第二話 残されたもの
目を覚まして、最初に確かめたのは右手だった。
指を開くと、黒い髪飾りがある。
「……よかった」
口にしてから、何がよかったんだと思った。
ルナが戻ってきたわけでも、昨日の出来事がなかったことになったわけでもない。ただ、これだけは消えずに残っていた。
俺は身体を起こし、髪飾りを机の上に置く。
朝の光の下で見ると、本当に何の変哲もない。黒を基調とした簡素な作りで、高価な宝石がついているわけでもなかった。
「なんで、お前だけ残ってるんだ?」
当然、返事はない。
指先で触れると、ひやりとした金属の感触が返ってきた。
昨日、この髪飾りを握ってルナの名前を呼んだ。
すると空中に黒い裂け目が現れ、その向こうにルナがいた。そして最後には、意味の分からない言葉が頭の中に響いた。
《照合》
《未登録接続個体を確認》
《存在情報を照合》
《不整合》
《対象――カイ》
思い返しても意味が分からない。夢だったと言われた方が、まだ納得できる。
「……だったら、これは何なんだよ」
髪飾りをつまみ上げる。
夢の中から物を持ち帰れるなんて話は聞いたことがない。そもそも、こいつは昨日の朝から俺の引き出しにあった。ルナに関する他のものが全部消えた後も、これだけは残っていた。
ルナが俺の部屋に忘れていったもの。
そこで、ふと手が止まった。
いつだ?
ルナがこれを忘れていったのは。
会話なら覚えている。
『これ忘れてるぞ』
『置いといて』
『取りに来いよ』
『今度』
『いつだよ』
『今度は今度』
あいつらしい返事だった。
だから覚えている。
なのに、その前後がない。
いつの出来事だったのか、何をしていたのか、ルナが部屋のどこにいたのか。思い出そうとすると、そこだけ霧がかかったようにぼやける。
「……疲れてんのかな」
昨日は一日中走り回り、最後には訳の分からないものまで見た。頭が混乱していてもおかしくない。
そういうことにしておきたかった。
念のため、ルナの顔を思い浮かべる。
銀色の髪に、淡い色の瞳。大抵は何を考えているのか分からない顔をしていて、笑っても口元がほんの少し緩むだけ。
大丈夫だ。覚えている。
「髪は……腰くらい」
昨日は一瞬だけ分からなくなったが、今日はすぐに出てきた。
甘い紅茶が好きで、本を読み始めると周りが見えなくなる。考え事をすると髪の先を弄り、人混みでは俺の袖をつかむ。
そこまで思い出して、今度は嫌いなものを考えてみた。
「…………」
出てこない。
何かあった気はする。
でも食べ物だったのか、場所だったのか。それすら分からなかった。
「いや、普通だろ」
誰かの好き嫌いを全部覚えている方がおかしい。アベルの嫌いな食べ物だって知らない。
そう考えれば何でもないはずなのに、昨日までなら気にも留めなかった小さな空白が、今日は妙に怖かった。
もし、忘れているだけだとしたら。
ルナが世界から消えて、それで終わりじゃないとしたら。
『私のことを忘れて』
昨日の言葉が、急に違って聞こえた。
「……まさか」
俺も、少しずつルナを忘れている?
「いや」
椅子を引いて机に向かい、紙とペンを取り出した。
何かしていないと落ち着かなかった。
まず名前を書く。
ルナ。
その次で、ペン先が止まった。
「…………」
一秒。
たぶん、それくらいだった。
「アステリア」
思い出した瞬間、背中に冷たい汗が滲んだ。
「ルナ・アステリア」
声に出しながら書く。
間違っていない。何度も呼んできた、見慣れた名前だ。
それなのに今、ほんの一瞬だけ出てこなかった。
俺はその下にもう一度書く。
ルナ・アステリア。
さらにもう一度書いたところで、さすがに手を止めた。
「……何やってんだ、俺」
笑ってみたが、全然おかしくなかった。
そのまま、覚えていることを書き出していく。
銀色の髪。淡い瞳。
甘い紅茶と本が好き。
考え事をすると髪を触り、怒るほど声が小さくなる。
人混みでは袖をつかんで、いつも半歩後ろを歩く。
『一歩だと遠いから』
『じゃあ隣歩けよ』
『それは近い』
思い出すと、少しだけ笑えた。
「面倒くさい奴」
いつもなら『カイにだけは言われたくない』と返ってくる。
もちろん、今は何も聞こえない。
これで少しは安心できると思った。
忘れそうなら、書いて残しておけばいい。
でも、目の前の紙を見ているうちに別の不安が浮かんだ。
「……これも消えるんじゃないか?」
学院や町の記録からルナは消え、肖像画からもいなくなった。
俺が今書いた紙だけは大丈夫だなんて保証はない。
紙を掴んで確かめる。
ルナ・アステリア。
名前はまだ残っている。
それでも安心できなかった。
今あることと、明日もあることは別だ。
もっと嫌な考えが浮かぶ。
紙が残っても、俺が名前を見て何も感じなくなったら?
