第六話 忘れられた勇者
「こっちの人間じゃないな」
低い男の声が、白い場所を越えて届いた。
遠くにいるはずなのに、妙に近い。
「……こっち?」
男は答えず、じっと俺を見ている。
ルナより手前に立っているはずなのに顔まではよく見えない。白い空間は距離そのものがおかしく、近いと思った次の瞬間には遠く見える。
「何の話だよ」
俺が聞くと、男の頭が僅かに傾いた。
「そこだ」
「そこ?」
「お前の後ろ」
振り返る。
黒い裂け目の向こうには、自分の部屋がある。机もベッドも窓も、何も変わらない。
「俺の部屋だけど」
「……部屋?」
男の声が変わった。
さっきまでの警戒ではなく、驚いている。
「お前、向こうが見えてるのか」
「見えてるも何も、俺はそこにいるんだけど」
男が黙った。
「何だよ」
「いや。本当に向こう側から繋いでやがるのかと思ってな」
「だから、何の話なんだよ」
「それを俺が聞きたい」
話が噛み合わない。
こっちは聞きたいことが山ほどあるのに、向こうも俺を見て訳が分からないらしい。
「お前、誰なんだ」
「先に一つ聞く。どうやってここへ繋いだ」
「知らない」
「知らない?」
「名前呼んだ。それと、これ」
黒い髪飾りを見せると、男が目を細めたように見えた。
「髪飾り?」
「ああ」
「それだけか?」
「だから俺も分かんねえって」
昨日は同じことをしても何も起きなかった。
今夜だって、ここへ来ようとしていたわけじゃない。寝ていたら水の音がして、気づけばまた裂け目が現れた。
「名前は?」
「俺の?」
「違う。その髪飾りの持ち主だ」
俺は遠くにいる銀色の影を見る。
ルナはまだそこにいて、こっちを見ている。
「ルナ・アステリア」
名前を口にした瞬間、白い空間が僅かに揺れた。
男も気づいたらしく、周囲を見る。
「……またか」
「何?」
「いや」
「知ってるのか?」
男は答えない。
俺は裂け目へ一歩近づいた。
「ルナって女の子を知らないか」
男の視線が、俺から遠くのルナへ動いた。
少しだけ間があった。
こいつなら何か知っているかもしれない。
ルナと同じ白い場所にいる。何が起きているのか知っているかもしれない。
でも。
「知らん」
「……は?」
「知らない」
「いや、待てよ。今そこにいるだろ」
「見えてはいる」
「だったら」
「見えてる奴を全部知り合いだと思うのか?」
確かにそうだ。
街ですれ違う人間全員を知っているわけじゃない。
「でも、お前もここにいるんだろ?」
「ああ」
「ルナもいる。なら何か分かるだろ」
「随分雑な理屈だな」
「こっちは必死なんだよ」
思ったより強い声が出た。
男が黙る。
「昨日まで普通にいたんだ。家族もいた。学院にも通ってた。俺とずっと一緒だった。それが朝になったら誰も覚えてない。母親までだぞ。記録も全部消えてる」
男の反応が変わった。
「……記録も?」
「ああ」
「名前は」
「ない」
「家族の記憶は」
「ない」
「持ち物は?」
「ほとんど消えた。これだけ残った」
髪飾りを握る。
男はしばらく何も言わなかった。
さっきまでより警戒が薄れている。
代わりに、諦めに似た何かが浮かんだように見えた。
「……そうか」
「何がそうかだよ」
「その娘もか」
「その娘も?」
聞き返すと、男は目を閉じた。
「やっぱり何か知ってるんだろ」
「少しだけだ」
「教えてくれ」
「嫌だと言ったら?」
「何回でも聞く」
男が小さく息を吐いた。
「面倒な奴だな」
「よく言われる」
主に一人に。
そう思って遠くのルナを見る。
あいつならたぶん、『自覚あったんだ』くらい言う。
声はもう思い出せないのに、返事だけは妙に簡単に浮かんだ。
胸の奥が少し痛くなる。
「……まあいい」
男が言った。
「全部知ってるわけじゃない。それでもいいなら話す」
「十分だ」
「まず、お前が今見てる場所だが」
男は足元を見る。
そこには白しかない。
「俺にも何なのか分からん」
「……おい」
「最後まで聞け」
「はい」
反射的に返事をすると、男が少しだけ笑った気がした。
「随分素直だな」
「うるさい」
「分かってるのは、ここに来た奴には共通点があるってことくらいだ」
俺は黙って聞く。
「ここにいる奴らはな」
男の声が少し低くなる。
「だいたい、向こうじゃ死んだことになってるか――」
少し間が空いた。
男の視線が、俺の後ろにある部屋へ向く。
「最初からいなかったことになってる」
言葉の意味を理解するまで、少しかかった。
「……最初から?」
ルナの母親は言った。
『うちに娘はいないわよ』
学院にも名前がなかった。
出生記録も、居住記録も。
最初からいなかったことになっていた。
そして四十七年前の事故。
一人多かったはずの人数。後になるほど揃っていった証言。
『昨日まで、もう一人いたと言っていた』
「待てよ」
喉が乾く。
「じゃあ、ルナだけじゃないのか?」
