第三話 呼んでも、届かない
昨日と同じ坂道に着いた頃には、空が少し赤くなり始めていた。
西門から中央広場へ続く道は、人の流れも荷馬車の音も昨日と変わらない。
違うのは、俺の隣にルナがいないことくらいだ。
「……隣じゃなかったな」
あいつが歩くのは、いつも半歩後ろだった。一歩だと遠いくせに、隣は近いらしい。
昨日までなら面倒くさいとしか思わなかったのに、今日はその半歩分の空白がやけに広く感じる。
俺はポケットから黒い髪飾りを取り出した。
今朝、一瞬だけ白く光った。見間違いじゃないと思いたい。
昨日、裂け目が現れた辺りまで歩く。
石畳には何の跡も残っていないが、ここに空中を裂くような黒い線が浮かび、その向こうに白い場所とルナがいた。
「ルナ・アステリア」
髪飾りを握って名前を呼ぶ。待ってみても、何も起きない。
「ルナ」
もう一度呼んでも同じだった。
「……今朝、光っただろ」
髪飾りに文句を言っても仕方がない。それでも、誰かに言いたくなった。
場所も髪飾りも昨日と同じで、時間もたぶん近い。名前だって間違えていない。それでも裂け目は現れなかった。
何かが足りない。
昨日は朝からルナを探し回り、最後にこの場所へ来た。その途中に何か条件があったのか、それとも順番そのものに意味があるのか。
「……まさかな」
全部やり直す気にはなれない。そもそもパン屋の親父にもう一度「ルナを知ってるか」なんて聞いたら、本格的に心配されそうだ。
他に何があった。
昨日、俺は何を考えていた?
『明日も私の名前を呼んで』
あの言葉が浮かぶ。
「約束……?」
名前を呼ぶことではなく、あの時の約束そのものに意味があるのかもしれない。
けれど考えれば考えるほど分からない。そもそも魔法なのかどうかすら知らない。
「ルナなら何か知ってるんだろうけどな」
そのルナに会う方法を探しているんだから、我ながらひどい話だ。
まだ夕刻には少し早い。
昨日と同じ時間になれば何か変わるかもしれないと思い、俺はしばらく人の流れを眺めることにした。
ルナとここを歩いたのは一昨日だ。
消えたのが昨日だから、まだ二日しか経っていない。それなのに、ずいぶん昔の出来事みたいに感じる。
俺はポケットから、今朝書いた紙を取り出した。
ルナ・アステリア。
銀色の髪。淡い瞳。
甘い紅茶と本が好き。
考え事をすると髪を触り、怒るほど声が小さくなる。
人混みでは袖をつかんで、いつも半歩後ろを歩く。
全部読める。まだ消えていない。
「……大丈夫」
小さく息を吐いたところで、ふと思う。
ルナの声は?
昨日、白い場所で何度も俺の名前を呼んでいた。何を言われたのかも覚えている。
なのに、どんな声だった?
