第七話 追放者
「……ルナ以外にもいるのか?」
返事はない。当然だった。
目の前にあるのは、いつもの壁だ。レオンもルナも、あの白い場所ももう見えない。
それでも俺は、しばらく動けなかった。
『ここにいる奴らは、向こうじゃ死んだことになってるか――最初からいなかったことになってる』
机の上の紙を見る。
何度読んでも、書いてあることは変わらない。俺が忘れないうちに、自分で書いたものだ。
「奴ら……」
一人じゃない。
四十七年前の馬車事故も同じだとしたら、世界から消えた人間は他にもいることになる。
「……何人いるんだよ」
考えても答えは出ない。
俺は新しい紙を一枚出した。
ルナ・アステリア。
レオン。
四十七年前の馬車事故。
白い場所。
そこまで書いて、最後に一行付け足した。
『他にもいる?』
◇
次の日、朝になって最初にしたのはルナのことを確認することだった。
紙を見る。
ルナ・アステリア。
銀色の髪。淡い色の瞳。
甘い紅茶が好き。本を読み始めると周りが見えなくなる。
人混みでは俺の袖をつかみ、いつも半歩後ろを歩く。
「……よし」
まだ覚えている。
声は――。
『カイ』
言葉は浮かぶ。
でも、音がない。
「……くそ」
昨日、確かにルナを見たのに、声は思い出せないままだった。
俺は黒い髪飾りを持ち上げる。
「今日も行けるのか?」
もちろん返事はない。
昨日は寝ていたら水の音がした。その前は、名前を呼んだことで裂け目が開いた。
名前、髪飾り、場所、時間。それとも別の何か。
条件が分からないなら、試すしかない。
その日から、思いつくことを片っ端から試した。
◇
「ルナ」
何も起きない。
「ルナ・アステリア」
髪飾りを握ってみても変化はない。
夜になって同じことをしても駄目だった。
水の音が関係しているかもしれないと思い、机に水を張った器まで置いてみた。
「……何やってんだ、俺」
自分でも馬鹿みたいだと思う。
当然のように何も起きなかった。
次の日は西門へ行った。
最初に裂け目が開いた場所で名前を呼んだが、振り返ったのは通行人だけだった。
中央広場、ルナの家の近く、学院。
思いつく場所を回っても結果は同じだった。
「……なんなんだよ」
繋がる時と、繋がらない時の違いが分からない。
レオンに聞けば何か分かるかもしれないのに、そのレオンに会うためにまず繋がらないといけない。
「面倒くさすぎるだろ……」
ルナなら、『カイがね』くらい言いそうだ。
声は聞こえない。それでも返事だけは簡単に浮かんだ。
少し笑って、すぐに笑えなくなった。
◇
四日目の夜。
俺は机に突っ伏していた。
四十七年前の馬車事故以外にも、行方不明や事故死、失踪、身元不明の記録を調べた。
でも、どれも決め手がない。
人間なんて普通にいなくなる。事故にも遭うし、記録だって間違う。
その全部をルナと同じだと思い始めたら、何でも怪しく見えてしまう。
「……違う」
欲しいのは思い込みじゃない。
ルナだけじゃないと断言できる証拠だ。
疲れて目を閉じる。
ほんの少し休むつもりだった。
ぽちゃん。
目を開ける。
「……」
今、聞こえた。
ぽちゃん。
二度目。
机の上に水なんて置いていない。
「来た」
黒い髪飾りをつかむ。
――パキ。
壁の前に黒い線が浮かんだ。
「ルナ」
線が伸びる。
「ルナ・アステリア」
――パキ。
裂け目が開き、白い場所が現れた。
「ルナ!」
椅子を蹴るように立ち上がり、前に見た方向を探す。
いない。
「ルナ!」
返事はない。
「レオン!」
そっちも返ってこなかった。
白だけが広がっている。
ただ、前より裂け目が大きい。人一人くらいなら通れそうなほどに。
俺は足元を見る。
自分の部屋の床は境界で終わり、その先には白しかない。
『今のお前が何も分からずこっちへ来るのはやめろ』
『お前までいなくなったら、誰が探す』
「……分かってるよ」
行かない。
そのつもりだった。
白の奥で、何かが動くまでは。
「ルナ?」
違う。
小さな人影だ。子供だろうか。
「おい! 聞こえるか!」
反応はない。
そのまま歩いていく影を追って目を凝らすと、さらに奥に別の影が見えた。
「……え?」
今度は大人。
さらにもう一人。
心臓が速くなる。
白の中に、人がいる。
「レオン……」
あいつの言っていたことは本当だった。
もっとよく見ようと裂け目へ近づく。
縁に手を置いても、冷たくも熱くもない。何も触っていないような感触だった。
足を出せば、向こうへ行ける。
『飛び込むな』
分かってる。
でも、このまま見ているだけでルナを連れ戻せるのか。
次はいつ繋がる? 一週間後か、一か月後か。それとも、二度と繋がらなかったら?
