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また、君の名前を呼ぶ  作者: 天城 真空
第Ⅰ部《消えた少女》

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第十一話 もう来ないで

「……帰れない」


聞き間違いかと思った。

言い終えると、ルナは白い地面へ視線を落とした。


「帰れないって、どういう意味だよ」

「そのまま」

「分かんねえよ」


俺は後ろを振り返る。

黒い裂け目の向こうには、俺の部屋が見えていた。机も椅子も、開いたままの歴史書もそのままだ。

ほんの数歩。俺はあそこから来た。歩けば戻れる。


「出口あるじゃん」

「それはカイの」

「俺の?」

「うん」

「だったら一緒に通ればいいだろ」

「無理」

「やってみないと分からない」

「分かる」

「何で」


ルナが一瞬、言葉に詰まった。


「やったから」

「……何?」


その表情がわずかに強張る。

すぐに目を逸らした。


「何でもない」

「今、やったって言ったよな」


しばらく黙ったあと、ルナは諦めたように息を吐いた。


「一回だけ」

「戻ろうとしたのか?」

「うん」

「いつ?」

「分からない。ここにいると、時間がよく分からないから」


そういえばレオンも言っていた。

自分の感覚では七年。けれど、俺たちの世界では七十年。

ここでは、俺の知っている時間の流れそのものが当てにならない。


「それで、どうなった?」

「裂け目が開いたことがあったの。誰のかは知らない」


ルナは自分の右手へ目を落とした。


「そこから出ようとした」

「……出られた?」

「消えた」

「何が?」

「私の手」


思わず両手を見る。ちゃんとある。指も、手のひらも。


「あるじゃん」

「今は」


ルナは右手を胸の前まで持ち上げ、その指先を確かめるように見つめた。


「裂け目に入れたら、指先から見えなくなった。痛くはなかった」

「戻したら?」

「戻った。でも、分からなくなった」

「何が」

「自分に手があったこと」


背中が冷たくなった。


「……は?」

「ほんの少しだけ。右手って何だったっけって思った。何に使ってたのかも分からなくなった」


ルナは自分の指を握り込む。


「すぐに戻った。でも……怖かった」


何も言えなかった。

ルナがこんなふうに弱さを口にするのは珍しい。いつもなら、怖くても平気な顔をする。

今は、それすら隠しきれないらしい。


「だから、出られないのか」

「それだけじゃない」

「まだある?」

「分からない」


声に苛立ちが混じった。


「私だって何も知らない。ここが何なのかも、何で私がここにいるのかも、どうしてみんなが私を忘れたのかも……何も分からない」


最後の方は震えていた。

聞きたいことは山ほどある。でも、今それを全部ぶつけるのは違う気がした。


「……ごめん」

「何で謝るの」

「質問ばっかした」

「別に」

「怒った?」

「怒ってない」

「それ、怒ってる時のやつ」


ルナが黙る。


「昔からそうじゃん」


その言葉に、ルナの目がわずかに揺れた。


「覚えてるんだ」

「当たり前だろ」

「……そう」


ほんの少しだけ表情が緩む。

けれど、それもすぐ消えた。


「カイ」

「ん?」

「帰って」

「嫌だ」


今度は俺が即答した。


「お願い」

「お前を置いて?」

「うん」

「それは無理」


俺には出口でも、ルナには違う。

なら、出口にする方法を探せばいい。


そう言おうとした俺を、ルナが遮った。


「危ないの」

「何が?」

「カイも」

「俺?」

「ここにいること自体がおかしいの。普通は、向こうからここには来られない」


そういえば、レオンにも止められていた。


『今のお前が何も分からずこっちへ来るのはやめろ』

『お前までいなくなったら、誰が探す』


あの時は踏みとどまった。

なのに今日は、ルナが見えた瞬間に飛び込んだ。


「最初に来た時、聞いたでしょ」


あの声を思い出す。

白い空間で、頭の中へ直接流れ込んできた言葉。


《照合》

《未登録接続個体を確認》

《存在情報を照合》

《不整合》


「……あれか」

「うん」

「何なんだよ」

「知らない」


ルナは自分の腕を抱いた。


「でも、カイがここにいると……また見つかる気がする」

「誰に?」

「分からない」

「何だよそれ」

「だから分からないって言ってるでしょ!」


声が白い空間に響いた。

ルナ自身も驚いたように口を閉じる。


「……ごめん」

「違う」


俯いたまま、ルナは首を振った。


「怒りたいんじゃない。ただ……怖いの」


二度目だった。


「カイまでいなくなったら、嫌なの」


胸の奥が痛んだ。


「私だけならいい」

「よくない」


考えるより先に言葉が出た。


「でも――」

「それだけは絶対言うな」


思ったより強い声になった。


「お前がよくても、俺はよくない」


一歩近づく。

今度はルナは下がらなかった。


「だから勝手に、自分だけならいいとか決めんな。俺はよくない」


淡い瞳が揺れる。


「……うん」

