第四話 忘れた人
翌朝、目を覚まして最初に確認したのは、枕元に置いた紙だった。
ルナ・アステリア。
銀色の髪。淡い瞳。甘い紅茶。本が好き。
考え事をすると髪を触る。怒るほど声が小さくなる。
人混みでは袖をつかむ。いつも半歩後ろ。
「……よし」
全部分かる。少なくとも、書いてあることは。
それが本当に自分の記憶なのか、それとも紙を読んだから知っているだけなのか。
そんなことまで考えて、やめた。朝から気分が悪くなる。
昨夜、ルナについて覚えていることをできるだけ書き足した。
好きな食べ物。苦手だった授業。よく読んでいた本。歩く速さ。紅茶に入れる砂糖の数。くだらないことまで全部だ。
その中に、『パンは端から食べる』という一文がある。
「……何だよ、これ」
自分で書いたのに少し笑った。
でも、消す気にはならなかった。
昨日、俺はルナの声を思い出せなかった。
次に何が消えるのかなんて、考えたくもない。
紙を折り畳んで鞄へ入れる。黒い髪飾りもある。
昨夜、あの坂道で何度名前を呼んでも裂け目は開かなかった。だったら、同じことを繰り返していても仕方がない。
調べる。
ルナに何が起きたのか分からないなら、過去に同じようなことがなかったか探せばいい。
一人の人間が突然いなくなり、周囲の人間がその人を忘れ、記録まで変わる。そんな出来事が過去にもあったなら、何か残っているかもしれない。
◇
学院の書庫には、朝からほとんど人がいなかった。
授業のために本を借りる生徒はいるが、古い記録を好き好んで読む奴は少ない。俺も昨日までなら、その一人だった。
受付にいた司書へ声をかける。
「すみません」
「何かな」
「昔、この辺で起きた事故とか失踪を調べたいんですけど」
「年代は?」
「分かりません」
「場所は?」
「それも」
司書が眼鏡の奥から俺を見る。
「ずいぶん曖昧だね」
「ですよね」
自分でもそう思う。
「では、何を探している?」
答えに困った。
『世界から人間が一人消えた事件です』なんて言ったところで、昨日のアベルと同じ顔をされるだけだ。
「……変な失踪です」
「変な?」
「急にいなくなったとか、周りの話が食い違ってるとか」
「事件記録を読みたいなら、地方史の棚だな。古い新聞類は保存状態が悪いから、扱いには気をつけてくれ」
「ありがとうございます」
教えられた棚へ向かった。
地方史、事故記録、古い町報、行方不明者の記録。思っていた以上に量がある。
「これ全部か……」
一冊目を開いた時点で、今日中に終わらないことだけは分かった。
◇
最初の一時間は、ほとんど何も見つからなかった。
山道で遭難した商人、川に流された子供、旅に出たまま戻らなかった男、家出した娘。失踪と書かれていても、理由が分かっているものがほとんどだった。
ルナとは違う。
ルナは、いなくなったんじゃない。
いなかったことになった。
そこが決定的に違う。
二時間ほど経った頃には、目が痛くなってきた。
「……これ、探し方間違ってないか?」
そもそもルナと同じことが起きていたとして、その記録が残るのか。
ルナの記録は消えた。だったら過去の誰かも同じように消えていた場合、その人物について書かれた記録そのものが残っていないはずだ。
「じゃあ見つけようがないじゃん」
思わず本に向かって文句を言った。
近くにいた生徒がこっちを見る。俺は何事もなかったようにページをめくった。
探す対象を変える。
消えた人間そのものじゃない。その周りだ。
ルナが消えた後も、俺は残っている。
だったら過去にも、本人ではなく周囲に何か変なものが残っているかもしれない。
記録の間違い。証言の食い違い。理由の分からない文章。
そういうものを探す。
さらに何冊か読んだところで、一つの事件が目に留まった。
今から四十七年前。
北街道で起きた馬車の転落事故。
雨で崩れた道から乗合馬車が谷へ落ちたらしい。
死者四名。負傷者三名。事故そのものは珍しくなく、最初は読み飛ばしかけた。
でも、添えられていた証言に違和感があった。
御者の証言。
『乗客は六名だった』
生存した商人の証言。
『自分を含め、乗客は五名だった』
「……ん?」
もう一度読む。
御者は六名。商人は五名。
単なる数え間違いかもしれない。事故の直後だ。混乱していたとしてもおかしくない。
