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また、君の名前を呼ぶ  作者: 天城 真空
第Ⅱ部《忘れられた人々》

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第十九話 失うもの

名前を忘れる。

自分の名前を、一時的に。


レオンから聞いた話が、次の日になっても頭に残っていた。


ルナは境界に触れたあと、自分に右手があったことを忘れた。

レオンが見た人間は、自分の名前を忘れた。


どちらも失ったわけではない。あとから元に戻っている。

消えたんじゃない。一時的に、自分で分からなくなった。


だとしたら――境界で失われるものは、本当に記憶なんだろうか。


学院の書庫を調べても、それらしい記録は見つからなかった。

代わりに思い出したのは、初等魔法で使う探索印だった。


印をつけた物の位置を、魔力で感じ取るための簡単な術だ。


記憶を調べることはできない。

でも、境界の向こうにある物を、こちら側から「見つけられるか」なら確かめられる。



夕方、亀裂を開く。

向こうにはルナとセレスがいた。


「今日は人では試さないからな」

「その言い方、嫌」

「俺も今そう思った」


セレスが笑う。


俺は探索印について説明した。


「物を境界に入れて、こちら側から感知できるか調べる」

「越えさせるの?」

「いや。半分だけ」


ルナは不安そうだったが、それ以上は何も言わなかった。


その時だった。


「カイ!」


白い世界の奥からトーマが走ってくる。


「トーマ?」

「レオンが、また来てるって言ってたから」


俺はふと思い、尋ねた。


「トーマ。境界に触ったことあるか?」

「ないよ。レオンに止められた」

「やっぱりか」


昨日聞いた話を簡単に説明する。

境界に触れた人間が、一時的に自分の名前を忘れたこと。


トーマは少し黙ってから言った。


「じゃあ、外に出たら何か忘れちゃうの?」

「まだ分からない」

「ルナも?」

「私は、右手のことが分からなくなった」


トーマがルナを見る。


「怖かった?」

「怖かったよ」


ルナは短く答えた。


トーマは亀裂の向こうを見る。

俺の後ろには、夕暮れの町がある。石造りの建物と、人の行き交う道。


「でも俺、帰れるなら帰りたい」


思わずトーマを見る。


「何か忘れるかもしれなくても?」

「それは嫌だけど」


少しだけ俯く。


「ずっとここにいるのも嫌だよ」


その声は静かだった。


「母ちゃんには、もう会えないかもしれないんだよね」

「……ああ」

「それでも、一回くらい帰りたい」


トーマがいたのは、俺が生まれるよりずっと前だ。

帰ったところで、昔の生活は戻らない。


それでも帰りたい。


「ルナも?」


トーマが聞く。

ルナは一瞬だけ俺を見た。


「帰りたいよ」


胸の奥が少し痛んだ。


白い場所にいるのは、ルナだけじゃない。


知っていた。

レオンも、トーマも、他の人たちも見てきた。


それでも、境界を調べる理由の中心にいたのは、ずっとルナだった。


「……帰りたいのは、ルナだけじゃないんだな」


セレスが俺を見る。


「今さら?」

「分かってたよ」

「分かっているのと、実感するのは違うわ」


言い返せなかった。


「それで、どうするの?」


俺は持ってきた白い欠片を見る。


「失わずに越える方法を探す」


まずは、そのために境界を知る。


欠片には探索印を刻んである。

細い紐を結び、亀裂へ近づけた。


魔力を流す。反応はある。


「入れるぞ」


先端を白い光へ差し込む。変化はない。

さらに進めると、三分の一ほど入ったところで探索印の感覚が弱くなった。


「……何だ?」


もう少し進める。

欠片の半分が境界へ入った、その瞬間、反応が消えた。


「カイ?」


欠片は目の前にある。紐も繋がっているし、俺自身の目にも見えている。

なのに、探索印ではどこにもない。


「戻して」


ルナの声に、すぐ紐を引く。

欠片がこちら側へ戻った瞬間、反応も戻った。


誰も喋らなかった。


俺は手の中の欠片を見る。

壊れていない。探索印も残っている。


「見えてるのに……見つけられない」


ルナが呟く。

その言葉に引っかかった。


見えているのに、見つけられない。


俺はルナを見る。


世界から消えたルナも、本当はここにいる。

なのに、こちら側では誰も彼女を見つけられない。


「境界の向こうに行ったものは、消えるんじゃないのかもしれない」


セレスがすぐに言う。


「探索印だけが遮られた可能性もあるわ」

「分かってる」


まだ仮説だ。

でも、一つだけ確かなことがある。


「完全に越えなくても変化が起きる」


少なくとも探索印では、境界へ入った時点で見失い始める。


なら。


「……見失わなければ?」


ルナが俺を見る。


「境界を越えても、こちら側との繋がりを残せたら」


探索印では駄目だった。

でも、何か別の方法なら。


セレスが小さく笑う。


「次に調べることは決まったみたいね」


俺は頷いた。


境界の向こうへ行っても、繋がりを切らない方法。

それが見つかれば、人を戻す方法に、ようやく手が届くかもしれない。


トーマが俺を見る。


「俺も帰れる?」

「まだ分からない」


約束はできない。


「でも、調べる」


トーマは少しだけ笑った。


「うん」


亀裂が細くなっていく。


「カイ」


ルナが俺を呼ぶ。


「無茶しないで」

「ああ」


亀裂が閉じる直前、ルナが言った。


「また明日」


一瞬だけ、あの日の夕暮れが浮かぶ。


「また明日、ルナ」

「うん。また明日、カイ」


亀裂が閉じた。

手の中には、白い欠片が残っている。


失わずに越える。


そのために必要なのは、境界の向こうへ行っても――

こちら側との繋がりを、切らないことなのかもしれない。

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