3
◇
天界の玉座の間で、すべてが極点に達した。
ソロンの放つ魔力と、ラファエルの振るう聖なる魔力。二つの巨大な力が衝突し、天界そのものを食い破ろうとしたその刹那――世界が、静止した。
天上の穹窿に、無慈悲なまでに巨大な光が顕現する。絶対的な力の奔流が、二人の間を強制的に切り裂いた。
ソロンは、その深淵を覗き込むような漆黒の魔力ごと、魔界の果てへと弾き飛ばされる。
ラファエルは、神聖なる怒りをその身に宿したまま、天界の奥深くに縫い付けられた。
天界と魔界を繋ぐ境界線は、神によって歪められ、閉ざされた。
――そして、すべてが消えた。
戦いの咆哮も、狂気も、憎悪も。
あとに残されたのは、冷たい静寂だけだった。
魔界の荒野に投げ出された私たちの周囲で、かつてないほどの瘴気が渦巻いていた。
天界の門を突き破った衝撃か、それとも天界の法を自ら破壊した罰か。ミカエルの背中で、白銀の翼が凄まじい音を立てて砕け散る。
代わりに出現したのは、夜の闇をそのまま形にしたような、漆黒の翼だった。
彼は天界の審問官でも、優しかった兄でもない。
神の秩序を切り捨て、自ら悪魔の位階へと堕ちた、ただの「堕天使」――ルシファー。
「……ミカエル様、その羽……」
私の震える声に、彼は静かに振り返った。
その瞳には、かつての聖なる光はもうない。けれど、私に向けられる視線には、天界にいた頃よりもずっと強い、不器用なまでの庇護の情が溢れていた。
「……怖がらせてすまないな、クラリス。だが、もう天界に私の居場所はない」
ミカエルは黒い翼を折り畳み、泥まみれの教会の庭に膝をついた。その立ち居振る舞いは、どんなに禍々しい姿に変わろうとも、変わらず優雅で、そして私を慈しむ兄のそれだった。
彼は私の手を握る。先ほどまでの、浄化の術を施していた冷たい手ではない。少しだけ、人間味のある……でも、もう二度と元には戻れない、悪魔の温度だった。
「兄としての私に何ができるかは分からない。だが、ソロンが戻るまで――いや、彼が戻ってきた後も、私は君の盾になろう」
その言葉は、天界への決別であり、この場所で生きるという宣誓だった。
教会の庭には、ソロンがいない。
静寂だけが私たちを包み込んでいる。空では黒い雨が降り続き、ミカエルの堕ちた翼から滴り落ちる瘴気と混ざり合う。
私はペンステモンの破片を握りしめ、天界の果てで見失った、あの人の背中を思った。
彼はまだ、戦っているのだろうか。それとも……。
「……信じて待つしかないんだ、クラリス。あの男は、君のために地獄すら塗り替える力を持っている」
堕天使の翼を纏った兄が、私に教会の扉を指し示す。
空っぽの教会。そこは、私とソロンが笑い合った場所であり、今はただ、彼の帰りを待つための場所となった。
私は一歩、重い足取りで教会の中へと踏み出した。
扉が閉まる。その隙間から、魔界の空に浮かぶ歪んだ月が見えた。
ソロン様、と心の中で呼ぶ。
(あなたは今、どこで、何をしていますか。私は、ここで生きています。あなたが戻ってくるその日まで、あなたの残り香を抱きしめて、この場所を守り続けます――。)
教会の扉を閉ざした瞬間、世界から音が消えた。
外ではルシファーと化したミカエルが、私を護るために結界を張り始めている。黒い翼が空を覆い、魔界の冷気を遮断する微かな振動が、足元から伝わってきた。
私は祭壇の前に跪き、ソロン様がかつて座っていた椅子を見つめる。
そこには、彼の温もりがあった。あの強引で、乱暴で、けれど何よりも私を愛してくれた悪魔の気配が、わずかに残っている。
「……っ」
胸元に抱いたペンステモンの破片が、唐突に熱を帯びた。
それは心臓の鼓動と重なるように、激しく脈打っている。
まるで、誰かが私の名前を呼ぶ声が、遠い深淵の底から届いているかのように。
(――クラリス。)
幻聴ではない。確かに、私の魂がその呼び声に震えていた。
その頃、次元の狭間――地獄の最深部。
ソロンは、血の海に沈んでいた。
ラファエルとの激突と神からの粛清の魔力に、彼の肉体は半ば崩壊していた。漆黒の翼は根元から引き裂かれ、魔力の核である心臓さえも、聖なる矢に貫かれてひびが入っている。
