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また、君の名前を呼ぶ  作者: 天城 真空
第Ⅰ部《消えた少女》

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第十話 やっと、会えた

歴史書を閉じても、レオンの言葉は頭から離れなかった。


『倒したぞ』


歴史には失敗したと書かれている。本人は倒したと言う。

どちらが正しいのか、今の俺には分からない。

けれど、それ以上に気になることがあった。


ルナ。


俺は、あいつを探すためにここまで来た。

レオンのこと。トーマのこと。白い場所のこと。調べたいことは増えたし、世界がおかしいことも少しずつ分かってきた。

それでも、最初から目的は一つだ。


机の上の黒い髪飾りを握る。

会いたい。声だけじゃなく、ちゃんと姿を見て話がしたい。


今日こそ、ルナを見つける。



日が沈む少し前、俺は西門へ続く坂道に立っていた。

最初に裂け目が開いた場所だ。最近はここじゃなくても繋がる。それでも今日は、ここに来たかった。


あの日、ルナと最後に歩いた道。

昨日まで当たり前だったものが、全部なくなった場所。


人が行き交い、荷馬車が通る。店じまいを始めた商人たちが声を掛け合っている。

あの日と変わらない道を、今日も知らない誰かが歩いていく。


誰もルナを知らない。

俺だけが覚えている。


「……ルナ」

何も起きない。

「ルナ・アステリア」


それでも、夕暮れの坂道は静かなままだ。

最近は毎回繋がるわけじゃない。名前、髪飾り、場所、時間。何が条件なのか、それとも別の何かなのか。今も分からない。


もう一度、名前を呼ぶ。

それでも何も起きない。


何度も呼んだ。

通り過ぎた男が、ちらりと俺を見る。何もない場所に向かって同じ名前を呼び続けているんだ。相当変な奴に見えているだろう。


でも、どうでもいい。

忘れないために呼ぶ。

あいつが、そうしてくれと言ったから。


「ルナ」


――ぽちゃん。


水の音がした。


「……来た」


――パキ。


空中に黒い線が走る。

けれど細い。いつもよりずっと細く、指一本入るかどうかという程度だった。


「ルナ!」


駆け寄って裂け目を覗く。わずかな隙間の向こうに白いものが見える。


「ルナ! レオン! トーマ!」


返事はない。

そのまま裂け目が閉じ始めた。


「待て!」


手を伸ばすより先に、黒い線が消えた。


「くそっ!」


焦るな。

レオンにも無理をするなと言われた。


でも、無理だ。

向こうにいると分かっているのに、触れない。話せない。連れて帰れない。

目の前まで来ているのに、何もできない。


黒い髪飾りを握り直し、もう一度ルナの名前を呼ぶ。

何もない。

それでも諦めず、何度も呼んだ。


「ルナ・アステリア」

「……うるさい」


息が止まった。


すぐ近くから聞こえた。

勢いよく振り返るが、誰もいない。


「……ルナ?」

「何回呼ぶの」

「ルナ!」

「うるさい」


辺りを見回す。坂道にも建物の陰にも、行き交う人々の中にも銀色の髪は見当たらない。


「どこだ!」

「声、大きい」

「どこにいる!」

「だから大きい」

「うるせえ!」

「カイの方がうるさい」


思わず言葉が止まった。


姿は見えない。どこにいるのかも分からない。

それなのに、どんな顔で言っているのか分かる気がした。


少し眉を寄せて、呆れたように俺を見る顔。

何度も見てきた。この言い方も、この声も間違えない。


「……ルナ」

「なに」


今度は小さく呼ぶと、すぐに返ってきた。

たった二文字。それだけで胸の奥が熱くなる。


「どこだ?」

「分からない。でも、カイの声は聞こえる」

「俺からは見えない」

「私は少し見える」

「何が?」

「カイ」

「俺が?」

「うん。ぼんやり」

「幽霊みたい?」

「カイが?」

「俺が」

「ちょっと面白い」


ほんの少し、笑いが混じった気がした。


「笑うなよ」

「笑ってない」

「今、絶対笑っただろ」

「証拠は?」


言い返そうとして、気づく。

顔が見えない。


「……ない」

「じゃあ笑ってない」

「ずるくない?」

「知らない」


久しぶりだった。

こんな、何でもない会話。


ルナと話している。

それだけなのに、胸の奥に溜まっていたものが少しずつほどけていく。


「カイ?」

「ん?」

「どうしたの」

