第62話 王国史編纂戦争 ──チャーク・ツィブの怪文書──
我が王妃は、変な女だ。
この世界への登場の仕方からして変だった。
生贄の祭壇の上で素っ裸のまま蛇の光を灯し、神官どもを泡吹かせて逃走させた。
あの日の報告書を初めて読んだとき、私は自分の目を疑い、三度読み返した。
三度読んでも意味が分からなかった。
今となっても意味が分からないが、我が王妃のことだと思うと、なぜか納得してしまう。
丸い頭、白い顔、結い上げぬ髪。
最初は忌み子だと本気で思っていた。
今ではすっかり見慣れて、むしろあの丸い頭を見ないと調子が狂う始末だ。
この国の美意識はどこにいった?
ドブさらいで奇声を上げる。
ドブさらいで気勢が上がる。
ドブの底からヘドロを飛ばし、陛下に着弾させて生きている。
これを奇跡と言わずして何と言う。
神の化身である陛下の頭を「非破壊検査」と言ってカジュアルに叩きまくる。
あれで我々文官が何度死を覚悟したか、我が王妃はこれっぽっちも分かっていないだろう。
口約束で退路を塞いだつもりだった。
しかし、ことあるごとにドブさらいに戻りたがる。
挙句、王への求婚の口実まで「ドブさらいに戻せ」だった。
あの日、大広間で慟哭しながら陛下に啖呵を切った我が王妃の姿を、私は生涯忘れないだろう。
忘れられるものか。
あれほど滑稽で、あれほど気高い光景を、私は他に知らない。
知らぬ間に神殿まで掌握していた。
菓子ひとつで生贄の儀式を廃止させた女だ。
行ったこともない土地の地下水脈を言い当て、隣国を一滴の血も流さず接収した女だ。
異国の軍勢に剣を抜かせることなく、涙と施しだけで撤退させた女だ。
撤退する敵にみやげを持たせ、交易まで迫るなど正気の沙汰とは思えぬ。
もっとも、その最前線に幼い王子を連れ出す夫婦も大概おかしい。
それでいて、当人はいつも同じ台詞で片づけようとする。
「現場の皆さんのおかげです」
「たまたま知っていただけです」
「どこにでもいる元社畜です」
──いてたまるか、そんな者が!
我が主も苦々しくおっしゃっていた。
「こんな奴、二人といるものか」と。
いや、あれは惚気だった。
あの陛下があれほど手放しに人を評するのは初めてだ。
こんな変な女、記録するに決まってるだろう。
記録しな方がおかしい。
そして、私は見ることになる。
神殿の裏、薄暗い書庫の隅で、我が王妃が国史の樹皮紙束をこっそり小脇に抱え、抜き足差し足で回廊へ忍び出ようとしていたその姿を。
「シャクよ、なにをしている」
声をかけると、王妃の肩が面白いほど跳ね上がった。
「げっ、専務」
「王妃が『げっ』などと下賤な言葉遣いをするものではない」
「なによ、専務だって前に『マジか』って言ったじゃない」
痛いところを突かれた。
あれは、この女が二十四歳だと知らされた日のことだ。
背丈と童顔にすっかり騙され、成人前の子供だと思って接していた。
あの日の醜態を思い出させるとは、クソほど性格が悪い。
「その樹皮紙は国家の公式記録だ。王妃といえど、独断で持ち出すことは許さぬ」
「え、あ……これは、その……えへへ」
笑って誤魔化そうとする顔が、実に分かりやすく怪しい。
「何が書かれているか気になるのだろう」
「……はい。私のこと、書いてあるんですよね?」
「王妃なのだから当然だ。すべて書いてある」
「たとえば?」
「ピラミッドの頂上で、一糸まとわず転げ回っていたことなどだ」
「ぎゃーっ! それは消して! 黒歴史! ブラックホールなみの黒歴史なので消してください!」
「黒歴史とやらの意味は分からんが、事実ゆえ消さぬ」
「──っち……絶対消してやるんだから」
この女、舌打ちしやがった。
低く漏らされたその一言に、私は背筋の凍る思いをした。
こいつ、放っておけば本気で己の名を国史から抹消しかねん。
数々の偉業を「たまたま」の一言で処理してきた前科がある。
即座に、私は対抗策を練った。
これまで国史は、一冊の樹皮紙にのみ記されていた。
これを三系統に分割する。
一つは神殿にて神官長が管理する版。
ただし、これは油断ならない。かなり油断できぬ。はっきり言って危険だ。
あの老神官は完全に我が王妃へ心酔しきっており、放っておけば「泥の神、天より降臨せし日」などと平然と書き加えかねん。
改竄は改竄でも、方向がまるで逆だ。
一つは陛下の私室に近い書庫に置く版。
だがこれもまた危うい。
我が主は、国家の功績を刻むべき場に「今日も我が最愛の妻が泥まみれでドブをさらっていてかわいい」などと書き込みかねぬお方だ。
実際、既に何度か書き込まれかけた形跡を見つけ、私は肝を冷やしたことがある。
そして最後の一冊を、書記官長たる私が、王宮の奥、鍵付きの石室に厳重に保管する。
これを「正史」とする。
国王夫妻、そして神官長という国家の頂点が揃いも揃ってぽんこつである以上、正しい判断の下せる者はもはや私しかいない。
これで改竄はできまい。
ざまあみろ。
我ながら、見事な布陣だと思った。
数ヶ月の後、私はふと思い立ち、久方ぶりに己の管理する「正史」を検分した。
誰にも改竄させぬよう、鍵を握り続けてきた、あの一冊だ。
読み進めるうちに、私の手が止まった。
「──シャク、貯水池の縁にて三度足を滑らせるも、諦めずスコップを振るい続く。その泥まみれの背に、心打たれぬ者はなし。尊い」
「──国境にて、敵将に向け人差し指を銃口に差し入れる。無謀にして、この上なく美しく勇猛なり。推せる」
「──我が王妃、齢二十六なれど、その心根、幼子のごとく清々し。尊死に値する」
……いつからだ。
いつから私は、こんな筆致で書いていたのだ。
国史ではない「感想」まで書いているではないか。
まったく身に覚えがない。
いや、覚えがないわけがない。
書いたのは、この私だ。
夜な夜な報告書を整理しながら、あの女の武勇伝を思い返しては、知らず知らずのうちに筆が走っていたのだろう。
私は樹皮紙を閉じ、しばし黙って天井を見上げた。
神官長は神話として書き加える。
陛下は恋文として書き加える。
そして私は、「正史」の名のもとに、誰よりも熱のこもった怪文書を書き連ねていた。
三系統に分けたところで、無駄だったということか。
我が王国の頂点は、揃いも揃って、あの女に絆されていたらしい。
ざまあみろ、と思っていたのは私自身への特大ブーメランだったのだ。
深く刺さった。
私は静かに樹皮紙を巻き直し、石室の奥深くへ戻した。
これでいい。
誰にも見せる気はない。
だが、消すつもりも、もはやない。
今日も推しがかわいくて、無理。




