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また、君の名前を呼ぶ  作者: 天城 真空
第Ⅰ部《消えた少女》

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第十二話 帰りたい

裂け目が閉じた。


最後まで見えていたカイの姿も、その向こうにあった部屋も消えた。白い景色だけが残る。


「……馬鹿」

返事はない。

「来ないでって言ったのに」


分かっている。

あんなことを言っても、カイはまた来る。

昔からそうだった。一度決めたら、どうでもいいところで頑固になる。


『また来るから』


最後に聞いた声が、まだ耳に残っていた。


本当に勝手。

危ないと言った。来ないでとも言った。それなのに、たぶん聞かない。


そのはずなのに。


「……本当に来なくなったら」


言いかけて、やめる。

そこから先は、カイには絶対に言えなかった。


来ないでほしい。

でも、本当に来なくなるのは嫌だった。


「……嫌なくせに」


自分で言って、自分が嫌になる。


私はその場にしゃがみ込んだ。

さっきまでカイが立っていた場所を見る。当然、もう誰もいない。


本当に来たんだ。


声だけじゃなかった。

裂け目の向こうに見えただけでもなかった。


カイが、ここにいた。


十歩くらい先に立って、いつもと同じ顔で馬鹿なことを言っていた。

帰るぞ、と。

一緒に帰ろう、と。


「……馬鹿」


もう一度呟く。


怖かった。


カイがここへ来たことじゃない。

裂け目を越えてきた瞬間、嬉しいと思ってしまったことが。



ずっと避けていた。


カイがレオンと話していた時も、トーマと話していた時も、遠くから見ていた。

最初に声が聞こえた時は、聞き間違いだと思った。


『ルナ』


久しぶりに聞いた自分の名前だった。


『ルナ・アステリア』


何度も呼ばれた。

返事をしたかった。

ここにいると伝えたかった。


でも、できなかった。


私が消えた日。

最後に見たカイの顔を覚えている。

白い裂け目の向こうで、カイは私の名前を呼んでいた。

私は、そんなカイに言った。


『今度こそ、私のことを忘れて』


忘れてくれればいいと思った。


お母さんも、お兄ちゃんも、学院のみんなも私を忘れた。

だったらカイも同じ方がいい。


私のことなんて忘れて、今まで通り暮らせばいい。

そうした方が、カイのためだと思った。

なのに、カイだけは忘れなかった。


次の日も、その次の日も名前を呼んだ。

何度も、何度も。


途中までは数えていた。


百七十三回。


それ以上は数えるのをやめた。


多すぎたから。

そうカイには言った。


本当は違う。

数えるたびに、嬉しくなったから。


忘れてほしいと思っているのに、名前を呼ばれるたびに安心した。

今日も覚えている。

まだ私を知っている。

そう思ってしまった。


「……ほんとに馬鹿」


カイも。

私も。



右手を見る。

指を開いて、ゆっくり握る。


今はちゃんと動く。


一度だけ、ここから出ようとしたことがある。

知らない誰かの裂け目だった。向こう側に見えたのも知らない場所だった。


それでもよかった。

ここじゃないなら、どこでも。


指先を入れた瞬間、消えた。


痛くなかった。

何かに切られたわけでもない。

ただ、そこから先だけがなくなった。


慌てて引き抜けば、手は元に戻った。


それなのに、少しの間だけ分からなくなった。


右手という言葉が何を指すのか。

目の前にあるものが自分の身体だということも、何のために使うものなのかも。


すぐに戻った。

ほんの短い時間だった。


それでも、もう一度試すことはできなかった。


怖かったから。


自分がなくなることより、自分がなくなったことさえ分からなくなるのが怖かった。


だから、カイが裂け目を越えた時、本当に怖かった。


もし戻れなかったら。

もしカイまでここに残ったら。

もし私と同じように、向こうの世界から消えたら。


『カイまでいなくなったら、嫌なの』


あれだけは本当だった。


私は自分のことなら諦められる。

ずっと、そう思っていた。


でもカイは駄目だった。


カイが私を忘れるのも嫌。

カイまでみんなに忘れられるのは、もっと嫌。


だから帰ってほしかった。

無事に向こうへ戻ってほしかった。


それなのに。


