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また、君の名前を呼ぶ  作者: 天城 真空
第Ⅰ部《消えた少女》

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第七話 追放者

「……ルナ以外にもいるのか?」


返事はない。当然だった。

目の前にあるのは、いつもの壁だ。レオンもルナも、あの白い場所ももう見えない。


それでも俺は、しばらく動けなかった。


『ここにいる奴らは、向こうじゃ死んだことになってるか――最初からいなかったことになってる』


机の上の紙を見る。

何度読んでも、書いてあることは変わらない。俺が忘れないうちに、自分で書いたものだ。


「奴ら……」


一人じゃない。

四十七年前の馬車事故も同じだとしたら、世界から消えた人間は他にもいることになる。


「……何人いるんだよ」


考えても答えは出ない。

俺は新しい紙を一枚出した。


ルナ・アステリア。

レオン。

四十七年前の馬車事故。

白い場所。


そこまで書いて、最後に一行付け足した。


『他にもいる?』



次の日、朝になって最初にしたのはルナのことを確認することだった。


紙を見る。

ルナ・アステリア。

銀色の髪。淡い色の瞳。

甘い紅茶が好き。本を読み始めると周りが見えなくなる。

人混みでは俺の袖をつかみ、いつも半歩後ろを歩く。


「……よし」


まだ覚えている。


声は――。


『カイ』


言葉は浮かぶ。

でも、音がない。


「……くそ」


昨日、確かにルナを見たのに、声は思い出せないままだった。


俺は黒い髪飾りを持ち上げる。


「今日も行けるのか?」


もちろん返事はない。


昨日は寝ていたら水の音がした。その前は、名前を呼んだことで裂け目が開いた。

名前、髪飾り、場所、時間。それとも別の何か。


条件が分からないなら、試すしかない。


その日から、思いつくことを片っ端から試した。



「ルナ」


何も起きない。


「ルナ・アステリア」


髪飾りを握ってみても変化はない。

夜になって同じことをしても駄目だった。


水の音が関係しているかもしれないと思い、机に水を張った器まで置いてみた。


「……何やってんだ、俺」


自分でも馬鹿みたいだと思う。

当然のように何も起きなかった。


次の日は西門へ行った。

最初に裂け目が開いた場所で名前を呼んだが、振り返ったのは通行人だけだった。


中央広場、ルナの家の近く、学院。

思いつく場所を回っても結果は同じだった。


「……なんなんだよ」


繋がる時と、繋がらない時の違いが分からない。

レオンに聞けば何か分かるかもしれないのに、そのレオンに会うためにまず繋がらないといけない。


「面倒くさすぎるだろ……」


ルナなら、『カイがね』くらい言いそうだ。

声は聞こえない。それでも返事だけは簡単に浮かんだ。


少し笑って、すぐに笑えなくなった。



四日目の夜。

俺は机に突っ伏していた。


四十七年前の馬車事故以外にも、行方不明や事故死、失踪、身元不明の記録を調べた。