普通であれば、とっくに消滅している状態だった。
けれど、彼の意識は、壊れた肉体の中に残る執念だけで繋ぎ止められていた。
(……まだ、だ)
ソロンは指先を動かし、周囲に流れるドロドロとした魔界の泥を、自らの身体へと引き寄せる。
傷口を塞ぎ、砕けた骨を繋ぎ、引き裂かれた翼を力ずくで再構築する。
それは、修復というよりも、自らを「怪物」へと作り替える作業だった。
(あの場所で、クラリスが待っている)
彼女の姿が脳裏をよぎるたび、ソロンの傷口から黒い炎が噴き出す。
痛みなど、もはやどうでもよかった。
神の介入によって天界から弾き出された屈辱も、ラファエルという強敵の存在も、彼の今の思考の中には微塵も存在しない。
彼の世界には、たった一人。
教会の椅子に座り、枯れたペンステモンを抱えて震えている、あの聖女だけがいればいい。
(待っていろ。……泥を啜ってでも、彼女の元へ這い上がる。神の作った天界だろうが、俺が支配する地獄だろうが、そんなものは関係ない。俺は、彼女を抱きしめるためだけに、もう一度形を成す)
ソロンの魔力が、深淵の泥を飲み込み、渦を巻く。
地獄の空が、その圧倒的な執着に反応して真っ赤に染まり始めた。
魔界の全域が、かつてないほどの激震に揺れる。
教会の庭にいたミカエルが、鋭く空を見上げた。
その瞳には、戦慄が宿っている。
「……嘘だろう。あいつ、自分の魂を削ってまで、あそこまで……」
ミカエルは黒い翼を広げ、教会の中へ飛び込んできた。
私の肩を掴み、その瞳で私を射抜く。
「クラリス。……逃げなさい。あるいは隠れなさい。ソロンが帰ってくる。だが、あいつはもう、以前の『彼』ではないかもしれない」
「……何、を言っているの?」
「あいつの執着が、地獄そのものを飲み込もうとしている。今のあいつは、理性をかなぐり捨てて、『君』という一点にのみ向かって爆走する、ただの――『災厄』だ」
ミカエルの警告を遮るように、教会の天井がメリメリと音を立てて裂けた。
空から降ってきたのは、雨ではない。
漆黒の羽毛と、焼け焦げたような血の匂い。
教会の扉が、内側からではなく、外側からの圧力で粉々に吹き飛んだ。
そこに立っていたのは、返り血で黒く染まり、異形と化した魔王の姿。
その眼差しは、獲物を狙う獣のように、私以外のすべてを焼き尽くす殺意と、それと同じだけの熱量に満ちていた。
「……やっと、見つけた」
ソロンは一歩足を踏み出すたびに、床を溶かしていく。
彼は血に濡れた手で、ゆっくりと私へ手を伸ばした。
教会の静寂が、ソロン様が踏み出す足音で粉々に砕け散った。
溶け落ちた床からは、地獄の業火が噴き出し、教会の壁を黒く焦がしていく。
彼は、以前のソロン様ではなかった。
全身のあちこちに、天界の聖剣に刻まれた傷痕が禍々しく残り、そこから今も黒い瘴気が漏れ出している。だが、その瞳だけは――、私を射抜くその瞳だけは、狂おしいほどに「あの人」のままだった。
「……ソロン、様……」
私は震える足を動かして、彼の元へ踏み出した。
ミカエルが「近づくな」と警告する声が遠くで聞こえるが、今の私には何も届かない。彼の傍に寄り添わなければ、この悪夢のような空白が埋まらない気がしたのだ。
ソロン様は、血に濡れた指先で私の頬をなぞった。
その触感は、冷たいはずの魔界の風よりも熱く、私の肌を焼くようだった。
「……汚してしまったな、クラリス。この手はもう、泥と血と、貴様への未練しか残っていない」
彼は自嘲気味に笑い、私の額に自分の額をそっと押し付けた。
教会の床が崩落し、私たちの足元で魔界の暗い大地が剥き出しになる。彼が戻った衝撃で、この閉ざされた庭すらも維持できなくなっているのだ。
「……どうして。どうして、そんなに傷ついてるの」
私の問いに、ソロン様は力なく微笑んだ。その瞳の奥には、天界の白銀の門を打ち砕き、地獄の底を這いずり回った途方もない時間が宿っている。
「帰るためだ。……クラリスに再び会うために俺は地獄から這い上がってきた」
彼は私を抱きしめた。
その力は、以前のように優しく包み込むものではなく、もう二度と離さないという、暴力的なまでの執着だった。