黒い髪飾りを見ても、誰の物か分からなくなったら?
そうなれば、自分が何を忘れたのかすら分からない。
「……それは、駄目だ」
世界中の誰もルナを知らない。
だったら少なくとも、俺だけは覚えていなきゃいけない。俺まで忘れたら、その先は考えたくなかった。
「忘れるな、カイ」
自分に言い聞かせる。
ルナはいた。
昨日まで、俺の隣――じゃないな。
「半歩後ろか」
こんな時なのに訂正してしまった。
あいつが聞いたら、たぶん呆れる。
でも、そんなくだらないことまで覚えていたかった。
紙を折り畳んでポケットに入れたところで、昨日見たもう一つのものを思い出す。
水の音。
泣いている銀髪の女の子と、その小さな手を握っていた幼い俺。
『カイも忘れるかもしれない』
『じゃあ、忘れたら――もう一回教えて』
「……あれ、いつなんだよ」
記憶なのかどうかさえ分からない。
けれど、白い場所であれを見た俺に、ルナは確かに言った。
『思い出したの……?』
あいつは知っていた。俺の知らない何かを。
そして、もう一つ。
『今度こそ、私のことを忘れて』
今度こそ。
まるで前にも同じことがあったみたいじゃないか。
「……次に会ったら、全部聞くからな」
問題は、その次があるかどうかだった。
俺は机の上の髪飾りを手に取る。
「ルナ・アステリア」
呼んでみても何も起きない。
もう一度名前を呼んだが、静かな部屋に俺の声が残るだけだった。
昨日と同じことをすれば、また会えると思っていた。
でも、昨日と今では場所も時間も違う。
もしかしたら髪飾りではなく、あの坂道そのものに何かあるのかもしれない。
なら、もう一度行けばいい。
それで駄目なら別の方法を探す。魔法に詳しい人間に聞いたり、古い記録を調べたりすれば、似たような出来事が見つかるかもしれない。
何をすれば正解なのかは分からない。
でも、何もしないよりはましだ。
「待ってろって言っちゃったしな」
昨日、ルナに言った。
絶対に見つけると。
世界中から消えた人間をどうやって見つけるのか、その時の俺は何も考えていなかった。
今も大して変わらない。
それでも、諦めるという選択肢だけはなかった。
出かける準備をしようと、髪飾りを机へ戻す。
――パキ。
動きが止まった。
「……今の」
振り返っても、机の上には黒い髪飾りがあるだけだった。近づいて手に取る。
「ルナ?」
返事はない。
気のせいだったかと思った、その時。
髪飾りの縁を白い光が走った。
「……っ」
ほんの一瞬だった。
すぐに消え、髪飾りは元の黒に戻る。
見間違いとは思えなかった。
「ルナ」
強く握っても変化はない。
「ルナ・アステリア」
やはり何も起きなかった。
それでも、今の白い光には見覚えがある。
俺は髪飾りを握ったまま立ち上がった。
「行ってみるか」
昨日、ルナと別れた場所へ。
そこに何もなければ、その時また考えればいい。
ポケットには、ルナのことを書いた紙。
手には、世界から消えなかった髪飾り。
扉へ向かい、ふと足を止めて部屋を振り返る。
机の上には何もない。
当たり前だ。
それでも昨日までは、ここにルナの何かがもっとあったような気がする。
何があったのかは、もう思い出せない。
俺は扉を開けた。
「……急がないとな」
忘れてからじゃ、遅い。