でも、どれも決め手がない。


人間なんて普通にいなくなる。事故にも遭うし、記録だって間違う。

その全部をルナと同じだと思い始めたら、何でも怪しく見えてしまう。


「……違う」


欲しいのは思い込みじゃない。

ルナだけじゃないと断言できる証拠だ。


疲れて目を閉じる。

ほんの少し休むつもりだった。


ぽちゃん。


目を開ける。


「……」


今、聞こえた。


ぽちゃん。


二度目。

机の上に水なんて置いていない。


「来た」


黒い髪飾りをつかむ。


――パキ。


壁の前に黒い線が浮かんだ。


「ルナ」


線が伸びる。


「ルナ・アステリア」


――パキ。


裂け目が開き、白い場所が現れた。


「ルナ!」


椅子を蹴るように立ち上がり、前に見た方向を探す。

いない。


「ルナ!」


返事はない。


「レオン!」


そっちも返ってこなかった。


白だけが広がっている。

ただ、前より裂け目が大きい。人一人くらいなら通れそうなほどに。


俺は足元を見る。

自分の部屋の床は境界で終わり、その先には白しかない。


『今のお前が何も分からずこっちへ来るのはやめろ』

『お前までいなくなったら、誰が探す』


「……分かってるよ」


行かない。

そのつもりだった。


白の奥で、何かが動くまでは。


「ルナ?」


違う。

小さな人影だ。子供だろうか。


「おい! 聞こえるか!」


反応はない。

そのまま歩いていく影を追って目を凝らすと、さらに奥に別の影が見えた。


「……え?」


今度は大人。

さらにもう一人。


心臓が速くなる。


白の中に、人がいる。


「レオン……」


あいつの言っていたことは本当だった。


もっとよく見ようと裂け目へ近づく。

縁に手を置いても、冷たくも熱くもない。何も触っていないような感触だった。


足を出せば、向こうへ行ける。


『飛び込むな』


分かってる。


でも、このまま見ているだけでルナを連れ戻せるのか。

次はいつ繋がる? 一週間後か、一か月後か。それとも、二度と繋がらなかったら?


片足を上げ――止める。


「馬鹿か、俺」


足を下ろした。

焦って俺まで消えたら終わりだ。


その時。


「お、珍しく言うこと聞いたな」

「うわっ!」


白の横から男が現れた。


「レオン!」

「そんな嬉しそうに呼ぶな。気持ち悪い」

「誰が嬉しそうだよ」

「顔」

「うるさい」


昨日より近い。

今度は姿がはっきり見えた。


俺よりずっと背が高く、鍛えられた身体をしている。赤みのある濃い茶髪は適当に切ったように乱れ、年齢は二十代後半くらいに見えた。


「本当に来たな」

「そっちが?」

「お前がだ」

「俺はまだ部屋にいる」

「細けえな」


レオンが俺の足元を見る。


「入ってこなかったのは正解だ」

「……入ったらどうなる?」

「知らん」

「またそれかよ」

「知らんもんは知らん」

「七年もいるんじゃないのか」


言ってから、レオンが止まった。


「……何で七年って知ってる?」

「え?」


俺も固まる。


言われていない。

なのに、どうして今そんな数字が出た?