片足を上げ――止める。
「馬鹿か、俺」
足を下ろした。
焦って俺まで消えたら終わりだ。
その時。
「お、珍しく言うこと聞いたな」
「うわっ!」
白の横から男が現れた。
「レオン!」
「そんな嬉しそうに呼ぶな。気持ち悪い」
「誰が嬉しそうだよ」
「顔」
「うるさい」
昨日より近い。
今度は姿がはっきり見えた。
俺よりずっと背が高く、鍛えられた身体をしている。赤みのある濃い茶髪は適当に切ったように乱れ、年齢は二十代後半くらいに見えた。
「本当に来たな」
「そっちが?」
「お前がだ」
「俺はまだ部屋にいる」
「細けえな」
レオンが俺の足元を見る。
「入ってこなかったのは正解だ」
「……入ったらどうなる?」
「知らん」
「またそれかよ」
「知らんもんは知らん」
「七年もいるんじゃないのか」
言ってから、レオンが止まった。
「……何で七年って知ってる?」
「え?」
俺も固まる。
言われていない。
なのに、どうして今そんな数字が出た?
「……知らない。今、何となく」
「何となくで俺の滞在年数当てる奴がいるか」
「じゃあ七年なのか?」
「……だいたいな」
気味が悪い。
また、知らないはずのことを知っていた。
「レオン」
今はそれより聞きたいことがある。
「さっき人がいた」
「ああ」
「三人」
「そうか」
「そうかって。本当にいるんだな」
「いるって言っただろ」
レオンが僅かに眉を動かす。
「俺は数に入ってなかったのか?」
「そういう意味じゃない」
「傷つくな」
「絶対傷ついてないだろ」
「よく分かったな」
こいつ、思っていたより面倒くさい。
「見たいか?」
「何を?」
「ここの奴ら」
即答しかけて、止まる。
「……見られるのか?」
「裂け目がそれだけ開いてりゃな」
レオンが歩き出す。
「待てよ。俺、入らないぞ」
「分かってる。そっちが来れないなら、こっちから連れてくりゃいい」
「連れてくる?」
レオンは返事をせず、そのまま白の奥へ歩いていく。
「おい!」
「待ってろ」
「どれくらい?」
「知らん」
「便利だな、その言葉!」
片手を上げたレオンが、白に溶けるように遠ざかっていった。
俺は裂け目の前に座って待った。
白しかないせいか、時間の感覚がおかしくなる。
「……遅い」
どれくらい経ったのか分からない。
「レオン!」
返事はない。
「帰るぞ!」
帰らないけど。
その時、白の奥に影が現れた。
「……来た」
レオンだ。
その後ろにも人影がある。
一人じゃない。
二人、三人――もっといる。
俺は立ち上がった。
最初に見えたのは、十歳くらいの男の子だった。
その後ろに老人、片腕のない男、若い女性。
知らない人間たちが、全員こちらを見ている。
いや。
俺ではなく、その後ろにある部屋を見ていた。
「……本当に」
声が出なかった。
レオンが戻ってくる。
「連れてきたぞ」
「この人たち……」
「こっちにいる奴らだ」
男の子が俺を見て、それから裂け目の向こうにある部屋を見る。
「そこ、外なの?」
「……外?」
「向こう側?」
答えられなかった。
老人が一歩前へ出る。
「今は、何年だ」
「え?」
「向こうは何年だ」
俺が年を答えると、老人の顔が固まった。
「……そんなに」
若い女性が口元を押さえる。
片腕の男は何も言わない。
男の子だけが、俺の部屋を見続けていた。
「母ちゃん」
「……?」
「母ちゃん、まだいるかな」
胸が詰まった。
「いつ、ここに来たんだ?」
男の子が年を答える。
俺が生まれるより、ずっと前だった。
何も言えずにいると、男の子は俺の顔を見て分かったらしい。
「そっか」
それだけ言った。
泣かなかった。
その方がきつかった。
老人が俺に聞く。
「君は、私たちを知っているか?」
「……いえ」
「そうか」
「すみません」
「謝ることではない」
老人は静かに笑った。
「むしろ、それが答えなのだろう」
「答え?」
「私は死んだことになっているらしい」
隣の女性が口を開く。
「私は違う」
「……何が?」
「死んだことにもなってない」
少し笑って続ける。
「最初から、生まれてないことになってるんだって」
何も返せなかった。
レオンが言っていた。
死んだことになっているか、最初からいなかったことになっている。
「どうして……そんなことになるんだ。何したんだよ」
「分からない」
老人が首を横に振る。
「何かあったはずだろ」
「そうかもしれない。だが、分からないのだ。ここへ来た理由も」
「戻る方法も」
女性が続ける。
「誰が決めたのかもな」
片腕の男が言った。
白い場所に沈黙が落ちる。
一人ずつ顔を見る。
みんな普通だった。
化け物でも罪人でも、英雄でもない。
俺やルナと同じ、ただ生きていた人間だ。
「……何人いる?」
レオンを見る。
「知らん」
「大体でいい」
「数えたことねえ」
「なんで」
「増えるからだ」
「……増える?」
