第65話 マヤ数学が爆発するとき
「よーし、次は何が出ると思う?」
「えっとね、五!」
私は、神殿というさぼりスポットでシンヤとさいころ遊びをしている。石畳の隙間から差し込む昼下がりの光が、シンヤの丸い頭をつるりと照らしていた。
やっていることは至ってシンプル。
さいころ一個を転がして、いくつの目が出るかを当てるだけ。
「やったー! 当たった!」
シンヤは勘が当たって、大喜びだ。
そう、さいころは、見事、五の目で止まった。石床の上で二回、三回と跳ねて、最後にことりと静止する、その小さな音がやけに響いた。
「じゃあ、次はいくつ?」
「今、五が出たから、次は五じゃないやつで……三!」
「三ね。じゃあいくよー」
さいころを転がす。指先から離れた瞬間、シンヤが息を止めるのが分かった。
「えーっ!? また五!?」
シンヤが悔しがる。頬をぱんぱんに膨らませて、地面に転がったさいころを恨めしそうに睨みつけている。
「あはは、続いちゃったね。次は?」
「よーし、今度こそ当てるぞ。今度は、六だ!」
「そーれ!」
さいころがころころと転がった。
「うそーっ!? また五なの? 三回続けて五が出るなんておかしくない?」
シンヤが地団太を踏む。裸足の足の裏が石畳を叩く、ぱたぱたという音まで、なんだか怒っているように聞こえた。
「あはは、不思議よね。一から六まであるさいころを転がすのに、三回も同じ数字が出るなんて」
「そうだよ。数が六個あるんだから、六回転がせば、どの数も一回ずつ出なきゃおかしいじゃん」
「うん、シンヤの疑問はすごく正しい! でもね、実はそうじゃないのよ」
「なんで?」
ここで、どう説明しようか考えた。
『六分の一』という確率なんだけど、どう説明したらいいだろう。五歳児に、しかも数式なしで。
私が思案していると、うまい具合に神官長が通りかかった。マントウの匂いを漂わせながら、回廊をのんびり歩いてくる、いつもの姿だ。
「神官長、ティカルには『確率』っていう概念はありますか?」
「確率とは?」
神官長が足を止め、興味深そうに私たちの前にしゃがみこんだ。膝が、ぎしりと小さく鳴る。
「たとえば、このさいころを転がしたとき、一の目が出る確からしさ、ていうかどれくらい期待できるか、みたいなことです」
「六個の中のひとつということだな」
「そう! そのとおりです」
「私の知る限りでは、そういう数学の知見はないな」
神官長は、あっさりとそう答えて、懐からマントウを一つ取り出し、齧った。もぐもぐと咀嚼する音が、しばらく続く。
「分かりました。ありがとうございます」
神官長に礼を言って、シンヤに向き直る。
「さて、さっきの話だけど。さいころを転がして、ある数字が出ました。次にもう一度転がすとき、最初に出た数字はどうなってる?」
「さいころに書いてあるでしょ?」
シンヤが、当たり前のことを聞くなというような顔で、私の手の中のさいころを指差す。
「そう、そのとおり! だから、二回目に転がすときも、六個の数字の中からひとつを選ぶことになるの。最初に出た数字の目を消して、五個の数字から選ぶわけじゃないから、また同じ数字が出ることもあるのよ」
「そっか、毎回六個の中から選ぶからそうなるんだ。じゃあ、六回転がして、一回も出ない数字があってもいいんだ」
「そういうこと。でね、面白いのは、たーくさん、何回もさいころを転がして、出た目の数を記録していくと、不思議とどの目も同じくらいの回数になるの」
「へー、そうなんだ。面白えな」
シンヤの目がキラキラと輝いている。まだ幼い瞳の奥で、何かがかちりと噛み合った音が、聞こえた気がした。
このやり取りを、少し離れた柱の陰から、専務が聞いていたことに、私はしばらく気づかなかった。
「シャク」
「わっ、専務。いつからそこに」
振り返ると、専務が柱にもたれかかったまま、こちらをじっと見ていた。表情は涼しいが、目の奥に、何か火種のようなものが灯っているのが分かる。
「少し前からだ。一見ばらばらに見えることも、回数を重ねれば、偏りは均される、ということだな」
「え、ええ、そういうことですね」
「ふむ」
専務が、静かに顎に手を当てた。その視線が、シンヤの手の中のさいころへ、それから神官長へと動く。
「「なるほど」」
神官長と専務が顔を見合わせて頷きあっている。二人とも、まったく違う理由で、同じ何かに気づいてしまった顔をしていた。
なんか企んでる顔だ。
◇
それから、しばらくして、王宮の一角に、奇妙な部屋ができた。
もともとは資材置き場だったはずのその部屋には、いつの間にか長机がいくつも運び込まれ、壁一面に、真新しい漆喰が塗り直されていた。
