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また、君の名前を呼ぶ  作者: 天城 真空
第Ⅰ部《消えた少女》

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第五話 白い場所

『昨日まで、もう一人いたと言っていた』


家に帰ってからも、その一文が頭から離れなかった。

四十七年前の馬車事故では人数が食い違い、『あの子を助けて』と叫んでいた女性も、後にはその子が誰なのか分からなくなっていた。

そして、前日までは「もう一人いた」と話していた誰か。


偶然や記録の間違い、事故の混乱とも考えられる。

少し前の俺なら、それで終わっていたと思う。でも今は違う。


「ルナだけじゃない……?」


もし四十七年前にも同じことが起きていたとしたら。

誰かが世界から消え、周りの人間がその人を忘れた。最初だけ残っていた矛盾も、時間が経つにつれて消えていった。


だとしたら、ルナのこともいつか――。


「……」


机の上の紙を見る。

ルナ・アステリア。

銀色の髪。淡い瞳。甘い紅茶が好きで、本が好き。人混みでは袖をつかみ、いつも半歩後ろを歩く。


今日も消えていない。俺はまだ読めるし、意味も分かる。

黒い髪飾りも、机の端に置いてある。


大丈夫。そう思いたかった。

でも昨日、俺はルナの声を思い出せなかった。何年も聞いてきたはずなのに。


「……急がないとな」


四十七年前の事故について、明日もう少し調べる。

事故現場や生き残った人間、その後の記録を追えば、何か分かるかもしれない。


それと、白い場所。

昨日は名前を呼んでも繋がらなかったが、黒い髪飾りは一度だけ反応した。

まだ何かある。俺が知らない条件が。


「ルナ」


試しに名前を呼んでみる。

何も起こらない。


「……そうだよな」


今日はもう寝よう。朝からずっと古い記録を読んでいたせいで目が痛い。

俺は紙を折り畳んで枕元へ置き、髪飾りもその隣に並べた。何かあれば、すぐ分かるように。


ベッドへ横になって目を閉じると、浮かんできたのは四十七年前の事故ではなく、夕暮れの坂道だった。

銀色の髪を揺らしながら、半歩後ろを歩くルナ。


『……明日も私の名前を呼んで』


「呼んでるよ」


小さく呟いてから、もう一言付け足す。


「全然出てこないけどな」


返事はなかった。

そのまま、いつの間にか眠っていた。



水の音がした。


ぽちゃん。


目を開けると、辺りは暗かった。

最初は自分の部屋だと思った。天井も窓も机も、いつもと変わらずそこにある。


ただ、何かがおかしい。


ぽちゃん。


また水の音がして、俺は身体を起こした。


「……?」


部屋のどこにも水はない。窓の外を見ても雨は降っていない。

それなのに、もう一度。


ぽちゃん。


今度は、さっきより近かった。


「またか」


あの音だ。

小さな銀髪の女の子と、幼い俺を見た時にも聞こえた。


俺は枕元へ手を伸ばし、黒い髪飾りがあることを確かめる。

触れた瞬間――。


――パキ。


「……!」


髪飾りじゃない。部屋のどこかから聞こえた。

俺は立ち上がり、辺りを見回す。


「ルナ?」


――パキ。


今度は、はっきり見えた。

扉の横の空中に、細い黒い線が浮かんでいる。


「……来た」


昨日、何度呼んでも現れなかったものだ。

俺は髪飾りを握り締める。


「ルナ!」


黒い線が縦に伸びていく。

まるで何かに切り裂かれているように、ゆっくりと。


――パキ。


裂け目が開いた。

向こう側に広がっていたのは、何もない白。


あの場所だ。


「……」


胸が跳ねた。本当に繋がった。

でも、前とは違う。


あの時は裂け目の向こうを見ていただけだった。

今は扉一枚隔てた先に白い場所があるように見える。手を伸ばせば届きそうなほど近い。


「ルナ!」


白の奥へ目を凝らす。

どこまで続いているのか分からない。地面があるようにも、空中に白だけが広がっているようにも見えて、距離感がおかしくなる。


その時、何かが動いた。


「……!」


遠くに、小さな銀色の影が見える。