「たまにな。気づいたら、知らない奴がいる」
レオンの顔から笑いが消えた。
「今も?」
「今も」
「じゃあ向こうで今も誰かが――」
言葉が止まる。
消されている。
そう言いかけた。
でも、俺たちはまだ何が起きているのか知らない。
ただ一つ分かった。
ルナだけじゃなかった。
「兄ちゃん」
男の子が俺を見る。
「向こうに戻れるの?」
「俺?」
「うん」
「……たぶん」
「いいな」
その言葉が刺さった。
帰る方法を探す。
助ける。
待ってろ。
何か言わなきゃいけない気がした。
でも、言えなかった。
俺はこの子のことを何も知らない。
ここが何なのかも、戻す方法も、自分がまたここへ来られるかすら分からない。
「……ごめん。俺、ルナを探してるんだ」
「ルナ?」
「銀色の髪の女の子」
「ああ」
「知ってるのか!?」
思わず身を乗り出す。
「見たことある」
「どこで?」
「向こう」
男の子が白の奥を指差す。
「一人で歩いてた」
「いつ?」
「分かんない」
「どっち行った?」
男の子が指差す。
その先には白しか見えない。
「レオン」
「駄目だ」
「まだ何も言ってない」
「顔に書いてある」
「追う」
「駄目だ」
「ルナがいたんだぞ!」
身を乗り出した俺を、レオンが裂け目の前で制した。
「お前はまだ向こう側にいる。今ここへ入って、帰れなくなったらどうする」
「でも」
「焦るな」
「焦るだろ!」
声が響き、男の子が驚いて俺を見る。
「(昨日ではないもっと前では…?)まで普通に一緒にいたんだぞ! それが急にいなくなって、みんな忘れて、俺まで忘れ始めてる!」
レオンは黙っている。
「声も思い出せないんだ」
言ってしまった。
「何年も一緒にいたのに、もうどんな声だったか分からない」
次は何だ。
顔か、名前か、それとも一緒にいた記憶か。
「だから急がないと。俺まで忘れたら、終わりなんだよ」
誰も何も言わなかった。
しばらくして、レオンが口を開く。
「分かった」
「じゃあ」
「勘違いすんな。お前があの娘を探すのは止めねえ」
レオンが周りを見た。
男の子、老人、女性、片腕の男。そして俺。
「ここに来ると、みんな同じ顔する」
「同じ顔?」
「自分以外にもこんな奴がいるって知るとな。全部どうにかしなきゃいけない気がしてくる」
図星だった。
ほんの一瞬、思った。
この人たちも帰りたいんじゃないか。俺に何かできるんじゃないか。
「ルナを探しに来たんだろ」
「ああ」
「なら探せ」
「でも、この人たちは」
「今のお前に何ができる」
言葉が出ない。
「戻し方も知らねえ。ここが何かも知らねえ。自分がどうやって繋いでるかすら分からねえ」
「……」
「そんな奴が全員助けるなんて言ったら、俺なら殴る」
「殴るのかよ」
「優しくな」
「絶対嘘だろ」
レオンが笑う。
それから、少し静かな声で続けた。
「今は、あの娘だけ見てろ」
「……いいのか? この人たちを見たのに」
レオンは少し考えてから言った。
「最初から世界全部背負う奴なんざ、ろくな死に方しねえ」
周りにいた何人かがレオンを見る。
老人が小さく笑った。
「お前が言うのか」
「うるせえ爺さん」
「何だよ」
「別に」
レオンは答えなかった。
でも、なぜかその言葉だけが残った。
「……分かった」
俺は白の奥を見る。
ルナがいる。どこかに。
「俺はルナを探す」
「ああ」
「でも、見なかったことにはしない」
一度だけ、目の前の人たちを見る。
「今は何もできないけど、いたことは覚えてる」
誰も答えなかった。
ただ、男の子が少しだけ笑った。
その時。
――パキ。
裂け目が揺れる。
「カイ。今日はここまでだ」
レオンの声を聞きながら、俺は男の子を見る。
「待って。名前、教えて」
「え?」
「覚えとくから」
男の子が目を丸くする。
「何で?」
「覚えときたいから」
そう答えた瞬間、頭の奥に何かが引っかかった。
水の音。
小さな手。
銀色の髪。
『じゃあ俺が覚えとく』
「……っ」
「カイ?」
「大丈夫」
男の子はしばらく俺を見た後、ゆっくりと名前を口にした。
俺は一度繰り返す。
忘れないように、もう一度。
裂け目が閉じ始めた。
最後に見えたのは、何人もの人間だった。
世界から消え、誰にも覚えられていない人たち。
その中に、ルナもいる。
白が消え、いつもの壁に戻る。
俺はすぐ机へ向かった。
ルナ・アステリア。
レオン。
その下に、今日会った男の子の名前を書く。
老人。
若い女性。
片腕の男。
名前を聞けなかった人たちの特徴も残しておく。
最後に、一番下へ書いた。
『ルナだけじゃない』
しばらくその文字を見つめてから、もう一行。
『でも、まずルナを見つける』
ペンを置いた。
白い場所への恐怖が消えたわけじゃない。
ただ、あそこが何もない場所ではないと分かった。
人がいる。
生きている。
そして、そのどこかにルナがいる。




