第十七話 境界
第十七話 境界
次の日、学院へ着くとすぐに昨日の届け物について調べた。
受付で聞いてみたが、俺の部屋へ何かを届けるよう頼んだ者はいないらしい。大家も、誰が来たのか、誰に届ける物だったのか覚えていない。結局、それ以上は分からなかった。
貸出記録にも出席記録にも俺の名前はある。話しかければ、誰もが俺をカイ・レイフォードだと分かる。何も消えていない。それなのに、二度とも向こうから物を戻したあとに妙なことが起きている。
偶然だと言い切るには、少し気味が悪かった。
◇
その日の夕方、いつもの場所でルナの名前を呼んだ。何度目かで水の音がして、細い亀裂が開く。
「カイ」
ルナがいた。その隣には、もうセレスもいた。
「昨日、何かあった?」
ルナに聞かれ、学院から来たという人のことを話した。セレスは黙って聞いていた。
「どう思う?」
「分からないわ」
「またそれか」
「分からないものを分かったふりする方がいい?」
「いや」
「なら我慢して」
相変わらずだ。
「でも、二度とも何か起きた」
一度目は、大家が俺を忘れた。二度目は、学院から来たという人が届け先を思い出せなくなった。
「偶然じゃないなら、もうやめた方がいい」
「まだ決まったわけじゃない」
「だから、決まるまで続けるの?」
「確かめないと分からないだろ」
「カイ」
名前を呼ばれて、言葉が止まる。
「戻れなくてもいいって言ってるわけじゃない。カイが何か失うなら嫌なの」
すぐには返せなかった。
「……分かってる」
「分かってない」
「それ、昨日も言われた」
「今日も言う」
セレスが小さく笑った。
「仲がいいのね」
「今それ言う?」
「今だからよ」
ルナがセレスを見る。
「あなたは止めないの?」
「止めてほしい?」
「そうじゃなくて」
「私はカイに決めろと言っただけよ」
セレスは亀裂越しに俺を見る。
「それで、どうするの?」
昨日と同じ問いだった。
「もう物は戻さない」
「へえ」
「でも、やめるつもりもない」
「カイ」
「同じことを繰り返しても仕方ないだろ。物を戻せることは分かった。次は、どうして戻せたのかを知りたい」
セレスの目が少し細くなった。
「まともなことを言うのね」
「普段はまともじゃないみたいに言うな」
セレスは答えず、亀裂の前まで来た。
「なら、一つ試してみる?」
「何を?」
「境界よ」
セレスが白い亀裂を指す。
「あなたは物をこちらへ移した。でも、境界を越える瞬間に何が起きているのかは見ていないでしょう?」
「見てたぞ」
「物が動いたところはね」
セレスは足元にあった小石を拾った。
「昨日と同じように動かして、境界に触れる前に止める」
「そんなことできるのか?」
「知らないわ」
「またそれか」
「だから試すんでしょう?」
ルナが小石を見る。
「危なくない?」
「少なくとも、人を使うよりはね」
セレスが小石を亀裂の近くへ置いた。
「カイ。昨日と同じようにして」
「物は戻さないって言ったんだけど」
「戻さないわ。境界に触れる前に止めるの」
「俺が?」
「あなた以外に誰がいるの?」
簡単に言ってくれる。
俺は小石を見て、昨日と同じように意識する。
向こうから、こっちへ。
何も起きない。もう一度、同じように意識する。
向こうから、こっちへ。
ぽつん、と水の音がした。小石が白い地面を滑り、亀裂へ近づいていく。
「カイ、止めて」
こっちへ来るな。
そう思った瞬間、小石が止まった。亀裂に触れる寸前だった。
「……止まった?」
ルナがしゃがみ込み、小石を見る。
「動いてない」
「カイ、もう一度」
今度は少しだけ、こっちへ。
小石がわずかに動く。
止まれ。
その瞬間、また止まった。
「やっぱり」
「何が分かった?」
「あなたが動かしている」
「それは昨日も――」
「違うわ。引き寄せるだけじゃない。途中で止めることもできる」
俺は境界のすぐ手前で止まった小石を見る。物を途中で止められるなら、いつか人だって。
「駄目」
「まだ何も言ってない」
「顔で分かる」
「そんなに分かりやすいか?」
「カイは分かりやすい」
セレスが笑う。
「私も同意見ね」
「どっちにだよ」
「両方」
セレスはもう一度、小石へ視線を戻した。
「カイ。もう少しだけ動かせる?」
「境界に触れるぞ」
「触れたところで止めて。越えさせないで」
「簡単に言うなよ」
「だから、小石で試しているのよ」
ルナが不安そうに亀裂を見る。
「無理そうならやめて」
「分かってる」
俺は小石に意識を向ける。
ほんの少しだけ、こっちへ。
小石が動き、亀裂に触れた。
止まれ。
その瞬間、半分ほどが白い光の中へ沈んで見えなくなった。
「……え?」
小石はそこで止まっている。こちら側へ落ちてきたわけではない。半分は白い世界に残り、もう半分だけが亀裂の中から消えていた。
「これ……」
ルナが息を呑む。
俺も思い出していた。以前、ルナが裂け目を越えようとした時のことを。
『右手が、なくなった』
裂け目へ入れた指先から先が消え、戻ったあとには、自分に手があったことさえ一瞬分からなくなった。
「ルナの時と……同じなのか?」
セレスがルナを見る。
「どういうこと?」
「前に一度、ここから出ようとしたことがあるの。その時、裂け目に入れた右手が消えた」
「戻ったの?」
「うん。でも少しだけ、自分に手があったことを忘れた」
セレスの表情から完全に笑みが消えた。
「カイ。戻せる?」
「やってみる」
今度は逆だ。
向こうへ戻れ。
小石がわずかに揺れた。次の瞬間、白い世界側へ弾かれるように転がる。元の形のままだった。壊れてはいない。
「戻った……」
セレスは小石ではなく俺を見ていた。
「カイ。次は、絶対に人で試さないで」
「……何で?」
「物でできたからって、人でも同じとは限らないでしょう?」
ルナが自分の右手を見る。
「今日はここまでよ」
珍しく、セレスの声に迷いがなかった。
亀裂の向こうには、元に戻った小石が転がっている。
物をこちらへ動かすことはできる。途中で止めることもできる。でも、その境界で何が起きるのか。
俺たちはまだ、何も知らなかった。