「……帰ってほしくなかった」


声にすると、胸の奥が痛んだ。


『会ったら……帰ってほしくなくなるから』


結局、言ってしまった。

ずっと隠していたのに。


会わなければ我慢できると思っていた。

遠くから見るだけなら、名前を呼ばれても返事をしなければ、そのうち諦めてくれると思っていた。


でも、会ってしまった。


顔を見た。

声を聞いた。

いつもみたいにくだらないことで言い合った。


『証拠は?』

『ある。今は見えてるからな』


思い出すと、少しだけ口元が緩んだ。


「……馬鹿」


今日だけで何回言ったんだろう。


でも、仕方ない。

カイが馬鹿なのが悪い。


顔を上げる。

どこを見ても白い。


ここへ来てから、ずっと同じだった。

朝も夜も分からない。どれだけ時間が過ぎたのかも分からない。


向こうにいた頃は、明日が来ることなんて考えたこともなかった。


学院へ行く。

授業を受ける。

本を読む。

帰りにカイと歩く。


明日も同じことをすると思っていた。


人が多い道では、カイの半歩後ろを歩いた。

はぐれそうになると、服の袖を掴んだ。


『歩きにくい』

『じゃあ離す』

『別に離せとは言ってない』

『どっちなの』

『好きにしろよ』


あの時は、そんな時間がなくなるなんて思わなかった。


自分の袖を指でつまむ。


違う。


欲しいのはこれじゃない。


また、カイの袖を掴みたい。


学院へ行きたい。

本を読みたい。

甘いお茶を飲みたい。


お母さんに会いたい。


お兄ちゃんにも会いたい。


もう私を知らないとしても、それでも会いたい。


そして。


カイの隣にいたい。


その気持ちが浮かんだ瞬間、押し込めようとした。


考えない方がいい。

帰れないなら、帰りたいなんて思わない方がいい。


みんなが私を忘れたのなら、私も諦めればいい。


いつか消えるなら、それで――


『お前がよくても、俺はよくない』


カイの声が蘇った。


『だから勝手に、自分だけならいいとか決めんな』


「……勝手なのはカイでしょ」


そう言ったのに、声には力がなかった。


ポケットに手を入れようとして、何もないことに気づく。


黒い髪飾りも、今はカイが持っている。


『俺は、お前が帰ってきた時に返す』


返さなくていい。


そう言った。


本当に?


目を閉じる。


黒い髪飾りを差し出すカイの顔が浮かんだ。


帰ってきた時に返す。


つまり、その時は。


また向こうにいる。


朝になれば学院へ行って、帰りには一緒に歩く。

人が多ければ、また袖を掴める。


別れ際には、何でもない顔で言える。


また明日。


「……帰りたい」


声が出た。


誰にも聞かれていない。

それでも、慌てて口を閉じた。


ずっと言わないようにしていた言葉だった。


帰りたいと思えば、帰れないことが苦しくなる。

覚えていてほしいと思えば、忘れられたことが苦しくなる。


だから、いらないふりをした。


髪飾りも。

自分のことを覚えている人も。

帰る場所も。

全部。


でも、本当は違う。


「帰りたい」


今度は、さっきより少しだけはっきり言えた。


お母さんに会いたい。

お兄ちゃんに会いたい。

学院へ行きたい。

いつもの道を歩きたい。


カイに会いたい。


明日も、その次の日も。


「……帰りたいよ」


喉の奥が痛い。

泣きたくなかった。


俯いて、ぎゅっと袖を握る。


怖い。


ここにいるのも。

忘れられるのも。

帰ろうとして、また自分の何かがなくなるのも。


全部、怖い。


それでも。


もう、平気なふりをするのは無理だった。


「私……」


声が震える。


消えてしまえばいいなんて、本当は一度も思っていない。


誰にも覚えられなくなって。

最初からいなかったことになって。

いつか自分まで、自分が誰だったのか分からなくなって。


そんなのは嫌だ。


「……消えたくない」


白い世界に、自分の声だけが残った。


「私、消えたくない」


カイには言えなかった。


帰ってほしくないことも。

忘れてほしくないことも。


自分だって、本当は助かりたいことも。


でも今だけは、誰もいないから。


私はもう一度、自分に聞かせるように呟いた。


「……帰りたい」


初めて、それを願ってもいいと思った。

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