天文観測を担う神官たちと、会計を担う文官たちが、同じ部屋で、同じ樹皮紙の束を睨みながら、日がな一日、何かを計算し続けている。
最初のうちは、双方、お互いに探り探りだった。天文班の神官が「収支の記録に、なぜ我々の観測記録が必要なのか」と首をかしげ、会計班の文官が「星の動きが、なぜ税収の話に関係するのか」と困惑する。そんな空気が、しばらく漂っていた。
だが、数ヶ月も経つ頃には、その空気は跡形もなく消えていた。
神殿の壁に、見たこともない図が描かれるようになっていた。木炭で引かれた線、点、そして色とりどりの顔料で塗り分けられた領域。松明の灯りに照らされると、まるで壁そのものが呼吸しているように見えた。
横軸に、日付。
縦軸に、数字の大小。
点が、無数に打たれ、線で結ばれていく。夜通し作業していたのだろう、朝の光の中で目を真っ赤に充血させた文官が、誇らしげに壁を見上げていた。
「これは、何をしているんですか」
私が尋ねると、文官が、興奮を隠しきれない声で答えた。声がわずかに震えている。
「『ばらつき』を、目に見える形にしております」
「ばらつき?」
「収支の記録も、日食のズレも、病の流行も――すべて、単体で見れば『気まぐれ』としか思えません。しかし、大量に集めて並べてみると、そこに『形』が現れるのです」
文官が指差した先には、中央が盛り上がり、両端になだらかに広がっていく、山のような曲線があった。木炭の線が、幾重にも塗り重ねられ、まるで彫刻のように壁から浮き上がって見えた。
「多くの出来事は、この中央――『平均』の近くに集まります。稀に、大きく外れた出来事も起きます。しかし、その『外れ方』にすら、規則性がある」
正規分布だ。これは知ってる。まさかこんな場所で、こんな形で再会するとは思わなかった。
神官長が、横から割り込んできた。口の周りには、相変わらずコチニールの赤い染みがついている。
「シャクよ、これを見ろ」
神官長が示したのは、グラフの横軸に書かれた数字だった。
(えっと、これはマイナス?)
驚いたことに、グラフの横軸には、貝殻の記号を境に右側は普段通りの点と横棒の数字、左側は、その数字に小さな「〇」の印が付いている。
「神官長、これ、マイナスですよね?」
「マイナス? シャクのいた世界ではそう言っていたのか? これは『シバルバー』だ」
「シバルバー? 冥界ですか?」
「神の領域だ」
「……はい?」
「我々は、このばらつきを研究しているうちに、どうしてもゼロより小さい数がなければならないことに気付いた。だが、ゼロより小さい数字は、実体として目で見ることができん。しかし、間違いなく存在する。だから、これを『神の領域』、すなわち『シバルバー』と名付けた」
神官長が、横軸を指先でそっとなぞる。まるで祈りを捧げるような、静かな手つきだった。
ついに確率だけじゃなく、負数の概念にまでたどりついちゃった。
◇
こうして、王宮の片隅から始まった小さな部屋は、やがて「観測局」と呼ばれる、正式な機関へと発展していった。
星の動きも、国庫の収支も、病の流行も、すべてが同じ「記録と分析」という土俵の上で、扱われるようになっていった。
かつては別々の建物、別々の職掌だった天文班と会計班が、今ではひとつの部屋で肩を並べ、互いの専門用語を教え合いながら、夜遅くまで議論を交わす光景が、当たり前になっていた。
きっかけは、たった一つのさいころ遊びだった。
この国の人たちは、本当にすごい。
国中が限界オタクなのだろうか。
ちょっとしたヒントがあると、みんなで寄ってたかって工夫して高度化してしまう。私が渡したのは、ほんの小さな種一粒だったはずなのに、気づけば、それが根を張り、枝を伸ばし、誰にも予測できなかった方向へと育っていく。
「かーちゃん、俺、また五出せるかな」
シンヤが、無邪気にさいころを握りしめている。あの日から何日も経つのに、まだ飽きずに、こうして石畳の上で転がし続けていた。
「さあ、どうかな。何百回もやってみないと、分からないわね」
「じゃあ、やる!」
シンヤは、その日も、飽きることなく、さいころを転がし泥板に記録し続けた。
小さな指で、正の字のような印を一つ、また一つと刻んでいく。
誰に教わったわけでもないのに、いつのまにか、記録の付け方まで様になっていた。
その無邪気な繰り返しが、後に、この国の学問を、医療を、飛躍的に書き換えていく数学者国王の誕生の瞬間になるとは――当のシンヤ自身は、まだ、何も知らなかった。
夕暮れの光が、石床に転がるさいころの影を、長く伸ばしていた。




