第十三話 向こうから、こっちへ
目を覚まして最初に考えたのは、ルナのことだった。
昨日、ようやく会えた。声だけではなく、ちゃんと顔を見て話すことができた。それなのに、俺は一人で戻ってきた。
机の上には、黒い髪飾りが置いてある。ルナがいらないと言って、それでも俺が預かってきたものだ。
『俺は、お前が帰ってきた時に返す』
言ってしまった以上、返す方法を探さなければならない。
ルナは一度、自分で裂け目を越えようとしている。その時に何が起きたのかも聞いた。同じことをもう一度やらせるわけにはいかないし、俺が向こうへ行くのも駄目だ。昨日は戻れた。それが次も同じとは限らない。
だったら、別の方法を探すしかない。
ルナがこちらへ戻れないなら、向こうにあるものをこちらへ戻す方法を。
◇
学院の書庫で、それらしい記録を片っ端から探した。
離れた場所を繋ぐ魔法や、物だけを遠くへ移す術はいくつか見つかった。ただ、どれも術式で指定した場所同士を繋ぐもので、白い場所について書かれたものではない。そもそも、あの場所がどこなのかさえ分かっていない。
何冊目かの本を閉じたところで、窓の外が赤くなっていることに気づいた。
「もうこんな時間か」
結局、分かったことはほとんどなかった。
それでも昨日までとは違う。
ルナはいる。帰れないだけで、消えてしまったわけじゃない。なら、方法がないと決まったわけでもない。
書庫を出て、いつもの道を歩く。
この辺りでは何度もルナの名前を呼んだ。声が聞こえたこともあれば、何も起こらなかったこともある。
名前を呼んだこと。黒い髪飾りを持っていたこと。そして、水の音が聞こえたこと。
どれも裂け目が現れた時にあったものだ。でも、同じことをして何も起こらなかったこともある。
俺が特別な魔法を使ったわけじゃない。裂け目を開くための術式だって知らない。
それでも昨日、俺は向こうへ行けた。
何が違ったんだろう。
考えても答えは出なかった。
◇
部屋へ戻ると、机の上に紙を広げた。
覚えている限りのことを書き出してみる。
ルナの名前。
黒い髪飾り。
水の音。
しばらく眺めてみたが、やっぱり分からない。
「……これだけか」
髪飾りを手に取る。
これはルナのものだ。今は俺が持っているけれど、本来なら向こうにいるルナのそばにあるはずだった。
そこで、ふと思う。
今まで俺は、どうすれば向こうへ行けるのかばかり考えていた。
でも、俺が向こうへ行く必要はない。
帰ってきてほしいのは、ルナの方だ。
俺から向こうへ行くんじゃない。
向こうから、こっちへ。
ぽつん、と水滴の落ちる音がした。
顔を上げる。
聞き間違いじゃない。もう一度、水の音がした。
目の前の空間が白く揺れる。
現れた亀裂は、昨日とは比べものにならないほど小さかった。指一本通るかどうか。それでも向こう側には、見慣れた白い景色がある。
「ルナ?」
返事はなかった。
亀裂はすぐに細くなり始める。
また駄目か。
そう思った時、向こう側で何かが動いた。
白い地面を滑るように小さな何かが近づいてくる。そのまま亀裂へ触れた瞬間、姿が消えた。
カラン。
足元から音がした。
亀裂はもう消えている。
その代わり、床にはさっきまでなかったものが落ちていた。
小さな銀色の留め具だった。
「……何だ、これ」
拾い上げて確かめる。
見覚えはない。どこにでもありそうな留め具だ。
でも、俺は見ていた。
これが白い場所から亀裂を通って、こちら側へ落ちてくるところを。
消えていない。
俺の手の中に、ちゃんと残っている。
ルナが裂け目を越えようとした時とは違う。
向こうにあったものが、こちらへ来た。
「……戻せるかもしれない」
どうして成功したのかは分からない。もう一度できる保証もない。
それでも初めて、帰れないというルナの言葉に違う答えを返せる気がした。
物が戻せるなら、その先があるかもしれない。
いつか、ルナだって。
銀色の留め具を握った、その時だった。
扉が叩かれた。
開けると、大家が立っている。何度も顔を合わせている男だ。
「ああ、すみません」
大家は俺の顔を見るなり、困ったように眉を寄せた。
「どちら様でしたっけ」
「……俺ですけど」
「ええと……」
冗談を言っているようには見えなかった。
大家はしばらく俺の顔を見つめ、やがて思い出したように目を開く。
「ああ、カイ君か。すまない。どうしたんだろうな、急に名前が出てこなくて」
大家は笑っていた。
俺は何も言えなかった。
手の中には、白い場所から来た銀色の留め具がある。
向こうにあったものが、こちらへ来た。
そして、その直後。
俺は一瞬、忘れられた。