「いや……」


探してた。心配した。どこにいるんだ。何があった。

言いたいことはいくらでもあったはずなのに、出てきたのはもっと単純な言葉だった。


「声、聞けてよかった」


しばらく返事がなかった。


「ルナ?」

「……そう」

「それだけ?」

「何て言えばいいの」

「俺も嬉しいとか」

「言わせるの?」

「駄目?」

「駄目」


思わず笑う。

姿は見えなくても、向こうにルナがいる。それだけで今は十分だった。


「……私も」

「え?」

「何でもない」

「今なんて?」

「何でもない」

「もう一回」

「嫌」

「ルナ」

「嫌」

「お願いします」

「嫌」

「そこを何とか」

「しつこい」

「知ってる」

「昔から」


その一言で、胸が詰まった。


昔から。

世界中から消えてしまったはずの時間を、ルナは覚えている。

俺との時間を。


「ルナ。俺のこと、覚えてるよな?」

「……何それ」

「いいから」

「覚えてる」


即答だった。

その答えだけで十分なはずなのに、もう少しだけ確かめたくなった。


「じゃあ、俺の嫌いな食べ物」

「ピーマン」

「子供扱いすんな。今は食える」

「去年も残してた」

「何でそんなこと覚えてんだよ」

「聞いたのはカイ」

「じゃあ、俺が昔、学院で先生に怒られた理由は?」

「どれ?」

「どれって何だよ」

「授業中に寝た時? 机に落書きした時?」

「……違う」

「じゃあ窓から抜け出した時」

「それ」

「怒られすぎ」

「うるさい」


今度は、はっきり笑い声が聞こえた。

小さな声だった。でも、それで十分だった。

ルナが覚えている。

俺を。俺たちのくだらない時間まで。


「ルナ」

「なに」

「会いたい」


笑い声が止まった。


声が聞けただけで満足できると思っていた。

そんなわけがなかった。


「姿が見たい。ちゃんと顔見て話したい」


返事はすぐには来なかった。

やがて、少し遠くなった声が俺の名前を呼ぶ。


「カイ」

「何だ?」

「私は――」


そこで声が途切れた。


「待って! 切れそうなのか?」

「たぶん」

「どこにいる? 何か見えるものは?」

「白い」

「それは知ってる。他には?」

「……水」

「水?」

「音がする」


息を止めた。

俺が向こうへ繋がる時も、最初に聞こえるのは水の音だ。


「どっちから?」

「分からない」

「他には?」

「カイ」

「何だ?」

「もう――」


声が消えた。


「ルナ!」


返事はない。

夕暮れの坂道には、町のざわめきしか残っていなかった。


白い場所でも水の音がする。

俺が向こうへ繋がる時に聞くものと同じなのか、それとも別の何かなのか。

分からない。それでも、一つ手掛かりが増えた。



その夜は眠れなかった。

寝台に入っても、ルナの声が頭から離れない。


『覚えてる』

『昔から』


世界中がルナを忘れた。

もしルナまで俺を忘れていたら――そう考えたことがなかったわけじゃない。


少なくとも、それだけは大丈夫だった。


俺は寝台を出て机に向かい、紙に二つの言葉を書く。


『接続前――水の音』

『ルナのいる場所――水の音』


同じものなのか。偶然なのか。

考えても答えは出ない。明日、レオンにも聞いてみよう。


ペンを置いた。


――ぽちゃん。


「……え?」


顔を上げる。

部屋には誰もいない。窓も閉まっている。水なんてどこにもない。


――ぽちゃん。


髪飾りを見る。

触れていない。

名前も呼んでいない。

なのに。


――パキ。


机の前で、空間に黒い線が走った。


「……!」


椅子を蹴るように立ち上がる。

俺は何もしていない。それなのに黒い線は伸び続け、やがて白い向こう側を映し出した。


いつもと違う。

裂け目が、人一人通れそうなくらい大きい。

向こうへ行ける。

そう思った。


前にも一度、入りかけたことはある。でも今日は明らかに違う。

裂け目の向こう側が近い。白い地面まで、はっきり見える。そして、遠くに人影があった。


「レオン?」


違う。

もっと小さくて、細い。

白一色の景色の中で、銀色の髪が揺れていた。


「……ルナ」


人影が止まり、ゆっくりこちらを向く。


「カイ……?」


今度は、はっきり聞こえた。


「ルナ!」


裂け目へ手を伸ばす。

何も遮らない。指先が白い場所へ入る。

行ける。

そう分かった瞬間には、もう足が動いていた。


「カイ、待って!」


