第十話 やっと、会えた
歴史書を閉じても、レオンの言葉は頭から離れなかった。
『倒したぞ』
歴史には失敗したと書かれている。本人は倒したと言う。
どちらが正しいのか、今の俺には分からない。
けれど、それ以上に気になることがあった。
ルナ。
俺は、あいつを探すためにここまで来た。
レオンのこと。トーマのこと。白い場所のこと。調べたいことは増えたし、世界がおかしいことも少しずつ分かってきた。
それでも、最初から目的は一つだ。
机の上の黒い髪飾りを握る。
会いたい。声だけじゃなく、ちゃんと姿を見て話がしたい。
今日こそ、ルナを見つける。
◇
日が沈む少し前、俺は西門へ続く坂道に立っていた。
最初に裂け目が開いた場所だ。最近はここじゃなくても繋がる。それでも今日は、ここに来たかった。
あの日、ルナと最後に歩いた道。
昨日まで当たり前だったものが、全部なくなった場所。
人が行き交い、荷馬車が通る。店じまいを始めた商人たちが声を掛け合っている。
あの日と変わらない道を、今日も知らない誰かが歩いていく。
誰もルナを知らない。
俺だけが覚えている。
「……ルナ」
何も起きない。
「ルナ・アステリア」
それでも、夕暮れの坂道は静かなままだ。
最近は毎回繋がるわけじゃない。名前、髪飾り、場所、時間。何が条件なのか、それとも別の何かなのか。今も分からない。
もう一度、名前を呼ぶ。
それでも何も起きない。
何度も呼んだ。
通り過ぎた男が、ちらりと俺を見る。何もない場所に向かって同じ名前を呼び続けているんだ。相当変な奴に見えているだろう。
でも、どうでもいい。
忘れないために呼ぶ。
あいつが、そうしてくれと言ったから。
「ルナ」
――ぽちゃん。
水の音がした。
「……来た」
――パキ。
空中に黒い線が走る。
けれど細い。いつもよりずっと細く、指一本入るかどうかという程度だった。
「ルナ!」
駆け寄って裂け目を覗く。わずかな隙間の向こうに白いものが見える。
「ルナ! レオン! トーマ!」
返事はない。
そのまま裂け目が閉じ始めた。
「待て!」
手を伸ばすより先に、黒い線が消えた。
「くそっ!」
焦るな。
レオンにも無理をするなと言われた。
でも、無理だ。
向こうにいると分かっているのに、触れない。話せない。連れて帰れない。
目の前まで来ているのに、何もできない。
黒い髪飾りを握り直し、もう一度ルナの名前を呼ぶ。
何もない。
それでも諦めず、何度も呼んだ。
「ルナ・アステリア」
「……うるさい」
息が止まった。
すぐ近くから聞こえた。
勢いよく振り返るが、誰もいない。
「……ルナ?」
「何回呼ぶの」
「ルナ!」
「うるさい」
辺りを見回す。坂道にも建物の陰にも、行き交う人々の中にも銀色の髪は見当たらない。
「どこだ!」
「声、大きい」
「どこにいる!」
「だから大きい」
「うるせえ!」
「カイの方がうるさい」
思わず言葉が止まった。
姿は見えない。どこにいるのかも分からない。
それなのに、どんな顔で言っているのか分かる気がした。
少し眉を寄せて、呆れたように俺を見る顔。
何度も見てきた。この言い方も、この声も間違えない。
「……ルナ」
「なに」
今度は小さく呼ぶと、すぐに返ってきた。
たった二文字。それだけで胸の奥が熱くなる。
「どこだ?」
「分からない。でも、カイの声は聞こえる」
「俺からは見えない」
「私は少し見える」
「何が?」
「カイ」
「俺が?」
「うん。ぼんやり」
「幽霊みたい?」
「カイが?」
「俺が」
「ちょっと面白い」
ほんの少し、笑いが混じった気がした。
「笑うなよ」
「笑ってない」
「今、絶対笑っただろ」
「証拠は?」
言い返そうとして、気づく。
顔が見えない。
「……ない」
「じゃあ笑ってない」
「ずるくない?」
「知らない」
久しぶりだった。
こんな、何でもない会話。
ルナと話している。
それだけなのに、胸の奥に溜まっていたものが少しずつほどけていく。
「カイ?」
「ん?」
「どうしたの」
「いや……」
探してた。心配した。どこにいるんだ。何があった。