「え?」

「何でもない」


ルナは顔を背けた。

少しだけ、いつものルナに戻った気がした。


ふと思い出して聞く。


「そういえば、レオンたちのことは知ってるんだよな?」

「うん」

「トーマも?」

「うん」

「じゃあ何で、今まで出てこなかったんだよ」

「避けてたから」

「俺を?」

「うん」


即答だった。

地味に傷つく。


「俺、そんな嫌われてた?」

「違う」


ルナは少し迷ったあと、目を伏せた。


「会ったら……帰ってほしくなくなるから」


言葉が出なかった。


「だから避けてた」

「俺がレオンやトーマと話してた時も?」

「……たまに」

「いたのかよ」

「うん」

「俺が探してたのも?」

「うん」

「じゃあ呼べよ」

「嫌」

「何でだよ」

「今言った」


平然としている。


「俺、めちゃくちゃ名前呼んでたんだけど」

「知ってる」

「知ってたの!?」

「見てたから」

「何回呼んだと思ってんだよ」

「いっぱい」

「数えてた?」

「途中まで」

「何回?」

「百七十三」


思わず顔を上げた。


「めっちゃ数えてるじゃん」

「途中まで」

「そこまで数えて何で途中でやめるんだよ」

「多すぎたから」

「誰のせいだよ」


ルナの口元が緩んだ。

俺は見逃さなかった。


「今、笑った」

「笑ってない」

「絶対笑った」

「証拠は?」


聞き覚えのある返しに、今度は俺が笑った。


「ある。今は見えてるからな」


ルナは一瞬黙ってから、口元を手で隠した。


「見ないで」

「今さら?」

「……帰って」

「急に戻すなよ」


思わず笑う。

ルナも、ほんの少しだけ笑っていた。


ルナが消える前なら当たり前だった、何でもないやり取り。

たったそれだけのことが、今はどうしようもなく嬉しい。


だからだろう。


「……帰りたくないな」


本音がこぼれた。


ルナの笑みが消える。

その視線を追って振り返ると、裂け目がさっきより細くなっていた。向こうに見える俺の部屋も、少しずつ狭くなっている。


「閉じる」

「まだ少しくらい――」

「駄目。帰って」


今度の声には迷いがなかった。


「分かった。でも、また来る」

「駄目」

「じゃあ明後日」

「来ないで」

「その次でもいい」


ルナは首を横に振る。

何を言っても同じらしい。


「だったら毎日来る」

「来ないで!」


鋭い声が白い場所に響いた。

今度は冗談じゃなかった。


「……ルナ?」

「もう来ないで」


さっきまで笑っていた顔が、嘘みたいに苦しそうだった。


「俺まで危ないから?」

「うん」

「それだけ?」


返事がない。

やがて、視線を逸らしたまま答える。


「それだけ」


嘘だ。

昔からこいつは嘘が下手だった。


「じゃあ何で、そんな顔してんだよ」

「……どんな」

「泣きそう」

「泣いてない」

「そういう意味じゃない」


ルナは何も言わない。


「俺に、本当に来てほしくない?」

「……うん」


胸が痛んだ。

でも、その言葉とは裏腹にルナは俺と目を合わせようとしない。


「じゃあ、二度と来なくてもいい?」


一瞬だけ唇が動く。

それでも答えない。


「俺がお前を忘れても?」


ルナの肩が揺れた。


「……それで、いい」

「嘘つけ」

「嘘じゃない」

「なら、こっち見ろよ」


しばらくして、ルナがゆっくり顔を上げた。

淡い瞳と目が合う。泣いてはいない。でも、今にも泣きそうだった。


「もう来ないで」


俺を見ながら、もう一度言う。


「お願い」


少しだけ考えた。


「分かった」


ルナの目が揺れる。


「……そう」

「今日は帰る」

「え?」


その顔を見て、やっぱりと思った。


「裂け目閉じそうだから。でも、また来る」

「カイ!」

「だって、嘘ついてる奴の言うこと聞く必要ないだろ」

「嘘じゃ――」

「じゃあ何で、そんな寂しそうな顔してんだよ」


言葉が止まった。


「また来る」

「駄目」

「来る」


これ以上言い合っても同じだろう。

ポケットから黒い髪飾りを取り出して見せる。


「それに、これもまだ預かったままだ」

「いらないって言った」

「俺は、お前が帰ってきた時に返す」


ルナは呆れたように眉を寄せた。


「勝手」

「知ってる」

「馬鹿」

「それも知ってる」


裂け目へ片足を入れると、向こうから俺の名前が聞こえた。


「カイ」

「ん?」


振り返る。

ルナは何か言おうとしていた。けれど、少し迷ったあと口を閉じる。


「何?」

「……何でもない」

「そっか」


あの日も、明日また会えるつもりで別れた。

あの時は、それが当たり前だと思っていた。


だから今度も、同じように言う。


「じゃあまたな、ルナ」


ルナの顔が歪んだ。

返事はない。


裂け目が閉じ始め、白い景色が少しずつ細くなっていく。


「また来るから」


もうすぐ何も見えなくなる。

最後に、ルナの口が動いた。


声はほとんど聞こえなかった。

でも、たぶん。


「……また」


そう言った。

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