ルナが叫ぶ。

でも、止まれなかった。

一歩、裂け目を越えた。



足の裏に、確かな感触があった。

白い地面。

振り返れば、裂け目の向こうに俺の部屋が見えている。


「……入れた」


声だけじゃない。

俺自身が、白い場所にいる。


「カイ」


前を見る。


銀色の髪。淡い瞳。黒を基調とした服。

忘れないように、何度も頭の中で思い描いた。


それでも、本物を目の前にすると、記憶の中の姿なんて頼りないものだったと分かる。


「……ルナ」


十歩ほど先に、ルナ・アステリアが立っていた。

やっと見つけた。

そう思った途端、喉の奥が詰まった。

駆け寄って名前を呼ぶつもりだった。無事なのかと聞くつもりだった。言いたいことはいくらでもあった。

なのに。


「本当に……ルナだ」


それしか出なかった。

ルナは俺を見たまま動かなかった。

嬉しそうでも、安心したようでもない。むしろ少し怯えているように見えた。


「何で来たの」


やっと会えた俺に向けた最初の言葉が、それだった。


「何でって」

「来ちゃ駄目って言った」

「聞いた」

「じゃあ何で」

「会いたかったから」


答えなんて、考える必要もなかった。


ルナが目を逸らす。


「馬鹿」

「知ってる」

「帰って」

「嫌だ」

「カイ」

「やっと会えたんだぞ」


一歩近づく。

ルナが一歩下がった。


足が止まる。


「何で下がるんだよ」

「来ないで」

「何で」

「いいから」

「よくない」


もう一歩近づく。

ルナも同じだけ下がる。縮まるはずの距離が、少しも縮まらない。


「ルナ。何なんだよ」

「来ないでって言ってるでしょ」

「やっと会えたのに、そんなこと言われて納得できるかよ」


ルナは何も答えない。

ただ俺から距離を取ったまま、苦しそうに目を伏せた。


「ずっと探してた」


その目が揺れる。


「母親のところにも行った。学院も調べた。町の記録も――」

「カイ」

「アベルにも聞いた」

「やめて」

「誰もお前を覚えてなかった」

「やめて!」


声が白い空間に響いた。

ルナが俺に怒鳴ったのは、初めてだった。


「……分かってるから」

「ルナ」

「全部、分かってる。お母さんも……お兄ちゃんも、みんな」


俯いたルナの顔を銀色の髪が隠す。

握りしめた拳だけが、小さく震えていた。


「私のこと、忘れたんでしょ」

「……ああ」


嘘はつけなかった。


「そう」


その一言が、ひどく小さかった。


「いいの」

「よくない」

「いい」

「よくないって」

「カイには関係ない」


胸の奥で何かが引っかかった。


「……もう一回言ってみろ」

「何」

「関係ないって」

「関係ない」

「ある」

「ない」

「ある」


ルナが顔を上げる。


「何で」

「幼馴染だから」


言い切った。


「昨日まで一緒に歩いてたから。明日も会う約束したから」


その唇が、わずかに震えた。


「それに」


ポケットから黒い髪飾りを取り出す。

ルナの目が大きくなった。


「これ」

「……何で」

「俺の部屋にあった」

「消えてなかったの?」

「ああ。これだけ残ってた」

「そんな……」


ルナがこちらへ一歩踏み出した。

初めて、距離が縮まった。

けれど何かを思い出したように足を止める。


「返す」

「……いらない」

「お前のだろ」

「カイが持ってて」

「何で」

「いいから」

「またそれ」

「お願い」


その言い方に、あの日のルナを思い出した。


『明日も私の名前を呼んで』


別れ際、あいつはそう言った。

理由を聞いても、ちゃんとは答えてくれなかった。

今も同じだ。


「……分かった。預かっとく」

「うん」

「でも、いつか返す」


ルナが俺を見る。


「お前が帰ってきた時に」


その表情が止まった。


「帰ってこいよ。一緒に帰ろう」


長い沈黙。

俺は手を伸ばした。

十歩ほどある距離は、まだ埋まらない。届くはずもない。

それでも、手を伸ばす。


「帰るぞ、ルナ」


ほんの一瞬だけ、ルナの表情がほどけた。

嬉しそうだった。それなのに、今にも泣きそうだった。


どうしてそんな顔をするのか。

どうして、ここまで来ても俺を遠ざけるのか。

まだ、何も分からない。

ルナは俺を見たまま、ゆっくりと首を横に振った。


「……帰れない」

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