男は答えなかった。
「他にも同じように消えた人間がいる?」
沈黙。
でも、さっき確かに言った。
ここにいる奴ら。
一人じゃない。
「お前も……そうなのか?」
俺が聞くと、男の表情が消えた。
明らかに踏み込んではいけないところへ触れたと分かった。
「俺の話はいい」
「同じ場所にいるなら関係あるだろ」
「ねえよ」
「ある」
男が露骨に嫌そうな顔をした。
「……しつこいな、お前」
「よく言われる」
少しだけ空気が変わった。
怖い奴だと思っていたし、まだ信用していいかも分からない。
でも少なくとも、今すぐ俺をどうにかしようとしているようには見えなかった。
「名前くらい教えてくれ」
「何でだ」
「呼べないだろ」
「呼ぶ必要あるか?」
「あるかもしれない」
「何に」
「知らん」
男が黙った。
「……お前、考えてから喋る気ないだろ」
「考えてるよ」
「その結果がそれなら余計にひでえな」
ルナとは違う種類の言われ方なのに、少し懐かしかった。
男はしばらく俺を見た後、諦めたように口を開く。
「レオン」
「レオン?」
「ああ」
「それだけ?」
「今はそれでいい」
「俺はカイ」
「聞いてない」
「そっちだけ名乗らせるのも変だろ」
レオンが僅かに眉を動かした。
「カイ、ね」
名前を確かめるように口にした、その瞬間だった。
――パキ。
「……!」
黒い裂け目が揺れ、白い世界が大きく歪む。
遠くにいるルナの姿が霞んだ。
「ルナ!」
咄嗟に手を伸ばす。
「待て」
レオンの声が飛ぶ。
「今は動くな」
「でも消える!」
「裂け目が閉じるだけだ」
「また会えるか分からないんだぞ!」
「だからって飛び込むな」
「何でだよ!」
レオンの声が鋭くなった。
「帰れなくなってもいいのか」
足が止まる。
「……帰れなくなる?」
「ああ」
「ルナは?」
レオンは答えない。
「ルナは帰れないのか?」
「知らん」
「さっきからそればっかりだな!」
「知らねえことを知ってるふりするよりマシだろうが」
言い返せなかった。
レオンは遠くのルナを見る。
「少なくとも、今のお前が何も分からずこっちへ来るのはやめろ」
「でも」
「探してんだろ、あの娘を」
「……ああ」
「ならなおさらだ」
レオンが俺を見る。
「お前までいなくなったら、誰が探す」
同じことを、さっき俺も考えていた。
だから足を止めた。ルナに『来るな』と言われたから。
俺まで消えたら、ルナを探す人間がいなくなる。
「……分かった」
悔しいけど、今は従うしかない。
「ルナ!」
遠くの銀色の影へ叫ぶ。
「俺、また来るから! 絶対また来る!」
聞こえているかは分からない。
ルナが何か言う。やっぱり声は届かない。
でも、ほんの少しだけ。
あいつが笑ったように見えた。
胸が詰まる。
次の瞬間、白い空間が大きく揺れた。
「カイ」
「レオン! 次も会えるか?」
「知らん」
「そこは何とかしろよ」
「無茶言うな」
「ルナを見かけたら」
「だから知らねえ女だって」
「今見ただろ」
レオンが一瞬黙った。
「……何を伝えりゃいい」
伝えたいことはいくらでもある。
帰ってこい。何が起きたのか教えろ。一人で勝手に決めるな。忘れろなんて言うな。
でも、最後に出たのは一つだった。
「俺はまだ覚えてるって」
レオンが俺を見る。
「それだけ?」
「ああ」
「分かった」
白が遠ざかる。
ルナの姿も薄くなっていく。
「あと!」
「まだあるのか」
「次会ったら、もっと教えてくれ!」
「何を」
「ここが何なのか!」
「だから俺も知らんって言っただろ」
「知ってる範囲でいい!」
レオンが何か言った。
最後の部分だけ聞こえた。
「……面倒くせえ奴」
裂け目が閉じる。
◇
音が戻ってきた。
夜の風。遠くを走る馬車。自分の呼吸。
俺は部屋の真ん中に立っていた。
目の前には壁があり、黒い裂け目はもうない。
「……レオン」
声に出してみる。
返事はない。当然だ。
俺は慌てて机へ向かい、忘れる前に紙へ書き始めた。
レオン。
男。白い場所にいる。
俺より年上。
口が悪い。でも話は聞いてくれた。
ここにいる人間について少し知っている。
そして。
『ここにいる奴らは、向こうじゃ死んだことになってるか――最初からいなかったことになってる』
そこまで書いて、ペンが止まった。
四十七年前の事故について書いた紙を隣に置く。
一人だけ合わない人数。少しずつ変わる証言。最後には綺麗に揃った記録。
ルナは、母親からも学院からも町からも消えた。
白い場所。
レオン。
そして、レオンが言った。
ここにいる奴ら。
「……奴ら」
複数だ。
ルナだけじゃない。
四十七年前の誰かだけでもない。
もしレオンの言っていることが本当なら、今あの白い場所には、世界から忘れられた人間が他にもいる。
「……ルナ以外にもいるのか?」
自分の声だけが、静かな部屋に残った。