言いたいことはいくらでもあったはずなのに、出てきたのはもっと単純な言葉だった。
「声、聞けてよかった」
しばらく返事がなかった。
「ルナ?」
「……そう」
「それだけ?」
「何て言えばいいの」
「俺も嬉しいとか」
「言わせるの?」
「駄目?」
「駄目」
思わず笑う。
姿は見えなくても、向こうにルナがいる。それだけで今は十分だった。
「……私も」
「え?」
「何でもない」
「今なんて?」
「何でもない」
「もう一回」
「嫌」
「ルナ」
「嫌」
「お願いします」
「嫌」
「そこを何とか」
「しつこい」
「知ってる」
「昔から」
その一言で、胸が詰まった。
昔から。
世界中から消えてしまったはずの時間を、ルナは覚えている。
俺との時間を。
「ルナ。俺のこと、覚えてるよな?」
「……何それ」
「いいから」
「覚えてる」
即答だった。
その答えだけで十分なはずなのに、もう少しだけ確かめたくなった。
「じゃあ、俺の嫌いな食べ物」
「ピーマン」
「子供扱いすんな。今は食える」
「去年も残してた」
「何でそんなこと覚えてんだよ」
「聞いたのはカイ」
「じゃあ、俺が昔、学院で先生に怒られた理由は?」
「どれ?」
「どれって何だよ」
「授業中に寝た時? 机に落書きした時?」
「……違う」
「じゃあ窓から抜け出した時」
「それ」
「怒られすぎ」
「うるさい」
今度は、はっきり笑い声が聞こえた。
小さな声だった。でも、それで十分だった。
ルナが覚えている。
俺を。俺たちのくだらない時間まで。
「ルナ」
「なに」
「会いたい」
笑い声が止まった。
声が聞けただけで満足できると思っていた。
そんなわけがなかった。
「姿が見たい。ちゃんと顔見て話したい」
返事はすぐには来なかった。
やがて、少し遠くなった声が俺の名前を呼ぶ。
「カイ」
「何だ?」
「私は――」
そこで声が途切れた。
「待って! 切れそうなのか?」
「たぶん」
「どこにいる? 何か見えるものは?」
「白い」
「それは知ってる。他には?」
「……水」
「水?」
「音がする」
息を止めた。
俺が向こうへ繋がる時も、最初に聞こえるのは水の音だ。
「どっちから?」
「分からない」
「他には?」
「カイ」
「何だ?」
「もう――」
声が消えた。
「ルナ!」
返事はない。
夕暮れの坂道には、町のざわめきしか残っていなかった。
白い場所でも水の音がする。
俺が向こうへ繋がる時に聞くものと同じなのか、それとも別の何かなのか。
分からない。それでも、一つ手掛かりが増えた。
◇
その夜は眠れなかった。
寝台に入っても、ルナの声が頭から離れない。
『覚えてる』
『昔から』
世界中がルナを忘れた。
もしルナまで俺を忘れていたら――そう考えたことがなかったわけじゃない。
少なくとも、それだけは大丈夫だった。
俺は寝台を出て机に向かい、紙に二つの言葉を書く。
『接続前――水の音』
『ルナのいる場所――水の音』
同じものなのか。偶然なのか。
考えても答えは出ない。明日、レオンにも聞いてみよう。
ペンを置いた。
――ぽちゃん。
「……え?」
顔を上げる。
部屋には誰もいない。窓も閉まっている。水なんてどこにもない。
――ぽちゃん。
髪飾りを見る。
触れていない。
名前も呼んでいない。
なのに。
――パキ。
机の前で、空間に黒い線が走った。
「……!」
椅子を蹴るように立ち上がる。
俺は何もしていない。それなのに黒い線は伸び続け、やがて白い向こう側を映し出した。
いつもと違う。
裂け目が、人一人通れそうなくらい大きい。
向こうへ行ける。
そう思った。
前にも一度、入りかけたことはある。でも今日は明らかに違う。
裂け目の向こう側が近い。白い地面まで、はっきり見える。そして、遠くに人影があった。
「レオン?」
違う。
もっと小さくて、細い。
白一色の景色の中で、銀色の髪が揺れていた。
「……ルナ」
人影が止まり、ゆっくりこちらを向く。
「カイ……?」
今度は、はっきり聞こえた。
「ルナ!」
裂け目へ手を伸ばす。
何も遮らない。指先が白い場所へ入る。
行ける。
そう分かった瞬間には、もう足が動いていた。
「カイ、待って!」
