第二十一話 帰還
翌日の夕方、俺は亀裂が開く前から西門近くの坂にいた。
準備はできている。
昨日使った術式を、人間にも使えるように組み直した。といっても、ガルドの身体に直接印を刻むわけじゃない。対になる二枚の金属片を用意し、片方を俺が、もう片方をガルドが持つ。
問題は、向こうからこちらへ越える時にも繋がりが残るかどうかだ。それだけは、試してみなければ分からない。
やがて空間が揺らぎ、細い亀裂から白い光が広がった。向こうにはルナとセレス、それからガルドがいる。
「来たな」
ガルドは昨日と変わらない顔をしていた。
「本当にやるのか?」
「そのために来た」
即答だった。
「準備は?」
セレスに聞かれ、俺は金属片を掲げる。
「できてる」
向こう側でガルドも同じものを持っている。二枚の印へ魔力を通すと、俺の手元が淡く光り、一拍遅れてガルドの持つ印も光った。
繋がっている。
「まず確認する。境界に入って少しでもおかしいと思ったら戻れ」
「どんなのが、おかしいんだ?」
「自分の名前が分からなくなるとか、身体の感覚がおかしくなるとか」
「ずいぶん曖昧だな」
「分かってることが少ないんだよ」
「正直でいい」
ガルドは笑ったが、こっちは笑えなかった。
「ガルド」
ルナも不安そうに彼を見る。
「無理だと思ったら、すぐ戻って」
「ああ」
セレスが亀裂の近くへ立つ。
「私がこちらで見るわ。何か変化があれば止める」
「頼む」
ガルドが亀裂の前へ進んだ。
昨日は物だった。
今日は人間だ。
「行くぞ」
ガルドが右足を境界へ踏み入れる。足首まで白い光に沈んだが、印の反応は残っている。
「どうだ?」
「何ともない」
さらに進み、膝まで入っても異変はない。
「名前は?」
「ガルド」
「右足は?」
「ある」
「俺が誰か分かるか?」
「昨日から質問の多いガキ」
思わず息が漏れた。
「大丈夫そうだな」
「最初からそう言ってる」
ガルドはそのまま身体を進め、腰まで境界を越えた。昨日、探索印の反応が消えたのはこの辺りだ。
俺は手元の印へ魔力を流す。淡い光が灯り、向こう側の印も応えた。
まだ繋がっている。
「ガルド」
ルナに呼ばれ、ガルドが振り返る。
「何だ?」
「……忘れないで」
「何を?」
「自分の名前」
ガルドは一瞬だけ黙り、それから笑った。
「昨日、あいつにも言ったよ。忘れるなって。お前も覚えとけ」
ルナが小さく頷く。
ガルドは前を向き、残った身体を境界へ進めた。
「次で全部越える」
俺の声に頷き、最後の一歩を踏み出す。
白い光が胸を越え、肩を越え――ガルドの姿が消えた。
「ガルド!」
反射的に名前を呼びながら手元の印を見る。
光っている。
繋がりは切れていない。
次の瞬間、亀裂のこちら側から人影が飛び出し、石畳へ倒れ込んだ。
「ガルド!」
駆け寄ると、片腕の男が咳き込んだ。
「おい、分かるか?」
「……うるせえ」
「名前は?」
「着いて最初にそれかよ」
「いいから答えろ」
「ガルドだ」
胸の奥に詰まっていたものが、一気に抜けた。
「俺が誰か分かるか?」
「カイ」
「身体は?」
「片腕がない以外はな」
いつもの調子だった。
「……帰ってきた」
自分で言ったのに、すぐには意味が追いつかなかった。
ガルドはゆっくり身体を起こすと、俺の後ろに広がる夕暮れの町を見た。
荷馬車が道を走り、遠くから誰かの話し声が聞こえる。家々の窓には灯りがつき始め、どこかから焼いた肉の匂いが流れてきた。
俺にとっては、毎日見ている何でもない景色だ。
ガルドは何も言わずに町を眺めていた。
「……どうした?」
返事はない。
やがて風が吹くと、ガルドは目を閉じた。
「風だ」
「え?」
「ちゃんと、風が吹いてる」
それだけ言って、男は笑った。
白い世界には、風がなかった。
俺は亀裂を振り返る。向こうでルナが口元を押さえていた。
「ルナ! 戻った! ガルド、戻れたぞ!」
声が少し裏返った。
ルナは何も言わず、ただ笑った。隣のセレスも、いつもの余裕のある笑みを消してガルドを見ている。
「カイ」
ルナが俺を呼ぶ。
「うん」
「帰れるんだね」
その一言に、胸が詰まった。
まだ分からないことは山ほどある。ガルドにこのあと何が起きるかも、同じ方法で誰もが帰れるのかも分からない。
それでも今、目の前には世界から消えた人間が一人、確かに立っている。
「ああ。帰れる」
ルナが笑う。
その顔を見て、初めて思えた。
戻せるかもしれない、じゃない。
ルナを戻せる。
ここにいる人たちを、戻せるかもしれない。
亀裂が細くなり始める。
「また明日」
「ああ。また明日」
白い光が閉じた。
ガルドはまだ町を見ていた。
「行くか」
「どこへ?」
「とりあえず宿だ。腹減ってるんだろ?」
「……ああ。死ぬほど減ってる」
ガルドが笑い、俺たちは坂を下りた。
その途中で学院の前を通りかかり、俺は足を止める。
確認しておきたいことがあった。
◇
書庫はまだ開いていた。
受付に顔を出すと、いつもの司書が俺を見る。
「どうしました?」
「ちょっと確認したいんですけど、俺が借りてる本の記録って見られますか?」
「ええ。少し待ってください」
以前にも確認した時は、貸出記録にも学院の出席記録にも俺の名前は残っていた。
司書が帳簿を開いて指で文字を追っていくと、途中でその手が止まった。
「……おかしいですね」
「何がです?」
「この本、貸出中になっているんですが」
示されたのは、俺が今も部屋に置いている魔術書だった。
「借りた人の名前がありません」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
帳簿を覗き込む。返却日は空欄で、本の題名も残っている。
ただ、その隣にある借りた人間の名前を書く欄だけが、空白になっていた。
そこには確かに――
俺の名前があったはずだった。