「……知らない。今、何となく」

「何となくで俺の滞在年数当てる奴がいるか」

「じゃあ七年なのか?」

「……だいたいな」


気味が悪い。

また、知らないはずのことを知っていた。


「レオン」


今はそれより聞きたいことがある。


「さっき人がいた」

「ああ」

「三人」

「そうか」

「そうかって。本当にいるんだな」

「いるって言っただろ」


レオンが僅かに眉を動かす。


「俺は数に入ってなかったのか?」

「そういう意味じゃない」

「傷つくな」

「絶対傷ついてないだろ」

「よく分かったな」


こいつ、思っていたより面倒くさい。


「見たいか?」

「何を?」

「ここの奴ら」


即答しかけて、止まる。


「……見られるのか?」

「裂け目がそれだけ開いてりゃな」


レオンが歩き出す。


「待てよ。俺、入らないぞ」

「分かってる。そっちが来れないなら、こっちから連れてくりゃいい」

「連れてくる?」


レオンは返事をせず、そのまま白の奥へ歩いていく。


「おい!」

「待ってろ」

「どれくらい?」

「知らん」

「便利だな、その言葉!」


片手を上げたレオンが、白に溶けるように遠ざかっていった。


俺は裂け目の前に座って待った。

白しかないせいか、時間の感覚がおかしくなる。


「……遅い」


どれくらい経ったのか分からない。


「レオン!」


返事はない。


「帰るぞ!」


帰らないけど。


その時、白の奥に影が現れた。


「……来た」


レオンだ。

その後ろにも人影がある。


一人じゃない。

二人、三人――もっといる。


俺は立ち上がった。


最初に見えたのは、十歳くらいの男の子だった。

その後ろに老人、片腕のない男、若い女性。


知らない人間たちが、全員こちらを見ている。


いや。

俺ではなく、その後ろにある部屋を見ていた。


「……本当に」


声が出なかった。


レオンが戻ってくる。


「連れてきたぞ」

「この人たち……」

「こっちにいる奴らだ」


男の子が俺を見て、それから裂け目の向こうにある部屋を見る。


「そこ、外なの?」

「……外?」

「向こう側?」


答えられなかった。


老人が一歩前へ出る。


「今は、何年だ」

「え?」

「向こうは何年だ」


俺が年を答えると、老人の顔が固まった。


「……そんなに」


若い女性が口元を押さえる。

片腕の男は何も言わない。


男の子だけが、俺の部屋を見続けていた。


「母ちゃん」

「……?」

「母ちゃん、まだいるかな」


胸が詰まった。


「いつ、ここに来たんだ?」


男の子が年を答える。


俺が生まれるより、ずっと前だった。


何も言えずにいると、男の子は俺の顔を見て分かったらしい。


「そっか」


それだけ言った。

泣かなかった。


その方がきつかった。


老人が俺に聞く。


「君は、私たちを知っているか?」

「……いえ」

「そうか」

「すみません」

「謝ることではない」


老人は静かに笑った。


「むしろ、それが答えなのだろう」

「答え?」

「私は死んだことになっているらしい」


隣の女性が口を開く。


「私は違う」

「……何が?」

「死んだことにもなってない」


少し笑って続ける。


「最初から、生まれてないことになってるんだって」


何も返せなかった。


レオンが言っていた。

死んだことになっているか、最初からいなかったことになっている。


「どうして……そんなことになるんだ。何したんだよ」

「分からない」


老人が首を横に振る。


「何かあったはずだろ」

「そうかもしれない。だが、分からないのだ。ここへ来た理由も」

「戻る方法も」


女性が続ける。


「誰が決めたのかもな」


片腕の男が言った。


白い場所に沈黙が落ちる。


一人ずつ顔を見る。

みんな普通だった。


化け物でも罪人でも、英雄でもない。

俺やルナと同じ、ただ生きていた人間だ。


「……何人いる?」


レオンを見る。


「知らん」

「大体でいい」

「数えたことねえ」

「なんで」

「増えるからだ」

「……増える?」

「たまにな。気づいたら、知らない奴がいる」


レオンの顔から笑いが消えた。


「今も?」

「今も」

「じゃあ向こうで今も誰かが――」


言葉が止まる。


消されている。

そう言いかけた。


でも、俺たちはまだ何が起きているのか知らない。


ただ一つ分かった。


ルナだけじゃなかった。


「兄ちゃん」


男の子が俺を見る。


「向こうに戻れるの?」

「俺?」

「うん」

「……たぶん」

「いいな」


その言葉が刺さった。


帰る方法を探す。

助ける。

待ってろ。


何か言わなきゃいけない気がした。

でも、言えなかった。


俺はこの子のことを何も知らない。

ここが何なのかも、戻す方法も、自分がまたここへ来られるかすら分からない。


