第十九話 失うもの
名前を忘れる。
自分の名前を、一時的に。
レオンから聞いた話が、次の日になっても頭に残っていた。
ルナは境界に触れたあと、自分に右手があったことを忘れた。
レオンが見た人間は、自分の名前を忘れた。
どちらも失ったわけではない。あとから元に戻っている。
消えたんじゃない。一時的に、自分で分からなくなった。
だとしたら――境界で失われるものは、本当に記憶なんだろうか。
学院の書庫を調べても、それらしい記録は見つからなかった。
代わりに思い出したのは、初等魔法で使う探索印だった。
印をつけた物の位置を、魔力で感じ取るための簡単な術だ。
記憶を調べることはできない。
でも、境界の向こうにある物を、こちら側から「見つけられるか」なら確かめられる。
◇
夕方、亀裂を開く。
向こうにはルナとセレスがいた。
「今日は人では試さないからな」
「その言い方、嫌」
「俺も今そう思った」
セレスが笑う。
俺は探索印について説明した。
「物を境界に入れて、こちら側から感知できるか調べる」
「越えさせるの?」
「いや。半分だけ」
ルナは不安そうだったが、それ以上は何も言わなかった。
その時だった。
「カイ!」
白い世界の奥からトーマが走ってくる。
「トーマ?」
「レオンが、また来てるって言ってたから」
俺はふと思い、尋ねた。
「トーマ。境界に触ったことあるか?」
「ないよ。レオンに止められた」
「やっぱりか」
昨日聞いた話を簡単に説明する。
境界に触れた人間が、一時的に自分の名前を忘れたこと。
トーマは少し黙ってから言った。
「じゃあ、外に出たら何か忘れちゃうの?」
「まだ分からない」
「ルナも?」
「私は、右手のことが分からなくなった」
トーマがルナを見る。
「怖かった?」
「怖かったよ」
ルナは短く答えた。
トーマは亀裂の向こうを見る。
俺の後ろには、夕暮れの町がある。石造りの建物と、人の行き交う道。
「でも俺、帰れるなら帰りたい」
思わずトーマを見る。
「何か忘れるかもしれなくても?」
「それは嫌だけど」
少しだけ俯く。
「ずっとここにいるのも嫌だよ」
その声は静かだった。
「母ちゃんには、もう会えないかもしれないんだよね」
「……ああ」
「それでも、一回くらい帰りたい」
トーマがいたのは、俺が生まれるよりずっと前だ。
帰ったところで、昔の生活は戻らない。
それでも帰りたい。
「ルナも?」
トーマが聞く。
ルナは一瞬だけ俺を見た。
「帰りたいよ」
胸の奥が少し痛んだ。
白い場所にいるのは、ルナだけじゃない。
知っていた。
レオンも、トーマも、他の人たちも見てきた。
それでも、境界を調べる理由の中心にいたのは、ずっとルナだった。
「……帰りたいのは、ルナだけじゃないんだな」
セレスが俺を見る。
「今さら?」
「分かってたよ」
「分かっているのと、実感するのは違うわ」
言い返せなかった。
「それで、どうするの?」
俺は持ってきた白い欠片を見る。
「失わずに越える方法を探す」
まずは、そのために境界を知る。
欠片には探索印を刻んである。
細い紐を結び、亀裂へ近づけた。
魔力を流す。反応はある。
「入れるぞ」
先端を白い光へ差し込む。変化はない。
さらに進めると、三分の一ほど入ったところで探索印の感覚が弱くなった。
「……何だ?」
もう少し進める。
欠片の半分が境界へ入った、その瞬間、反応が消えた。
「カイ?」
欠片は目の前にある。紐も繋がっているし、俺自身の目にも見えている。
なのに、探索印ではどこにもない。
「戻して」
ルナの声に、すぐ紐を引く。
欠片がこちら側へ戻った瞬間、反応も戻った。
誰も喋らなかった。
俺は手の中の欠片を見る。
壊れていない。探索印も残っている。
「見えてるのに……見つけられない」
ルナが呟く。
その言葉に引っかかった。
見えているのに、見つけられない。
俺はルナを見る。
世界から消えたルナも、本当はここにいる。
なのに、こちら側では誰も彼女を見つけられない。
「境界の向こうに行ったものは、消えるんじゃないのかもしれない」
セレスがすぐに言う。
「探索印だけが遮られた可能性もあるわ」
「分かってる」
まだ仮説だ。
でも、一つだけ確かなことがある。
「完全に越えなくても変化が起きる」
少なくとも探索印では、境界へ入った時点で見失い始める。
なら。
「……見失わなければ?」
ルナが俺を見る。
「境界を越えても、こちら側との繋がりを残せたら」
探索印では駄目だった。
でも、何か別の方法なら。
セレスが小さく笑う。
「次に調べることは決まったみたいね」
俺は頷いた。
境界の向こうへ行っても、繋がりを切らない方法。
それが見つかれば、人を戻す方法に、ようやく手が届くかもしれない。
トーマが俺を見る。
「俺も帰れる?」
「まだ分からない」
約束はできない。
「でも、調べる」
トーマは少しだけ笑った。
「うん」
亀裂が細くなっていく。
「カイ」
ルナが俺を呼ぶ。
「無茶しないで」
「ああ」
亀裂が閉じる直前、ルナが言った。
「また明日」
一瞬だけ、あの日の夕暮れが浮かぶ。
「また明日、ルナ」
「うん。また明日、カイ」
亀裂が閉じた。
手の中には、白い欠片が残っている。
失わずに越える。
そのために必要なのは、境界の向こうへ行っても――
こちら側との繋がりを、切らないことなのかもしれない。




