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また、君の名前を呼ぶ  作者: 天城 真空
第Ⅰ部《消えた少女》

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第八話 忘れられた名前

朝起きて、最初に紙を見た。


ルナ・アステリア。

レオン。

その下に、昨日白い場所で会った男の子の名前がある。


「……トーマ」


覚えている。

十歳くらいで、俺が生まれるよりずっと前にあの場所へ来た。母親がまだ生きているか聞いて、『そっか』とだけ言って泣かなかった。


「トーマ」


もう一度、名前を読む。

昨日、裂け目が閉じる直前に聞いて、忘れないように二度繰り返した。だから覚えている。


「……名字」


ペンを持って、止まる。


聞いていない。

名字も、どこに住んでいたのかも、家族の名前も。


「馬鹿だな、俺」


知っているのは、トーマという名前だけ。

それでも昨日までとは違う。


ルナ以外に初めて、世界から忘れられた人間の名前を知った。



その日は朝から町へ出た。

トーマについて調べるためだ。


昨日、あいつは自分が白い場所へ来た年を教えてくれた。正確な日付までは分からないが、ある程度は絞れる。


「トーマ……トーマ……」


古い居住記録をめくる。

当然、同じ名前が何人もいる。農家、商人の息子、職人、すでに亡くなっている老人。


「名字聞いとけよ……」


昨日の自分を殴りたい。


出生記録も学校の記録も、名前だけでは候補が多すぎる。

そもそもトーマがこの町の人間だったとも限らない。


「……無理か」


早くも行き詰まり、積み上げた記録を戻そうとした時、一冊の古い記録簿が目に入った。


孤児保護記録。


別に珍しいものじゃない。

戦争や事故、病気で親を失った子供はいつの時代にもいる。


何となく開いてページをめくる。

そこで、指が止まった。


『保護児童一名』


名前を見る。


トーマ。


「……まさか」


名字はない。年齢は九歳。

保護されたのは、トーマが昨日言った年の一年前だった。


偶然かもしれない。

同じ名前なんていくらでもいる。


続きを読んだ。


『母親と二人暮らし』


「……っ」


父親は数年前に病死。

母親が病に倒れたことで一時的に教会施設へ保護され、母親の回復後に自宅へ戻っている。


その記録が最後だった。

住所も残っている。


「……いた」


思わず立ち上がり、椅子が大きな音を立てた。

近くにいた職員がこっちを見る。


「すみません!」


頭を下げて、もう一度記録を見る。


トーマ。九歳。母親と二人暮らし。

翌年、白い場所へ来た。


可能性はある。

俺は住所を書き写した。



町の北側にある古い住宅街。

記録にあった住所には、小さな仕立屋が建っていた。


扉を開けると、奥から年配の女性が出てくる。


「いらっしゃい」

「すみません、ちょっと聞きたいことがあって」

「服じゃないの?」

「……違います」

「じゃあ何?」


少し警戒された。当然だ。

俺は記録から書き写した紙を見せる。


「昔、ここに住んでいた人について調べてるんです」

「ずいぶん昔ねえ」

「この家って、その頃からあります?」

「建物は違うよ。建て直してるからね」

「そうですか」

「でも土地は同じ。私の祖母の家だったから」


顔を上げる。


「本当ですか? じゃあ、トーマって男の子を知りませんか?」

「トーマ?」

「昔ここに、母親と二人で住んでいたはずなんです」

「母親の名前は?」

「……分かりません」

「名字は?」

「それも」

「それじゃ分からないねえ」

「ですよね」


女性は少し考えてから言った。


「ただ、母親と子供が住んでいたって話なら聞いたことはあるよ」

「本当ですか?」

「祖母からね。私も子供の頃に聞いただけだけど、確か身体の弱い女の人が住んでたって」


記録と合う。


「子供は?」

「さあ。いたような……いや、いなかったかもしれない」

「……え?」

「ごめんね。昔の話だから」


何か残っていないか尋ねると、女性は店の奥へ目を向けた。


「あ。写真はないけど、祖母の古い物ならまだ少し残ってる」

「見せてもらえませんか」

「何でそんなに必死なの?」

「……知り合いを探してるんです」


嘘ではない。


女性はしばらく俺を見てから、「待ってなさい」と奥へ消えた。


戻ってきた女性が床に古い木箱を置く。

中には布や手紙、帳面、小さな道具が入っていた。


一つずつ確認していく。

トーマ。名前でも何でもいい。


「これは?」

「祖母の日記みたいなもの」

「見ても?」

「いいけど、読めるかねえ」


文字はかなり薄れていた。

仕立ての仕事、天気、近所の噂。そんな日々の記録をめくっていく。


『隣のエマがまた寝込んだ』


「エマ」

「祖母の隣人だったんじゃない?」


さらに読む。