「ルナ?」


影が止まった。

俺は裂け目へ近づき、目を凝らす。


銀色の髪。

遠すぎて顔までは見えない。それでも間違えるはずがない。


ルナだ。


「聞こえるか!」


向こうへ手を伸ばすと、ルナがこちらを向いたように見えた。

走り出したい。今すぐあそこまで行きたい。


けれど、裂け目の先へ足を出そうとした瞬間、あの日の言葉が蘇った。


『来ちゃ駄目、カイ!』


足が止まる。


「……くそ」


何が駄目なのかも、何から逃げろと言っていたのかも聞けなかった。

それでも今ここで俺まで消えたら、ルナを探す人間がいなくなる。


「ルナ! こっち来れないのか!」


ルナが何か言っているように見える。

耳を澄ませても、何も聞こえない。


「もう一回!」


もう一度ルナの口が動く。

やっぱり音は届かない。まるで分厚い壁越しに見ているみたいだった。


「聞こえない!」


ルナが少しだけこちらへ近づいた。

そこでようやく、その表情が見えた。


泣いている。


「なんで泣いてんだよ」


笑えと言いたかった。

こんな時くらい、いつもの顔をしていろと。


でも、ルナは首を横に振る。

また何かを言っているのに、声は聞こえない。


俺は髪飾りを強く握った。

もっと繋がれ。昨日みたいに、せめて声くらい聞かせろ。


「ルナ・アステリア!」


その瞬間、白い場所が大きく揺れた。


「うわっ」


景色が歪み、ルナの姿が一瞬消える。

すぐに戻ったが、さっきより遠い。


「待て!」


一歩前へ出ると、ルナが激しく首を横に振った。


来るな。

たぶん、そう言っている。


「分かってるよ!」


本当は何も分かっていない。

それでも今は、従うしかない。


「じゃあせめて教えろ! ここはどこなんだ!」

返事はない。

「なんでお前はそこにいる!」

ルナが何か言う。でも聞こえない。

「なんでみんなお前を忘れた!」


白が揺れる。

それでも俺は続けた。


「四十七年前にも、同じことがあったのか!」


その瞬間、ルナの動きが止まった。


「……え?」


今までとは違う反応だった。


「知ってるのか?」


ルナの顔に驚きが浮かんだように見える。


「ルナ?」


その時、白い空間のどこかで、ぽちゃん、と水の音がした。


ルナが俺ではない何かを見る。

その視線を追ったが、何もない。


いや。


白の中、ルナから離れた場所に黒い点がある。

さっきまではなかった。


人影。


「誰だ……?」


ルナではない。

もっと背が高い。遠すぎてはっきりしないが、たぶん男だ。


「ルナ!」


ルナが振り返る。

明らかに焦っている。何かを叫んでいるが、やはり聞こえない。


その向こうで、男の影がゆっくりとこちらへ動き始めた。

一歩、また一歩と近づいてくる。


「おい」


俺は裂け目の前から離れなかった。


「誰だよ」


聞こえるはずがない。

ルナの声すら届かないのだから。


なのに、男が止まった。


距離はまだ遠く、顔も見えない。

それでも、こっちを見ている。なぜかそう分かった。


ぞくりとする。


ルナも男を見ている。

そして再び、俺に向かって何かを叫んだ。


来るな。逃げろ。

たぶん、またそれだ。


「なんなんだよ……」


男が再び歩き出す。

近づくにつれて、大きな体つきが見えてきた。やはり男で間違いない。


ただ、その歩き方が妙だった。

俺を警戒しているようにも見える。


いや、違う。


驚いている?


男が立ち止まった。

まだルナよりずっと手前だが、俺はその姿を確かめようと目を凝らす。


「お前、ルナを知ってるのか?」


返事はない。

当然だ。


「聞こえてるなら答えてくれ!」


男の頭が僅かに動いた。


「……?」


聞こえてる?


その時、初めて白い場所から声が届いた。


ルナの声じゃない。

低い男の声だった。


ひどく遠いはずなのに、耳元で言われたみたいにはっきり聞こえる。


「お前――」


息が止まった。

男が俺を見ている。


「こっちの人間じゃないな」

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