「……ごめん。俺、ルナを探してるんだ」

「ルナ?」

「銀色の髪の女の子」

「ああ」

「知ってるのか!?」


思わず身を乗り出す。


「見たことある」

「どこで?」

「向こう」


男の子が白の奥を指差す。


「一人で歩いてた」

「いつ?」

「分かんない」

「どっち行った?」


男の子が指差す。

その先には白しか見えない。


「レオン」

「駄目だ」

「まだ何も言ってない」

「顔に書いてある」

「追う」

「駄目だ」

「ルナがいたんだぞ!」


身を乗り出した俺を、レオンが裂け目の前で制した。


「お前はまだ向こう側にいる。今ここへ入って、帰れなくなったらどうする」

「でも」

「焦るな」

「焦るだろ!」


声が響き、男の子が驚いて俺を見る。


「(昨日ではないもっと前では…?)まで普通に一緒にいたんだぞ! それが急にいなくなって、みんな忘れて、俺まで忘れ始めてる!」


レオンは黙っている。


「声も思い出せないんだ」


言ってしまった。


「何年も一緒にいたのに、もうどんな声だったか分からない」


次は何だ。

顔か、名前か、それとも一緒にいた記憶か。


「だから急がないと。俺まで忘れたら、終わりなんだよ」


誰も何も言わなかった。


しばらくして、レオンが口を開く。


「分かった」

「じゃあ」

「勘違いすんな。お前があの娘を探すのは止めねえ」


レオンが周りを見た。

男の子、老人、女性、片腕の男。そして俺。


「ここに来ると、みんな同じ顔する」

「同じ顔?」

「自分以外にもこんな奴がいるって知るとな。全部どうにかしなきゃいけない気がしてくる」


図星だった。


ほんの一瞬、思った。

この人たちも帰りたいんじゃないか。俺に何かできるんじゃないか。


「ルナを探しに来たんだろ」

「ああ」

「なら探せ」

「でも、この人たちは」

「今のお前に何ができる」


言葉が出ない。


「戻し方も知らねえ。ここが何かも知らねえ。自分がどうやって繋いでるかすら分からねえ」

「……」

「そんな奴が全員助けるなんて言ったら、俺なら殴る」

「殴るのかよ」

「優しくな」

「絶対嘘だろ」


レオンが笑う。

それから、少し静かな声で続けた。


「今は、あの娘だけ見てろ」

「……いいのか? この人たちを見たのに」


レオンは少し考えてから言った。


「最初から世界全部背負う奴なんざ、ろくな死に方しねえ」


周りにいた何人かがレオンを見る。

老人が小さく笑った。


「お前が言うのか」

「うるせえ爺さん」

「何だよ」

「別に」


レオンは答えなかった。


でも、なぜかその言葉だけが残った。


「……分かった」


俺は白の奥を見る。

ルナがいる。どこかに。


「俺はルナを探す」

「ああ」

「でも、見なかったことにはしない」


一度だけ、目の前の人たちを見る。


「今は何もできないけど、いたことは覚えてる」


誰も答えなかった。

ただ、男の子が少しだけ笑った。


その時。


――パキ。


裂け目が揺れる。


「カイ。今日はここまでだ」


レオンの声を聞きながら、俺は男の子を見る。


「待って。名前、教えて」

「え?」

「覚えとくから」


男の子が目を丸くする。


「何で?」

「覚えときたいから」


そう答えた瞬間、頭の奥に何かが引っかかった。


水の音。

小さな手。

銀色の髪。


『じゃあ俺が覚えとく』


「……っ」

「カイ?」

「大丈夫」


男の子はしばらく俺を見た後、ゆっくりと名前を口にした。


俺は一度繰り返す。

忘れないように、もう一度。


裂け目が閉じ始めた。


最後に見えたのは、何人もの人間だった。

世界から消え、誰にも覚えられていない人たち。


その中に、ルナもいる。


白が消え、いつもの壁に戻る。


俺はすぐ机へ向かった。


ルナ・アステリア。

レオン。

その下に、今日会った男の子の名前を書く。


老人。

若い女性。

片腕の男。

名前を聞けなかった人たちの特徴も残しておく。


最後に、一番下へ書いた。


『ルナだけじゃない』


しばらくその文字を見つめてから、もう一行。


『でも、まずルナを見つける』


ペンを置いた。


白い場所への恐怖が消えたわけじゃない。

ただ、あそこが何もない場所ではないと分かった。


人がいる。

生きている。


そして、そのどこかにルナがいる。

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― 新着の感想 ―
きゃーっ、記憶喪失ものよーっ(鼻血 サクラダリセットのようなテンプレを超えてて、ルナが「明日も私の名前を呼んで」と頼む場面が、後の展開を知るほど切なく感じました! 世界中から存在を忘れられていく中…
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