第十八話 消えたもの
次の日も、半分だけ亀裂に沈んだ小石のことが頭から離れなかった。
小石は、境界に半分まで沈んでも向こう側へ戻すことができた。けれど、以前同じように右手を入れたルナには、そのあと一瞬だけ記憶の異変が起きている。
そして俺は、向こうから物を戻すたびに、こちら側で何かがおかしくなった。大家が俺を忘れたこと。学院から来た人が、届け先を思い出せなくなったこと。
全部が繋がっているのかは分からない。ただ、物を動かすことだけ考えていても駄目な気がした。
◇
夕方、いつもの場所で亀裂を開くと、ルナとセレスが待っていた。
「今日は何もしないからな」
顔を見るなり言うと、ルナが少しだけ目を細める。
「まだ何も言ってない」
「言いそうだったから」
「昨日もそれ言ってた」
「どっちが?」
「カイ」
セレスが笑う。
「似た者同士ね」
「どこがだよ」
「そういうところ」
ルナは否定しなかった。
「それで、今日は何をするつもり?」
「聞きたいことがある」
俺は昨日の小石を思い出す。
「ルナの右手が消えた時と、昨日の小石は似てた。でも、小石には何も起きなかった」
「石が何かを忘れたかどうかは分からないけど」
「そういう話じゃない」
楽しそうに笑うセレスを無視する。
「向こうから物を戻した時は、こっちで異変が起きた。逆にルナが境界へ入った時は、ルナ自身に異変が起きた。白い場所で、似たようなことを見た奴が他にもいないか知りたい」
セレスは少し考える。
「心当たりは?」
「私はない」
俺にも一人しか思い浮かばなかった。
「レオンは?」
ルナが顔を上げる。
「聞いてみる?」
「あいつ、今どこにいるんだ?」
「分からない。でも、この辺りには時々来る」
セレスが首を傾げる。
「レオン?」
「ここに長くいる人。本人は七年くらいって言ってた」
セレスの目が止まった。
「七年?」
「何かおかしいか?」
「いいえ。長いと思っただけ」
そう言ったわりに、さっきまでの笑みはなかった。
「呼べば来るかな」
ルナが白い世界の奥を見る。
「名前を呼んで来るような奴か?」
「カイよりは素直かも」
「俺だって呼ばれたら来るぞ」
「百七十三回も呼ぶ前なら?」
「まだ覚えてるのかよ」
「忘れない」
さらっと返され、言葉に詰まる。
その時だった。
「うるせえな」
白い世界の奥から声がした。見覚えのある男が歩いてくる。
「呼ばれてねえのに人の名前連呼しやがって」
レオンだった。
「ちょうどよかった」
「俺はよくねえよ」
レオンは亀裂の前まで来ると、俺たちを見る。
「そっちの女は?」
「セレスよ」
「それだけか?」
「名前を聞いたでしょう?」
どこかで聞いたやり取りだった。
レオンは面倒そうに頭を掻く。
「で、何の用だ」
「聞きたいことがある」
俺はこれまでに起きたことを簡単に話した。銀色の留め具と白い欠片をこちらへ戻したこと。そのあと、俺の周りで記憶に関わる異変が起きたこと。そして昨日、小石を境界で止めたこと。
「それで、あんたに聞きたい。境界に触れた物が、途中で見えなくなったことはないか?」
レオンは少し考える。
「……似たようなのなら見たことがある」
「本当か?」
「ああ。ずっと前だがな」
レオンが亀裂へ目を向ける。
「誰かが置いてた物が裂け目に触れた。半分くらい見えなくなったが、引き戻したら元に戻った」
「昨日の小石と同じだ」
ルナが呟く。
「その時、誰かが何かを忘れたりしなかったか?」
「知らねえ。少なくとも俺は何ともなかった」
レオンはそこで言葉を切った。
「ただな」
「何だよ」
「物じゃなく、人が境界に触れたことならある」
ルナが自分の右手を見る。
「その人はどうなったの?」
レオンはすぐには答えなかった。
「戻ったよ。こっちにな」
「じゃあ、ルナと同じか」
「最後まで聞け」
レオンの声が低くなる。
「戻ってきたあと、そいつは自分の名前を思い出せなくなってた」
言葉が止まった。
「名前を?」
「ああ。しばらくしたら思い出したがな」
セレスの笑みが消えていた。
「どのくらい?」
「知らねえよ。昔の話だ」
レオンは俺を見る。
「お前がやってることと同じかは知らん。俺が見たのはそれだけだ」
亀裂が少しずつ細くなり始める。
「カイ」
ルナが俺を見る。
「今日は何もしないって言った」
「分かってるよ」
今ここで試すつもりはない。
ルナは境界に触れ、自分に手があったことを忘れた。そしてレオンが見た人間は、自分の名前を一時的に忘れた。
次に確かめるべきなのは、どうやって人を戻すかじゃない。
境界を越えようとした時、人から何が失われるのか。
まずは、それを知らなければならない。