『薬を届ける』

『少し顔色が良い』

『今日は――が店まで来た』


「……」


目を近づける。

一部だけ文字が潰れている。


いや、違う。


紙は傷んでいない。

そこだけ、最初から何も書かれていなかったように空いている。


『今日は  が店まで来た』


「何だこれ」

「消えたのかね」

「インクが?」

「古いから」


でも、前後の文字は残っている。


次のページ。


『エマが  を探している』


また空白。


『朝から  の姿が見えない』

『エマが泣いていた』

『昨日から様子がおかしい』


そして――。


『何のことだったか』


「……」


さらにページをめくる。


『エマの家は静かだ』

『あの人はずっと一人暮らしだった』


手が止まった。


「……一人?」


記録にはあった。

母親と二人暮らしの、九歳のトーマ。


でも、この日記では途中からエマはずっと一人暮らしだったことになっている。


四十七年前の馬車事故と同じだ。


最初は何かがおかしい。

誰かを探している。誰かがいた痕跡も残っている。


でも時間が経つほど、その人間が最初からいなかった形へ変わっていく。


「この日記、借りられませんか?」

「それは駄目」

「ですよね」

「でも、写すくらいならいいよ」

「ありがとうございます」


俺は日付も文章も空白も、全部書き写した。


その途中、日記の余白に小さな文字を見つける。


『エマが最近、同じ夢を見ると言う』


「夢?」


続きがある。


『子供の声がするらしい』

『自分には子供などいないのに、と笑っていた』


背中が冷たくなった。


忘れている。

でも、何かが残っている。


さらにその下。


『名前を呼ばれている気がする、と』


息を止めた。


名前。

まただ。


俺は一文字も落とさないように書き写した。



夜。

俺は髪飾りを握り、水の音を待った。


「頼む。繋がってくれ」


何も起きない。

しばらく待ってから名前を呼ぶ。


「トーマ」


何もない。


「レオン」


駄目。


「ルナ」


――ぽちゃん。


「……!」


立ち上がる。


「ルナ・アステリア」


――パキ。


黒い線が浮かんだ。


「やっぱり」


ルナの名前だ。

裂け目が開く。


「レオン!」

「毎回うるせえな」

「いたのかよ!」

「いたら悪いか」

「いや、助かる」

「気持ち悪いな」

「何でだよ」

「素直だから」

「お前どうしろっていうんだよ」


レオンが笑う。


「今日は何だ」

「トーマは?」

「あっち」

「呼んでくれ」

「自分で呼べ」


俺は白の奥へ叫んだ。


「トーマ!」


少しして、小さな影が走ってくる。


「兄ちゃん」

「トーマ。聞きたいことがある」

「なに?」

「お母さんの名前」

「エマ」


鳥肌が立った。


「町の北側に住んでた?」

「うん」

「仕立屋の隣?」

「うん」

「一回、教会に預けられたことある?」

「あるよ」


全部一致する。


「……見つけた」

「何を?」

「お前がいた証拠」


トーマの顔が止まった。


「俺?」

「ああ。九歳のトーマって子供が、教会に一時保護された記録が残ってる。母親と二人暮らしで、その母親が病気だった」

「……母ちゃんは?」


聞かれると思っていた。


「その後までは、まだ分からない」

「そっか」

「でも、お前がいなくなったあと、お母さんはお前を探してた」


トーマが顔を上げる。


「……え?」

「日記に残ってる」


『エマが  を探している』


名前はない。

それでも、あれはたぶんトーマだ。


「母ちゃん、俺のこと覚えてた?」

「……少しの間は」

「少し?」

「その後、忘れたみたいだ」


トーマの顔から表情が消える。


「そっか」

「でも」

「いいよ」

「トーマ」

「分かってたから。ここに来てから、ずっと」


小さな声だった。


「みんなそうだから。母ちゃんも忘れたんだろうなって」


十歳の子供が、そんな言い方をする。


「でもさ」


トーマがこっちを見る。


「探してくれたんだ」

「……ああ」

「俺のこと」

「ああ」


トーマが笑った。

昨日とは違う、嬉しそうな笑顔だった。


でも、目から涙が落ちた。


「あれ」


自分の頬を触る。


「何でだろ。もうずっと前なのに」


俺は何も言えなかった。


「母ちゃん、俺のこと探してくれたんだ」

「ああ」

「そっか」


この子が知りたかったのは、母親が今も生きているかだけじゃなかったんだと思う。


自分がいなくなった時、母親が悲しんだのか。探してくれたのか。

自分は本当に、誰かの子供だったのか。


それを知りたかったんだ。


「……あと、お母さんはお前を忘れた後も、夢を見てたみたいだ」

「夢?」

「子供の声がするって。自分には子供なんていないのにって言ってたらしい」


トーマが目を見開く。