ミカエルが剣を構え、警戒心に身を硬くしてこちらを見ている。
だが、ソロン様は彼を一瞥することさえしなかった。彼の世界には、本当に、私以外何も存在していないかのようだった。
「……ミカエル。貴様が妹を守ろうとしたのは知っている。だが、これ以上は無用だ」
ソロン様は、私を抱いたまま、振り返りもせずに言い放った。
その声の響きだけで、教会の空気が凍りつく。今の彼には、魔王としての圧倒的な力に加えて、すべてを「終わらせる」ための覚悟が備わっていた。
「俺はこれから、この魔界を完全に塗り替える。神が介入しようが、世界がひっくり返ろうが関係ない。……クラリス、行こう。俺の本当の聖域へ」
彼が指を鳴らすと、教会の残骸が消滅し、周囲の景色が塗り替えられていく。
そこは、荒野ではない。
あの日、私たちが穏やかな日々を過ごした、あの教会の庭が、魔界の深淵で再現されていた。
ただし――、ペンステモンの花は、もう枯れてはいない。
ソロン様の血と魔力を吸い上げ、毒々しくも美しく、真っ黒な花弁を揺らしていた。
「ここなら、誰も邪魔はしない。……さあ、行こうか、クラリス」
歪んだ花園の中で、彼は私を玉座へと導く。
それは救済か、それとも破滅か。
どちらでもよかった。
私はただ、彼の手を握り返し、その漆黒の胸に顔を埋めた。
神の秩序が消えたこの場所で、私たちは二人だけの新しい聖域を、愛で満たそうとしていた。
私の身体を包み込むのは、焚き火のような熱と、どこか鉄錆びた血の匂い。
彼が創り出した「偽りの教会」は、以前の穏やかな場所とは似て非なるものだった。地面を覆うのは柔らかな苔ではなく、蠢く闇の根。空に浮かぶのは光を湛えた月ではなく、世界を監視するかのような魔王の眼差しそのもの。
「……ソロン様、ここは」
私が周囲を見回すと、ソロン様は私の髪を優しく、しかし執拗に梳くように指を絡めた。その手つきは、獲物を逃すまいとする捕食者のそれだ。
「俺の領土だ。天界の連中も、神の意志も、ここまでは踏み込めない。……いや、踏み込ませない」
彼は玉座の背もたれに深く寄りかかり、私を膝の上に座らせた。その瞳は、私がどこかへ消えてしまわないかを確認するように、じっと私の顔を見つめている。
遠くで、ミカエルが地団駄を踏むような気配がした。彼はこの「聖域」の境界線で立ち尽くし、私たちの姿を凝視している。その表情は苦悶に満ちていたが、ソロン様の圧倒的な魔力の奔流の前に、それ以上踏み込むことができないでいた。
「兄様……」
私が小さく呟くと、ソロン様の手が私の顎を軽く持ち上げ、強制的に自分の方を向かせた。
「あなたはまだ、あいつの心配をするのか? クラリス、俺を見ていろ。……あいつはもう、貴様にとっての『守護者』ではない。ただの部外者なのだから」
その声は冷徹で、独占欲に満ちていた。
かつてのソロン様なら、私の優しさを肯定してくれたはずなのに。今の彼は、私の視界から、私の中の「彼」以外の存在をすべて排除しようとしている。
「……ごめんなさい」
「謝る必要はない。ただ、刻み込んでおけ。貴様はもう、俺から二度と出られない。……それが、俺が貴様を求めた対価であり、俺が貴様を愛した報いなのだから」
彼はそう言って、私の首筋に深く顔を埋めた。
首筋に、鋭い牙がかすかに触れる。痛みはない。けれど、そこには彼が「所有権」を主張するような、熱い印が刻まれる予感がした。
魔界の黒い雨が、教会の屋根を激しく叩き始める。
外の世界では、天界が再編を画策し、ラファエルが隔離の地で牙を研いでいることだろう。
けれど、この歪んだ花園の中では、時間は止まっていた。
ソロン様は、血の混じった魔力を霧のように教会の内に満たしていく。それは結界であり、同時に、私たちを外界から隔絶するための繭でもあった。
「クラリス。……貴様の魂は、もう俺の瘴気で満たされている。天界の残滓など、とうの昔に消し飛んだはずだ」
彼はゆっくりと、しかし確実に、私の心の奥底にある「聖女としての誇り」を、この甘い毒のような愛で塗り潰していく。
私は抵抗する術を持たない。いいえ、抵抗したいという意志すら、彼の腕の中に抱かれていると溶けて消えていく。