ルナが叫ぶ。
でも、止まれなかった。
一歩、裂け目を越えた。
◇
足の裏に、確かな感触があった。
白い地面。
振り返れば、裂け目の向こうに俺の部屋が見えている。
「……入れた」
声だけじゃない。
俺自身が、白い場所にいる。
「カイ」
前を見る。
銀色の髪。淡い瞳。黒を基調とした服。
忘れないように、何度も頭の中で思い描いた。
それでも、本物を目の前にすると、記憶の中の姿なんて頼りないものだったと分かる。
「……ルナ」
十歩ほど先に、ルナ・アステリアが立っていた。
やっと見つけた。
そう思った途端、喉の奥が詰まった。
駆け寄って名前を呼ぶつもりだった。無事なのかと聞くつもりだった。言いたいことはいくらでもあった。
なのに。
「本当に……ルナだ」
それしか出なかった。
ルナは俺を見たまま動かなかった。
嬉しそうでも、安心したようでもない。むしろ少し怯えているように見えた。
「何で来たの」
やっと会えた俺に向けた最初の言葉が、それだった。
「何でって」
「来ちゃ駄目って言った」
「聞いた」
「じゃあ何で」
「会いたかったから」
答えなんて、考える必要もなかった。
ルナが目を逸らす。
「馬鹿」
「知ってる」
「帰って」
「嫌だ」
「カイ」
「やっと会えたんだぞ」
一歩近づく。
ルナが一歩下がった。
足が止まる。
「何で下がるんだよ」
「来ないで」
「何で」
「いいから」
「よくない」
もう一歩近づく。
ルナも同じだけ下がる。縮まるはずの距離が、少しも縮まらない。
「ルナ。何なんだよ」
「来ないでって言ってるでしょ」
「やっと会えたのに、そんなこと言われて納得できるかよ」
ルナは何も答えない。
ただ俺から距離を取ったまま、苦しそうに目を伏せた。
「ずっと探してた」
その目が揺れる。
「母親のところにも行った。学院も調べた。町の記録も――」
「カイ」
「アベルにも聞いた」
「やめて」
「誰もお前を覚えてなかった」
「やめて!」
声が白い空間に響いた。
ルナが俺に怒鳴ったのは、初めてだった。
「……分かってるから」
「ルナ」
「全部、分かってる。お母さんも……お兄ちゃんも、みんな」
俯いたルナの顔を銀色の髪が隠す。
握りしめた拳だけが、小さく震えていた。
「私のこと、忘れたんでしょ」
「……ああ」
嘘はつけなかった。
「そう」
その一言が、ひどく小さかった。
「いいの」
「よくない」
「いい」
「よくないって」
「カイには関係ない」
胸の奥で何かが引っかかった。
「……もう一回言ってみろ」
「何」
「関係ないって」
「関係ない」
「ある」
「ない」
「ある」
ルナが顔を上げる。
「何で」
「幼馴染だから」
言い切った。
「昨日まで一緒に歩いてたから。明日も会う約束したから」
その唇が、わずかに震えた。
「それに」
ポケットから黒い髪飾りを取り出す。
ルナの目が大きくなった。
「これ」
「……何で」
「俺の部屋にあった」
「消えてなかったの?」
「ああ。これだけ残ってた」
「そんな……」
ルナがこちらへ一歩踏み出した。
初めて、距離が縮まった。
けれど何かを思い出したように足を止める。
「返す」
「……いらない」
「お前のだろ」
「カイが持ってて」
「何で」
「いいから」
「またそれ」
「お願い」
その言い方に、あの日のルナを思い出した。
『明日も私の名前を呼んで』
別れ際、あいつはそう言った。
理由を聞いても、ちゃんとは答えてくれなかった。
今も同じだ。
「……分かった。預かっとく」
「うん」
「でも、いつか返す」
ルナが俺を見る。
「お前が帰ってきた時に」
その表情が止まった。
「帰ってこいよ。一緒に帰ろう」
長い沈黙。
俺は手を伸ばした。
十歩ほどある距離は、まだ埋まらない。届くはずもない。
それでも、手を伸ばす。
「帰るぞ、ルナ」
ほんの一瞬だけ、ルナの表情がほどけた。
嬉しそうだった。それなのに、今にも泣きそうだった。
どうしてそんな顔をするのか。
どうして、ここまで来ても俺を遠ざけるのか。
まだ、何も分からない。
ルナは俺を見たまま、ゆっくりと首を横に振った。
「……帰れない」