「…………」
目を閉じて、『カイ』と呼ぶルナを思い浮かべる。
できない。
言葉は分かる。呼ばれた記憶もある。
でも、そこに音だけがなかった。
「……待て」
もう一度思い出そうとする。
高いとか低いとか、柔らかいとか、そんな曖昧なものさえ浮かんでこない。
昨日だ。
たった昨日、ルナは裂け目の向こうで叫んでいた。
『来ちゃ駄目、カイ!』
『私のことを忘れて!』
何を言ったかは覚えている。なのに、その声だけがない。
「……嘘だろ」
紙を見る。声については何も書いていなかった。
俺は知っていたはずだ。
何年も聞いてきた声だ。名前を呼ばれただけで振り返れたし、人混みの中でも聞き分けられた。
それなのに今は、説明する言葉すら見つからない。
「思い出せ」
夕暮れの坂道。銀色の髪。半歩後ろを歩くルナ。
そこまでは浮かぶのに、『カイ』と呼ぶ声だけが聞こえない。
「……ルナ」
聞こえたのは、自分の声だけだった。
背中が冷たくなる。昨日より進んでいる。俺は、ルナを忘れ始めている。
髪の長さ。名字。そして今度は声。
このまま進めば、好きだったものや仕草、顔まで消えるのか。それとも最後には――ルナという名前さえ。
「ふざけんなよ」
紙を握る手に力が入った。
勝手に消えて、忘れろと言って。
でも、ルナは望んで消えたわけじゃないのかもしれない。
白い場所で泣きながら、俺に来るなと言った。忘れてくれとも言った。
そして――。
『今度こそ』
あの一言だけは、今も引っかかっている。
ルナは何かを知っている。俺を巻き込みたくないのかもしれない。
だったら、なおさらだ。
「ちゃんと説明しろよ」
髪飾りを握る。
「ルナ・アステリア」
何も起きない。
「聞こえてるなら返事しろ。俺、もうお前の声思い出せないんだぞ」
口にした瞬間、胸が痛くなった。
認めたくなかった。でも、本当だった。
戻ってこい。助けてくれ。
どれも少し違う気がして、気づけば別の言葉が口から出ていた。
「もう一回、教えてくれよ」
風が吹く。
銀色の髪なんて、どこにもない。
それでも一瞬だけ、水の音がした気がした。
「……?」
顔を上げる。
噴水は遠く、近くに川もない。耳を澄ませても、もう何も聞こえなかった。
代わりに蘇ったのは、昨日見た記憶だった。
泣いていた小さな女の子と、その手を握っていた幼い俺。
『カイも忘れるかもしれない』
『じゃあ、忘れたら――』
『――もう一回教えて』
同じ言葉だ。
偶然、俺が口にしただけなのか。それとも何か意味があるのか。
分からない。ただ、胸の奥が妙にざわついた。
やがて、街に夕刻を告げる鐘が鳴った。
昨日と同じ時間だ。
俺は立ち上がり、髪飾りを握る。
「ルナ・アステリア」
鐘の音が響く中、名前を呼ぶ。何も起きない。
「ルナ!」
もう一度呼んでも、裂け目は現れなかった。白い光もない。
やがて鐘が鳴り終わり、街は何事もなかったように夕方を迎える。
「……駄目か」
力が抜けた。
昨日の出来事は、同じ条件を揃えれば起こるようなものじゃないらしい。
名前を呼べば会えるわけでも、髪飾りさえあれば繋がるわけでもない。それでも、今朝こいつが光ったのは確かだ。
「じゃあ、何が足りないんだよ」
答えは返ってこなかった。
辺りは少しずつ暗くなっている。このままここにいても仕方がない。
明日は魔法や古い記録、それに存在そのものが消えたような話が過去になかったかを調べてみよう。
何でもいい。
できることからやるしかない。
紙をポケットへ戻そうとして、手が止まった。
もう一度、書かれた内容を見る。
ルナ・アステリア。
銀色の髪。淡い瞳。
甘い紅茶と本が好き。
考え事をすると髪を触り、怒るほど声が小さくなる。
人混みでは袖をつかんで、いつも半歩後ろを歩く。
「…………」
何か足りない。
さっきまで、もう一つ覚えていたような気がする。でも、それが何だったのか分からない。
「……まあ、いいか」
そう呟いて――凍りついた。
今、何を忘れた?
思い出せない。
思い出せないから、何を忘れたのかさえ分からない。
「……駄目だ」
紙を握りしめる。
帰ったら、もっと書こう。
どんなくだらないことでもいい。覚えていることを全部残す。
明日消えても、その次の日にまた書けばいい。
俺が覚えている限り、何度でも。
「ルナ」
最後に一度だけ名前を呼んだ。返事はない。
俺は諦めて坂道を下り始めた。
十歩ほど歩いたところで、何か聞こえた気がして足を止める。
振り返っても、誰もいない。
「……気のせいか」
しばらく待ってみたが、もう何も聞こえなかった。
俺は前を向き、そのまま歩き出す。
その背後。
石畳に落ちた俺の影の端を、ほんの一瞬だけ白い線が走った。
俺は気づかなかった。