「名前を呼ばれてる気がする、とも」

「……」


トーマは泣きながら、少しだけ笑った。


「母ちゃんだ」

「たぶんな」

「俺、呼んでたのかな」

「分からない」

「そっか」


少し間を置いて、トーマが言う。


「でも、だったらいいな」



トーマが離れたあと、レオンと二人になった。


「余計なことしたか?」

「何が」

「昔のこと調べた」

「本人が喜んでたろ」

「でも、母親がもう……」


言葉を止める。

レオンが白の奥を見ながら言った。


「事実を知るのが正しいとは限らねえ。でも、知らない方が幸せとも限らねえ」

「どっちだよ」

「知らん」

「またそれ」

「本人が決めりゃいい。知りたいかどうかもな」

「……そうだな」


俺は紙を見る。


「なあ、変じゃないか?」

「お前が?」

「殴るぞ」

「優しくな」

「それ昨日お前が言ったやつだろ」


レオンが笑う。


「何が変なんだ」

「記録だよ」


トーマが保護された記録は残っていた。

でも、その後の日記では名前が消えている。


母親は最初、誰かを探していた。

なのに後になると、最初から一人暮らしだったことになっている。


「四十七年前の事故も同じだった。最初は六人だったはずなのに、最後には五人になる」

「……」

「最初から全部綺麗に消えるんじゃない。少しずつ変わってる」


人の記憶だけじゃない。

記録も、日記も、家族の肖像画も、学院や出生記録まで。


書かれたものまで変わっていく。


「まるで、世界が最初からそいつがいなかったことにしようとしてるみたいだ」


レオンは何も言わなかった。


「レオン?」

「……似たようなこと考えた奴はいる」

「誰?」

「ここに長くいる奴らだ」

「じゃあ」

「ただの想像だ」


遮られる。


「証拠はねえ。決めつけんな」

「でも」

「間違った答えを先に信じると、その後に見るもん全部がそう見える」


思ったより強い声だった。


「調べるなら、疑ったまま調べろ」


正しい。悔しいけど。


「分かった」

「素直だな」

「だから何なんだよ」


レオンが笑う。

その時、裂け目が揺れた。


「そろそろ閉じるな」

「レオン」

「何だ」

「お前の記録、調べてほしい?」


レオンの顔が止まった。


「……何で」

「トーマのを調べたから」

「俺はガキじゃねえぞ」

「知ってる。自分が向こうでどうなってるか、気にならないのか?」

「ない」

「一回も?」

「ない」

「絶対?」

「しつけえな」

「よく言われる」


レオンが露骨に嫌そうな顔をする。


「調べなくていい」

「何で?」

「興味ねえ」

「嘘くさい」

「お前な」

「だって七年いるんだろ」


レオンの目が変わった。

また踏み込んだと分かった。でも今回は引かなかった。


「名字もまだ聞いてない」

「必要ねえ」

「俺はカイ・――」

「言わなくていい」

「何でだよ」

「必要ないからだ」


レオンが背を向ける。


「またな」

「おい!」


白が細くなる。


「次は絶対聞くからな!」


遠くから声だけが返ってきた。


「勝手にしろ!」


裂け目が閉じた。



翌日、俺は学院へ向かった。

調べることは決まっている。


トーマでも、ルナでもない。

レオン。


あいつが嫌がるなら、余計に気になる。


「レオン……」


名字は分からない。

七年前に消えたのかもしれないが、白い場所とこちらの時間が同じとも限らない。


戦争、事故、行方不明者、英雄、騎士。

何でもいい。


レオンという名前を探す。


何冊目だったか。

分厚い歴史書をめくっていた指が止まった。


「……え?」


レオン。

ただし、その後に知らない名字が続いている。


レオン・ヴァルグレイヴ。


「ヴァルグレイヴ……」


どこかで聞いたことがある。


ページの見出しを読む。


『北方戦役及び魔王討伐史』


心臓が鳴った。


その下には、一枚の古い肖像がある。

長い年月で色は褪せ、髪型も服装も今とは少し違う。


それでも間違えない。


白い場所で俺と話していた男だ。


「……レオン?」


文章を読む。


『王国歴一二八四年、討伐軍は魔王領最深部へ到達』


指で追う。


『勇者レオン・ヴァルグレイヴ率いる一行は、魔王討伐を試み――』


次の一行で、指が止まった。


「……は?」


もう一度読む。

読み間違いじゃない。


そこには、こう書かれていた。


『討伐に失敗』

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― 新着の感想 ―
トーマの「母ちゃん、俺のこと探してくれたんだ」がすごく切なかったです。 母ちゃん…… 忘れられた後も夢や感覚だけが残っていた、という描写も印象的でした。 さらに最後、ずっと飄々としていたレオンが実は…
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