(――これが、魔王の愛。 神を拒絶し、天界を破壊し、ただ一人の女を閉じ込めるために世界そのものを敵に回した、救いようのない執着。)
私は彼の手を握りしめ、彼の黒い心臓の音を聴き続けた。
狂っている。でも、この狂気の中にこそ、私がずっと求めていた「居場所」があるのだと、確信していた。
外でミカエルが何かを叫んでいるのが聞こえた。だが、それはもう、霧の向こう側の出来事のように遠く、響かない。
「……愛しているよ、クラリス」
彼の囁きに、私はただ、涙を浮かべて微笑むことしかできなかった。
この庭に咲く真っ黒なペンステモンが、二人の愛を祝福するように、音もなく花弁を広げていく。
魔王と、かつて聖女と呼ばれた女の、果てしない箱庭の生活が、今ここから始まった。
季節など存在しない魔界で、時間はただ、ドロドロと淀んだ水のように過ぎていった。
教会の窓の外には、終わりなき黒い雨が降り注いでいる。ソロン様が張り巡らせた結界のせいで、外の世界がどうなっているのか、今が何日なのかさえも、私には分からなかった。ただ、ソロン様の胸の鼓動だけが、私の世界を刻む唯一の時計となっていた。
彼は、かつてないほど執拗に、私を愛した。
私の指先から、肌の質感、呼吸の一つに至るまで、彼自身の魔力で塗り替えようとするかのように。
「……クラリス。ここには、貴様を汚す光も、神の教えも、何も存在しない。あるのはただ、俺と、貴様だけだ」
彼はそう言いながら、私の耳元で何度も愛の言葉を囁く。
それはかつて教会の裏庭で聞いた、あの穏やかな言葉とは似て非なるものだった。どこか切迫し、どこか飢えた、決して満たされることのない亡霊の叫びのように響く。
私は彼の手の甲に口づけを落とし、優しく微笑んだ。
「ええ、ソロン様。……ずっと、ここにいます」
その言葉を聞いた瞬間、彼の瞳に揺らぐ、底知れぬ安堵と――壊れそうなほど脆い執着。
彼は私を抱きしめる力を強め、まるで壊れやすい宝物を隠すように、外套で私の身体を覆い隠した。
ふと、教会の扉の向こう側で、微かな気配がした。
ミカエルだ。
彼はあれからずっと、この聖域の境界線で立ち尽くしている。私を連れ戻そうとすることもなく、ただ、ソロン様がいつ私を傷つけるか、あるいはいつこの箱庭が崩壊するかを見守るために。
ソロン様は、ミカエルの存在に気づいていながら、あえて無視を決め込んでいた。
彼の黒い眼光が扉の向こうを射抜く。
「……未練がましい奴だ。妹が魔王の愛に浸っているというのに、まだあそこを守護しているつもりか」
ソロン様は苛立ちを露わに、片手を扉の方へ向けた。漆黒の炎が指先からほとばしり、扉を内側から焼き尽くそうとする。
私は慌てて、彼の手を両手で包み込んだ。
「……待って。兄様を、殺さないで」
ソロン様の動きが止まる。
彼はゆっくりと視線を私に戻し、その瞳の中に、複雑な色を浮かべた。
私に対する溢れんばかりの情愛と、私の優しさに対する嫉妬。
「……なぜだ。あいつは、貴様を天界という檻に閉じ込め、人形にしようとした張本人だぞ」
「それでも、彼は私の兄だったから。……それに、ミカエル様がいれば、あなたがもし、少しだけ疲れてしまった時に、あなたを……」
言葉を最後まで紡ぐ前に、ソロン様の唇が私の言葉を奪った。
それはキスというよりも、私の吐息をすべて吸い尽くさんとするような、熱烈な掠奪だった。
「――疲れるはずがない」
彼は唇を離すと、私の瞳を射抜くように見つめた。
「俺は、貴様を愛するためだけに存在している。永遠にこの聖域塗り替え続け、貴様を、貴様だけの聖域に閉じ込めておく。……あいつに頼る必要などない。俺がクラリスのすべてなのだから」
彼が再び私を抱き寄せると、教会の庭に咲く黒いペンステモンが、一斉に花弁を震わせた。
窓の外では、ミカエルが深くため息をつき、その場から立ち去る足音が聞こえたような気がした。
私はソロン様の首に腕を回し、目を閉じる。
外の世界がどう変わろうと、誰が何を失おうと、私には関係ない。
ただ、この歪んだ愛の檻の中で、永遠に彼と共に朽ちていくこと。
それが、私たちが選び取った、唯一の「救い」なのだから。
◇




