ?」
レオンが俺を見る。
「何が?」
「魔王討伐」
一瞬、本当に何を言われているのか分からない顔をした。
それから、当たり前みたいに言った。
「倒したぞ」
「……」
今度は俺が黙った。
「え?」
「だから、倒した」
「魔王を?」
「ああ」
「お前が?」
「俺たちが」
「ちょっと待って」
頭が追いつかない。
「本には失敗って」
「そうなのか」
「そうなのかじゃないだろ! お前が負けたって書いてあるんだぞ」
「俺は勝った」
「でも」
「首を落とした」
レオンの声が変わった。
いつもの軽さが消えている。
「俺が剣を入れた。最後まで見た」
「……」
「でも魔王はその後も」
「生きてたって?」
「ああ」
レオンが黙る。
「北方に被害を出したって書いてある」
「……何年」
「え?」
「俺たちが戦った後、何年だ」
「そこまでは覚えてない」
「調べろ」
「レオン?」
「何年、被害が続いたことになってる」
「分かった」
明らかに様子がおかしい。
「でも、本当に倒したのか?」
レオンの目が俺を見る。
怒るかと思った。でも、怒らなかった。
「お前はどう思う」
「……分からない」
「だろうな」
「ごめん」
「謝るな」
レオンは白い地面へ座った。
「七十年も前なんだろ」
「うん」
「なら、向こうにいる奴らにとっちゃ、本に書いてある方が本当だ。俺が何言ったってな」
妙に寂しい言い方だった。
「でも、お前は覚えてる」
「俺はな」
「一緒にいた仲間も?」
一瞬、レオンの顔が固まった。
「……さあな」
「さあなって」
「俺以外、ここにはいない」
「え?」
「探した」
初めて聞いた。
「七年、こっちに来てからずっと探した」
「仲間を?」
「ああ」
「一人も?」
「いない」
「じゃあ向こうに」
「死んだのかもしれねえ。俺がここに来た後でな」
声は平坦だった。
「だから、もういい」
「よくないだろ」
「いいんだよ」
「だって」
「カイ」
レオンが俺を見る。
「お前はルナを探せ」
「……」
「昔の死人なんか調べてる暇があるなら、あの娘の手掛かり探せ」
「お前、死んでないじゃん」
「向こうじゃ死んでる」
「でも今、俺と喋ってる」
レオンが黙った。
「トーマもそうだった。向こうじゃいなかったことになってる。でも、いた。お前もだろ」
「……」
世界全部を背負うつもりはない。
ルナを探す。それは変わらない。
でも。
「気になるものは調べる」
レオンがため息をついた。
「しつけえなあ、お前」
「よく言われる」
「誰にだよ」
答えようとして、止まる。
ルナ。
そう言えばいい。
なのに、一瞬だけ顔が浮かばなかった。
「……」
「カイ?」
「いや」
すぐに戻った。
銀色の髪。淡い瞳。
大丈夫。
まだ覚えてる。
「何でもない」
レオンが少し心配そうに俺を見る。
「無理すんなよ」
「してない」
「してる奴は大体そう言う」
「お前もな」
「俺はいいんだよ」
「何で」
「年上だから」
「理由になってない」
レオンが笑った。
その時、裂け目が揺れる。
白い場所が遠ざかり始めた。
「レオン!」
「何だ」
「次までに調べる。魔王のその後」
「……ああ」
「あと、お前の仲間」
「それはいい」
「何で」
「調べなくていい」
強い声だった。
「絶対か?」
「ああ」
「分かった」
レオンが少し驚く。
「素直だな」
「今はな」
「信用できねえ」
「失礼だな」
裂け目が細くなる。
「じゃあな」
「レオン」
「まだ何かあんのか」
「一個だけ」
振り返ったレオンに聞く。
「魔王を倒したって、本当に覚えてるんだな?」
少しの沈黙。
今度は笑わなかった。
「ああ」
静かに言った。
「忘れるわけねえよ」
白が閉じた。
◇
翌朝。
俺はもう一度、歴史書を開いた。
『勇者レオン・ヴァルグレイヴ』
『魔王討伐に失敗』
その文字を指でなぞる。
レオンは言った。
倒した。首を落とした。最後まで見た。
でも歴史は、失敗したと言っている。七十年間、そう記録されてきた。
「……どっちだ?」
今までなら迷わなかったと思う。
一人の人間の記憶より、歴史書の方が正しい。
でも、俺はルナを知っている。
昨日までいた人間が、一晩で最初から存在しなかったことになる。
トーマも知った。
母親は息子を探していたのに、やがて最初から一人暮らしだったことになった。
だったら。
歴史書を見る。
初めて、そこに書いてある文字が少しだけ怖く見えた。
もし、レオンが間違っているんじゃなかったら?
もし、間違っているのが――こっちだったら?