次の証言を見る。
近くを通りかかった農夫。
『救助された三名を確認した。谷底には四名いた』
三人と四人で七人。
御者を含めれば、乗客六名なら人数は合う。
「じゃあ六人でいいんじゃ……」
しかし、その下にある事故後の公式記録にはこう書かれていた。
御者一名。
乗客五名。
計六名。
死者四名。
負傷者二名。
「……合わない」
証言では負傷者三名。
公式記録では二名。
誰か一人多い。
俺は姿勢を正し、同じ事故について書かれた町報を探した。
『北街道にて馬車転落。六名が乗車。四名死亡、二名負傷』
こっちは公式記録と同じで六人。
でも、最初の救助記録では七人いる。
「書き間違いか?」
十分あり得る。四十七年前の事故だ。
それだけなら、何も不思議じゃない。
ただ、もう一つ証言が残っていた。
事故現場近くに住んでいた女性への聞き取り。
『あの子は助かったのですか』
その下に、聞き手の質問がある。
『あの子とは誰か』
『分からない』
「……は?」
俺は顔を近づけた。
読み間違いじゃない。
『事故の夜、あなたは「あの子を助けて」と繰り返していたと記録されている』
『そう言われても、私には覚えがない』
背中に嫌なものが走った。
『事故現場で子供を見たのか』
『分からない』
『自分が発言したこと自体を覚えていないのか』
『覚えていない』
そこで証言は終わっている。
「なんだよ、これ……」
事故の混乱や記憶違いで説明できなくはない。
でも、俺は別の証言を探した。
御者。
事故から三日後。
『乗客は六名だった』
事故から二週間後。
『乗客は五名だったと思う』
「……変わってる」
最初は六人と言っていたのに、後には五人。
救助記録でも人数が一人多く、事故の夜に『あの子を助けて』と叫んでいた女性は、その子が誰なのか分からない。
心臓が速くなっていく。
似ている。
同じだとは言えない。
ルナの時みたいに記録そのものが消えているわけでもない。
でも、誰か一人を中心に話が噛み合っていない。
俺はさらにページをめくった。
事故の翌月に作成された最終報告書。
乗客五名。御者一名。死者四名。生存者二名。
最初からそうだったように、綺麗に数字が揃っている。
その後の記録にも矛盾はない。
まるで時間が経つにつれて、食い違っていたものが一つの話にまとまっていったように見えた。
「…………」
考えすぎだ。
古い記録なんて間違いがある。証言だって変わる。人間の記憶なんて曖昧だ。
それでも、俺は知ってしまった。
昨日まで確かにいた人間を、誰も覚えていないということが本当に起こる。
だから、この記録をただの間違いとして閉じることができなかった。
「……誰を忘れたんだ?」
呟いた瞬間、自分の言葉にぞっとした。
忘れた。
俺は今、そう言った。
行方不明でも、記録ミスでもなく。
忘れた。
鞄から紙を取り出す。
一番上に書かれた名前。
ルナ・アステリア。
読める。知っている。まだ、俺の中にいる。
黒い髪飾りにも触れた。そこにある。
「まさか……」
視線を古い記録へ戻す。
四十七年前。
もし、あの事故に本当はもう一人いたとしたら。
そして、その人間をみんなが忘れたのだとしたら。
ルナだけじゃない。
その考えが浮かんだ瞬間、嬉しいのか怖いのか分からなくなった。
ルナだけに起きた異常じゃないなら、手掛かりがあるかもしれない。何か方法が見つかるかもしれない。
でも、四十七年前にも同じことが起きていたのなら、それは今まで誰にも知られないまま繰り返されてきたことになる。
「……ルナだけじゃない?」
口にした言葉は、静かな書庫に消えた。
俺は事故記録を見つめる。
その時、一枚の紙がページの間から床へ落ちた。
「……?」
拾い上げる。
事故当時の聞き取り記録らしい。端が破れ、文字もかなり薄くなっている。
内容のほとんどは、さっき読んだものと同じだった。
ただ、一番下に短い追記がある。
『証言者一名、翌日の再聴取を拒否』
その横に理由が書かれていた。
『該当事故について、これ以上話すことはない』
そして、その下。
別の筆跡で一行だけ。
『昨日まで、もう一人いたと言っていた』
俺は動けなかった。
昨日まで。
その言葉を、俺は知っている。
誰よりも。
紙を持つ手に、じわりと汗が滲んだ。




